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第一話    異世界漂流

 僕は、真上から容赦なく降り注ぐ太陽の光で目を覚ました。


 視界には白い砂。

 耳には波の音が入ってきており、重く痛む体を水が洗う。


 ぼんやりと霞む思考の中で真っ先に考えたのは、照り付ける日差しについてだった。


「……暑いな……」


 幼少時から肌の弱かった僕は、日焼け止めを塗らずに長時間日に当たっているとすぐに肌が真っ赤になってしまう。

 つくづく女性のような体質に、海水浴に行く度イライラしたものだ。


 ふうっと一つ息を吐くと、きめ細かな砂に両手を突きゆっくりと体を起こしてみた。


「痛っ!?」


 途端、右手に走った痛みに顔を顰め、また砂に横たわってしまう。

 仕方なく、うつ伏せのまま痛みのした箇所を見てみると、手首の下あたりに小さな切傷があった。

 恐らく斜面を転がっているときにできた傷だろう。


「まったく……」


 とはいえ、声も出せるし痛みもあるのだから、どうやら僕はあのまま死んでしまったわけではないようだ。

 水に落ちたような感覚もあったからどこかに流されたのだろうけど、少なくとも生きていれば帰ることはできる。


 僕は右手首の痛みを堪え、もう一度体を起こし立ち上がってみた。


「さて、ここは山のどの辺りかな?」


 そうして顔を上げた僕は、目の前の景色に驚愕した。


 どこが山だって?

 視界には、見渡す限りの砂浜が広がっていたんだ。


「って、そういえばさっき波の音が……」


 慌てて僕は振り返る。

 意識を取り戻してすぐ、僕の視界には確かに白い砂浜が広がっていたし、波の音が聴こえていたはずだ。


 後ろを振り返った僕は、またも驚愕する羽目に陥った。


 今度も、見渡す限り広がっているのは山――ではなく海だった。


 青い大海原が水平線まで、どこまでも遠く広がっている。

 島もなければ船もない。

 ただただ深青の水だけが、視界を埋め尽くしていた。


「ここ、いったいどこ?」


 呟くも、応えるものは当然いない。

 僕は穏やかな波打ち際に、ただ一人ポツンと佇んでいた。


 海にも浜にも、人影どころか生き物の姿さえ見られない。

 見知らぬ地で、完全に独りぼっちとなっていた。

 水平線に影が見えることも、空に海鳥の姿が見えることもなく、砂浜で独り立ち尽くして。


 無情に、いつもよりも僅かに大きな気がする太陽だけが、空の天辺から照りつけていた。




 それから数時間。

 僕は歩き続けていた。


 海を眺めていても船が通ったりするようなことはなく、ただ時間だけが流れていくようだったんだ。

 そんな、独りぼっちの雰囲気に耐えられなくなって、僕は砂浜を駆け出した。


 走って走って、疲れて膝に手をついた頃にも、まだ視界には砂浜だけが広がっていた。

 無性に泣きたくなって、でも何故か涙は出なくて、僕は仕方なく歩き出した。

 真っ白な砂浜を、ずーっと歩き続けていたんだ。


 目を覚ました時には天辺にあった太陽が西の空で赤く燃え始めても、砂浜以外には何も見当たらなかった。


 ここは本当に現実なのだろうか。


 もしかすれば、ここは死後の世界なのではないか。


 そうだとすれば、僕はやっぱり死んでしまったのだろうか。


 そんな、答えの得られない疑問だけが渦巻いていき、僕を焦らせていく。


(嫌だ! 僕はまだ死にたくない! 折角裕香さんと仲良くなれて、正真正銘男として高校生活を送っていけそうだったのに。まだ死ぬわけにはいかないのに!)


 物心ついて初めて「死にたくない」という想いが胸に溢れ、僕は再び砂浜を駆け出していた。

 涙は流れそうで一向に流れないけど、無我夢中で脚を動かし続けたんだ。




 やがて――。


「ハァ……ハァ……」


 こんなに長い時間全力疾走したことはない。


 僕の肺は悲鳴を上げ、最早脚は震えて一歩も前に進まない。

 流れ出る汗を拭うこともできず、僕は盛大に息を荒げながら遠く一点を見詰めていた。


 既に陽は沈み、街灯あるはずもない砂浜は闇に包まれている。

 自分の足下も見えない程だ。

 未だ波の音だけが同じように聴こえてくる。


 そんな暗闇の中に在って、僕の眼は遠くに揺れる灯りを捉えていた。


 幻覚じゃない。

 ううん、もういっそ幻覚でもいい。


 遠くに見える微かな灯りは、キャンプファイヤーの火のようだった。

 明らかに人の手で灯されたものだと判る火だ。


「あそこに、行ければ……」


 掠れた声で呟く僕の身体はしかし、声と動こうとする意志に反して微動だにしない。

 震える脚が前に出ることも、膝に突いた両手が持ち上がることもなかった。


 そして、そのまま身体が砂に倒れ込むのを感じた。

 受け身も何もないのに、柔らかい砂のお蔭で痛みはない。

 だけど、もう指一本動かすことはできなかったんだ。


「あと、少し……なのに……」


 漏れ出る苦悶の声は、最早自分の耳でも聞き取り辛いほどに弱々しくて。


 そうして、僕の意識はまたも闇に染まっていき、落ちる瞼を止めることはできなかった。




―――




 それから、僕は夢を見た。


 今見ているのが夢だとわかる夢。

 何故かはわからないけど、僕にはそれが夢だと直感できたんだ。

 確か明晰夢(めいせきむ)とか言うんだったと思う。


 夢の中で僕は自宅のリビングにいた。

 ソファに腰かけて、ダイニングのテーブルに座る家族を眺めている。


 両親と妹の千里はすごく青い顔をして俯いていて、三人共が口を開こうとしない。


(何かあったのかな?)


 呟いたつもりの言葉は、何故か頭の中だけに響いた。

 その違和感に、僕は首を傾げる。


 と、そのとき不意に、リビングの固定電話が鳴り始めた。


 妹が目に見えてビクッと震え、母さんがハッと口元を抑える。

 父さんだけが真っ先に立ち上がって受話器を手に取り、受話器の向こうの相手と何やら話していた。

 しきりにお礼を言っているみたいだ。


 少し離れた位置でソファに腰かけている僕は、父さんが何を言っているのかよく聞きとることができない。

 それに、何故かソファから立ち上がることもできなかった。


 やがて、受話器を戻した父さんが再び椅子に座って眉間に皺を寄せる。

 苦悶の色を浮かべる父さんは、見るからに憔悴しているのが判った。


「あの子は? 千尋は?」


 それまで黙っていた母さんが、震える声でそう訊ねた。


 おかしいな。

 僕は今ここに、すぐ側にいるのに。


 父さんはそんな母さんの問いに、黙って首を横に振っただけだった。


「そんな……」


 息を呑む母さん。

 その隣で、千里が顔を伏せて嗚咽を漏らし始めた。


「お兄ちゃんの、バカァ!」


(だから、僕はここにいるってば!)


 そう叫ぼうと思って口を開いても、どうしてか声が出ることはない。

 身体も一向にソファから立ち上がれないでいる。

 まるで腰から下を鎖で縛りつけられたかのように。


 父さんが目を閉じ、額の前で両手の拳を握って、心底悔しそうな声を漏らした。


「あの、親不孝者が……。帰ってこなければ、許さんぞ……」


 そんな父さんの漏らした言葉で、僕は全てを悟ってしまった。




 今見ているこの光景は、夢だけど夢じゃないのだと。


 僕はあの時、あれ以降行方不明になっているのだと。


 そして僕の声が三人に届くことは絶対にないのだと。







 身を切られそうな夢は幸いにも、あまり長く続くことはなかった。







「うわああぁぁ!」


 そんな叫びと共に飛び起きる。

 動悸は激しく、頭は重い。

 それに妙に頭がクラクラする。身体も怠いし、熱い。

 風邪をひいた時のような感覚だ。


 ふらつく頭を右手で支え、僕は先程見た夢を反芻しようとして、無理矢理考えるのを止めた。


(あれは夢だ。ただの夢なんだ!)


 今は、何も考えたくなかった。

 夢のことも、眠る前に自分が何処にいたのかも。


 寧ろこれまでのことが全部夢であってほしかった。


 でも、顔を上げて自分が眠っていた場所を目にして、僕は昨日の体験が夢でないことを悟ったんだ。


「ここ、どこなんだよ……」


 僕は洋風の豪華なベッドの上に腰かけていた。


 天蓋とか言ったような屋根つきのベッドに座り、腰までかかっていた毛布はすごく肌触りが良い。

 ベッドから見渡せる部屋も相当に広く、ゴシック調のカーテンやカーペットは、まるで中世ヨーロッパを舞台にした映画のセットのようだ。


「外国、なのかな?」


 呆気にとられて部屋を眺めていると、不意に僕の右手正面にある両開きの扉が、コンコンとノックされる。


「はいっ!」


 慌てて返事を返し、体を持ち上げようとするも、熱でふらつく頭の所為で思うように体が動かない。

 その内に、ノックをした人物が扉を開いて部屋の中へ入ってきた。


「失礼致します。悲鳴が聞こえたものですから、気になりまして」


 扉を開いて中へ入ってきたのは、同い年くらいの外国人だった。


 ブロンドのウェーブがかった髪を肩まで伸ばし、シックな紫色を基調とした装飾服に身を包んでいる。

 その派手な装いはまるで現代人とは思えないようなものだったけど、白い肌に碧眼の少女はモデル顔負けの綺麗な顔立ちをしていた。


 少女はゆっくりとベッドに近付いてきて、僕の眼を真っ直ぐ見つめると、柔らかな笑みを浮かべた。


「よかった。お目覚めになられたようですね」


 金髪碧眼の美少女に煌めく笑顔を向けられて、僕は一気に顔が熱くなるのを感じた。

 その結果、熱の所為もあって倒れ込みそうになる。


「あっ! 大丈夫ですか?」


 横倒しになりそうだった僕の身体を、少女は意外に俊敏な動きで支え、優しく起こしてくれた。

 両肩に手を添えて、そのままゆっくりと寝かせられる。


「まだ熱があるようですね。でも大丈夫、今はゆっくりとお休みください。お話は後でゆっくりと伺いますから」


 彼女は優しい笑顔を浮かべて、横になった僕に笑いかけてくれる。


「ありが……とう……」


 しっかりとお礼を言いたかった僕だけど、急速に押し寄せる睡魔に抗うことができず、そのまま彼女の笑顔の残像を見つめたまま眠りに落ちた。


 今度の眠りはとても穏やかなもので、悪い夢を見ることもなかった。




―――




 それから、僕はどれだけの時間眠っていたのだろうか。


 気が付くと、僕の傍では二人の人物が会話をしていた。


 未だ目を開けることが億劫なほど怠いが、熱による頭の霞は大分なくなってきている。

 僕は眼を閉じたまま、二人の会話に耳を傾けることにした。


「ティアーク様、よろしいのですか? このような素性の知れない者を保護するなど……」


 一人はどうやら男のようだ。

 声の感じからすると、そんなに年配というわけではなさそうかな。


「この方は砂浜に倒れていたんですよ? かなり衰弱していましたし、浜にはずっと北の方まで足跡が続いていました。恐らく皇国からの旅人でしょう。危険はありませんよ」


 こちらは先程眠る前に少しだけ聞いた少女の声だ。

 男から様付で呼ばれていたような気がするけど、お嬢様なのかな?


「ですが、もしこの者が帝国の間者であれば危険が……」

「クライス、大丈夫ですよ。帝国の間者がこの地で行き倒れることなんてありませんし、大一この方の装いは帝国の物でも、ましてや皇国のものでもありませんでした。旅の方なのだと思いますよ」

「しかし――」

「それ以上は止めてください。この方を保護したのは、私の意志です」

「……わかりました」


 男が引き下がり、少女はふふっと笑う。

 声だけでも一度見た彼女の綺麗な笑顔が浮かんでくるようだ。


 と、頭の中に、崖から転落する僕を見て悲鳴を上げる裕香さんの顔が浮かんでくる。

 仲良くなって直ぐにあんなことになってしまったのだ。きっと気にしているだろう。


「うっ」


 裕香さんのことを考えていると、ズキッと頭の奥が痛んだ。思わず呻き声が漏れる。


 そんな僕の声は、傍にいた二人にもハッキリと聴こえていたようだ。

 先程の少女が声をかけてくる。


「お目覚めになられましたか?」


 同時に、僕の額に手が置かれる感触があった。

 柔らかく、温かいその手は、優しく僕の額を撫で、僕がゆっくりと目を開いても続けられる。


「ええと……」


 思わぬ手厚い扱いに、僕は鼓動が早まるのを感じる。

 少女の顔は思いの外近くにあり、碧眼の双眸が僕を真っ直ぐに見つめていた。


「貴方はこの街の北、アトラス海岸の砂浜に倒れていたんですよ?」


 赤くなって何も言えなくなっている僕に、少女は呆れることも苛立たしげにすることもなく、穏やかな言葉をかけてくれた。

 優しさに満ちたその声音に僕は――。


 ……うん?

 ちょっと待って。


「アトラス……海岸……?」


 僕は助けてもらったお礼も何も言わぬまま、まず聞き慣れない地名に疑問符を浮かべた。


「はい。アトラス公爵領の東に広がる、アトラス海に面した砂浜ですよ」

「アトラス、公爵領?」

「あら、アトラスをご存知ありませんか? 大陸の南東に位置する、アルバーナ連合の一角を担う公爵領ですよ。豊かな自然と海に囲まれた、美しい土地です」


 少女は尚も笑顔で教えてくれる。

 だけど僕には彼女が何を言っているのかさっぱりだ。

 そもそも、アトラスだのアルバーナだのという地名は聞いたことがない。


「ちょ、ちょっと待って。ここは、ヨーロッパなの?」


 混乱した僕は取り敢えず、名前から予想される大体の場所を訊ねてみた。

 川に落ちてヨーロッパまで流されるなんて話は聞いたことがないけど、そんなことも考えられないくらいに混乱してしまっていたんだ。


「ヨーロ……? ごめんなさい。貴方の言う地が何処なのかはわかりませんが、取り敢えずアトラスはそのような呼ばれ方はされていないと思います」


 彼女の方も困惑したのだろう。

 苦笑いになりながらも、丁寧に答えてくれる。


「そんな……。それじゃあ僕はいったい……」


 頭を抱えて唸る僕に、少女は少し真面目な表情になって訊ねてくる。


「貴方は、どちらからいらしたのですか?」

「えっと、山梨から」


 ダメもとで出身県を答える僕だけど、案の定彼女は首を傾げた。


「ヤマナシ? すみません、私は聞いたことがありませんね。クライスはどうですか?」


 彼女は斜め後ろに控えて立っていた男に、軽く振り向いて訊ねる。


「いえ、私も聞いたことがありません」

「そうですか……」


 残念そうに俯く少女。

 そんな彼女とは対照的に、僕は焦りの色を浮かべ始めていた。


「じゃ、じゃあ、日本、もしくはジャパンならどうかな?」


 国名なら或いは、とも思った僕の期待は、やはり叶わなかった。


「ごめんなさい、私は……」

「私も、聞き覚えはありませんね」


 少女も男も、揃って申し訳なさそうに首を横に振る。


「そんな……」


 二十一世紀現在、地球上で日本を知らない国はないだろう。

 世界中のどこへでも日本の観光客は進出しているし、日本の製品は輸出されている。


 そんな日本を知らないなんて、このアトラスという場所はいったい……。


「どうやら、貴方は遠い異国の地からいらしたようですね。もしかしたら、何かの事故で流されて海を渡ってきたのかも」


 少女は真剣な表情で僕に語りかけてくる。

 対して、僕は半ば放心状態になりながら、そんな彼女の言葉を聞いていた。


「どうでしょうか。貴方が故郷に帰る方法が見つかるまで、この屋敷に滞在していかれては?」


 言葉の最後に、彼女は笑顔になって軽く首を傾げる。

 そんな彼女の後ろでは、男の方が僅かにムッとしたようだったけど、特に何も言ってはこなかった。


 どうしようかと、混乱する頭で少し悩んだ。

 今すぐここを出て日本に、家に帰る方法を探すべきなんじゃないか、と。

 でも頭の片隅から、宿はどうするのか、この何処かもわからない土地で何か当てがあるのか、なんて言葉が響いてくる。


 悩んだ末、当てがあるわけでもないし、すぐに帰れそうにもないだろうなとも思い、彼女の提案を受け入れることにした。


「それじゃあ、しばらくお世話になろうかな」


 どうにか苦笑いを浮かべて答えた僕に、少女は両手を合わせて満面の笑みを浮かべる。


「よかった! 私はティアーク=アトラステアと申します。ティアと呼んでくださいね」

「ティアーク様! それは……」

「いいのですよ、クライス。それで、貴方のお名前は?」


 ティアークと名乗った少女は、少し興奮した様子で僕の名前を訊ねてくる。


「僕は、入谷千尋です」


 名・姓の順に答えようかとも思ったけど、結局、僕は日本式の名乗り方を選んだ。


「イリヤチヒロ……。不思議な響きですね。イルドランの方の名前に近いですけど違う。なんとお呼びすればよろしいですか?」


 ティアは少し考えるような素振りを見せた後、やや食い気味に、顔を寄せて訊いてくる。


 僕はまたも近づいてきた彼女の整った顔立ちに、軽く赤面して答えた。


「じゃあ……チヒロで」


 何故名前で呼ばれることを求めたのかはわからない。女性的なこの名前を嫌っていたはずなのに。

 だけど、何故か苗字で呼ばれることには抵抗があったんだ。

 理由は自分でもよくわからないけど……。


「チヒロ……。ふふ、いい響きですね」


 でもそんな疑問は、ティアの笑顔を見て吹き飛んでしまった。

 僕の口元も、思わず緩んでしまう。


 僕とティアが笑い合っていると、それまで彼女の後ろに控えていた男が前に進み出て膝を折り、目線を合わせて名乗りを上げた。


「私は、アトラス公爵家近衛騎士隊隊長、クライス・リューデンと申します。城内におけるチヒロ殿の身の安全は私が保障いたしますので、どうぞごゆるりとご滞在ください」

「ありがとうございます。お世話になります」


 近衛騎士とか身の安全とか、気になることはいくつかあったけど、お世話になる身だ。

 失礼のないように、丁寧に頭を下げる。


「ふむ。初めはどこの放浪娘かと思いましたが、なかなか礼儀を弁えられたご令嬢のようですね。これまでの対応、大変失礼いたしました」


 恭しくお辞儀を返すクライスさんだけど、僕はそんなことよりも彼の言った『放浪娘』とか『ご令嬢』とかいう表現に引っかかってしまった。

 どうやらこの人にも女性だと勘違いされてしまったらしい。


 しかし、それを僕が指摘する前に、ティアがジトーっとした目を向けて彼を咎める。


「クライス、何を勘違いしているのかしら?」

「……はて、何のことでしょうか?」


 彼は言われてもまったく気が付かないようだ。

 久しぶりに、少し悲しくなってきたな。


「あなた、チヒロを女の子だと思っているのかしら?」

「違うのですか?」


 恐る恐るといったように、彼は僕へ訊ねてくる。

 未だジトーっと彼を見つめるティアと同じように、僕もクライスさんへ軽く非難の視線を浴びせながら答えた。


「……僕は男です」

「っ!? これは、大変失礼いたしました!」


 そう言って謝罪するクライスの焦りようはかなりのもので、僕は思わず苦笑いになってしまった。

 ティアの方は、焦る彼を見てくすくすと笑っている。


 それから何度も謝ってくるクライスさんを宥めて、僕はずっと笑い続ける少女に顔を向ける。


「ティアさんは、僕が男だとわかってたの?」

「ティアでいいですよ。私は一目見たときから、チヒロが男性だとわかっていました。確かにチヒロは女性的な顔立ちをしていますが、私はすぐにわかりましたね」

「へえ、珍しいね。だいたい間違えられるのに」


 というか、初見で男だと認識してくれていたのは彼女が初めてではないだろうか。

 高校ではもとより、小学校でも中学校でも、自己紹介をするまでは女の子だと思われているのが常だったんだ。

 極稀に、自己紹介をしても女の子だと疑われることすらあったくらいだし。


「ふふ。どうしてでしょうね」


 ティアは、そんな風に笑みを浮かべ、確かな答えを返してはくれなかった。







 こうして、僕は地球上には存在しない地へと流された。


 そう、異世界に遭難したんだ。




 日本へ帰る方法も、そもそもどうやってこの世界へ来たのかもわからない。


 だけど幸運にも僕は、遭難後最初にこの世界での宿を得ることに成功したんだ。




 これからどうするかは、ゆっくりと考えればいい。


 いずれは家に帰ることができるだろうし、焦っても良いことはないのだから。




 ただ一つ、気掛かりがあるとすれば、


 両親や妹、そして裕香さんに心配をかけてしまっていること、かな。



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