第九話 公爵の帰還
お待たせしました。本日から更新再開します。
二章は全七話の予定です。
六の月の十五日。
アトラス領を襲った盗賊襲撃事件から一月半が経った。
医者から言い含められた静養期間をご主人様となったティアの命令で一週間延長し、体調をすこぶる万全なものに戻した僕。
復帰して以降のこの二週間、僕は騎士隊の訓練に参加し始めていた。
毎朝二刻半(五時)に起きて身支度と準備体操をし、三刻(六時)の鐘の音と共に始まる走り込みの列に並ぶ。
早朝の涼しい空気に包まれた街の中を半刻ほど走り続け、足がふらふらになった頃にお屋敷に戻るんだ。
一旦騎士の人たちと別れてティアと一緒に朝食を摂り、またすぐに戻っては素振り、剣の型の練習、筋力トレーニングと、かなりハードな午前中を過ごすんだ。
厳しい訓練だろうと予想はしていたけど、案の定僕はその厳しさに打ちのめされ、最初の一週間は筋肉痛との戦いだった。
だって、初日のそれも早朝からいきなり十キロの長距離ランニングなんだよ?
素振りは肉刺が潰れても中止できないし、筋トレは腕が上がらなくなるまで続くしでもうボロボロだよ。
ケビンとか、これを苦も無くこなして午後もしっかり働けるんだから凄いよね。
午前中はそんなハードな訓練をして過ごすけど、午後は少し余裕が出来る。
この国の騎士団は訓練、勤務、休息を三交代で回しているから、訓練は一日の三分の一だけなんだ。
内容がかなり厳しめなのはその所為でもあるみたい。
午後はいつも、街を歩いて過ごしている。
お屋敷を出て坂を下り、街の色々な場所を見て回るのが最近のマイブームなんだ。
活気のある商店街や静かな公園、美味しい匂いのする料理屋の前を通ってアトラスの街を散策している。
そうそう、怪我から復帰して訓練に参加するようになって以降、クライスさんは僕にお給料をくれるようになったんだ。
曰く、「この街のため、ティアーク様のために勤めているのだから、報酬を与えるのは当然のことだ」ということらしい。
公爵家の臣下になってからクライスさんの態度は変わって、これまで客人として接してきた僕に厳しい言葉を投げかけてくることも増えた。
だけど僕はそれを嫌だとは全く思わなかった。
寧ろ年上で上司になったクライスさん改め隊長の妥当な言葉遣いが、今はすごくしっくりきている。
ともあれ、一日に一刻半(三時間)だけ与えられた自由時間を、僕は貰った給金を手に街を巡って過ごしているんだ。
色々な美味しいものを食べて、気に入った服を買ったりして、楽しく日々を過ごしていた。
あ、ティアとも一緒に出掛けたりすることはあるよ。
でもその場合、僕はもう彼女と気安い口調で話すことは出来ないんだ。
だってティアはもう僕にとってご主人様なんだから。
公の場では彼女のことを「ティアーク様」って呼んでいる。
初めティアは僕がそう呼ぶことに心底嫌そうな顔をしていた。
これまで通りティアでいいと、何度もお願いされた。
でも、そういうわけにはいかないんだよね。
家臣のはずの僕が主人を呼び捨てにだなんて、誰かの目があるところで出来るはずがないよ。
まあ、二人きりの時には僕が折れちゃうこともあるんだけどね。
夕方になると、僕はお屋敷に戻ってクライスさんの特別授業を受けることになっている。
ケビンとか騎士隊の人たちは皆勤務に励んでいる時間だけど、僕の肩書はあくまで『軍師見習い』であって『騎士見習い』じゃない。
だから僕の本来の仕事はここから始まると言っても過言じゃないと思う。
お屋敷の二階の一室、書庫と扉の札に書かれた部屋で、僕はクライスさんとマンツーマンで勉強に励む。
この大陸の歴史、部隊を指揮する心構え、そして敵軍と戦うときの軍略を、厳しい口調の隊長から徹底的に教え込まれるんだ。
初めてこの講義を受けたとき、クライスさんの口から語られた話には胸を打たれたな。
「チヒロ、君はこれから軍師となるべく学んでいくことになる。いずれは戦に赴くことになるかもしれない。君にその覚悟があるか?」
「はい!」
隊長の真剣な眼差しを受けて、僕は強く頷いた。
先日ティアの手を取って誓いを立ててからというもの、僕の決心は揺らいでいない。
「結構。ではまず、君に一つ質問をしよう」
「質問、ですか?」
「そうだ。君は、軍師にとって最も大切な要素は何だと思う?」
隊長の眼差しは真剣そのもので、僕も真摯に向き合わなくてはという気持ちになる。
軍師にとって最も大切な要素――。
なんだろう。
必要そうな能力といえば、判断力、決断力、観察力、賢さ、慎重さ、かな。
でもどれも似たり寄ったりな気がする。
一番大切かと訊かれると自信を持ってそれだとは言えないかも。
「……慎重さ、ですか?」
結局、僕は思いついた中の一つを口にした。隊長は目を閉じて頷く。
「慎重さ……それも大切だろう。だが、最たるものではない」
やっぱり違った。
でも大きく外れたわけでもないみたいだ。
再び目を開き、クライスさんは穏やかに言った。
「軍師にとって最も大切な要素は、『怖れること』だ」
「『怖れること』……ですか?」
予想外な答えだった。
だって、恐怖心なんて無い方がいいと思っていたから。
でも、隊長は頷いて続ける。
「敵を怖れ、失策を怖れ、不備を怖れ、罠を怖れ、敗北を怖れ、そして死を怖れる。あらゆる不測の事態を怖れ、二重三重に予防線を張る。怖れを忘れず、怖れに立ち向かうことを止めないことこそ、軍師に必要不可欠な要素だ」
その話を聞いた僕は、なんというか目から鱗が落ちた気分だった。
軍師とは時に苛烈な、時に非常な決断を迫られるものだとばかり思っていた。
もちろんそういったことが毎度というわけではないんだろう。でもそんな決断が僕にできるのかと、内心すごく不安だったんだ。
僕はやっぱり臆病だから。
だけど臆病でいること、恐怖を感じてしまうことは必要な事なんだって言われて、なんだかすごく腑に落ちた感覚だった。
立ち向かっていけるのなら、恐怖を感じる心は必要だって言われて安心したんだ。
僕にでも、やれるかもしれないって。
「チヒロ、君は怖れることを誰よりも知っている。戦いというものの怖さも、人を斬ることの怖さも、死が迫る怖さも、この短い間に体感したはずだ」
「……はい」
数日間塞ぎ込むきっかけとなった一連の事件を思い出す。
あのとき感じた恐怖や血の匂いは、今でもはっきりと記憶に残っていた。
「その経験は間違いなく君の血肉となっているはずだ。そうだろう?」
「はい」
盗賊の男を前に怖くなり、脚が震えたのを忘れてはいない。
あの痛みと怖さを、二度と味わいたくはない。誰にも味わって欲しくない。
「君は怖れていい。怖れ、警戒し、あらゆる可能性に注意を払え。それが軍師の務めだ」
クライス隊長の眼を真っ直ぐに見つめ返して、僕は全身全霊で頷いた。
「はい!」
「よし、良い返事だ。ではこれより講義を始める。しっかりと励むように」
軍師となるために初めて教えられたことを、僕は胸にしっかりと刻み込んだ。
これから先、色々なことを学んでいくうえで一番の根幹になることを、このとき僕は肝に銘じたんだ。
それからというもの、僕はこれまでにないくらい勉強した。
高校受験の時よりも張り切ったんじゃないかと思う。
費やす時間的にはそれほど長くはないけど、一日二刻のこの時間、僕は今までになく集中して学んでいったんだ。
そんなある日のこと。
このとき、僕はようやく慣れてきた早朝の走り込みを行っていた。
ようやく慣れだしてきた長い道のりを、自分のペースで走る。
急がなくてもいい。だが立ち止まるな。
そう教えられて、僕は自分にできるだけのペースで走っていたんだ。
さすがに騎士団の先輩たちは走るのが速くてあっという間に取り残されてしまうんだけど、それでも僕は無理してついていくことはせずに自分のペースを守っていた。
走り込みのコースもおよそ七割が過ぎて、段々と気分的に楽になってきた頃、馬が石畳を蹴る音が僕の背後から聴こえてきた。
それも一つではなく、すごく沢山。
誰だろう。この道の先にはお屋敷しかないんだけどな。
道の端に避けて、僕はちらっと振り返ってみる。
「騎士団……?」
後ろから駆けてきた沢山の騎馬には、銀色の甲冑を身に纏った騎士が跨っていた。
全員の鎧には所々傷が走り、中には兜や籠手を失っている人もいる。
おかしいな。
街の騎士団員は皆それぞれの仕事に励んでいるはずなのに。
それにこんな傷だらけになっているなんて、まるで戦いに行ってきたみたいな……。
続々と僕を追い抜いていく騎士たち。
何人かが走る僕に気が付いて興味深げな眼差しを送ってくるけど、誰も声をかけてくることはなかった。
と思っていたら――。
「そこの君」
ふと、斜め後方から声をかけられた。
僕は咄嗟に脚を止める。
声の主はあっという間に側まで来ると手綱を引いて速度を落とし、すぐ隣に馬を止めた。
僕は唖然として、馬上の影を見上げた。
なんというか、すごくかっこいい人だった。
短く刈り上げた金の髪に端正な顔立ち。
騎士の銀鎧を纏い、他の騎士と違って群青色のマントをなびかせている。
日本のRPGに出てくる主人公みたいな人だ。
年はいくつか上だと思うけど、不思議と近寄り難い雰囲気は感じない。
というより寧ろ誰かに似ているような……。
「君、今この道を走っているということは、騎士の訓練中なのかい?」
ぼーっと考えていた僕は、その人の言葉で我に返る。
「あ、はい。そうです」
我ながら気のない返事になってしまった。
けど、馬上のお兄さんは特に気にした様子も無く質問を続けた。
「突然で不躾だとは思うが、君は若い女の子だろう? そんな君がどうして騎士に?」
何気ない問いかけだったけど、女の子に間違えられたことで少しムッとしてしまった。
「僕は男です。女の子ではありません」
「男? そうだったのか。これは失礼した」
ちょっと不機嫌な顔でそう言うと、彼は素直に謝罪をしてくれる。
どうやら見た目通りの良い人みたいだな。
なんてことを考えていると――。
「だが男なら尚更だ。君のようなひ弱な者は騎士に向かない。相応の覚悟がないならば、今すぐに騎士を辞めろ」
「えっ?」
なんだかとんでもないことを言われた。
「君は今、訓練中の他の騎士よりも早くここまで来たのか?」
「い、いえ、大分離されてしまっています……」
「やはりそうか。では見込みは無いな。辞めた方がいい。君に騎士は向かない」
なんなんだろう、この人は。
いきなり近寄って来て向いてないとか辞めろとか。
ちょっと失礼過ぎなんじゃないかな。
「いえ、でも僕は……」
反論しようとして、涼しい顔で僕を見下ろすこの人を強く見つめる。
だけど食ってかかろうとした瞬間、また別の騎馬が近付いて来て遮られた。
「リーアン、どうした?」
お兄さんと同じ金髪だけど、だいぶ違う印象のおじさんだった。
少し長めに伸ばされた髪はハッキリ言ってボサボサ。
無精髭は手入れをしているようには見えず、言葉の感じもちょっと荒っぽい。
でも、この男の人にはなんというか貫禄があった。
頬の切傷は歴戦の勇士を思わせ、顔つきや身体つきもがっしりしていて頼もしく見える。
そして、理由はわからないけど妙に惹きつけられる雰囲気を放っている気がした。
「父上。いえ、この少年が騎士の訓練を行っていたようなので、話を聞いていました」
お父さん?
このおじさんが、このお兄さんの?
思わず驚いてしまうほど、二人は似て非なる印象だったんだ。
片や真面目な優等生。
片や豪気で奔放な親分。
そんな感じだろうか。
「ん? 少年、見かけねえ顔だな。新入りか?」
おじさんは面白いものを見たというような表情になって訊ねてくる。
そこに奇異の物を見る色は全く見受けられない。
僕は二人から見つめられてなんだか緊張を感じながらも、おずおずと自己紹介をした。
「はい。チヒロと言います。二週間ほど前からティアーク様の傍付き兼軍師見習いとして、公爵家にお仕えさせていただいております」
お兄さんの誤解を解くためというわけではないけど、「軍師見習い」の部分を心なし強調して名乗る。
一度頭を軽く下げ、それからもう一度上げたとき、頭上の二人は対照的な表情になっていた。
「君が……ティアの傍付き……」
「ほう。お前さんが例のチヒロか。なかなか面白そうな少年じゃねえか。ティアのやつも見る目があるな」
青年の方は驚愕と少しの怒り。男の人の方は感心と興味かな。
おじさんの不気味な台詞はともかく、お兄さんは少し怖いんだけど。
でもあれ?
「ティア」って……呼び捨て?
「あ、あの……お二人はいったい?」
そこはかとなく嫌な予感を感じながら、僕は恐る恐る訊ねてみた。
お兄さんは据わり始めた目で僕を睨んだままだったので、おじさんが「ハハハ」と笑いながら一言、簡潔に教えてくれる。
「悪い悪い。初めてじゃ判らねえか。俺はこのアトラス領の領主、ユージーン=アトラステアだ。少年がうちに仕えるってことは、お前さんはうちの家族ってわけだ。よろしく頼むぞ、チヒロ」
「……僕はリーアン=アトラステア。アトラス公子だ。僕の留守中、妹がお世話になったそうだね。取り敢えずお礼を言っておくよ」
……嫌な予感、的中しちゃったよ。
おじさんこと公爵様の温かい言葉と、冷たい眼差しの公子様の御言葉を頂いて、僕はもうどうしたらいいかわからなくなった。
「あ、えっと……これはあの、大変な失礼を! 申し訳ありません!」
「ハッハッハ。まあ、気にするな」
慌ててもう一度頭を下げた僕を、ユージーン様は豪快に笑って許してくれる。
公爵というくらいだからキッチリした人なのかと思っていたんだけど、良い意味で予想を裏切られた印象かな。
すごく親しみ易そうな人だ。
「君の仔細については、後でゆっくり話を聞こう。僕たちは先に屋敷へ戻っている。君はしっかり訓練をやりきるように」
リーアン様は眼差しこそ冷たいものの、基本的に親切な人みたいだ。
話もちゃんと聞いてくれるみたいだし、さっきは騎士に向いてないだとか言われたけど、やる気に関しては認めてくれている。
まあ、どうして僕に対する態度が冷たいのかは全く判らないんだけど……。
公爵のユージーン様と公子のリーアン様。
二人は揃って馬を走らせ、道を駆けていた騎士団の丁度最後尾に付いて、屋敷の方へ向かっていった。
唖然と彼らを見送った僕は、自分が走り込みの途中だったことを思い出し、急いで残りの道のりを走っていった。
この後改めて対面するだろう二人のことを考えると自然に脚の回転は速くなってしまい、結果いつもより若干速くお屋敷に戻れた。
その代償に息は上がって、最後の坂を駆け上った所為で膝はガクガクだったけどね。
―――
お屋敷に戻って軽く水を浴び、全身の汗を流した後、僕はお屋敷のダイニングへ向かっていた。
ダイニングとは言っても、そこは貴族たる公爵様が食事を摂る場所。
天井は遥か高く、片側に十人は並べそうな長く大きなテーブルが中央に鎮座している。
季節柄、暖炉こそ焚かれてはいないけど、部屋に飾られている調度品はどれも高価な物ばかりだそうだ。
「失礼します。チヒロ、ただいま参りました」
扉を二度叩いてから呼びかける。
お屋敷に入った際、玄関扉の前で侍女さんの一人から言付けを貰ったんだ。
「公爵様がチヒロさんをお呼びです」ってね。
正直、僕は緊張していた。
ちょっと前に挨拶はしたけど、何か粗相をしていなかったか、失礼なことは言っていないか、追い出されたりしないか、なんて、色々な心配が浮かんできちゃったんだ。
そして僕の緊張は、扉の向こうから返ってきたユージーン様の声でさらに高まってしまった。
「おう、入っていいぞ」
ぶっきらぼうな声に、一瞬体が震える。
公爵様が気さくそうな人なのはさっき会って知っていたけど、だからといって緊張しないわけじゃない。
「……失礼します」
僕は膝が笑っているのを自覚しながら、もう一度そう言って内開きの扉を開いた。
「よく来たな。ご苦労さん」
「チヒロ、お疲れ様です」
入るなり、ユージーン様とティアから労いの声がかけられる。
不覚にも、ティアの笑顔を見ただけで安心して少し落ち着いた心地がした。
ただ、リーアン様はやっぱりちょっと冷たかったけど。
「訓練なのだから、もう少し早く走るべきだけどね」
「す、すみません……」
走るのが遅いのは事実なので何も言えない。
実際、もう少し自分を追い込んだ方がいいのかもしれないしね。
余裕が生まれたなら、更に上を目指すべきなんだろうから。
なんて感じに粛々と反省していると、向こうではティアーク様がお怒りになられていた。
「お兄様! チヒロはまだ訓練を始めたばかりなのです。少し厳しすぎるのではないですか?」
その剣幕は結構厳しいもので、お兄さんは妹の迫力にたじろいでしまう。
「しかし、騎士の訓練をするのであればそれなりに気を入れて……」
「チヒロは騎士になるために訓練を積んでいるのではないです。軍師として必要最低限の体力を付けるためにと、自ら進んで訓練をし始めたのですよ?」
え、あの……ティア?
そういう意気込みみたいなのは恥ずかしいからあんまり言い触らさないで欲しいんだけどな。
「だが、彼のような少年に騎士団の参謀役を任せるなど……」
「お兄様にチヒロの何がわかるのですか! たった今会ったばかりだというのに!」
リーアン様の漏らす苦言にティアが噛みつく。
「大体、お兄様はいつもいつも私の人選を否定しますよね。いい加減に子ども扱いは止めてください!」
「なっ!? 僕は君のためを思って言っているだけだぞ」
「それはお節介と言うのですよ。お兄様はそろそろ妹離れしてください」
「べ、別にそういうわけじゃない。ただ、やっぱり家族のことは心配だから……」
「それが妹離れできないというのですよ!」
その後も兄妹二人の言い争い(妹が一方的に攻撃している)は終わりが見えず、僕はどうしたらいいのかわからずに苦笑いで立ち尽くしていた。
二人のお父さんも呆れたように首を振ってため息を吐いている。
でも言い争う二人を見ていると、なんだか妹の千里のことを思い出すな。
僕たちもくだらないことでよく喧嘩してたっけ。
なんだかもう遠い昔のことみたいに感じるな……。
と、僕が人知れず郷愁に胸を震わせていると、さすがに見かねたユージーン様が二人に喝を入れた。
「お前たち、仲が良いのは結構だが、いつまで新入りを待たせるつもりだ? チヒロもいい加減呆れてるぞ?」
「いえ、僕は別に……」
ダシにされたと気付いて慌てて否定しようとする僕だったけど、ティアもリーアン様もハッとして振り向くと、罰の悪い顔になってしゅんとしてしまった。
「あ、チヒロ、ごめんなさい。少し頭に血が上ってしまって」
「待たせてしまってすまない。見苦しいところを見せたね」
兄妹二人は揃って頭を下げ、素直に謝罪してくる。
「いえ! 気にしていませんので、お顔を上げてください!」
ご主人様とそのお兄さんに頭を下げられるなんて、滅相もないよ。
ティアとリーアン様はすぐに顔を上げた。
それからティアは軽く頬を紅潮させながらお兄さんを睨み、リーアン様は苦笑いを浮かべて妹の視線にたじたじになっている。
二人の様子を見ていて、僕はなんだか理解してしまった。
ティアもリーアン様も、久々に顔を合わせられたのが嬉しいんだって。
それもそうか。二人は兄妹なんだから。
ティアはちょっと素直じゃないけど、二人とも大事な兄妹の無事が嬉しいんだろうな。
「チヒロ、どうかしました?」
「いえ、なんでもありません」
きょとんとするティアを見ていると、なんだか自然に笑みが浮かぶ気がした。
ただ穏やかに、達観したように微笑む公爵様には、僕の思ったことはお見通しなんだろうな。
「ゴホン。さて、チヒロと言ったかな。君をここに呼んだのは、君の処遇について話すためだ」
気を取り直すように、リーアン様が軽く咳払いをする。
多分、ここまでのやり取りを無かったことにしたいんだろう。
僕も気を引き締め直して、彼の語る言葉に耳を傾けた。
「ティアやクライスから話は聞いている。先日の盗賊襲撃事件において、君は妹の命を二度も救ってくれたそうだね。改めて礼を言うよ。ありがとう」
「いえ、咄嗟に体が動いただけですから」
ティアのことを言うときだけ、リーアン様の表情は本当に優しいものになった。
ほんと、この人はティアのことが大好きなんだな。
ふと思ったんだけど、この世界にも「シスコン」みたいな言葉はあるのかな?
「それで事件の後、ティアは君の観察力を買い、軍師見習いとして登用することにしたと聞いたのだけど……」
「チヒロの観察力や洞察力は本物ですよ。遠目から盗賊を見分けたり、瞬時に作戦を閃いたり、間違いなくチヒロには素質があります」
お兄さんの話に、ティアが口を挟む。
いつも思うんだけど、ティアは少し僕を過大評価し過ぎなんじゃないかな?
期待されてるのは素直に嬉しいと思うんだけどさ。
「だが、それだけで有用な人材になるかどうか判断するのは軽率なんじゃないか? それにあろうことか君の傍付きまで兼ねるだなんて」
「チヒロは私に仕えるんですから、私の傍にいるのは当然じゃないですか」
「いや、しかし、年頃の娘の傍らに同年代の少年が立つなど……」
「ですから、お兄様はお節介なのです。私の従者なのですから、私に決めさせてください」
「それとこれとは別だろう? 僕は彼が信用に足る人物なのかどうかを……」
またしても、当事者の僕をそっちのけで口論になってしまう兄妹。
ほんと、仲が良いんだから。
「お前たち、いい加減にしろ。話が前に進まねえ」
もう呆れきったかのようなため息と共に、ユージーン様の窘める声が耳に届く。
またしても「やってしまった」というような表情で黙り込む二人。
なんだかもう、苦笑いしか浮かんでこなかった。
「ハァ……。で、チヒロ」
静かになったところで、公爵様がため息と共に呼びかけてきた。
どうやら一向に進まない進行役の息子をクビにして、自ら話を進めることにしたらしい。
心中お察しします。
「お前さんがティアの窮地を救ってくれたってのは話で聞いた。そんときの活躍を買って、ティアとクライスがお前さんを軍師にしようと招いたというのも耳にしている」
端的に、簡潔に話を進めるユージーン様。
荒っぽいけど、中身は実直な人らしい。
「そこでだ。お前さん自身、このアトラス公爵家で励み、学ぶ意志はあるか? 苦難があると知りながら、努力を重ねていく覚悟はできているか?」
真剣な眼差しで、公爵様に訊ねられる。
僕は姿勢を正してできる限りの意志を視線に乗せ、ユージーン様の目を真っ直ぐに見つめ返した。
そしてクライスさんにも返した答えを、同じようにハッキリ口にする。
「はい。僕に出来得る限り、精一杯務めさせていただきます」
彼は僕が答える間じっと見つめてきていたけど、やがてニッと口元を綻ばせた。
「よし、ならいい。ティアのことをよろしく頼む」
「父上!?」
「はい!」
驚くほどあっさりと公爵様は僕を受け容れてくれた。
微塵も疑われている印象は受けないし、なんだか嬉しくなるな。
リーアン様の驚愕の声はティアもユージーン様も無視しているし、僕も気にしない方がいいのかな?
「父上、何故ですか。素性もまだ判らないのに……」
と、やっぱりリーアン様がお父さんに異論を挟んだ。
僕もお兄さんの言う通りだと思うし、寧ろ簡単に信用してくれるティアやユージーン様の方が珍しい気がするんだけどな。
「リーアン、細かいことは追々考えていきゃいいんだよ。この少年はお前の妹の命を救った。二度も、だ。それだけじゃあ信用するのに足らねえのか?」
ユージーン様は諭すように息子へ語る。
「……いえ、十分信用に足る人物だと思います」
「だろう? 話してみりゃあ、素直で頭の回る優秀な少年じゃねえか。それだけ判ってりゃあいいんだよ」
結構細かく視られていたんだなと、僕は感心した。
どうやらこの公爵様はさっきの一幕をただ黙って眺めていたわけじゃないみたいだ。
さすがはティアのお父さんだなと、すんなり納得できた。
リーアン様はまだ少し何か言いたげだったけど、それ以上口を開くことはなかった。
でもすぐに信用してもらえるはずもないよね。
これから先は、僕自身の努力でリーアン様の信用を勝ち取らなきゃいけないんだと思う。
「お父様、ありがとうございます」
話が一段落したところで、ティアもお父さんに笑みを向けお礼を口にした。
するとお父さんの方は不敵に笑って応える。
「いちゃつくのは程々にしておけよ? 他の家臣たちに示しがつかねえからな」
「お、お父様!?」
「ハッハッハ」
真っ赤になって叫んだティアに、公爵様は大声で笑った。
なんというか、娘のことはお見通しらしい。
僕はまたも冷たい眼差しを送ってくるお兄さんを見ないようにしながら、唯々苦笑いを浮かべていることしかできなかった。