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剣狼の覚醒

 建物に沿って歩みを進める。太陽は中天に達し、容赦ない陽光が放射されて肌を焼く。ほぼ無風状態のせいで体感温度は32度ってところだ。かすかな風に乗った塩素の臭いが鼻腔を刺激する。


 しばし歩くと広場と呼べるほどには開けた場所に出た。長方形の広場の二隅には申し訳程度の広葉樹が植えられている。柔らかく茂った下草は少し湿っていた。何故なら先ほど通り雨が降ったからだ。その地面をさくさくと小気味よい音を立てて踏みしめるは二人。


「それで何かな。体育館裏まで連れてきて、そんなに人に聞かれたくないのかな? 今からする話は」


 俺が広場の真ん中で立ち止まると同時に、背後から中性的な声で質問が投げかけられる。振り向くとそこにいるのはリア充こと赤宮総司だ。理知的な双眸には訝しげな色が浮かんでいる。話があるからついてこい、と言われれば当然の質問だ。


 俺はわずかに口の端を歪めて質問に答える。


「ああ、誰にも聞かれたくない話だ。俺とお前にとってな」


「どういうことかな?」


 赤宮は訝しげに眉をひそめ、続きを促す。赤宮の表情をつぶさに観察しつつ話を切り出す。


「お前も知ってると思うが、昨日俺は黒雪を一緒に帰ったんだ。巷で言う放課後デートってやつだな。夕暮れまで一緒にいた俺は頃合いを見て、黒雪を駅まで送り届けたんだ」


「ずいぶん唐突な話だね。それで僕を牽制でもしているのかな?」


 高い鼻梁に押し上げられたシルバーフレームの眼鏡が、陽光を一瞬反射してきらりと光る。レンズの奥の眦がすうっと細められる。1トーン低くなった声がなおも問いかけてくる。占めたと思いながら俺はゆったりとした口調で話しを続ける。


「駅まで送り届けたんだが、電車がまだ来ていなくてな。二人でベンチに座って待ってたんだ。そしたら黒雪が眠くなったのか俺の肩にもたれかかってきたんだ。俺は思わずその横顔に見蕩れてしまい、左手でゆるく尖った顎を持ち上げ、そして唇をうば……」


「自分でそんなことを言って恥ずかしくないのかい、君は。ただ惚気話を聞かせるために呼び出したなら僕は失礼するよ」


 途中までじっと話を傍聴していた赤宮は、興ざめだと言わんばかりに俺の言葉を遮る。平然とした怜悧な容貌に不機嫌な雰囲気を纏わせている。黒雪ばりのポーカーフェイスだ、と胸中で感嘆の声を上げつつ、なおも言い募る。


「待てよ。人の話は最後まで聞こうぜ。最初は驚いた黒雪もじきに受け入れてくれてな。上質な絹のような黒髪を撫でつつ顔をうずめてしまった。そして雪のような白い首筋に……」


「お互い水に流そうと言ったのは、君のはずだ。それなのに……これは昨日のし返しなのだろう? つまり君は嘘を言ったということか。君を少しでも良い人だと思った自分が恥ずかしいよ。それと、いいことを一つ教えてあげよう。牽制するつもりならもっとマシな嘘を並び立てるんだね」


 赤宮は軽蔑するような視線とともにそう指摘してきた。俺は意味がわからないという表情をわかりやすく作った。わざと。


「嘘だと? なぜそう思う」


 疑問の声と一緒に首を傾げて問うと、赤宮は不機嫌さの増した表情を得意げなものに変えて答えた。


「頭を撫でるだけで赤面するような君が、その先まで行けるわけがない」


 俺はハッと息を詰めて目を見開く。口を情けなく開け、狼狽している。ように見えているだろう、赤宮には。


「図星かい?」


 それは質問ではなく確認の言葉。動揺で数秒固まっていた俺は俯いて大きく一つため息をつくと、思わず頭を搔く。まったく……。


 そして、俺は頭にあった手を脱力させると鋭い眼光を向けた。


「インテリ坊ちゃんがここまでちょろいとは思わなかったぜ」


「どういうことかな」


 疑問の声を投げかけてくる赤宮。だが、その声には隠し切れない動揺が滲んでいた。気付いたのだ、目の前の男は。俺の雰囲気が先ほどとは打って変わって一変したことを。

 

 俺は静かに、棘々しい声音で鋭く切り出す。


「一つ聞くけどよォ。なんでテメェは俺が黒雪の頭を撫でたことは知ってンだ?」


 一瞬、意味がわからないと言いたげな表情をした赤宮は、問いの意味を理解したようでさも当然とばかりに言いのける。


「それは君がさっき自分で言ったからだろう」


「あー確かにさっき言ったなぁ。けどよ、テメェにとっちゃさっきの話は単なる惚気話じゃなかったのか。信じてねェから、もっとマシな嘘を並び立てろつったんだよな」


「…………」


 一旦、言葉を切る。今度はだんまりを決め込む赤宮。顔は平然としているが、その目は驚愕に見開かれていた。目は口ほどに物を言うとはよく言ったもんだ。自然と口の端が歪む。俺は今、途轍もなく悪い顔をしていることだろう。


「矛盾してるなぁ、オイ。それにしてもよォ、なんでテメェは大して親しくもない奴の言葉を鵜呑みにして、なおかつそのことをああも得意げな顔して断言できるんだァ? それが俺には不思議でならないンだよ」


「それは、心境の変化ってやつだよ。知らないだろうけど、僕はいわゆる天の邪鬼ってやつなんだ。言ってることが必ずしも本当とは限らないのさ」


 両腕を前に広げて紳士然とした雰囲気でそうのたまう。少し左右に首を振り、眉を下げて苦笑し困ったものだとも言うような口調だ。実際困っているのだろう。この俺、牙狼剣児が人相の悪いただの単細胞野郎でなかったから。


 俺は屈辱と苛立ちで思わず歯噛みする。俺なら楽に切り抜けられるだろうとタカを括っているその態度、そして往生際悪くとぼけるその姿に対して。歯を剥いて苛立ちを内包した声で確信を突く。


「あーーもうメンドくせェ! 男ならさっさと認めろよ。チッ、こんな押し問答なんてするんじゃなかったぜ。とんだ茶番だぜまったく。俺には性に合わねぇなやっぱ。……テメェは自分の目で、俺がしたことをしっかり見てたから断言できんだろォが。あんだけの殺気をぶつけといて逃げられると思ったのか、この俺から。いいかげん認めろよ、テメェが契約者だってことをよ!!」


「……っ!」


 その時、一陣の風が吹いた。下草がさらさらと揺れて、隅にある二本の木が梢を揺らしざわつく。塩素の臭いが鼻につく。確かに呻く気配。動揺が瞳から顔全体に広がる。ポーカーフェイスが完璧に崩れた。銀のフレームがたよりなく鈍く光る。俺は溜まっていた苛立ちと怒りを吐き出すように矢継ぎ早に言い放つ。 

 

「昨日よォ、俺と黒雪がいた辺りで魔力反応はあったんだわ。街中でだだ漏らしやがった野郎はまだ身柄を確保されてないらしい。魔力レーダーも万能じゃないからなぁ。あれは大まかな場所を割り出すだけで、正確な位置まではわからないからねぇ。あの契約者に支給される時計みたいなやつも魔獣の馬鹿でかい魔力にしか反応しねェからよ。だからってわけじゃねぇけど、おとなしく投降しろ。イェーガーの一員としてテメェみたいな危ない奴を放置できねぇ。今ならまだ軽い事情聴取で済むはずだからさ。まあ、テメェの場合警察とかにも、もしかしたら世話になるかもしれねぇが。それも覚悟の上でやってたンだろ」


 俺にしては長い台詞を静かに聞いていた赤宮は俯いて無言を貫く。ちょっと言い過ぎてしまったかと内心でほんの少し反省する。がりがりと頭を搔く。けど、こいつが自分の暗い感情に身を任せて力を行使しようとしたのは紛れもない事実だ。本来ならこの胸の内に燻ぶる怒りの炎を拳に乗せて赤宮に放出したいところだ。


 力そのものは悪ではない。ふとアイツのこの言葉を思い出す。確かにそうだろう、用はその使い方だ。だからこそ。


 正義も大義も掲げない契約者を俺は絶対に赦さない。


 それに、黒雪のためにもやんなきゃならなかったしな。まあフリとはいえ一応、恋人なんだからこのぐらい当然のことかと逸れそうになる思考を引き戻す。


 不意に辺りを不気味な静寂が包んだ。風が弱まる。ちらりと視線を上向けると薄い雲が太陽を隠し、視界が少し薄暗くなる。俺は眉をひそめて赤宮を注視する。俯けられた顔からは如何なる感情も読み取ることができない。


 その時、一枚の木の葉が視界の真ん中をひらひらと落ちていった。隅っこの木から風に吹かれてきたのだろう。一瞬、視線が落ちる木の葉に焦点を結ぶ。

 

 そして、突然全身の毛が粟立つ。咄嗟に後ろに飛び退る。直後に、数瞬までいたその空間が空気ごと切り裂かれた。地面に接地した俺は思わず目を見開く。再び降り注ぐ陽光に反射してぎらりと鈍く光るそれは鋭い。


 それは100円ショップにでもあるナイフだ。だが、人を殺すのには十分だ。不意打ちをかわされた赤宮は、しばらく俯いていたがやがて顔を上げた。


 その表情はまるで別人だった。切れ長の目はくわっと見開かれ、口は裂けんばかりに開いている。その口からは熱い吐息が漏れ、呼吸が浅い。瞳孔まで開かれているのでは、と思わせる瞳からレンズごしにこちらに注がれるのは、抑えがたい確かな狂喜。瞳に狂喜の色がありありと浮かんでいる。左手に握るナイフは小刻みに震えている。


 背筋に悪寒が走る。こいつ、イかれてやがる。つぶさに動向を観察しながら警戒を強める。俺は触発しないように軽い口調で声を掛ける。

 

「お互い穏便にすまそうじゃねぇか。テメェにしてもこれ以上のことは自分の首を絞めるだけだ。テメェ、黒雪のこと好きなんだろ。だったらわかるはずだ。あいつがこういうことする男を好まないって、こ……と」


 裏目に出たことは台詞の途中で分かってしまった。俺の言葉を聞いた途端、赤宮は狂喜を孕んだ視線をぶつけてきたからだ。ぎりぎり抑えられていた狂喜がついに爆発した。体をかくっと折ったかと思うと自分の体を両腕で抱いて、堪え切れないように空を仰いで甲高く哄笑した。


「くくく……ふふ…………フハハハハハハハハッッ!! ふふっ、クハハハハハハハッ!」


 茫然とする俺を尻目に、天を仰ぎながら手で目を覆うと、その手を勢いよく振り払った。血走る目がひたとこちらを見据えた。隠そうともしない狂喜を孕んだ甲高い声が体育館裏に響く。


「……ああそうだ。君の言うとおりだ。あんないい女、そうはいないよ。惚れないほうがおかしい。病弱なくせに凛としていて、実にいい女だ。……僕はね、生まれてこのかた欲しいものは全部手に入れてきた。地位も人望も金も権力も女も全て。どんな女も金持ちの紳士を演じれば、バカみたいによってくる。正直言ってそういう女には飽き飽きしてたんだ。そんな時だ……」


 にやりと邪悪な笑みを浮かべる赤宮。思わず鳥肌が立つ。ねとりとした瞳はここにはいない彼女に向けられている。


「入学式の時、壇上にその女が現れた。この俺を差し置いて首席をとり、儚げな雰囲気と凛とした声。堂々とした立ち振舞い。一瞬で心を奪われたよ……。……絶対落としてやると思った。いつもどおり紳士然とした雰囲気を纏わせて近づいた。しかしあの女、どんな言葉をかけても笑顔で流しやがる。しかも、こっちを不快な気持ちにさせないような見事なものだった。ますます気に入ったよ……」


 喉の奥からくくくくと甲高い笑い声を漏らす。赤宮は目線を俺から宙に泳がせ、恍惚の表情で体を痙攣させている。胸中に積もる怒りが手へと伝染し、俺は拳を握り締める。口から自分のものとは思えない低く押し殺した、怒気を漲らせた声が漏れる。


「それが……テメェの本性ってことか。……ついに化けの皮が剥がれたか」


「化けの皮とは人聞きの悪い。今までは役を演じていただけだ。君には理解できないだろうが、金持ちの世界というのは騙し合いなのだよ。隙を見せず愛想よく振る舞いつつも、相手が隙を見せるのを虎視眈々と狙っている。本来ならこんな学校に来るような人間ではないのだよ、僕は。……まあ、あの女に会えたことは僥倖以外の何物でもないがね。……それに演技ならあの女だって…………」


「テメェ、もう黙れよ」


 なおも言い募ろうとする赤宮は一瞬、びくりと身を竦ませると一歩後ろに後ずさった。俺は我知らず鋭い眼差しを赤宮に突き刺していた。心の炎は火炎から業火に形を変え、胸中に渦巻いている。奥歯を砕かんばかりに噛み締める。怒りに全身が震え、なんとか理性で抑え込む。憤懣やるかたない思いだった。


 直後、電流のような痛みが走り、思わず額を手で押さえつける。感情の昂ぶりに『過去』が疼く。


 激情を爆裂寸前だが、意外に思考は落ち着いていた。その冷静な思考の中心にあるのは、何故俺はこんなにも激怒しているのか、だった。確固たる理由はあるし、自分もそれに気付いている。目の前の男は似ているのだ。


 3年前のあの日、俺に『一生消えない傷』を残した男に。


 理由はそれ以外にもあった。しかし、自分でもそれが何なのかよく分からない。名状しがたい感情を源にした理由。ただ一つ分かることは、この感情を意識した時に何故か脳裏に、恐怖による痙攣を必死に抑えようとしていた黒雪の姿が過ぎることだけだ。


「テメェが……テメェみてえな奴がいるから……紗千やアイツのような……暗い闇を一人で背負い込むような奴が生まれんだよ……! 決めたぜ、俺は自分の正義を貫く! 契約者、牙狼剣児はイェーガーとしての責務を全うするため赤宮総司を拘束する! とりあえず、一発殴らせろッ!!」


 裂帛の気合とともに声高く宣言する。周囲の木々や下草が呼応するかのようにざわめく。赤宮はたじろぐがそれも一瞬。眦を決すると手元のナイフの切っ先を体の正面でゆらゆらと揺らすと声を荒げた。


「穏便に済まそうと言ったのはどこのどいつだったか。金でも積んで口止めしようと思っていたが、それも無理そうだ。仕方がない、力ずくで黙らせてあげるよ……! 殺しはしないから安心してよ。まあ、半殺しくらいは覚悟しておいてねっ!!」


 奇しくも地面を蹴ったのはほぼ同時だった。5メートルの距離が相対的に縮まる。二人とも魔力により脚力を強化しているため、超人的な踏み込みが可能だ。


 魔力というエネルギーは強大で実力のある者なら、特殊部隊5人に相手取られても10秒足らずで無力化できるほどのスピードとパワーを肉体に付加させることができる。そんな契約者同士の戦闘において勝敗を決するのは、使役している魔獣の基本スペックとシンクロ率、そして戦闘経験に準拠する。


 シンクロ率が高ければ高いほど、魔獣の本来の力を引き出せるし魔力も多く使用することができる。しかし、それと比例して痛覚のリンクも強化され、エナジーの消費量も増加する。戦闘経験は言わずもがな、強大な力を持っていても使いこなせなければ宝の持ち腐れだ。


 つまり、総合すると魔獣との主従関係が強固で痛みに耐えられる強靭な精神力を持ち、生命力に溢れていて戦闘慣れした、運の強い者が勝つ。


 片方は拳を、もう片方は鋭利な刃物を突き出す。高速の初撃は果たして、刃先が届くよりも早く拳が頬にめり込んでいた。腰の回転と共に放たれた拳は、赤宮を体育館の壁に叩きつける。ナイフは遠くへ手離され、眼鏡のレンズが粉々に砕かれ吹き飛ぶ。


「カハッ……!」


 たまらず喘ぐ赤宮の左頬は真っ赤になっているのに対して、俺の右手はほぼ無傷だ。感触を確かめるように手を開いたり、閉じたりしてみる。感覚は良好だ、うまく魔力が伝達されている。


 視線を手から赤宮に移すと、ふらふらと覚束ない足取りで数歩こちらに歩いてきていた。よく見ると後ろの壁がわずかばかりめり込んでいる。


 すでに誰なのか少し分からないくらいまで顔面が変形した赤宮は、口から零れる血を拭うと何か言おうとしたので機先を制する。


「あれだけの殺気を放てるぐらいだ、どれほどのものかと思ったが……。あんま大したことないのな。まあ、ナイフ使う辺りから薄々そんな気はしてたけどよ」


「たかだか一発決めたくらいで調子に乗るなよ、不良風情がっ!!」


 殺気の籠もった視線を向けてくる赤宮は怒鳴ると、一秒後にはナイフの落ちている場所まで移動していた。得物を手に取った瞬間さらに踏み込む。下草が引きちぎれ土塊が捲き上がる。一瞬で俺の懐に飛び込んできた赤宮は、高速の突きを次々と突きいれてくる。


「死ね! ハアァァァァッ!!」

 

 じりじりと後退しながら、瞬間的反応だけでかわす。耳元で鋭い風切り音が唸る。鈍色に光る刃先に全神経を集中しながら、静かに思案する。


 おそらくこの男は今回が初めてではない。俺はそう確信していた。ナイフの扱いが素人のそれではない。今まで何度も気に入らない奴をこの得物で脅してきたのだろう。明らかに手慣れている。攻撃の軌道が致命傷をぎりぎり避ける位置だ。正確かつ的確なナイフ捌きだ。魔力の恩恵により突きの速度も常人のそれを遥かに凌駕している。


 しかし、それでもまだ遅い。秋乃のあの戦慄するほどの拳よりも余裕で遅い。


「生憎、俺ァはそれより遥かに速くて、威力も桁違いの攻撃を半年間受け続けてきてんだよ」


「……っ!! 図に乗るなァァ!!」


 俺の余裕な態度を見て赤宮の表情に動揺の色が走る。殺意と狂気に歪んだ顔がどんどん焦りを帯び始める。その証拠に突き技の連撃に斬り技を混ぜてきた。だが、攻撃のバリエーションが増えただけで速さは変わらない。どうやらこれが赤宮が魔獣から引き出せる魔力の限界なのだろう。


 冷静に敵の戦闘能力を分析しながら、体を脱力させて落ちる木の葉の如くひらひらと切っ先を避ける。攻撃の軌道を先読みする必要もない。刃物なんざ今までうんざりするほど向けられてきた。


 ついに赤宮の表情に恐怖の色が湧いてきた。切れ長の目の中に動揺が充満しているのが見てとれた。長めの前髪が踊り、叫び声が迸る口からは荒い息が漏れている。必死の形相からはありありと心情が読み取れる。俺は敵の心を言語化する。


「なぜ当たらないんだ。こいつは一体何者なんだ。って感じか?」


「……っ!!」


 俺の言葉に目を見開く。額からは断続的に汗が滴り、イケメンが台無しだ。いい気味だぜっ!


 思わずにやりとした笑みを作る。その時、とんっと背中に軽い感触がした。意識を後ろに向けるとそこには一本の木があった。ようやく体育館裏の隅まで後退できたみたいだ。


「まずい……!」


 わざと焦った口調で呟く。高速で展開される戦闘において、ほんの刹那の隙が勝敗を分ける。だから、あえて追い込まれた。勝負を焦る敵がその一瞬を見逃すはずがないと踏んで。


 案の定、赤宮は好機と見て腕を思い切り引き絞り、そして最高速の渾身の突きを撃つ。勝利を確信した赤宮の顔には隠しきれない狂喜の色が浮かんでいた。限界まで絞り出した魔力の後押しを受けたその腕はまるで一条の槍だ。その切っ先が吸い込まれるように俺の首に放たれた――――。


「ぐっ……!」


 呻いたのは果たして、赤宮だった。狙い澄まされた一突きは虚しく木の幹に深く突き刺さっていた。俺は首を傾けて攻撃を回避した。そして、ここに決定的な隙が生じる。この時を待っていた!


 俺は流れるような動作で右腕を持ち上げる。力強く拳を握る。数瞬も呆然としていた赤宮は、はっと我に返ると、ナイフから手を離し飛び退こうとしたがもう遅い。


「うらァッ!!」


 全ての激情を乗せた裏拳は狙い違わず、赤宮の右頬にめり込んだ。ぐにゃりと歪む赤宮の顔が視界に貼りつく。飛び散る血液。足で地面を噛み腰を落とすと、赤宮の懐に潜り込む。振り払われた腕と同じ方向に体勢を傾かせる赤宮の胸に、地面にどんと踏み込んで、左手で全力の掌底を打ち込む。体勢の崩れたところに胸部への打撃。たまらず後方に吹っ飛ぶ赤宮の腹にフィ二ッシュの回し蹴りを叩き込む。視界にあるのは、飛び散る土塊ともはや誰なのか判別不可能になるほど顔が赤く腫れた赤宮の情けない顔面。


 ぼろ切れのようにぶっ飛んだ赤宮は、また体育館のしかも同じ位置の壁に派手に激突した。衝撃でコンクリートダストが宙を舞い、ぽろぽろと破片が地面に落ちる。今度は完全に壁に埋まっている。


 まるで何かの芸術作品のようだとのんきに頭の隅で思考する。見た目はぜんぜん美しくないが。その何か見たことのある光景に思わず突っ込みを入れる。


「壁にめりこませる蹴りとか、どこの子連れ番長だよ。あの漫画好きなんだよなー。俺もあんな主人公になりたいもんだぜ……。にしても同じ場所に飛んでいくとか……。まあ、狙ってやったんだけど」


 戦闘の空気が消え失せた途端に静寂がこの場に満ちる。ポケットからハンカチを取り出し、手に付いた血痕を顔をしかめつつ拭う。そして、地面を踏み締めながら注意して赤宮に歩み寄る。戦闘不能ではあろうが、この男だけは何をするか解らない。

 

 両頬をたんこぶのように真っ赤に腫らして、顔が変形している赤宮はしばらく俯いて沈黙していたが、急に激しく喘いだ。どうやら気絶していたらしい。ゆっくりと顔を上げると虚ろな目をこちらに向けてくる。ぼろぼろとコンクリートの欠片が落ちる。


「…………なぜ魔力を……使わなかった…………?」


 口から血を垂れ流しながら嗄れた声を漏らす。制服も髪も滅茶苦茶に乱れ、文字通りぼろぼろだ。その問いに俺は肩をすくませつつ素直に答える。


「魔力使ったら生かしておける自信がなかった。イェーガーの使命は敵を無力化するのであって、抹殺じゃない。確かにテメェのことはぶん殴りたかった。けど、使命に私情を挟んだら本末転倒だしそれをやっちまったらテメェらと同類になっちまう。それだけは死んでもごめんだ」


 俺が顔をしかめつつそう言うと、赤宮は納得したように嘆息した。その様子を見て俺は頭の中でこれからすべきことの段取りを組む。


 まずはイェーガーの本部に報告しなければ、と思い立ったがすぐに連絡先を知らないことに気付く。ならば秋乃の介して報告するしかないかと内心でため息をつく。彼女との会話は異常に疲れる。あの人は確実に俺をイジることを生きがいにしている。何故なら俺と話す時にいつも楽しそうにしているからだ。はしばみ色の瞳を爛々と輝かせている。


「……!」 

 

 思わずげんなりとしていたその時、脳内に雷の如し驚愕が轟く雷鳴と共に落ちた。


 ふとある重大な事象に気付き、激しく喘ぐ。


 聴覚に全神経を集中して目的の音を探す。風の流れる音と梢の揺れる音が鼓膜を震わす。しだいに疑念が確信へと変わっていく。


 今のこの現状は、不自然極まりない。何故なら学生の喧嘩といえど、この場で契約者同士の戦いが行われたのだ。それは魔力を用いた超速の戦闘。俺は最初の踏み込みの時だけ魔力を使用したが、赤宮は違う。常に魔力を引き出して戦っていた。


 つまり、本来なら国防を担う防衛省の内部に設置された、関東圏の全てが有効範囲内である5基の魔力レーダーが反応を察知して、今ごろこの体育館裏に警察やらイェーガーが殺到してくるはずだ。敵の契約者が現れた場合、最低一人はイェーガーを同行させなければならない。これは、イェーガー創設の黎明期に警察の殉職者がうなぎ上りだったためだ。


 なのに、今は車両の走行音もしなければ大量の足音すらしない。ありえないことが起こっている。


 思わず額に手を当て思考を巡らす。自然と眉根に皺が寄る。赤宮の視線を意識することなく黙考する。


 まさか魔力レーダーの故障か? そう思い立ったがすぐに首を振る。


 設置されてからの4年間で如何なる魔力も逃したことはない、と以前に秋乃が誇らしそうに言っていた。彼女は魔力レーダーの基礎設計をある男と二人で担当していたらしい。


 作った本人がそう言うのだし、それに無意識下の魔力流失まで察知するほどの性能だ。疑うまでもない。


 とすれば残る可能性はあと一つだ。それは――――


 突如、全身に悪寒が走る。俺は反射的に体を仰け反らせる。一瞬後、視界を鈍色の閃光が掠過さっかする。前髪が何本か千切れ飛んでいった。


「チッ!」


 鋭く舌打ちして足を蹴り上げる。振り上げた足で得物を蹴り飛ばすと、そのままの勢いでバック転する。5回転して一気に広場の端まで退避する。無意識に詰めていた息を大きく吐き出す。乱れた動悸を整えつつ、相手を睨み付ける。


 壁の彫刻と化していた赤宮は、めりこみから脱しておりその瞳には見覚えのある狂喜の色が浮かんでいた。


「テメェ……!」


「油断大敵とはまさにこのことだな!」


 そう吐き捨てると赤宮は、左右に目を走らせ遁走を始めた。しかし、その足取りは重い。


「そんなんで俺から逃げられると思って……」


 両足に魔力を溜めて踏み込もうとしたその時、俺は驚愕に目を見開いた。


 ほんの数瞬までよろよろの走りだったのに、突然精彩のあるそれに変わった。急激に加速した逃走者は体育館裏から颯爽と姿を消す。


「クソがッ!! あいつ、死ぬ気か!」


 その背中を愕然と見届けて、すぐに我に戻ると急いで追い掛けた。


 両足が熱を帯びる。内部に溜まった魔力が一気に爆裂した。地面を抉りながら吹き飛ぶような加速感とともに駆け出す。体育館裏から離脱した俺は、飛翔するかのように前方をはしる。すぐに黒い背中を捉える。俺は眦を決して彼奴きゃつを全力で追跡する。


「まさか、な。これが、執念ってやつ、か。ストーカーの、鑑だな」


 切れ切れな言葉が漏れる。なんて歪んだ想いなのだろう。赤宮は、先ほどの戦闘中に出せる限りの魔力を常に全力で引き出していた。だからこそあれだけの速度の突き技を放てたのだ。しかし、その分エナジーを急激に消費したはずだ。


 エナジーはいわば生命エネルギーだ。それを意図的に消費するということは、自分で死へと向かっているようなものだ。エナジーの枯渇は死ぬことと同義だ。


 あれだけ一気に魔力を引き出せば、生命活動の持続が困難となる。意識をしっかり保てているだけでも奇跡といえよう。普通なら貧血に似た症状が発生し、下手すれば失神ものだ。


 体育館横を疾走した俺はグラウンドに踊り出る。ここは第一グラウンドで放課後は主にサッカー部が使用しているため、両端にサッカーゴールがある。普段は大輝とかの体育会系のリア充どもが使用しているのだが、昼休みが始まって間もないからかそこには誰もいなかった。いや、一人いる。


「さっさとお縄につけ、赤宮。どう足掻いたところでテメェは俺には勝てない」


 彼我の距離は10メートルほど。グランドの中心に立ち尽くす赤宮に語りかける。効果があるとは思えないが、少しだけでもの時間稼ぎだ。奴がどういう方法で魔力反応を隠蔽しているのか見当がつかないが、魔獣を顕現するという最悪の場合をできるだけ避けたい。


 盛大に息を切らす赤宮は、俺の声が届いていないのか顔を俯かせたまま微動だにしない。返事がないまま数秒が経過し、しびれを切らして俺が一歩を踏み出そうとしたまさにその時。


 赤宮は機械仕掛けの人形のような動きで、顔を勢いよく上げると甲高い声をグラウンドいっぱいに響かせた。


「勝った気になってんじゃねーぞ、牙狼剣児ぃ!!本当ほんとの戦いはこっからじゃねーか! 出てこい、吸血鬼ドラキュラァァァァァァーーーー!!」


 ほとんど真円にまで見開かれた切れ長の目に、狂喜の炎を燃やし両端を吊り上げた口から、その名を叫ぶ。俺は驚愕に目を見開く。


 一瞬後、そいつはその場にいた。忽然と姿を現したのは昨日の夕暮れに映像で見た魔獣だった。


 すらっとした痩躯をワインレッドの燕尾服で包んでいる。体を完全に覆うほどの大きさの黒マントの内側は、血を浴びたかのような深紅。針金のように細い手足から、内包された強靭な筋肉の気配を感じた。真っ黒いシルクハットの奥、真紅の瞳がこちらを見下ろしている。 

 

 俺をその瞳を思いっきりガン付けてから、赤宮に視線を戻す。両頬を吊り上げて邪悪な笑みを浮かべ、息は荒い。狂喜と憎悪を体現するかのような表情から、こいつは完全に正気を失っていると悟る。


 俺は吸血鬼を一瞥し、赤宮に低く押し殺した声で問いを投げる。


「テメェがそいつの主ってことかぁ……?」


「ああ、そうだよ……! 一暴れしようと思ったのにあの不死鳥……邪魔しやがってッ! イェーガーから逃げるのは実に骨が折れたよ……」


 切れ長の目に憎悪の炎を燃やし、くくくと喉の奥から笑い声を漏らす。まさかあの吸血鬼の主人が赤宮だったとは思わなかった。いよいよ事が大きくなってきた。魔獣を出しておきながらイェーガーから逃げ切るとは。


 吸血鬼に魔力を隠すような能力はないはずだし、もしそんな馬鹿げた能力を持っていたとしても適用されるのは魔獣本体だけのはずだ。したがって相当の隠蔽能力を持った道具か装置を使っているに違いない。そこまで推察した時、耳を聾さらんばかりの悲鳴が轟いた。


 生徒たちの声だ。いきなりグラウンドに魔獣が出現したのだ、無理もない。今ごろ校舎内は修羅の巷だろう。冷静に状況を推測する俺の脳裏に黒雪の姿がよぎる。今すぐこの場から駆け出そうとする自分を、地面をしっかりと踏み締めて抑える。大丈夫だ、きっと無事に逃げてくれる。そう自分に言い聞かせ俺は声を張り上げる。


「来い、フェン! 早急に敵をぶっ飛ばすぞッ!!」


「はい、マスターッ!」


 ほとんどタイムログなしで俺の傍に出現したフェンは、地面に亀裂を刻みながら力強く踏み込んだ。あまりの衝撃に地面が揺れ、俺は両足で地面を噛んで耐える。爆発的な踏み込みはフェンリルの体躯を一秒と待たず最高速に導く。


 不意を突かれた赤宮は動揺に顔を歪ませたが、吸血鬼の方はいたって冷静だった。だらりと下げた両腕を上げ、胸の前で手をゆらりと開く。完全に受け止める構えだ。まあいくら二足歩行の吸血鬼とて、フェンの突進を避けることはできない。そして、猛烈な突進を敢行した神速の狼が凶暴な牙を剥いて獲物に襲いかかる。


 衝突。


 耳をつんざく大音量の衝突音が空気を揺らす。衝撃波が円周状に広がるのを意識した時には、校舎の全ての窓ガラスが容易く砕け散っていた。数秒前までグランドの砂を僅かに運ぶ程度だった風が突如として暴風へと変貌した。ガラスの破砕音が耳に届いた時には、グラウンドを一気に砂嵐が支配していた。


 俺は両腕を顔の前に掲げ必死に耐えしのぐ。防ぎきれなかった砂塵が口に入り、口内が砂漠と化す。荒れ狂う風の音が耳朶を叩く。制服のはためく音も耳に届かない。


 ざわ。


 不意に背中を冷たい戦慄が駆け抜けた。俺は考えるまでもなく咄嗟に体を伏せた。直後、頭上を大きな質量物体が通り過ぎる気配。それの正体を察した俺は思わず唾を飲み込む。


 しだいに暴風が強風へと弱まり、しばらくしてようやく風が収まった。地面に倒れ伏した俺は顔を上げて、現状を把握しようとした。


 まず目に入ったのは、二体の魔獣の姿。そして少し離れた所で赤宮が膝をついてうずくまっていた。視界が遮られた時に、奇襲をされたらひとたまりもないと内心で少しひやひやしたが、それも赤宮とて同じだったようだ。


 前方に意識を向けながらちらりと肩越しに振り返る。背後にはグラウンド面積の4分の1を占めるほどの広さのテニスコートがあるのだが、そこはもう無残な姿だった。コートを囲むフェンスはぼろぼろにひしゃげて、張られていたネットも引きちぎれコートも抉られていた。その光景を引き起こしたのは案の定、サッカーのゴールだった。やはり先ほどの悪寒の正体はあれだったようだ。


 あれが衝突していたらと思うとぞっとする。自身の危機回避力に感謝しながら、ぶつかり合う二体の魔獣に視線を転じる。


 吸血鬼は見事にフェンの突撃をかろうじて止めている。一方フェンは押し切ろうと地面を踏み締め、土塊が跳ね抉れる。鋭い歯軋りが聞こえてきそうな光景だった。しかし、この膠着状態はすぐに終わるだろうと俺は確信している。そして、次の瞬間張り詰めていた空気は爆散した。


「グルルアァァァァッ!!」


 黒い生地に包まれた細腕を突き破り、鋭い怒気を孕んだ咆哮とともにフェンは吸血鬼ドラキュラをぶっ飛ばした。フェンの頭が腹部にめり込み、骨の軋む音が耳に届いた。風切り音を響かせて吸血鬼はグラウンドを削りながら激しく地面を擦過した。土塊がまき散れ轟音が空気を震わす。


「アアアアアアァァァァーーーーッ!! イタイ、痛いッ! ア、熱いィィィィッ!!」


 同時に離れていた場所でうずくまっていた赤宮が、がばっと上体を起こし絶叫した。顔面を激痛に歪ませ裂けるほど開かれた口から金切り声を響かせる。耳をつんざく甲高い悲鳴は校内にいる生徒たちの阿鼻叫喚の声を上書きする。


 切れ長の双眸を白目がちにした赤宮は、ばっと身を翻すと地面に倒れ伏し身を悶えさせる。背中を地面に押しつけるように地面を狂った動きで転がり回る。よく見れば両手で腹を圧迫している。砂が舞い起こり風に流され宙を泳ぐ。


 魔獣と契約者は痛覚を共有している。それはシンクロ率が高ければ高いほど密接なものになる。ダメージは肉体の同じ部位に正確に発生する。だから赤宮は腹と背中を圧迫して痛みを和らげようとしているのだ。


 暴れる赤宮をじっと観察した俺は、一息つくと片足で踏み込む。加速感を味わったのも一瞬だけ。赤宮との距離は直線距離で30メートルほど離れていたが、魔力で強化された脚力の前ではその距離はゼロに等しい。


 倒れ伏す赤宮の5歩手前で立ち止まった俺は、激痛と疲労とで動くのをやめた赤宮を見下ろす。先ほどまで狂喜に歪んでいた顔は憔悴しきっていた。その表情にはもうイケメンリア充の坊ちゃんの面影はどこにも残っていなかった。大の字に寝転がり静かに浅い呼吸を繰り返す赤宮が力のない目で見返してくる。


「もういいんじゃねえか、赤宮。一発殴ったから俺も気は済んだ。これで終いにしようぜ」


 俺は淡々と告げる。黙って聞いている赤宮は何も答えない。というよりもう喋る気力もないのかもしれない。これ以上の戦闘は無意味だと言外に示した。


 遠くから喧騒が耳に届く。恐らく、他の生徒たちは裏門の方へと避難しているのだろう。黒雪の安否が気になる。面倒だから赤宮は無理やり気絶さして、それから彼女の元へ向かうか。あと数十分もすれば警察やイェーガー、魔獣も出現したからSATサットも来るだろう。そうと決まれば即実行するべきと結論づけた。


 赤宮にああは言ったが、まだ少なからず怒りの炎が胸中に燻ぶっている。それに、面倒ごとはさっさと片付けないと気が済まない性分だ。


今だに倒れ伏している赤宮に歩み寄ろうとしたその時、視界の端で何かが動いた。それを認識し一気に跳び退る。直後に風切り音とともに宙を切り裂くそれは抉れて血肉が見える巨大な手。冷や汗が頬を流れる。沈黙していた吸血鬼が主を守るために急速で距離を詰めてきた。


「往生際が悪いですよッ!」


 フェンは声を荒げると一回の踏み込みで吸血鬼に肉薄し、空を切った腕を噛みちぎる。飛び散る鮮血と肉片が真っ赤な血液の花を宙に咲かす。吸血鬼は悲鳴を押し殺して反撃の蹴りを放つ。それはフェンの腹に深く突き刺さる。


「フェン!」


 堪らず吹き飛ぶフェンに急いで駆け寄る。フェンは地面に爪を突き刺して勢いを殺し、それから数メートル掠過して止まる。見上げる俺を煌めく銀色の瞳が見下ろす。フェンは軽い口調で言葉を落とす。


「そんな心配そうな顔しないでください。大丈夫です、マスター。傷は浅いです。マスターもあまり痛くないでしょう」


「……確かにそういえば」


 腹をさすってみるがたいした痛みはない。サッカーゴールを玩具のように破壊できるほどの蹴りを浴びてこの程度だと。


 俺の疑問を読み取ったのか、フェンは敵を睨みつつ淡々と答えを口にする。


「恐らく契約者のエナジーが残り少ないのでしょう。奴が魔獣を出現させてからまだ5分ほどしか経っていないところを見ると、元々のエナジーの総量が少ないのかと。それ以前に魔力を使い過ぎたこともあるでしょうが」


 確かにそれもあるだろう。魔獣の顕現時間は契約者の保有エナジー量に比例するが、大体15分前後だ。それなのにたった5分でへばるということは――――。


「赤宮自身が疲労してエナジー消費を助長しているのか、あるいは――――」


 俺は前方に視線を移し、腕を噛み千切られたダメージで体を丸めて激しく痙攣する赤宮と、真っ赤な筋肉が覗く右肘から、どろりとした血液を垂れ流す吸血鬼を見つめる。傍で膝を突き、地面に転がる赤宮を冷たく睥睨する吸血鬼と赤宮を交互に見比べ、続きを口にする。


「「奴は契約者になってまだ日が浅い」」

 

 体育館裏での戦闘から薄々そんな気はしていた。ナイフ捌きは中々であったが、魔力量が圧倒的に少なかった。吸血鬼に関してもそうだ。折れてしまいそうな痩躯ではあるが、その中には凄まじい膂力の気配があった。本来ならフェンの猛突撃をもう少し粘れていたはずだ。    


 俺と同じ考えに至ったフェンは、ずんと一歩進み出ると凛とした鈴のような声を響かせる。


「これ以上の戦闘は無意味です。続行したところで何のメリットもないことはあなたにだって解るはずです」


 俺は遅まきながらその言葉が吸血鬼に対して向けられたものだと察する。口ぶりからしてもしや知り合いなのだろうか。


 一陣の風が吹き砂埃が舞う。場を妙な沈黙が支配し、遠くからかすかに悲鳴のような声が鼓膜を震わす。


 問われた吸血鬼はこちらに顔を向け、数秒間黙考していたがやがておもむろに口を開く。


「確かに貴女あなたのおっしゃるとおりです。……やはりこの世界は面白いですな、まさかあの銀狼と手合わせできるとは……僥倖以外の何物でもありません。この小僧と契りを結んで早1ヶ月、ようやく良い事があった」


 腹の底から響くような暗く低いおぞましい声で、ひどく耳障りで異様な声音だった。流動する空気がざわめく。どし、と立ち上がったその姿は陰のように暗く不気味だ。


「テメェ、フェンを知っているのか?」


 俺はガン付けながら質問を飛ばす。吸血鬼は頭に乗っかるシルクハットを取り、埃を払いつつ鷹揚に頷く。深く昏い紅の瞳がこちらにひたと据えられる。


「ええ、よく知っていますよ。彼女は私たちの世界、人間が異世界と呼んでいる場所では知らぬ者はいないほどの有名な魔獣です。弱肉強食の実力社会、その世界において強者でありながら弱者を救う酔狂な魔獣ですよ」


 世間話をするような軽い口調で語り始めた。自分と出会う前のフェンのことを俺はほとんど知らない。何故ならフェンは自分の事を語らない。何度か訊いてみたりしたが、うまく流されて聞けずにいた。それに、昔のことを聞こうとすると急に不機嫌そうにむくれることもあって俺自身がその話題を避けていたこともある。


 ちらりとフェンを見やると、ばちっと目があった。フェンはばつが悪そうに顔を背けてぶつぶつと呟く。 


「話す必要性を感じなかったので……。決してマスターを信用していないわけではありませんから」


 珍しく言い訳じみた口調でそう言う。その声色はどこか自分の秘密を明かす時の羞恥の色があった。


「別に気にしてねえけどよ」


「いや、仲がよろしいことで。羨ましい限りです」


 そこに吸血鬼の声が横入りしてくる。含み笑いの混じるその声は本心からの言葉ではないと察する。そちらに視線を向けると、吸血鬼は悠々とした態度のままゆったりとした動作で、少し抉れ血がぽたぽたと落ちる右手を広げる。


「凛と気丈な態度を崩さず、隙を見せず、孤高を貫く気高き魔獣。そんな銀狼のこのような姿をを拝見できるとは、やはり人間という生物は実に興味深い。そこの彼の影響ですか? ……しかし貴女はこの世界に来ても根底は何も変わらないようですね」


「それはあなたも同じです、紅鬼こうき。本能のために他者を利用するところは相変わらずですね」


「本能のままに生きるのが魔獣という生き物ですよ、貴女が特例なだけです。何故貴女にはこの血肉の滾る闘争の快感が理解できないのでしょうか。それに、これは利用ではなく利害の一致というものです。そこの小僧が力を求め、私が闘争を求めたその結果が今ですよ」


 端整な顔立ちに喜悦の感情が走る。青白く血液の通っていないような顔が派手に歪む。恍惚そうに長い舌で唇を撫でる。鋭利かつ凶暴な牙が覗く。


「やはりあなたとは相容れないようですね」


「ええ、そのようです。やはり変わりませんね貴女は。この世界に顕現し本能のままに人類を蹂躙したあの時もそうでした。あなただけが苛烈な闘争をしていました…………私たち魔獣とッ!!」


 突如、怒鳴り声を上げた吸血鬼は踏み込む。停滞していた戦場が激動する。まだ戦いを続けるつもりか。咄嗟に身構える俺に頭上から鋭い叫び声が落ちる。


「マスターは下がってください。紅鬼は私が倒します!」


 さっと目を向けるとフェンの表情は憤激に染まっていた。吸血鬼の考えは彼女にとっては理解できず、そして赦せないのだろう。俺はその意を汲み素直に答える。


「ああ、任せた! ぶっ潰せッ!!」


 両足で地面を噛み全力で飛び退る。一跳びで30メートルほど後退し着地した後、さらにバックダッシュして距離を取る。その直後、フェンは地を砕きながら爆発的に踏み込んだ。


 相対的に距離が縮まっていきまたも正面衝突かと思われたが、吸血鬼は豪速の突進を見切った。激突の直前、紙一重で攻撃をかわす。フェンの鮮やかな銀色の体毛は、怒気を漲らせ鋭く逆立ち、交錯の瞬間に吸血鬼の全身を切り刻む。鮮血が飛び散り、それは突撃の風圧で巻き起こった砂埃と共に霧状に吹き飛ぶ。


 両者の立ち位置が入れ変わる。吸血鬼の傷は浅く戦闘不能の状態まで追い込めなかった。フェンは見事に背後を取られた。


 抉り取られた左腕が妖しく動く。その腕が鋭く引き絞られる。それはまるで騎馬兵の構える槍の如し。まさに貫通の構え。


「フェンッ!」


 思わず叫ぶ。直撃すれば一たまりもない。そのまま前方に駆け抜けての回避しかないと俺は判断した。しかし、フェンは守りに入ることはなかった。その戦闘機動は弱者を守る強固な意思の表れかそれとも、内に眠る獣の本能か。


 フェンは大地に鋭利な爪を突き立て急制動を掛ける。鋭利な爪が地面を削り抉り散らす。しかし、振り返って向かえ打つほどの時間はない。砂塵と立ち籠める土煙がフェンを覆い隠す。


 そこに研ぎ澄まされた刃のような手刀が突き放たれる。濛々と空気が濁るその空間を鋭く穿つ。ほんの刹那、ぎりぎり垣間見えたのは陽光を反射して白銀に輝くそれ。


 瞬間、甲高い金属音のようなものが響いた。ような、というのは両者とも金属の武器を持っていないから俺自身が疑問に思ったからだ。


 手刀の凄まじい風圧が土煙を吹き飛ばす。一気に開けた景色の異様さに俺は目を見開く。吸血鬼の放った一突きは、遠めからでも必殺のそれであると断定できた。


 しかし、その一撃は鞭の如くしなる尻尾に弾かれていた。渾身の一発はベクトルを逸らされ、空を切る。それは決定的な隙だった。


 フェンはなおも地面を擦過し続け、速度を緩めながら豪快に旋転し、身を翻す。ついにフェンは視界に敵の姿を捉えた。吸血鬼が急いで跳び退るような機動を取ろうとしたが、それは途轍もなく遅い。それは赤宮の保有エナジーが残り少ないことを示していた。

 

 そして、フェンは四肢に力を込め地面を蹴り、飛んだ。


 5メートルほどの距離は完全にフェンの間合いだった。大きく開かれた口から獰猛で鋭利な牙が見えた。勢いのまま腹部に噛み付いた。肉と骨の裂ける音が聞こえた気がした。大量の血飛沫が飛び散る。


「ぐっ……!!」


 吸血鬼の苦痛な喘ぎが確かに聞こえた。しかし、吸血鬼は冷静だった。すぐさま飛び退り距離を取った。血肉が引き裂かれる。数十メートル退避した吸血鬼は数歩たたらを踏む。腹部から血液が大量に流れ落ち、口から血の泡を吹く。


「これで終いか……」


 ため息混じりにぽつりと呟く。勝敗はすでに決していると言っていい。吸血鬼の呼吸を荒く、止めどなく血液が流出している。体中に鋭い裂傷を刻み立っているのがやっとの状態だ。


 もしまだ奴が諦めない場合、これから行われるのは闘争ではなく殲滅だ。それに、これ以上の吸血鬼への攻撃は契約者への負荷が計り知れない。先ほどまでの赤宮の状態を鑑みれば下手をすればショック死もありうる。それだけは絶対避けなければならない。


 不意に嫌な感覚が背中を走った。何か悪いことがこれから起こりそうな、そんな不吉な予感だ。俺はその本能に従いぐるりと周囲を見回した。見えるのは傷ついた吸血鬼、警戒を怠らないフェンの姿、窓ガラスの割れた校舎に荒れ果てたグラウンド。そこで俺はふと気付いた。


 赤宮がいない。


「あの状態から動けるはずが……! 一体どこに行きやがった!」


 その呻きは自分でも驚くほどに動揺が滲んでいた。途轍もなく嫌な予感がする。その時聞き覚えのある、耳をつんざく金切り声が響いた。すぐさま音の発生源に視線を投げる。そこは第一校舎の屋上、高さ5メートルほどの鉄製のフェンス越しに二つの影を認めた。その影の姿を明確に認識し、そして俺は途方もない驚愕に目を見開く。


 その影の正体は赤宮総司。そいつの横を陽光を照り返すほどの艶のある漆黒の長い髪が泳ぐ。


 一緒にいたのは黒雪紗千だった。


「なっ…………!」


 その光景を目の当たりにして思わず絶句した。開いた口が塞がらなかった。思考停止に陥り頭の中がなぜ、という疑念で一杯になる。彼女はとっくに避難していたものだと思っていた。状況を完全に呑み込めてはいないが、自然と俺の口から鋭い怒号が迸る。


「……言いてえこたァ山ほどあるが……まずはその手を離せ赤宮ッ!!」


 すでに満身総意な様子の赤宮は、黒雪の腕を力強く摑んでいた。黒雪はその手を必死に振り解こうとしているのだが、やはり女と男の圧倒的な膂力の差があるようだ。一向に逃れられる気配がない。


 遠目からでも黒雪の表情が険しいことが解る。その苦悶に歪む顔を見て、もしかしたら赤宮は魔力を行使しているのかと悟る。 


 掌に爪が食い込むほど拳を握り締め、奥歯を思い切り噛み締めることで、爆発寸前の怒りをわずかに残っている理性で抑え込む。ここで感情に任せて行動すればそれこそ赤宮の思うつぼだ、と自らを縛める。


 そんな俺の姿を愉しむように、嘲るように睥睨する赤宮は喜悦の滲む叫び声を浴びせてきた。


「どうだぁ! 悔しいかッ! 恐ろしいかッ! この女は俺のものだァ! お前みたいな不良風情に渡すものかァァ! ほれ、どうした。悔しかったら面白おかしく負け犬の遠吠えでもしてみせろよォ!!」


 赤宮は空の右手を大きく広げて歓喜に体を震わせながら絶叫し、勝ち誇ったような笑みを俺に向けてくる。その声色は狂喜一色に染まり切っており、俺の頭の中で漣のようにその声が何度もリフレインされる。


「戦闘主義のイェーガーでも流石に手は出せないだろォォ! いいかッ、そこから一歩でも動いてみろ。この女を今、ここで、完膚なきまでに犯してやるぞッ!!」


 切れ長の目をかっ開いて喚き散らす赤宮のその言葉は、鋭く俺に突き刺さった。犯す、のその一単語は俺の足を地面に縫い付けるには十分すぎた。そこに静かに怒気を漲らせた声。


「いいかげんにしなさい赤宮君! 直にこの場所には大挙して応援が詰めかけて来るわ。あなたの逃げ場が完全になくなる。気付いている? 今のあなたの行動は無駄なあがきなのよ! 大人しく投降しなさい! そして早急にこの手を離しなさい! 汚らわしい手で私に触れないで!!」


 叫び散らす赤宮に横入りする黒雪は怒り心頭に発する。その表情は、まるで太陽すら凍りつかせんばかりの極寒の氷河ようだ。そしてその声は真冬の放射冷却のように冷たい。語尾を特に荒げたところからそれが一番の本音なのだろうと、あえて分析することで血の上った頭を冷やす。


 その拒絶の意思を体現したような態度に赤宮は一瞬気圧されたようだが、すぐに気を取り直す。そしてあろうことか空を仰いで哄笑し始めた。


「くくく、くふ、くははッ! クハハハハハハハハッ!! フフフ、フハハハハハハハハッ! いやこれは面白い! まさかあの深窓の令嬢からこんな言葉を頂戴できるとはッ! 学園のアイドルがまさかこんな表情をするとは夢にも思わなかったよ。いや、夢にもは言いすぎか。前からなんとなくそんな気はしていたよ」


「どういう意味かしら」


 一段と低い声で問う黒雪の視線には多分に嫌悪感が込められており、まるで異物を見るかのように無機質だった。校舎の高さは約5メートル、俺からの距離は直線距離で大体50メートルと言ったところだ。それほど離れていてしかも見上げている俺が、黒雪の視線に凝縮された感情を直感で察することができる理由はおそらく過去に自分も似たような経験をしたからだと解釈した。


 そんな極冷気の鋭い眼差しを向けられても、赤宮は彼女に向き直ると右の掌を差し出してうれしそうな声色で応える。


「あなたも僕と同類ということさ。他人に拒絶されたくないからキャラを演じる。別に僕とあなたが特異というわけではない。誰もがキャラを演じている。演じるというのは集団で行動するこの人間社会で上手く生きていくために必要なスキルだ。ただ、僕たちはなりきりすぎているんだ。キャラクターという名の仮面を徹底して被っているんだよ」


 そこで一旦言葉を切り、右手を自身の胸に掲げた赤宮はぐっと黒雪の顔を覗き込むように近寄る。当の黒雪は仰け反るようにして距離を置こうとするが、しかし手を握られたままなので申し訳程度にしか離れられない。


 苛立ちが全身に伝播し、無意識に靴底で地面をにじる。そんな俺の姿を目ざとく見ていた赤宮がこちらとそして後方のフェンを指差して怒鳴り声を落としてきた。


「動くなと言っただろォ! 動けばわかってるよなぁ……。そっちの狼も妙な気は起こすなよ! ……主人に迷惑はかけたくないだろぉ」


「貴様ッ……!」


 そちらに視線をやるとフェンは巨大な牙を剥き出しにし、鋭利な眼光を赤宮に突き刺しながら唸っていた。視界の端にいる吸血鬼は顔を俯かせ沈黙を続けている。その様はひどく不気味で、俺はフェンと視線をかち合わせてアイコンタクトを試みる。


 ――――今は何もするな。お前はそこの吸血鬼を見張っていてくれ。


 フェンは噛み付くような視線をぶつけてきたが、しばらくしてゆっくりと頷く。やはりフェンも赤宮みたいなタイプは嫌いなようだ。俺は頷き返してまた視線を上向ける。


「一体なにを根拠にそんなわかったような口を……。私のことなんてなにも知らないでしょ」


 吐き捨てるようにそう言う黒雪は眉をひそませ嫌悪感を露わにしていたが、どこか寂しげな雰囲気を纏っていた。その顔を観察するように見ていた赤宮はニタリと口角を上げる。


「ああ、知らない。けどわかりはするんだよ。ほら、類は友を呼ぶと言うだろ。君は僕と同じなんだよ。他人に嫌われるのが嫌で恐い。だから愛想よく振舞うのさ。周りから好かれるように立ち回るんだよ。いわゆる八方美人というやつか。いや、少し違うな。僕らは空気を読んで周りに合わせはするが、しっかりと個々を主張している。だから周りから尊敬や羨望や嫉妬の眼差しを受ける。したがって」


 そこで言葉を溜めた赤宮は真っ直ぐ黒雪の顔を見つめ、そして黒雪もそれを真っ向から受け止める。そして、結びの言葉を告げる。


「僕と君は周りからは充実した幸せな日々を送っているように見えるかもしれないが、その姿は偽りだ。実際は誰にも心を許さず、本音は決して言わず、素顔を晒さない。さしずめ仮面を被った道化師ピエロだ、僕たちは。如何なる時も常に孤独なんだよ」


「……………………」


 対する黒雪は眉根をよせて押し黙る。悔しげに歪んだ顔をパッと俯かせたためどんな表情をしているのかは分からない。その態度は明らかに図星を示していた。その様子を真近で見る赤宮は愉しそうにニヤリと口の両端を吊り上げる。俺はその邪悪な笑みにたまらなく憤慨し、吼えた。


「紗千はテメェみたいなクズ野郎とは違げぇ! 孤独なんかじゃねーよ。紗千には俺がいるッ! 罵倒、暴言、毒舌なんて俺は最初から受けてンだッ! それでも俺は紗千のことは嫌いじゃねーし、これから先ずっとそうだって断言できるぜ!」


 俺は声を荒げつつも自信を持ってそう言い切った。赤宮は尖った視線を俺にぶつけてきたが、となりの黒雪は黒く大きな目を零れ落ちそうなほど見開いて驚いていた。そしてふと微笑を零すと、ひと言返してきた。


「君は……本当に変な人ね」


「うっせぇ!」


「ふふ……」


 張り詰めて強張っていた顔が和らぐ。黒雪は今日一番のおそらく心からの微笑みを浮かべる。場違いな笑顔ではあるが、荒んでいた心が清められたような気がした。後ろからなにやら冷えた視線をひしひしと感じるが気にしないことにした。


「くく、まったく見せ付けてくれるなぁー君たちは……。今のこの状況を理解しているのかな」


 俺は瞬時に気持ちを切り替え、声の主を睨みつける。赤宮は俺の視線に気付くと、ニタリと全身が総毛立つような笑みを満面に浮かべる。その笑顔から果てしなく嫌な予感がし、赤宮の視線が俺からとなりに立つ黒雪に滑ったところで、予感から確信に変わり気付けば俺は黒雪に向けて叫んでいた。


「紗千っ!」


 当の黒雪本人も赤宮の行動を察知していたようで、その魔の手から逃れようとするが、文字通り魔の力を宿した手はそれを許さない。魔力を秘めた剛腕が華奢な手をぐいっと引っ張る。黒雪はあっさりと体勢を崩し、たまらずよろめく。そこにもう片方の手が伸び、黒雪の体を容易く引き寄せると後ろから羽交い締めにした。


「……いやっ! 離しなさい赤宮君!」


「おいおい、こんな時まで命令口調かよ。まったくお高いお嬢様だ」


 ぎひ、という表現が似合う笑いを零す赤宮の表情には、歓喜と狂喜が同居している。その顔を肩越しに見たであろう黒雪の顔が焦燥から恐怖へと変わる。逃れようと暴れるが拘束が緩む気配は微塵もない。


「赤宮ぁ……!」


 押し殺した低い声が思わず漏れ、俺は静かに地面を踏み締めて両足に魔力を溜める。距離はあるが全力で跳べばフェンスの根元ぐらいまで到達できるはずだ。それからすぐにフェンスをぶっ壊して黒雪を助ける。


 そう決意しいざ両足を思い切り撓めようとした俺を、狙い澄ましたような赤宮の絶叫が撃ち抜く。


「だからァ……動くなって言ってんだろうがァァァァ!!」


 赤宮はぱんぱんに腫れた顔を大きく仰け反らせると勢いよく振り下ろす。


 そして大きく開かれた口から覗く吸血鬼を彷彿とさせる犬歯が首元に突き刺さった。


「うあっ……!」


 黒雪の口から苦痛の叫び声が漏れ、びくりと体が跳ねる。そして液体を吸うような不快な音が俺の耳に届く。あまりの憤激に一瞬視界がちかちかと明滅した。


「くっ……ふっあ……あっくぅ……!」


 じたばたともがき続ける黒雪は、眉根をきつく寄せ唇を噛み締めて痛みに堪えているようだった。しばらくしてやっと口を離した赤宮は恍惚そうに唇をぺろりと舐めると、黒雪を顔を覗き込むようにさらに体を密着させた。


「っ……ふっ…はあっ、はあっ……!」


 詰めていた息を吐き出すように荒い呼吸を繰り返す黒雪を、背中越しに眺める赤宮は愉快そうに笑む。切れ長の目元を曲線にし、腫れた頬を痛々しそうに引き攣らす。


「とても上質で甘美な血でした……。初めてやってみましたがこれは中々、クセになりそうです」


 その声に柳眉を逆立てて気丈に赤宮を睨み返す。その顔は苦しげに歪みながらも毅然としていた。


「くっ……。黙りなさい下衆ッ……!」


「まだそんな威勢を張れますか。ではもう一回しても大丈夫ですよね。それではもう一口いただきます!」


 返事をまたずに再び牙が首元に突き立てられる。怒りに全身が震え、視界が一気に赤黒く染まる。


「く、うあぁ……!」


 たまらず甲高い悲鳴を上げる黒雪と目が合う。眉間に皺が寄った苦痛の表情が強張った笑みを刻む。まるで大丈夫だ、と俺を宥めるような微笑だった。


 瞬間、はっきりと俺の聴覚野にぶちっと何かが切れる音が聞こえた。


 直後に、憤激が脊髄を貫き脳を焼き尽くす。


「ッ……赤宮ァ……貴様ァァァァ!!」


 全身が高温の熱を持ち、視界が白熱する。激昂するとともに地面を踏み締めて跳躍。どん、という轟音を置き去りにし全速で風を切る。猛烈な加速感が俺の体を押し潰そうとする。それを奥歯を全力で噛み締めて堪える。一直線に突き進み、ただひたすらに愉悦の表情を浮かべる赤宮を睨み据える。視界が急激に狭まり奴の姿しか見えない。


 顔を上げた赤宮が面倒くさそうにため息を吐き、目を細めつつ声高らかに叫ぶ。


「吸血鬼ーー、そいつを叩き落とせッ!!」


 瞬間、横合いから凄まじい風圧に吹き付けられる。体勢がわずかに崩れる。そちらを見やり少しの驚愕に息を詰める。巨大なぼろぼろの手がこちらに恐ろしい速度で迫ってきていた。ただれた傷口から飛び散る血液は風圧に呑まれて瞬く間に消失する。俺はその奥に戦意を燃やす深紅の双眸を見た。


 回避行動も取れやしない。まずいと思ったその刹那、俺の視界全てが白銀に染まる。目を凝らせばそれが鋭利な体毛だと分かる。


「ッフェン!」


 そう叫んだ瞬間、フェンの体が衝撃を受け全身が激しく震える。強烈な衝撃の余波が巨体を突き抜けて俺にぶち当たる。なすすべもなく完全にバランスが崩れる。


 死にものぐるいで前方に視線を振ると、口の両端をこれでもかと言うほど吊り上げた凶悪な笑みを浮かべる赤宮と、唇をきゅっと噛み締めてその怜悧な容貌を苦痛に歪める黒雪たちの姿が網膜に焼き付く。


 黒雪とばちっと視線がかちあう。向けられた視線には多大の心配と少しばかりの謝罪の感情が含まれていた。その瞳は大きく揺れ、そして濡れていた。


 瞬きほどの刹那が何百倍にも感じられた。しかし思い出したかのように俺の体を重力が襲う。一瞬の浮遊感の後に続くのは途轍もなく嫌な体の落下。すぐさま視界が校舎の壁で一杯になる。


 俺は空中で恐ろしい風圧に抗いなんとか頭を地面の方へ向ける。天地が逆転し薄雲の垂れ込める空が視界の上方にくる。どんどん落下速度が上がっていく。俺は無理やり体を捻り校舎の壁を睨む。そして両足にありったけの魔力を注いで思い切り壁を蹴る。


 靴底に途方もない衝撃を感じながら決死に空中で身を翻すと、なんとか地面に接地する。そこから何十メートルも地面を擦過し続けてようやく止まる。抉れて茶色の土が露出する地面を睨む。


「クソッ……!」


 俺は思い切り拳を地面に打ち付ける。怒りに拳が細かく震える。焼けるような痛みが生まれるが、そんなことはどうでもいい。口から零れ出たのは窮地を脱した安堵の言葉ではなく、自身の無力さへの怒りと苛立ちの台詞。


 ――――俺はたった一人の女も守れず、無様に相棒に助けられるような奴だったかよッ!


 腹部の焼け付くような鈍痛に自身の不甲斐無さを痛感させられる。奥歯を砕けんばかりに噛み締めつつ顔を上げると、真っ先に目が捉えたのは十メートルほど先の地面に倒れ伏せる相棒の背中。力なく横たわり、陽光を反射する体毛の輝きは鈍い。


 そこから横に数十メートル視線を滑らせると、深い色合いの燕尾服をたなびかせ、地に膝をつく紳士然とした怪人の姿。しかし、その体躯は俺と同じくらいまで縮小していた。本来の姿を保てなくなったと推測される。


 そして最後に視線を転じたのは二人の男女がいる屋上。女、黒雪の背中をさらりと流れる黒髪はいつもの艶を失い、雪のように白い肌は血の気をなくしており、強い意志を感じさせる瞳は伏せられている。今は羽交い締めを解かれているが、そのすらりとした華著な体は力なく後ろにいる男に預けられている。


「テメェに一つ聞きたいことがある!」


 その後ろの男に声を大にして問い掛ける。男、赤宮は髪を優雅に靡かせながら勝利を確信したような笑みを余裕げに浮かべながて頷く。


「何かな? せめてもの慈悲として答えてあげるよ。僕は今とても気分が良いからね」


 左手で黒雪を抱き留め、右手の指先で長い黒髪をもて遊びながら赤宮は上から目線で続きを促す。拳をぎゅっと握り締めて、質問を続ける。


「なんでテメェが吸血鬼の技を使えるんだ!」


 俺は眦を鋭くし、赤宮に向けて怒鳴る。静かなグラウンドに怒号が果てしなく響き渡る。


 これは看過できない重大な事件と言っていい。契約者が世に現れて約4年と半年が経過した現在で、魔獣の特殊能力を使えたのはたった一人しかいない。それは世界で唯一魔獣と融合できる適合者だけに許された特権であり、アイデンティティーだ。


 奴はどう高く見積もっても適合者でないのは確かだ。それぐらいは分かっている。ただ脳が目の前にある現実の理解を拒絶している。ありえない事が起きている、と思う理由は先日に魔獣研究者から確かに聞いたこの台詞があるからだ。


――――現在で魔獣の能力を使える者は世界でたった一人だと。


 確かに秋乃まゆりという人物は、寝食を忘れて研究に没頭するような女だが決して嘘を付くことはないと断言できる。俺は知っている、彼女は少々荒い性格だが誠実で嘘を付かず、意外と面倒見の良い優しい人だということを。


 赤宮は俺の怒声を意に介すことなく涼しい顔で返答を寄越してきた。


「お、理解が早いな。中々の観察力だね。さっきの跳躍といい、壁を蹴って着地するところといい判断力もあるみたいだ。さて、質問に答えてあげよう。話すと長いから簡潔にまとめると、この世界には君の知らない真実が無限にあるんだよ。流石にこれじゃ納得してくれないか」


「当然だ!」


「納得はしていないが、理解はしているだろう。特に今のこの状況を」


「ぐっ……!」


 俺は言い当てられ思わず歯噛みする。これには押し黙るしかない。ちらりと黒雪に視線を移す。赤宮に髪をいじられてもぴくりとも反応しない。しない、というよりできるほどの体力が残っていないのだ。その蒼白な顔付きを見てさらに歯噛みする。


 おそらく吸血鬼の能力はエナジー吸収ドレイン。噛み付いた相手から生命エネルギーを吸収し自分のものにする力。この推測は先ほどの吸血鬼の機動で確信に変わった。奴は完全に疲弊していたはずだ。どう見てもあれほどの動きができるほどの状態ではなかった。


「紗千からエナジーを吸い取ったってことか……!」


「ご名答! この短時間でそこまで解るとは流石イェーガーと言ったところかな」


 赤宮は小馬鹿にするような笑みを作りつつ応える。疲労を色濃く残していた顔は少しその色が薄まっているように見える。


 これが一番の問題だった。あの体の弱い黒雪から吸い取った。病弱ということはそれだけエナジーの総量が少ないということだ。つまり――――。


「今やこの僕がこの女の命を握っていると言っても過言ではないんだよ!」


 一際強い風が俺たちの間を流れる。俺の思考を呼んだかのように赤宮が吼える。その表情からは狂喜はなりを潜め、その代わりに狂おしいほどの歓喜が刻まれている。


「さあッ! 楽しい逆襲劇でもしようじゃないか!! 吸血鬼、僕のおかげで少しは回復しただろう。相手は君に任せる! 僕はここから高みの見物をしておくよ」


「まったく人使いの荒い小僧ですね」


 声高らかに宣言した赤宮の命で吸血鬼が立ち上がる。赤宮は本気だ、俺が何か妙なまねをすれば間違いなく黒雪を殺す。それほど今の奴は狂っている。


 そう思考を巡らした直後、眼前に吸血鬼が躍り出た。注意深く凝視していたが、その機動はまったく見えなかった。


 一瞬後、腹に体当たり気味の膝蹴りが叩き込まれた。たまらずぶっ飛んで地面を転がる。仰向けに寝転がり苛烈な痛覚とともに押し寄せてきた嘔吐感を堪える。


「ぐっ! かはッ! げほっ、げほっ!」


 咳き込みながらよろよろとなんとか立ち上がったところに、さらにもう一発鳩尾に拳が食い込む。足が地面から離れ体が宙に浮く。再び押し寄せてくる吐き気を意識するよりも早く眼前に高速の拳が風切り音を発しながら迫ってきた。


 直撃。


 頬に強烈なストレートパンチを食らう。視界が暗転し意識が飛びかける。次の瞬間見えたのは薄暗い空。地面に水平に吹っ飛んでいるのだと知った時に、視界の真ん中に突如として黒く振り上げられた片足が出現した。


 そして、直撃。


 視界が一瞬でブラックアウトし、顔と後頭部に尋常ではない痛みを感じる。顔は痛いを通り越して熱いに変わって、何か熱い液体を鼻と後頭部から感じる。思考が曖昧になり、意識が霧がかかったかのように不鮮明になる。


 それからどれだけ攻撃を浴びたのか、どのくらい時間が立ったのかもわからない。突然、耳を塞ぎたくなるような悲痛な絶叫が鼓膜に突き刺さったのを意識したそこで、自分が失神していたことに気付いた。


 生ぬるい風が頬を撫でる。それと陽光で熱せられた固い地面の感触と細かい砂が張り付いている感覚がある。重い瞼をなんとか持ち上げ、狭い視界の中に垣間見えたのは深雪のように真っ白な腹部。徐々に目を開けていくのと比例して、フェンの体躯の全てが見えてくる。


 距離は5メートルあるかないか。孤高な雰囲気を漂わす凛とした容貌は、激しく歪められている。体は細かく痙攣し、耐え切れないほどの痛覚が俺を通じて与えられているのだと悟る。


 口の中にアドレナリンと鉄の苦い味がして、これのおかげで俺はそれほど痛みを感じていないのだと察する。俺とフェンは向かい合って地面に寝転がっているようだ。視界の隅に幽霊のように立ち尽くす吸血鬼の姿が見えた。


 視線を水平に滑らすと、フェンと目が合った。その視線は先ほど受けたのと同じ感情を含んでいた。


――――本当、俺の周りにいる女はどうしてこう、芯の強い奴ばかりなんだ。


 俺は感覚がほとんどない右腕を必死に持ち上げる。手首に填められた道具のディスプレイを左手の指先でタップする。瞬時に3Dディスプレイが高速展開され、東京都の大まかな地図が表示されている。その地図には赤い光点が4つ、俺たちのいる場所を囲むように点在している。


「どうりで応援が来ねえわけだ……。これはかなり大事みてぇだな……。裏に何か巨大なテロ組織でもいンのか? 時間は……5分ぐらいしか経ってねぇか。これじゃ応援が来るのはもうちょい先だな……」


 擦り切れた掠れ声が漏れ出た。一語発するごとに焼けるように喉が熱く痛む。口の中の血を吐き捨て、激しく咳き込む。


 そしてなんとか呼吸を整えた俺は、今の状況を冷静に分析する。まず敵は人質を取り、こちらが反撃に出れば躊躇なく黒雪を殺すだろう。そして相手は黒雪から大量にエナジーを吸収し全快ではないにせよ、ある程度は体力を回復させている。


 対してこちらはすでに満身創痍。とてもじゃないが戦える状況ではない。こっちにはエナジーを回復する術もなければ応援もしばらくは来ない。まさに絶対絶命、孤軍奮闘と言ったところだ。

 まだ安定した言いがたい意識の中でそう思考を巡らすと、柄にもなく運頼みでもしたくなった。が、俺にそんな資格はないと耳の奥で囁き掛ける声がした。その声は紛れもなく自分のものだ。


 ――――自分自身も守れない奴には他人を守ることは絶対にできない。


 胸中でそう呟き、俺が口の端に自嘲の笑みを刻むのと吸血鬼が俺の頭を鷲摑みにしたのはほぼ同時だった。


 そのまま体が宙に浮き有無を言わさず腹に拳を打ち込まれる。


「「ぐはッ!!」」


 口から鮮血が迸り、骨が軋む音が鼓膜を揺らす。途轍もない激痛が一瞬で体中に伝播する。たった一発でまたも意識が飛びかける。


 吸血鬼の肩越しに苦痛を必死に耐える相棒の姿が見えた。牙を噛み締めて体を震わせ、懸命に痛みを押し殺そうとしている。そこには孤高の狼の哀れとも言える姿があった。


 その姿を目に焼き突けてから視線を眼前の吸血鬼に移す。蒼白い顔にはいくらか生気が戻り、血の大河のように赤い紅の瞳は鈍い輝きを放っている。空いた右手は力なく垂れ下がり、どす黒い血液がたらりと地面に一定間隔で落ちる。燕尾服は埃や土で汚れまくり、よれよれだ。


 目深に被ったシルクハットの下から無機質な瞳が見つめ返してくる。俺はその瞳を睨み返しながら訊ねる。


「テメェとしては……不本意な展開だよな。こんな薄汚ねえやり方で憧れの銀狼をぶちのめすのわよ」


 俺の掠れ声に吸血鬼は黙考するような間を作るが、それも数秒で終了しおもむろに口を開く。


「例え不本意だろうと魔獣は契約者の命令にただ従うしかない」


 淡々とした口調で答える吸血鬼の声音には、およそ感情というものが感じられない。今の彼は感情を持たないただの戦闘兵器のようだと内心で感想を呟く。


「やっぱり……俺ぁ主従関係は好かんわ……」


「吸血鬼ッ! もっとそいつを痛みつけろ!! もっと俺に悲鳴を聞かせろォ! そいつが泣いて俺に頭を垂れるまで徹底的にヤレッ!!」


 俺の呟きを搔き消すかのように歓喜の声が耳に届く。そちらに視線を振れば、そこには案の定赤宮が喚いていた。傍らにいる黒雪は完全に沈黙し、早くそれ相応の治療をしなければ命に関わるかもしれない。


「クソッ!」


 俺は吐き捨てるように声を荒げる。黒雪を一刻も早く助けたいのに、今の俺にはその力がない。途方もない無力感が押し寄せる。たとえこのぼろぼろの体に鞭打ったとしても、眼前の吸血鬼を倒すことはできないという確信がある。


 いくら考えても好機を見出すことのできない俺の耳に、ぞっとするほど冷たい声が滑り込よりんできた。


「受け賜わりました」


 静かな返答を最後まで聞くことなく、気付けば俺は遥か高く空中に放り出されていた。瞬時に最高点にまで達し、束の間の奇妙な浮遊感のあとには、全身が総毛立つほどの風切り音が耳元で唸る。


 いつしか空は雲が深く垂れ込む曇天に変わっていた。そして瞬時に視界中央には、燕尾服をたなびかせる痩躯の怪人が出現した。


 俺より高い場所にいるというのに、こちらより倍近い速さで落下し、瞬く間に俺に接近してきた吸血鬼は左拳を握り締める。回避行動を取ろうとした時にはすでに拳が腹部に突き刺さっていた。螺旋回転した拳はそのまま肉を抉らんばかりに食い込む。空が加速度的に一気の遠のいていく。


 呻き声をを上げる間もなく、背中から地面に激突する。骨が圧壊寸前まで軋み、筋肉が激しく痙攣する感覚、全身をプレス機にかけられたかのような苛烈な衝撃が肢体にぶち当たる。


 衝撃音で自分の悲鳴すら聞こえない。地面が急速に抉れ砂塵が大量に舞い上がり、すぐさま濛々と土煙が立ち込め視界が一気に霧に包まれたかのように悪化した。


 地面に全身が完全にめり込んでからしばしの沈黙があり、そこでやっと腹部から拳がどけられる。眼前の魔獣はかろじて原型を保っている左手を持ち上げ、シルクハットの位置を調整する。


 そこまで視認した俺に思い出したかのように激痛が襲う。まず腹部に激烈な痛みがあり、途轍もなく熱い。背部は神経が麻痺しているのか靄がかかったような痛みしかない。待ち望んでいたかのようなタイミングで吐血する。それは鮮やかな色合いではなく、どろりとした粘性のある暗い色をした血液だった。


「……くッ!」


 そこで腹部に違和感を覚え、右腕をなんとか地面から引き剥がして触ってみると、ぬめりとした不快な感触が伝わってきた。おそるおそる手を頭上に掲げてみると、その手は真っ赤に濡れていた。ぽたりと頬に熱い液体が落ちた。


「はっ……なんだよ、これ……」


 その声は恐ろしくか細く、不明瞭な発声だった。血肉の裂ける音すら聞こえなかった。視界はまだ暗く、曇天の空はまったく見えない。


「く……あっあああッ!」


 その時、悲痛な響きを持った悲鳴が轟く。俺は瞬時にそれがフェンの叫び声だと理解した。限りなく狭い視界の隅で巨大な影が蠢いた。その影は断続的に激しく動き、その度に切なげな悲鳴が響く。


 突然、視界が水中に没したかのように歪む。俺は零れそうになる悔恨の液体を引っ込めようとする。だが、景色は不鮮明なままだ。そこに、耳障りな絶叫が届く。


「ハハハハハハッ! ようやく音を上げたかァ! いや、いい声だ。実に良い! 女の悲鳴はなんと甘美な響きだろうかッ。耳が融けてしまいそうだ。魔獣の悲鳴も悪くはない。ほら、もっとだ! もっと叫べ! 声が嗄れるまで喘ぎ続けろォ!! ククッアハハハハハハハハ!!」


 愉しげな悲鳴が空気を震わす。姿は見えないが間違いなく赤宮は、見る者を不快な気分にさせる表情をしているだろう。奥歯を噛み締めた俺は、なんとか意地で頭を地面から引っぺがす。土塊がぼろぼろと落ち、髪や耳に不快な感触があるが気にしない。


 続けて全身に力を溜めて勢いに任せで上体を起こす。同時に腹部に電流のような灼熱の痛みが走るが歯を食い縛って堪える。


 直上の吸血鬼がぴくりと体を震わせ、シルクハットからこちらに視線を向けるが俺はかまわず大きく息を吸い込む。


 当然、気管に埃やらなんらが入り込むが、それでも俺は息を吐き出すとともに叫んだ。


「フェン! いますぐ異次元に退避しろ! そして傷が癒えるのを待ってから再び顕現しろ! そのころには俺のエナジーもある程度は回復してるはずだ! これはマスター命令だッ!」


 影に向かいそう厳命すると案の定視線の先の影は動揺に体を震わせ、すかさず反論してきた。


「そんな……! マスターを置いて逃げることなんてできませんッ!!」


 短い叫びは切実な響きを持って俺の胸に突き刺さった。胸の奥が鋭く疼くが、それでも俺はなおも吼える。 


「お前の意思は関係ない! これはマスターの命令だッ!!」


「……ッ!」


 前方から息を呑む気配。傍に立つ吸血鬼がそうであるように、魔獣は原則的に契約者の命令に抗うことができない。それはフェンであろうと同じだ。それに、異次元に戻れば一時的に痛覚のリンクが切れる。だが、リンクそのものは切れないので俺が死ねば異次元にいようがその時点でフェンも死ぬ。


 俺は今までフェンに命令をしたことがほとんどない。俺自身がフェンと対等の『相棒』としての関係を保ちたかったからだ。その理由は俺が束縛や相手のためを思ったつもりの押しつけがましい命令を嫌悪しているからだ。



 だから赤宮のあの態度にも憤激し、今激しい自己嫌悪に陥っているのだ。小学生の頃、担任によく言い付けられた言葉が脳裏を過ぎる。

 

 ――――自分がされて嫌なことは他人にもしてはならない。


 まったくもってその通りだ。この胸を抉られるような痛みがその言葉の正当性を主張している。心の中でフェンに謝る。けどこれ以上、俺の詰めの甘さで誰かが傷つくところを見たくない。


 この現状は俺の甘さが招いた結果だ。俺がさっさとそれこそ体育館裏の時点で赤宮を完全に気絶されるなりしていれば、黒雪やフェンを苦しませることもなかったのだ。


 だから、フェンだけでも逃げてほしかった。さっきはああ言ったが仮にフェンが完全回復したとしても、そのころにはすべてが終わっているだろう。血を吐き出し続ける傷口を見やり顔をしかめる。それを見て俺のエナジーに回復の兆しがまったくないことを悟る。 


 吹き抜ける風のおかげで、しだいに煙が晴れていき視界が回復していく。視界の中央に鈍い銀色が姿を現す。凛とした顔立ちには困惑が色濃く滲んでいる。目立った外傷はないが、引っ搔いたように削られた地面が痛みの凄惨さを物語っている。

 

「マスター……!」


 切迫した声が鼓膜を揺さぶる。その声に俺は深く頷き、フェンの複雑そうに揺れる瞳を見つめる。頼りなき光を湛える瞳が見返してくる。俺は唇の動きと視線だけで訴える。


――――頼む。今は俺の言うことを聞いてくれ。


 意味を理解したのだろう、フェンは大きくかぶりを振る。まばらに滞空する埃類が宙を流れる。


 その時、がしっと頭を摑まれた。そのまま持ち上げられる。埋まったままの下半身が無理やり剥がされ、土塊がぼろぼろと落ち宙吊りにされる。


 顔を正面に向け直すと紅の双眸と目が合う。その中に光はなく虚ろな目をしていた。肩越しに屋上を仰ぎ見る。


 生ぬるい風に制服をはためかせ、曲線になるほど目を細めて口の両端を裂けそうなほど吊り上げた笑みを浮かべる赤宮は、下衆の極みだと思った。顔を蒼白にした女の子を愛おしそうに抱き留めている時点で、やはり正気の沙汰ではない。


 俺と目の合った赤宮が何か言おうと口を開きかけた、まさにその時。


「そこのお前、黒雪さんを離しやがれ!!」


 快活な声が静寂を切り裂いた。全員の視線がその乱入者に集まる。俺は唐突に屋上に現れたその人物を視認して、驚愕に両目を見開く。喉が鋭く痛むがそれでも呟かずにはおれなかった。


「…………大輝……?」


 遠目でも分かる堂々とした立ち姿。体育会系特有の自信に溢れた容貌は赤黒く染まり、怒髪天を突いていた。笑えば綺麗な曲線になる切れ長の目は鋭く吊り上がっている。


 突然、怒声を浴びた赤宮はしばし目を丸くしていたが、じーと大輝を凝視すると気を取り直したようにありありと憎悪の滲む声を上げた。


「君が僕の女を口説いていた男か。愉しいショータイムの途中なんだ、邪魔しないでくれるかな。いつもの僕なら今すぐに叩き潰すところだが、今は気分が良い。邪魔をしない限り君に危害は加えない。どうだい、君も見ていかないか? もうすぐショーのフィナーレなんだよ」


 鷹揚な態度でそう告げた赤宮はこちらに視線を移した。怒りに全身を震わせながらも大輝は、つられたように視線を動かす。そして俺と目が合うと両目をカッと見開く。


「……剣児!? なんでお前が……!」


 状況を呑み込めず困惑する大輝に、嫌らしい笑みを向けて赤宮は言った。


「あれ? もしかして知り合いかい? それならなおさら見ていけばいい。集団に馴染めないような奴が調子に乗ったらどうなるか……。やれ吸血鬼!」


 ばっとこちらに顔を向けて、甲高い声で命令した。命を受けた吸血鬼は首肯で応じる。


「御意」


 こちらに向き直り、冷たい声が耳に滑り込んだと思った時には肘から先が千切れた腕が閃いた。


 直後に、腕が裂けた腹に突き込まれた。


「ぐああああぁぁァぁぁァぁッ!!」


 神経を抉られたような猛烈な痛みが脳天を突き抜ける。否応なく全身が電気ショックを受けたかのように痙攣し、意識が一瞬飛んだ。体の中を搔き混ぜられる不快感が意識を蝕む。地面に踏ん張ることも倒れてのた打ち回ることもできずに、痛みがダイレクトに響く。


「はぁ……! はぁ……!」


 しばしその状態が続き、ようやく腹から腕を引き抜かれた。また大量の血液が零れ落ちるのを意識することもなく、荒い呼吸を繰り返す。まだ不規則に全身が震える。


「クヒャヒャヒャ! みろよあの情けない顔をッ! ほら、もう一度言ってみろよ。イェーガーとしての責務を全うするため、だったか? 簡単には終わらせないよ、このむちゃくちゃにされた顔の借りはきっちり返さしてもらう!」


 赤宮は真っ赤に腫れた頬を擦りながら一瞬大輝に視線を投げると、歓喜の奇声を上げる。その様を唖然と見ていた大輝は、視線を下げ右手を持ち上げて胸の前で握り締めると、キっと赤宮を睨み付けて低く押し殺した怒号を放つ。


「お前は……ぶっ殺すッ!!」


「大輝やめろ!!」


 喉が裂けんばかりに叫ぶ。だが、俺の静止の声もすでに大輝には聞こえていないようだ。勢いのままに床を蹴ると、猛然と赤宮に突っ込む。激昂して迫る大輝を冷たく一瞥し、特に焦る様子もなくその場に立ち続ける。


 大輝は拳を思い切り引き絞る。赤宮はその瞬間を見計らい、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す黒雪を盾にするような立ち回りを見せた。放たれた拳は黒雪の顔をあわやというところで軌道を変えて、顔の真横を通り過ぎる。


 突進の推力と体重を乗せた拳を放った大輝は、一時的に硬直を強いられる。その一瞬は契約者の赤宮にとっては、途轍もなく長かったであろう。


 平然と黒雪の背後から姿を現すと、ぱっと黒雪の体を離し右拳を握り締める。そして当然の如く放つ。それは見事に大輝の顔面にクリーンヒットした。空中に鮮血を撒き散らしながら大輝は10メートル以上吹っ飛び、屋上を囲うフェンスに激突した。


 赤宮はすぐさま黒雪の体を左手で抱き寄せた。しばしの静寂のあと、赤宮は嘲笑とともに冷たい声を上げる。


「君はバカか。普通の人間が契約者に勝てるわけがないだろう。簡単に頭に血が上るところはさすが体育会系男子だな」


 そこで一旦言葉を切り、ちらりと傍らの黒雪を一瞥し、陰のある紳士的な笑みを大輝に向ける。


「会ってみて再認識したよ。この女は君にはもったいない。頭の悪い君にはね。やはり僕のような男が彼女にはふさわしい!」


「小僧! 時間だ。たった今、周囲の魔力反応が消滅した。全滅したようだ。直にここにも敵が押し寄せて来る。逃走することを推奨する」


 喚く赤宮に感情のない淡々とした声音で吸血鬼が突っ込んだ。その顔には僅かな安堵の色がある。彼にとってこの状況は不本意であり、一刻も早く終わらせたいのだろう。その正論に赤宮は大きく舌打ちする。凹んだフェンスに身を預け、床にへたり込む大輝は沈黙している。赤宮は体ごとこちらに向き直りそして右手を大きく広げ、声高らかに命令する。


「大いに不満は残るがそろそろ終わりにしてあげるよ、牙狼剣児。ここで寛容な僕は君に慈悲を与えようと思う。あまりねちっこくすると彼女に嫌われそうだからね。吸血鬼、痛みを感じさせることなく一息で殺せ!!」


「承知致しました」


 事務的口調で短く応答すると、吸血鬼はさらに俺を高く持ち上げる。こちらを見上げる吸血鬼は無表情で俺をただの物としか認識していないようだった。そして俺の首を摑む右手に尋常ならぬ力が籠もる。一気に首を圧迫される。


「ぐっ……あ……ああ……かっ……!」


 喉が強烈に絞められてたまらず喘ぐ。咄嗟に両腕で吸血鬼の右腕を摑むがびくともせず、むしろどんどん力が強くなっていく。


「マス……ター……! マ……スター……!」


 同様に首に圧迫感を味わうフェンの掠れた叫び声が断続的に耳に届いたが、しだいにその音量が小さくなっていく。そして数秒後、まったく聞こえなくなる。フェンの声が聞こえない。


 血を吐き出し続ける腹からするりと冷酷な死神の手が滑り込んでくる。意識に厚く、重い紗がかかっていく。視界が暗く除々にその色彩を失っていった。途端に両腕から力が抜けて吸血鬼の右腕から手を放してしまう。


 真っ白になっていく視界にかろうじて屋上に立つ彼奴の姿が入る。しかし俺の視線は黒雪に集中していた。不気味に白い顔はほぼ生気を失っている。不意に伏せられた長い睫毛が少しだけ上げられた気がした。


 わずかに垣間見えた黒い瞳には、かすかだが確かに意思の炎が灯っていた。黒雪は今なお戦っている。この絶望的状況の中で諦めずに戦い続けている。


 突然俺の脳裏に幾つもの断片的な記憶がフラッシュバックした。


 日差しの厳しい3年前の夏。飛び散る鮮血と額に刺すような痛み、そして眼前で年端もいかない少女の返り血を浴びる男の姿。自責の念に駆られたあの瞬間。


 続いて冷え込む1年前の冬。真っ白なベットに横たわる親友の姿。自身の無力さと矮小さを再認識し、そして鈍すぎる自分に対しての苛立ちと怒りを覚えたあの瞬間。


 最後に昨日の夕暮れの街。落陽を反射するビル郡、朱色に染まる街並み。目の前で底しれない闇を垣間見せた少女。他人に頼らないその気丈な姿はひどく痛々しく、触れれば壊れてしまいそうな儚さを纏っていた。その姿にかつての親友の姿を見たあの瞬間。


 それらの情景は耐え難い痛みとなって俺の意識を覚醒させた。


「ああッ!」


 俺は両目を見開き、自分の首を絞める力を振り絞って腕を摑む。わずかばかり爪が腕に食い込む。吸血鬼が意外そうに僅かに目を見開く。


「ここで抗うか」


「俺は……こんなとこじゃ……終われねぇ……!」


 喉が頼りなく震え、掠れた呻き声が漏れる。俺の言葉に吸血鬼は深く頷くと、さらに手に力を籠めた。

急速に呼吸が困難になり、それでも俺は喉が裂けんばかりに絶叫した。


「俺……はこんな……とこ……で……終わる……ため……に……契約者……になった……わけじゃ……ねェ! 負けて……たまっかよ……ォォォォォォ!!」


 俺の口からひどく掠れた叫び声が迸ると同時に、体を強烈な白い光が包んだ。


「くおっ……!」


 吸血鬼は眩しそうに目を細めると、俺の首から手を放しすぐに後方に飛び退る。地面に着地した俺は数歩たたらを踏む。体の内側から滾ってきた燃えるような高熱が白光に同調するかのように、その熱量を上がっていく。体が、脳が融けそうだ。全身を包む眩く輝く謎の光はしだいにその輝きを増していき、突如俺の視界がホワイトアウトした。








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