第二話 アトラス公爵領
僕が異世界に流れ着いてから三日が経った。
あれから僕はまた高熱を出して起き上がれなくなってしまい、ティアを始めとするお屋敷の侍女さんたちの看病を受けてようやく全快することができた。
僕自身、疲労だけで三日も寝込むことになるなんて思わなかったな。
我ながらやはり病弱なんだと嘆きたくなったけど、ティアだけは何故か楽しそうに僕の傍で色々と世話を焼いてくれていた。
曰く、「チヒロはどうしてか構ってあげたくなるんですよ♪」という、嬉しいけど情けない理由で彼女のお世話になっていたんだ。
初めてベッドから自力で立ち上がろうとした時なんて、両手を取られてまるで子供を立たせるかのように手を引かれてしまった。
もう情けなくてどうにかなっちゃいそうだよ。
回復した僕はその後、ティアに連れられてアトラスの街を案内してもらうことになった。
というか、彼女が僕を問答無用で連れ出そうとしているような感じだ。
いや、ありがたいことなのは確かなんだけど、日本では見たことのないような美少女に手を引かれて街を練り歩くというのは、恥ずかしいというか照れるというか。
寝ているときによく聞かされて、実際に自分の目で見たアトラスの街は、ティアが嬉しそうに語るようにとても綺麗な街だった。
街を一望できる丘の上にお屋敷は建っていて、玄関口を出てすぐ眼前に広がった壮大な景色に感動して息を呑んでしまったほどだ。
統一された白い石材で建てられた家屋が精緻に並び、丘下の広場には大きな噴水と様々な露店が活気を生み出している。
高い外壁に囲まれた街では、縦横無尽に伸びる幾つもの道が街中を巡りながら広場に集約され、門から伸びるただ一つの大通りには行き来する多くの人々の姿が見えた。
すごく綺麗な街並みなんだけど、同時にかなり計画的に建築されたのがよくわかる。
「とても綺麗な街だね。こんな景色見たことないよ」
すぐ傍に並んだティアに、思ったことを伝える。
彼女は僕のそんな感想を期待していたようで、僕の言葉を聞くと嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしょう? 私もここからの眺めが大好きなのですよ。アトラスの街が端まで見渡せるから」
そして、僕が眺めていたときと同じように崖下の街を愛おしげに見つめる。
大好きな街への愛に満ちたティアの瞳は、すごく美しいものに思えた。
それから少しの間、沈黙が続いた。
彼女は街を眺め、僕はそんな彼女を見つめる。
「っていうか、ティアって実はお嬢様だよね?」
ティアをまじまじと見つめてしまっていたことに気付いた僕は、ふと後ろを振り返ってみた。
そして背後に佇む立派なお屋敷を目の当たりにして初めて、彼女が良家の淑女なのではと思い至る。
クライスさんも様付で呼んでいたくらいだし。
「そうですね。お嬢様、とは少し違いますね。お父様がアトラス公爵なので、私は立場上公女ということになります」
公爵?
公爵って確か……。
「えっ!? 貴族だったの!?」
思わず叫んでしまった僕に、ティアは軽く苦笑いを浮かべている。
表情から察するに「今更気付いたのか」とでも言うような感じだろうか。
「も、申し訳ございませんでした! 僕、あ、いえ私、貴族の方には初めてお会いしたものですから」
慌てて腰を折って謝る。
お金持ちのお嬢様かと思っていたら、彼女は貴族だったのか。
日本には身分の違いなんてなかったからよくはわからないけど、貴族のお嬢様より僕の身分が上であるはずがない。
郷に入っては郷に従え、だ。
「ああいえ、そんな風に畏まらなくていいですよ。貴族と言っても私は一領主の娘でしかありませんし。それに、チヒロとはお友達でいたいですから」
僕が深々と頭を下げるのを見て、ティアは困ったような顔で僕の顔を上げさせた。
そして軽く謙遜して見せた後、笑顔になって僕の手を取る。
彼女の輝く笑みに、僕は顔が熱くなるのを感じた。
正直、彼女のような美少女にこれだけの笑みを向けられて、尚且つ友人として接して欲しいなどと言われてしまったら、逆らうことなどできない。
「わ、わかりました。ティア……様?」
「もう。チヒロは意地悪なのですね」
それでも煮え切らない僕の言葉に、ティアはくすくすと笑い声を漏らす。
左手を口元に添えて笑う彼女の仕草はなるほど、確かに貴族なのだと納得できる上品なものだった。
―――
さて、熱を出して寝込んでいる間、僕はただ何もせずに看病されていただけではない。
ティアとお屋敷で働く女性たち(お屋敷には男性の働き手もいるというのに、何故か女性ばかりが僕の看病をしてくれた)から、日本はおろか地球ともすら違うこの世界の常識について、色々と話を訊いていたんだ。
そうしてわかったことは幾つかある。
まず、僕が流れ着いたこの大陸はアルカトル大陸と呼ばれており、今いるアトラス領とは大陸の南東に位置するアルバーナ連合の一つだということ。
一年を通して温暖で、乾季などとも無縁なこの地は、日本の春に近い気候をしているということだ。
つくづく運が良かったんだな、僕は。
不幸中の幸いってやつなのかな。
あとは生活様式が現代日本とはまるで違うことには驚いたかな。
電気は無く、灯りを燈すのには火を使うのが基本なんだ。
そんな生活だからなのか、静電気なんかも知らないらしい。
試しにティアへ「寒い日に人に触ると、時々パチッと痛むのはなんで?」と訊ねてみたんだけど、彼女には「それは精霊の悪戯ですよ」と笑顔で答えられてしまった。
どうやらこの世界では『精霊』という存在が信じられていて、様々な自然現象は彼らの仕業と解釈されているらしい。
まあ僕も理科の授業で習っていなければ知らなかったことだろうけど。
そんな、日本とはまるで違うハッキリ言って不便な生活だけど、不思議と嫌な気はしていなかった。
確かに夜でも十分に明るい照明や、蛇口を捻ればいつでも水が使えるような生活は便利で楽だったけど、適度な不自由がある今、水や灯りの有難さが身に染みてわかったんだ。
それに、電気がないお蔭で見ることができた景色がある。
暗いからこそよく見えるその景色とはそう、星空だ。
「ふわぁ」
お屋敷のテラスに立って空を見上げる僕は、遥か頭上に広がる無数の煌めきに目を奪われていた。
数えきれないくらいの星が雲一つない晴れた夜空を彩り、蒼く光る月と相まって最高に幻想的な光景を生み出している。
それは昔、家族でキャンプに行ったときに見た星空を思い起こさせた。
父さんの膝の上に座って見上げたあの日の天の川。
都市部にいては見ることのできないあの日の星々の光と似て、頭の上の星空はどこまでも、どこまでも遠くまで広がっている。
「………」
家族のことを思い出してしまい、僕の胸には熱いものが込み上げていた。
眼の奥がきゅっと萎むような感覚。
テラスの手すりに置いた両手が震え、頬をこぼれた涙が濡らした。
「チヒロの故郷でも、ナーガ様の涙は綺麗に見えますか?」
不意に、隣に立っているティアが優しい声で訊ねてくる。
まだ四日しか経っていないのに早々と顔を出した僕の郷愁を気遣って、彼女は僕の手に自分の手を重ねて寄り添ってくれているんだ。
「『ナーガ様の涙』?」
「はい。空の向こうの無数の光、あれらは大地をお創りになられたナーガ様の流した涙なのだと伝えられています。チヒロの故郷では違うのですか?」
大地を創造した神、か。
神様の流した涙が星になるなんて、結構ロマンチックな宗教なんだな。
いや、宗教なんてどこもそんなものなのかな。
「僕の故郷では星って呼んでるよ。夜空に輝く光って意味かな」
「『星』……」
ティアは星を見上げながら呟く。
僕もさりげなく目元を拭ってから、もう一度空を見上げて星空を眺めた。
彼女のお蔭か少し落ち着いてきたようで、涙はそれ以上流れてはこなかった。
「星と星を結んで絵を描くっていう遊びもあるんだ。星座っていうんだけど……」
僕は左手で空を指差してみる。
すると、ティアも右手を挙げて同じように星を指差した。
「あ、それは私も知っています。私たちは『涙絵』と呼びますけど」
『涙絵』……。そうか。
「成程、『ナーガ様の涙』だから『涙絵』なんだね。どんな絵があるの?」
「そうですね。有名なところでは、あの涙とこっちの涙、それとあの三連の涙を結んで『弓矢』の絵になります。それと、あの赤い涙と青い涙は『双子の神』を象徴していますね。涙絵とは言っても、すべてが何かの絵であるわけではないんですよ」
「へぇー、絵だったり象徴だったりするんだね。そういう捉え方は、僕の故郷にはなかったな」
確かに、寄り添う赤と青の星はまるで双子の男女みたいだ。
星座じゃなくて星自体が何かの象徴になるなんて、面白い考え方だな。
僕が感心して青赤の星を見上げていると、ティアが肩に手を置いて僕に寄り添ってきた。
「って、ティアっ!?」
「ふふふ。多分、今のチヒロにはあの天辺の一際輝きの強い四つの涙が似合うと思いますよ?」
突然の接触に僕は驚いて声を上げてしまったけど、当の彼女は手を上げて、真上にある星を指差した。
「あれはなんの象徴なの?」
どうにか訊ねた僕の声は、案の定上ずったものになってしまう。
それでも彼女はそれまでと同じように、柔らかな声音で答えてくれた。
「あの涙は『旅人』の象徴です」
「旅人?」
「はい。あの四つの涙は故郷を離れ、当てのない旅をする者が方角を知るために見上げるものなんですよ。中央の涙を中心にして、一方だけ涙のない方角が常に南を向いているんです。道に迷った時にあの涙を見上げれば方角を見失わずに済むんですよ」
一際輝く真ん中の星を中心にほぼ九十度ずつ三方に並んだ星は、そのまま方角を教えてくれるらしい。
「そうなんだ。北極星みたいな感じだね」
それはまるで、理科の授業で聞いた、夜空の中心に座って動かない星に似ていた。
「ホッキョクセイ……?」
「うん。僕の故郷では、北極星を見て方角を確認するんだ。ここでは見れないみたいだけど、夜空を見て方角を知ろうとするのは、どこでも同じなんだね」
何時の世も、何処の世界でも、人は夜空に道標を求めるということかな。
「そうなんですか。ではあの『旅人』の涙絵は、チヒロにとってのホッキョクセイですね」
「まあ、こっちの方がわかり易くていいかな。教えてくれてありがとう、ティア」
「いいえ、どういたしまして」
ティアの綺麗な笑顔に、微笑みとぶっちゃけ話で応えて、僕はもう一度夜空を見上げる。
あのキャンプの日に見た星空とは少し違うけど、それでもまったく別物というわけではないんだなと、僕は少し安心した気がした。
―――
翌々日。
ティアに逢って今日で七日目。
この世界に迷い込んできて一週間が経った。
最初の三日間は寝たきりだったので、そんな風には思わなかったけど、四日も出歩いていればさすがに思うことがある。
(ああ、やっぱりここは日本とは違うんだな……)
白い石壁の建物に挟まれた通りには当然車なんて通っているわけがなく、時折通りかかる乗り物も馬車ばかりだ。
道行く人の装いも、二十一世紀の日本とはまるで異なっている。
以前見た、某海賊映画に出てくる街並みに近いかな。
あれは十六世紀のイギリスだったっけ?
派手な格好の海賊が走り回るあの街並みに似ているかもしれない。
そうそう。
そういえば昨日、僕は生まれて初めて馬車に乗ったんだ。
映画の中でしか見たことのない本物の馬車に初めこそ感動した僕だけど、ティアの計らいで実際に乗ってみて、僕のメルヘンなイメージは完全に壊されてしまった。
知ってた?
馬車って、すっごい揺れるんだよね。
ただでさえ完全に平らとは言えない石畳の地面を、馬の引く馬車が走って揺れないわけがないよね。
病弱な上に乗り物酔いしやすい僕には、とてもじゃないけどあれは耐えられないよ。
折角用意してくれたティアには申し訳ないけど、二度と乗りたくないかな。
そんなこんなですっかり馬車嫌いになってしまった僕。
だからティアと二人で街へ出るときも、少し時間がかかると知っていながら徒歩で行くようになってしまっていた。
この日も僕はティアに連れられて、午前中からアトラスの街へ繰り出していた。
街自慢の商店通りをティアに腕を引かれながら歩き回り、歩き疲れたらオープンカフェで一息。
お昼には地元名産の海産物をふんだんに使った料理を食べて、午後もまた各地のお店や広場を巡る。
まるでデートのような、楽しい時間を過ごしていた。
ティアは貴族なのに、僕と遊んでばかりでいいのだろうかと疑問に思いもしたけど、
「ユージーン様とリーアン様がご不在の今、ティアーク様が街を見回ることで民を安心させていらっしゃるのだ」
とクライスさんに聞かされて、そうなんだと納得した。
ちなみにユージーン様がアトラス公爵様で、リーアン様はアトラス公子様。
つまりティアのお父さんとお兄さんだ。
二人は現在、大陸西側の大国、デルフェルム帝国との国境地域にアトラス領の指導者として赴いているらしい。
情勢は結構緊迫しているらしく、アトラス領の所属するアルバーナ連合と西のデルフェルム帝国は、いつ何時戦争が始まってもおかしくないそうだ。
戦争などとは無縁の日本に住んでいた僕はいまいち緊張感が沸かないのだけど、街に漂う張りつめた空気だけは感じることができていた。
そんな中で、領主の娘たるティアが笑顔で街を巡るのはかなり効果があるみたいだ。
僕は向かいや隣に立つ彼女の笑顔を見て、ほっと息を吐いて微笑む街の人々を何度か目にしていた。
みんな彼女の笑顔によって、戦争への緊張を和らげているのかもしれない。
「この服なんて、チヒロに似合うと思いますよ?」
彼女は今、色とりどりの服が並ぶ店内で僕用の服を探している。
楽しそうに、嬉しそうに蒼穹の衣服を広げ見ているティアの笑顔はまるで子供のようだ。
でもその無邪気な笑顔の下には想像し得ない苦悩があるかと思うと、家族への心配を顔に出さないように努める気丈さを、僕はすごく尊敬するよ。
「そんな高そうな服、僕には勿体ないよ。今だって、お屋敷にある服を借りてるのに」
苦笑いを浮かべて、僕は一人盛り上がるティアを諌めようとする。
が、ティアは振り向いて頬を膨らませただけだった。
「むぅ。チヒロはもう少し欲を持っていいと思いますよ?」
「いや、ただでさえティアにはお世話になってるのに、これ以上迷惑なんて……」
お世話になっている身としては、あまり迷惑をかけたくないというのが素直な心情だ。
だけど、そんなお世話になっている側の理論は、得てして反対の立場の人間には伝わらないことが多い。
「迷惑などではありません。チヒロは辛い想いをしているのですから、友人の私が貴方を助けるのは当然です」
「いや、でもさぁ……」
「ほらチヒロ、こっちへ来て。そしてこれを試着してみてください」
僕の遠慮などお構いなしに、ティアは僕の右腕を取ってお店の中に引っ張り込んでいく。
左腕を僕の腕に絡め、反対の手には先程見ていた空色の服を持って。
「すみません、こちらを試着させていただいてよろしいですか?」
そのまま何の躊躇いもなしに、ティアは店内の主人に呼びかけた。
引き摺られる格好の僕には抵抗することができない。
物理的にではなく道徳的に、ね。
「それは勿論構いませんが、そちらは男性用ですよ?」
(うっ、女の子だと思われてる……)
この主人の反応と同じように、街中で僕たちを見かける人たちは皆、僕を女の子だと思っているようだ。
だからこそ、僕とティアが二人きりで街を歩いていても何も言われないのだと思う。
公女が男と二人で遊んでいたら不味いけど、女の子二人で仲良く街巡りをしているだけなら何の問題も無いもんね。
「ふふ。良いのですよ。さあチヒロ、こっちへ来てください」
「うう。これでいいのかなぁ」
結果、僕はティアに引っ張られるまま試着室の中へ。
男女が揃って試着室に入るのはどうかと思うけど、看病されている間ティアには何度も背中を拭いてもらったりしていたから、今更文句は言わない。
諦めた、という意味でだけどね。
「ふふふ」
服飾店を出て以降、広場への道を歩くティアはすごく上機嫌になっていた。
「……すごく機嫌がいいけど、そんなに似合ってる?」
それは隣を歩く僕が耐え切れずに訊ねてしまうほどだ。
先程のお店で例の服を試着した後、ティアは断固といった様子で僕が今着ている空色の服を購入したんだ。
しかも買ったばかりのこれをその場で僕に着させ、以降ずっと機嫌が良いのだからよっぽど気に入ったんだろう。
自分でもまあそれなりに着こなせているように見えたけど、それほどかなぁ?
「何を言っているんですか。そのレフタはチヒロにとてもよく似合っていますよ」
「うーん、別にそれほどじゃないと思うけどなぁ」
ちなみに、今僕が着ている服は『レフタ』というものらしい。
青空色の生地で縫製されていて、立てた襟と袖口に金色と黒の装飾が施されている。
絹のような質感の生地は、即座に高価なものだとわかるくらい滑らかだ。
「でもこれってさ、もうちょっと背の高い人が着るものなんじゃない?」
さらに特徴を上げるとすれば、このレフタという服は丈が長くて腰の部分を服の上からベルトで留めていること。
そしてベルトから下の部分が前開きの袴のような作りになっていて、背の高くない僕ではズボンを穿いているにも拘らず、後ろからはスカートのように見えてもおかしくないことかな。
「ふふふ。とっても綺麗ですよ。チヒロは顔立ちが整っていますから、こういった服の方が似合うと思うんです」
どこか的外れなティアの微笑みを前に、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「それはもう女性目線での話なんじゃ……」
「ほら、チヒロ。そんなことばかり気にしていないで、あちらの方にも行きましょう!」
苦言も空しく、ティアはまた僕の腕をとって歩き始めた。
両脇に商店の並ぶ石畳の通りを、腕を絡めたまま先行していく。
誰かと連れだって街を歩けることが嬉しいようで、斜め後ろから覗き見える彼女の表情は晴れやかだ。
(もう、しょうがないな)
僕は彼女の手に引かれるがまま、未だ苦笑いの表情とは裏腹に胸を躍らせていた。
この後起こる事件など、露ほども知らずに――。