プロローグ
人は、自分の生まれを選ぶことができない。
それはどんな人間にとっても当たり前で、悩むことすらない人もいるだろう。
気付くことすらない人もいるかもしれない。
悩んでも仕方ないことだと、早々に諦める人も多いだろう。
だけど、僕にとってはどうしようもないくらいに悩ましく、諦め難い問題だ。
僕、入谷千尋は、自分の生まれに不満を持っているのだから。
ところで、言わなくても判ってくれていると思うけど、僕は男だ。
もしここに、僕のことを『一人称が僕な女の子』だと思っていた人がいるなら、残念だけど僕はその人と仲良くはなれないと思う。
この『千尋』という女の子のような名前は、僕のコンプレックスの一つなのだから。
そしてもう一つ、コンプレックスとなっているのが僕の容姿、つまり顔と身体つきだ。
正直自分で言うのも嫌なんだけど、僕は女顔だ。
中性的ではなく女顔。
妹の言葉を借りるなら、ボーイッシュな女の子という印象らしい。
最早男ですらない。
さらに僕は、体格もそれほどいいわけではない。
身長は同年代の男子の平均よりも五、六センチ低く、筋肉量も少なめ。
身体つきの判りづらい服装でいると十中八九女の子だと間違われるほどだ。
街で年上の男にナンパされたこともある。
そんな、女性でも通じる名前と女性にしか見えない容姿の所為で、僕は小中学校時代よくクラスメイトに弄られてきた。
いじめでないことは判っていたし、暴力的なことはされなかったので酷いとは思わなかったのだけど、女子更衣室や女子トイレに押し込まれるのだけは嫌だったな。
えっ?
そんなに嫌な事かって?
そりゃそうだよ。
だって背中を押してくる男子よりも、中で女の子たちにセクハラ紛いのことをされる方が嫌だったんだから。
女物の洋服を着せられたり、女子制服着せられたりね。
あれは辛いよ……。
男としてのプライドなんて簡単に打ち砕かれるからね。
とまあ、そんなこんなで僕は、すっかり自分の名前と容姿が嫌いになってしまったんだ。
「出来ることなら生まれ変わりたい」と願うくらいにね。
まあ、そんなことを言っていても、現実に生まれ変わることなんて出来やしない。
だから僕は取り敢えず、小中学校の馴染み連中から離れるように、少し遠くの高校を受験したんだ。
入学前には髪を短く切って、少しでも男っぽく見えるようにして。
でも、そんな僕の努力は、意外な形で裏切られることになった。
2013年4月20日土曜日。
この日、僕の運命は大きく変わったんだ。
女性的特徴以外は至って平凡な高校生だった僕はこの時まで、入学したばかりの高校での生活を毎日楽しんでいた。
最初の自己紹介でこそ少し驚かれはしたけど、必死のアピールの甲斐もあって概ね男として受け入れられたんだ。
小中学校の面々と別れたことも大きかったと思う。
色々な努力が実を結んで、僕は自分のコンプレックスを克服しつつあったんだ。
高校での三年間は、ちゃんと男子として全うできるかもしれないと思うほどに。
だけどそんな順調な日々の中、この日訪れた地で僕はまるで漫画やゲーム、小説の中の様な事態に遭遇したんだ。
誰にも予想できない、非現実的な事態にね。
―――
この日、晴れて県内有数の進学校に入学することができた僕はハイキングに来ていた。
クラス内の親交を深めるという目的で企画されたこのハイキングは、席順で決まる四人一組の班ごとに、小さな山の山頂を目指すというシンプルなものだ。
なんでもこの企画を打ち立てた教師は大の登山好きらしく、曰く「一緒に山を登った仲間程、頼れる者達はいない」ということらしい。
その教師は初め富士山への登頂を提案していたらしいのだけど、素人集団をいきなり富士山に挑ませるなど無謀が過ぎるということで、学校から近く登りやすい山に決まったのだそうだ。
正直、体力のない僕にとっては山登り自体勘弁してほしいところだったけど、富士山に登らされるよりは万倍マシだ。
僕は大人しく、このハイキングに参加する意思を固めた。
この日の気象条件は最高だった。
四月も中旬となればそれなりに気温も高くなってきているけど、山の中は木陰のおかげか思った以上に涼しく、特に虫が気になるほど多いというわけでもなかった。
実に快適だったんだ。
差し込む陽の光は暖かく、木々の間を吹き抜ける風は涼しく心地いい。
足元の土もしっかりしているし非常に歩きやすい。
正にハイキング日和というものだったのだろう。
それに、道中はいいこともあった。
こんな一幕だ。
「ねえ、入谷君って、名前『千尋』君なんだよね?」
「うん、そうだけど」
「なんだか可愛い名前だよね。入谷君って見た目も可愛いし」
「そうかな……。ありがと」
屈託ない笑顔で語りかけてくる少女に、僕は素気なく返す。
『可愛い』というのは、僕が一番言われたくない褒め言葉だ。
斜め前を歩くクラスメイトの女の子、確か名前は新井裕香さんだったかな。
活発でオシャレな『ザ・女子高生』という印象の彼女は、僕と同じ十五歳でありながら大人びた雰囲気を持っており、入学して間もないにも関わらず学年で三指に入る美少女だと言われている。
少し茶色がかった髪をうなじのあたりでまとめ、揺れる髪の間から僅かに覗く白い肌がとても綺麗だ。
彼女はなだらかとはいえ一応傾斜のある山道を確かな足取りで歩きながら、器用に顔だけ振り返って語りかけてきた。
そこに、僕の素気ない返事を気にした様子はない。
「中学校のときの男の子って、騒がしいしエッチだし、少し苦手だったんだけど――」
新井さんは前に向き直り、後ろの僕に聞こえるように少し大きめな声で話している。
他の班員にも聞かれてしまう可能性があるのに、大胆なことだ。
「入谷君はいつも落ち着いているし、なんだか他の男の子とは違うね」
不意にもう一度僕の方へ振り返って、彼女は満面の笑顔で笑いかけてきた。
それは彼女にとって特に意図の無い笑顔だったのかもしれない。
誰にでも見せるような、そんな普通の表情だったのかもしれない。
でも、女の子にそんな普通の笑顔を向けられたことがあまりなかった僕は、一瞬で赤くなってしまった。
「そんな……中学ではよく「男らしくない」とか言われてたんだけどね」
自分でも頬が赤くなっているのを知りながら、僕は自嘲気味な苦笑いを浮かべる。
「そんなことないよ。素敵だと思うな」
だけど新井さんはひまわりのような微笑みを湛えて、また前に向き直った。
両手を腰の後ろで組み、軽く鼻唄を謡いながら歩き続ける。
そんな一連の動作は、今まで目にしてきた女の子の誰よりも可憐に見えた。
よく女顔と言われてからかわれてきた僕だけど、心は正真正銘の男だ。
学年トップスリーの美少女にこれだけのことをされて、何の反応も示さないわけがない。
「あ、ありがとう」
顔が熱くなっているのを感じながら、僕は控えめに、それでいてハッキリと彼女に聞こえるような声でお礼の言葉を述べた。
意図したものよりも少し上ずった声になってしまったけど、彼女はその辺には気付かなかったようだ。
寧ろどうしたことか、新井さんは突然立ち止まり、振り返って僕の顔を覗き込んできた。
ぶつかりそうになって慌てて目前で立ち止まる。
僕らの額の間には、拳一個分くらいの距離しかない。
そのまま数秒間、僕らはまっすぐ見つめ合っていた。
新井さんの黒い瞳は少しだけ揺れていて、吸い込まれてしまうような感覚に陥る。
少し前かがみになって僕をじーっと覗き込んでいた彼女は、ふっと微笑むと、顔を上げて徐に右手を差し出してきた。
「これからよろしくね。千尋君って呼んでいいかな?」
輝くような笑顔とは、この娘のものを言うのかもしれない。
可愛らしい少女の魅力的な微笑みは、背中越しに揺れる木漏れ日の光と相まってとても幻想的で、女の子の妖しくない笑顔に不慣れな僕の思考力をあっさりと奪っていった。
僕は働かない頭を動かして、無意識に頷く。
「あ、うん。よろしく」
これまで感じたことのない胸の高鳴りを感じながら、僕は彼女の手を握る。
柔らかくて、温かくて、その手を握っているだけで世界が輝くような錯覚を覚える。
いつまでもこの手を握っていたい――。
漠然とそんなことを考えるほどに。
「あ、あの、千尋君? そんなに見つめられると恥ずかしいよ……」
不意にかけられた言葉で現実に引き戻された。
我に返った目で見ると、新井さんは赤くなった頬を指で掻き、少しそっぽを向いて恥ずかしそうにしている。
まだ手は握り合ったままだ。
「ああ、ごめん!」
慌てて手を放し、謝罪する。
新井さんは頬を赤らめながら苦笑いを浮かべ、ゆっくりと手を引いた。
「ほんとごめん! その、笑った新井さんが可愛かったからついボーっとしちゃって……」
「ううん、大丈夫! ちょっと恥ずかしかっただけだから……」
僕が何度も頭を下げていると、彼女は両手を振って許してくれた。
不思議と頬は赤いままだけど、きっとさっきの恥ずかしさが残っているからだろう。
新井さんはふうっと息を吐くと、もう一度僕に目を向けた。
「ねえ、千尋君も私のこと、名前で呼んでよ! その方が私も嬉しいし」
それからポンッと手を叩いて、そんなことを提案してくる。少し上目遣いで。
「えっ、名前でって……その、裕香さん?」
彼女の言葉に狼狽えてしまった僕は、それが何を意味するのかも考えず、素直に彼女を名前で呼んでしまった。
直後、彼女からは嬉しそうな笑顔と声が返ってくる。
「うん! 千尋君!」
彼女に千尋君と呼ばれ、僕は彼女を裕香さんと呼ぶ――。
それは至極親しい者同士だけができる掛け合いなだけに、僕の頬は紅潮し、頭は茹で上がってしまった。
「こ、これはなんだか、くすぐったいような……」
「ふふふ。千尋くーん。なんだかすっごくいい響きだね!」
恥ずかしさに真っ赤になる僕と、同じように赤くなりながらも嬉しそうな裕香さん。
山道だというのにくるくると回ってまでいる彼女の姿に、僕は言いようのない予感を感じた。
何か、大きなことが起こるのではないかという予感を。
皮肉にも、それは嫌な予感として的中した。
嬉しそうにターンする裕香さんを、僕は微笑みながら見詰めている。
それが学校からの帰り道だったり、はたまた校内での光景だったならどんなに良かっただろうか。
でも今僕たちがいるこの場は山道。
最も足を踏み外してはいけない場所だ。
僕は視界の端で木の根が不自然な切れ方をしているのが目に入った。
注視しなければわからないくらいのものだったけど、どうしてかハッキリとわかったんだ。
それは軽やかにステップを踏む裕香さんの向こうで、今まさに彼女の片足が置かれようとしていた場所だった。
「危ない!」
咄嗟に、僕は裕香さんの腕を引く。
地面を踏みそこなった彼女の足が崖の淵を越えて沈む直前、彼女の体は僕の腕に引かれてこちら側に倒れ込んできた。
「きゃああ!」
悲鳴を上げて倒れ込む裕香さんを、僕は抱き止めてあげることができなかった。
最初に言ったように、僕は自分の生まれに不満を持っている。
自分の名前がもっと男らしいものであれば――。
女顔などと言われるようなものでなければ――。
そして、僕の体がもう少しでも大きく、彼女を支えられる程であれば――。
気付けば僕は、崖下に転落しそうになった裕香さんの代わりに宙を舞っていた。
斜面にも樹が生えている山では、比較的崖を見落としがちになる。
それでも、注意深く足元を見ていれば転落の危険性はほとんどない。
だけど僕らは少し油断していたみたいだ。
この場が山道だというのを忘れてはしゃいでしまった裕香さんも、それを止めることなく見ていた僕も。
だから、これは誰の所為でもない。
「千尋君!? 嫌あああぁぁ!」
崖淵に立って悲鳴を上げる裕香さんの姿を見上げながら、僕は崖下に落ち、斜面を転がり落ちていった。
やがて斜面に何度も叩きつけられた僕の意識は薄れていき、冷たい水の中に落ちたところで、完全に途絶えた。