第二十話 雨、未だ止まず
しとしとと雨音が静かに鳴る廊下を歩いて、薄暗い中を自分の部屋へ向かう。
そろそろ九の刻(午後六時)くらいだから廊下の角灯は灯っているけど、窓の外が雨模様なので夜みたいに暗い。
珍しくお屋敷勤めの人ともすれ違わないし、なんだか足音が大きく聞こえる気がした。
ティアから休むよう命じられて――。
厩舎を出た僕は一人でお屋敷の廊下を歩いていた。
なんだか足元がふらふらする。
頭痛もし始めてきた。
あんまり寝られてない所為かもしれない。
よろめきながら部屋まで辿り着いて、扉を後ろ手に閉める。
上着を床に放り捨てて、身体を包んでいた防具と騎士服を脱いで、冷えた身体のままベッドに倒れ込んだ。
重たい頭の中では色々なことが巡っていたけど、一度横になってしまうともう全く動ことが出来なかった。
そのまま僕は微睡みの中に落ちかける。
でも――。
眠ろうとすると、やっぱりレイベルさんとテトラスさんが夢に出てきた。
二人ともが僕に向かって手を伸ばし、助けを求め、叶わずに倒れていく。
すぐに目は覚めてしまって、眠気なんて吹き飛んじゃって、身も凍る恐怖と罪悪感に震えた。
静寂が何よりも怖くて、じっとしていたらおかしくなってしまいそうで。
僕は怠くなった身体を無理矢理に動かして、雨粒の伝う窓に近付いた。
外はまだ長雨が降り続いている。
いつもは見える月の光も、それに照らされるアトラスの街も海も、灰色の幕の向こうに消えていた。
硝子には僕の顔が映っていて。
その幽霊のような蒼白い顔に、僕はため息を吐いた。
「なるほどね……。これじゃあ、ティアが驚くのも無理ないや」
自嘲的な言葉を漏らして、苦笑いを浮かべようとする。
けど頬は引き攣って笑えてなくて、窓には死人のような虚ろな表情しか映っていなかった。
あれ?
苦笑いって、どうやるんだっけ。
そう思い、両手で捩じっても引っ張っても変わらない。
依然蒼白で虚ろな顔があるだけだった。
笑い方、忘れちゃったな……。
そんな、まるで他人事のような感想を抱いた。
しばらく窓の外を眺めて、降り続く雨を見つめて。
半刻くらいぼんやりと過ごしていたのかな。
僕が振り向いたのは、扉をノックする音が聞こえてのことだった。
「チヒロ……」
振り向くと、顔を覗かせたのはやっぱりティアだった。
今にも泣きだしそうな表情で、彼女はそっと中に入ってくる。
彼女の辛そうな顔を見ても、僕は笑いかけることが出来なかった。
「ごめんね」
代わりにそんな言葉が口を衝いて出た。
ティアは顔を上げて、疑問の色を浮かべる。
「橋、ちょっと壊されちゃったよ」
「あ、そのことですか。それでしたらエリンダから問題は無いと聞いていますから、チヒロが気に病む必要はありませんよ」
ティアの笑みが固い。
無理をして笑顔を作っているのがハッキリ判る。
彼女にそんな表情をさせてしまっている自分が、どうしようもなく嫌だった。
「気を遣わせちゃってごめんね。エリンダさんから聞いたでしょ? 僕がいったい何をしてしまったか。折角皆期待してくれてたのに、僕は駄目だったよ」
「駄目って、どこが駄目だったんです? 作戦は問題なく推移していると聞きましたが」
「作戦は、ね。でも、僕は二人も死なせてしまった。僕の所為で、二つもの命が失われてしまったんだ」
ティアは悲痛な面持ちで俯く。
「それは……いつも犠牲なく勝つことなど、出来るはずがありませんから」
そして少し考えた様子の彼女が口にしたのは、そんな一般論だった。
「うん、わかってるよ。今回だって、敵は十二人全員が死んでしまった。味方だけが一人も殺されないなんて都合のいいこと、絶対にあるはずない。戦なんだから、誰が死んでしまってもおかしくない」
それが常識だ。
この世界の常識で、戦争の無くならない世界の常識。
地球でだって、紛争地帯に行けばそれが常識なんだと思う。
ある日突然、知り合いが命を落とす世界だ。
けど――。
「でもさ、二人は僕の所為で死んでしまったんだ。僕がもっとしっかりしていれば、僕がもっと色んな可能性を考慮していれば、僕がもっと敵の心理を読めていれば、結果は多分違った。レイベルさんもテトラスさんも、死なずに済んだんだ」
「それは……」
「違う、とは言えないよね。可能性は十分にあった。でも、僕にはそれが出来なかったんだ。僕の油断と無知が二人を死なせてしまった。僕が殺しちゃったのも同然なんだよ」
正直、今は死が身近にあるかどうかなんてどうでもいい。
常識なんて僕一人の力で変えられるはずもないし、どうにかできるとも思ってない。
問題は其処じゃない。
問題は二人の犠牲が、僕の未熟さ故に起きてしまったことだ。
「そんなっ! チヒロ、違います。あなたが殺したなどと」
ティアは一瞬だけ目を見張り、僕を宥めようとしてくれる。
「僕の所為なんだよ! 僕が至らなかったから、僕が駄目だったから、二人は……」
でも、自責の思いは止まらなかった。
頭を抱えて、震えながら喚いてしまう。
「落ち着いてください。あなたの所為ではありません」
いつの間にか、僕は彼女に肩を抑えられて息を乱していた。
フーフーと掠れる音が漏れる。
ティアは真っ直ぐに僕の目を見て、穏やかな声で続けた。
「チヒロ、あなたは全力を尽くしたんです。違いますか?」
「全力だと、思ってたよ。でも、後になってみればもっと色んな方法が思いついたんだ。あそこはこうしていればよかった。あれはよくなかったって、後悔ばっかり……」
「後悔は誰にでもあります。いつも最善手を思いつける人なんていないんです。あなたは万能ではないんですよ?」
万能じゃない。
そう。確かに僕は万能じゃない。
一人じゃ何もできない、臆病で弱い人間だ。
でも、だったらどうすればいいの?
「なら、僕が未熟な所為で誰かが死んでしまったんだとしたら、僕はどうしたらいいの? この苦しみをどうやって失くせばいいの? 仕方なかったんだって、忘れるの?」
それはあんまりだと思う。
必要な犠牲なんてない。
命の重さに差なんてないんだ。
みんな同じように生きて、同じように死にたくないと思っているんだから。
教えて欲しい。
僕はどうすればいいのか。
二人の命を背負って、僕は何を思えばいいのか。
「それは――」
ティアは眉根を寄せて俯いた。
その表情からは辛い感情が滲んでいる。
僕はこのとき、淡い期待を抱いていたんだと思う。
彼女が何か答えをくれるんじゃないかって。
何か、この苦しみから解放される方法を教えてくれるんじゃないかって。
やがて、彼女は窺うような眼差しをくれながらこう答えた。
「わかりません」
瞬間、僕は目の前が真っ暗になった気がした。
彼女にも、答えは無いんだ。
公爵の娘としてこの世界で生きてきたティアにも、明確な回答は無いんだ。
「ごめんなさい。偉そうなことを言っておきながら、私にもその答えはわかりません。ですが少なくとも、あなたがずっと罪の意識を感じ続けるのは違うと思います」
「じゃあ、僕はどうすればいいの?」
「……ごめんなさい。私には、わかりません」
そう言ったティアは終始辛そうに俯いていた。
僕はなんだか、深い谷底に突き落とされたような感覚に陥った。
もう、何も見えなかった。
―――
翌日。
僕は降りやまない雨の中、とある家の前に立っていた。
白い石材を積み上げて建てられた家。この街では一般的な大きさの家だ。
入り組んだ路地の中にあって、詳しく教えてもらってなかったらきっと迷ってたと思う。
僕は先程からじっと、目の前の家屋を見つめていた。
三歩も歩けば扉に触れられる場所にいながら、しばらく立ち尽くしていたんだ。
胸にはぎゅっと締め付けるような痛みがある。
相変わらず頭痛も収まらないし、視界も少しぼやけていた。
何をしにここへ来たのかもおぼろげで、思考は重く働かない。
ちらっと、お腹の横で力無く広げた左手に目を落とした。
そこには、レイベルさんの形見の首飾りが載っていた。
その翠の石を見て思い出す。ああ、ここは彼の家だったなと。
さーっと雨音が街を包み、長雨にすっかり出不精になったのか住民の姿は見当たらない。
僕は小さく息を吐いて、足を踏み出した。
建物に近付いて、木製の扉を叩く。
トントンと二回叩いて、そのまましばらく待っていると、扉は内側から少しだけ開かれた。
「あの、どちら様でしょうか?」
僅かに開いた隙間から覗く声と瞳。
間違いなく女性のものだ。
「あなたが……レイベルさんの奥さんですか?」
僕は掠れた声で訊ねた。
何だかここ数日の間に、とても自分のものとは思えないくらい声質が変わってしまった気がするな。
女性は扉を引き開いて、僕に向き合った。
「はい。レイベルは私の夫です。あなたは騎士団の方ですか? 彼の殉職の報せは昨日、近衛騎士団副長の方から直接頂きましたけど」
落ち着いた茶髪を三つ編みにした、若い女性だった。
年はほんの二、三上くらいだと思う。
僕より背の低い、可愛らしい印象の女性だ。
でも、普段なら快活そうな見た目の彼女は見るからに憔悴していた。
目元は赤く腫れ、頬には涙の痕が残っている。
「いえ、僕は騎士ではありません。ですがレイベルさんと同じ作戦に参加していました。部隊の軍師役として」
淡々と告げた言葉に、彼女は目を見張った。
「もしかして……。あなたが副長さんの言っていたチヒロさん、ですか?」
どうやら、事前に僕が来ることは知っていたらしい。
エリンダさんは僕が形見を持っていると知ってたはずだから、僕がここに来ることも簡単に予想できたんだろう。
「はい。レイベルさんに託された物を、お届けに来ました」
そう言って、僕は左手を差し出した。
首飾りが女性の前で淡く輝く。
女性は視線を落とすと目を見張り、静かに息を呑んだ。
それから恐る恐る手を伸ばし、首飾りを手に取って翠の石を愛おしげに見つめる。
瞳には大粒の涙が滲み、唇はきゅっと噛みしめられた。
「レイベル……」
女性の口から、押し殺した声が零れた。
最愛の人の形見を両手で包み、胸に抱く。
そうして、彼女はさめざめと涙を流した。
「うっ……うぅ……。なんで……どうしてあなたがっ……」
苦しげに嗚咽を漏らす女性の姿。
気付けば僕は、雨水の張った石畳に膝を着いていた。
「ごめんなさい!」
両手も濡れた地面に着いて、額をぶつける。
閉じた眼からは止めどなく涙が流れ、雨と混ざって僕の頬を冷やしていった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」
僕は狂ったように謝り続けた。
自分でも訳がわからなくて。
でも謝罪の言葉は涙と一緒に溢れ続けて――。
「僕の所為です! 僕が失敗したから。僕がもっとしっかりしてれば、あんなことにはならなかったのに! だから! だから僕の所為で、僕が悪くて。僕は……僕は……」
視界は真っ暗だった。
何を言えばいいのかわからなかった。
何を言われるのかわからなかった。
何を言っても許されないだろうし、何を言われてもしょうがないと思った。
この人は旦那さんを失った。
一晩中泣き腫らすほどに悲しんだ。
それはきっと僕の責任で、その僕がこうして形見を持ってきた。
恨まれていないはずがない。
憎まれていないはずがない。
責められるだろう。叩かれるだろう。
もしかしたらもっと酷い目に遭うかもしれない。
仇と言われて刺されるかもしれない。
でも、それもしょうがない。
それだけの理由があって、彼女にはそれをする権利があって、僕に否という権利はなくて。
僕はそれを、甘んじて受け入れる覚悟だった。
でも――。
「顔を上げてください」
落ちてきた声は、ひどく冷たいものだった。
僕はしゃくりあげながら顔を持ち上げ、頭上の女性を見上げる。
そして彼女の表情を見て、僕は声を失った。
「これ、届けて下さってありがとうございました。そこにいては風邪をひいてしまいますので、もうお帰り下さい」
彼女は感情の無い冷淡な眼差しで、僕を見下ろしていた。
恨みも憎しみも、当然感謝の色もそこにはない。
「それでは……」
「ま、待ってください!」
僕は閉じられそうになる扉に縋り付いた。
僕の力と女性の力が拮抗し、内開きの扉は中途半端な状態で止まった。
「帰ってください! そしてもう、ここには来ないでください……」
絞り出されたような声は、悲鳴に似ていた。
彼女はどうにか閉めようと押してきて、扉は僅かずつ閉まり始める。
「なんで、怒らないんですか? 僕はあなたの旦那さんを死なせた張本人なんですよ? なのに、どうして僕に何も言わないんですか?」
自分でも何を言っているのかわからない。
これじゃあまるで、彼女に恨まれたいみたいじゃないか。
彼女はさっきの冷たい声とは違う、ちゃんとした感情の乗った声を漏らした。
「彼が亡くなった経緯は聞きました。彼は敵の捨て身の戦法で命を失ったと。彼の死は、誰の責任でもないんだと」
「それは僕の失敗が招いたことなんです。僕が攻め方を間違えたから」
「だとしても! あなたを恨むのはお門違いです! あなたが彼を殺したわけじゃない!」
「直接殺したのは僕じゃなくても、僕の判断違いがレイベルさんを死なせてしまったんです。だから……」
「止めて! もう止めてください!」
扉の板越しに、悲痛な叫び声がいくつも届いた。
叫んで力が抜けたのか、彼女の押す力はもう弱まっていて。
少しだけ残った扉の隙間から、絞り出すような声が漏れ聞こえてくる。
「もう、止めてください……。私は、あなたを恨みたくない」
この扉の向こうで、彼女は多分頽れている。
でも僕に想いを汲み取る余裕はなく、縋るように叫んだ。
「恨んでくれていいです! 僕はそれだけのことをしてしまったんです。だから……」
「止めて止めて止めて! あなたを恨んでも、ただ苦しいだけよ!」
だけど僕は、ヒステリーを起こしたような悲鳴に口を噤み、続く言葉で息を呑んだ。
「そんなことをしても、彼はもう帰ってはこない……」
彼女にここまで言わせて。
僕はようやく、自分がいかに利己的な考えをしていたか思い知った。
「彼はもう帰ってはこない」
この言葉が、この女性の想いを何よりも如実に物語っている。
もうレイベルさんは帰ってこない。
死んでしまったのだから、それは当たり前だ。
世界中の殆どの人が、それをただの事実として受け取るんだろう。
僕だって多少の痛みを伴いながらも、そんな大多数の人たちと同じだ。
でも、この扉の向こうにへたり込む女性はそうじゃない。
彼女は誰より愛する人を失ったんだ。
それが何よりの一大事で、その他なんて些細なことなんだ。
それこそ、僕をどうこうしようなんて、全く以てどうでもいいことなんだ。
「うぅ……うあぁぁ……」
堰を切ったように泣き出してしまった彼女に、僕がかけられる言葉はなかった。
胸を抉られたような感覚の中、僕はふらふらと雨の中に歩き出した。
背後からは、いつまでも悲痛な泣き声が聞こえてくる気がした。
レイベルさんの家を離れた僕は、覚束ない足取りでもう一軒も訪ねていた。
「僕の所為で……僕の所為で君のお父さんは……。本当にごめんなさい!」
さっきと同じように額を石畳に擦り付けて。
石の上に張った水に膝を濡らして。
全身びしょ濡れの状態で、僕は謝り続けた。
けど――。
「アンタがいくら謝ったって、父ちゃんは帰って来ないんだ!」
十歳くらいの男の子にも、同じことを言われてしまった。
瞳には一杯に涙を湛えて、キッと僕を睨んでいる。
「父ちゃんがなんで死んだのか、俺にはよくわからないよ。でも、騎士の姉ちゃんが立派だったって言うんだから、きっとそうなんだ! 父ちゃんは街のために、俺たちを守るために死んだんだ! アンタのためじゃない!」
「でも、僕がもっとしっかりしてれば君のお父さんは……」
「うるさい! 父ちゃんはいつも言ってたんだ! 『俺が死んでも、それは誰の所為でもない。この街とお前を守るために、俺は命を賭けるんだ』って! だから父ちゃんは誇りを守っただけなんだ!」
誇り――。
子供には到底理解できない言葉なんじゃないか。
少なくとも、僕には未だに理解できない。
名誉の死なんてものは信じられない。
でも、この子はお父さんの言葉を本気で信じてるんだ。
お父さんは信念を守って命を落としたんだって。
僕なんかが関わったからではないんだって。
「俺は騎士になるんだ! 父ちゃんみたいな、立派な騎士に! アンタに謝ってもらっても、全然嬉しくない!」
少年はそうやって叫ぶと、僕が止める間もなく扉をバタンと閉めた。
僕は膝を着いたまま、暫く呆然と扉を見つめ続けた。
その後、どうやってお屋敷に戻ったのか、僕は憶えていない。
―――
その日、またあの夢を見た。
レイベルさんとテトラスさんの二人が、僕に助けを求める夢。
でも、どれだけ手を伸ばしても、どれだけ一生懸命に走っても、僕は二人を救うことは出来なかった。
寸前で、二人は力尽きてしまうんだ。
「………」
もう、飛び起きることもなくなった。
動悸と息切れは残っているし、背中にはびっしょり汗を掻いてしまっている。
でも、もう叫ぶことはなくなった。
これが慣れに依るものなのか、それとも僕の心が疲れている所為なのかはわからない。
自分の心がどうなってしまっているのか、僕にもわからないんだ。
僕が死なせてしまった二人の遺族。二人の家族。
どちらも悲しみに打ちひしがれ、それでも僕を恨むことはなかった。
許してくれるってわけじゃないと思う。
ただ、僕の言葉が聞きたくないんだ。
謝罪の言葉なんて、聞きたくないんだ。
もしかしたら――。
僕が何を言っても、所詮それはただの自己満足なのかもしれない。
謝ることで自責の念をどうにかしようと思っているのかもしれない。
二つもの命を背負って、その重さに耐えることが出来ないから、僕は後悔と罪悪感に苛まれるまま謝罪の言葉を繰り返しているのかもしれない。
僕がいくら謝ったところで、二人は帰ってはこない。
二人の家族には気休めにもならない。
謝られたところで「はいそうですか」と許すことなんて出来ない。
そんな簡単なことに、どうして気付かなかったのかな。
許しを乞う――。
こんなの、謝る側のエゴだってすぐ判るのに。
「けど、だとすれば僕は――」
どうすればいい?
どうしたらこの苦しみを乗り越えられる?
どうやったら、命の重さを背負って立ち上がれる?
どんなことをすれば、僕は立ち直れる?
どうすれば……。
「……だめだ」
わからない。
何もわからない。
全然わからない。
まるでわからない。
もう全くわからない。
さっぱりわからない。
だったら――。
僕は身体を起こして、ベッドから降りた。
すでにお屋敷はシーンと静まり返っていて、誰もが寝静まっている時間だとわかる。
こんな時間に起きているのは多分、当直の騎士と徹夜で働く人だけだ。
僕は重たい腕を動かして着替えを済ませ、ふらつく足取りで部屋を出た。
一歩一歩、歩く度にズキンと頭が痛むけど無視する。
そうして一階にある執務室へ入った。
執務室にはソファに横になり、あどけない表情で眠るティアがいた。
身体を丸めて、穏やかな寝息を立てている。
僕は彼女の金の髪を少しだけ撫でて、いつかのように上着を掛けておいた。
それから僕はティアの執務机に近付く。
数日ぶりに見た机の上には新しい報告書や資料が山積みにされていて――。
疲れ切った僕の精神に、義務感の小さな火が灯った。
二つに分けて山積みにされた書類から、僕は未処理のものをいくらか手に取った。
彼女の作業はこれまで何度も目にしていたから、どちらが終わってない方なのかはよく知っている。
僕は手に取った資料を自分の机の上へ置き、僕自身も席に着く。
そして少しの間視線を落とし、自分に言い聞かせるように呟いた。
死なせてしまった二人のことをどうやって呑み込めばいいのか、僕にはわからない。
なら――。
「わからないなら、考えなければいい」
仕事に忙殺されれば、その間はきっと考える余裕なんてなくなるだろうから。
資料の山から一つの束を手に取って、懐から地図を取り出して、端に置いたランプに火を入れて、僕は仕事に取り掛かった。
窓の外からは、降りやまない雨の音が聞こえてきていた。




