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ヤンキー君の憂鬱な日常

 7月4日火曜日。 


 朝の陽光が燦々と降り注ぐ。涼やかな風が頬を撫でる。途切れることのない雑踏が寝起きの聴覚を刺激する。周りには幾重にも広がる人の波。朝の駅には初めて来たので、内心で舌を巻く。


 駅の外でこの人の多さだとすると、電車の中はいかほどなのだろうと想像しようとしてやめる。寝起きの頭には少々きついイメージが浮かんできそうだったからだ。


 雑踏の喧騒と遠くから聞こえてくる重機の轟音をBGMに、出勤途中のサラリーマンを眺めて、社会人は大変だなとのんきな思考を広葉樹の下に設置されたベンチに座りながら展開する。顔を上向けると、梢から斜めに木漏れ日が差し込み、風にそよいで瞬く。


 時刻は7時30分。いつもならまだ家でゆっくりしている時間だ。駅の改札方向を見つめ、今の状況に苦笑する。駅は自宅と正反対の位置だし、待ち合わせをしたわけでもない。ただ俺が勝手に待っているだけ。


「これじゃ俺がストーカーだな……」


 ぽつりと呟いて、さらに苦笑する。だが、事態はそんなことを気にしている状況ではない。


 昨夜、黒雪を駅まで送り届けてから帰路に着いた俺は秋乃に電話をかけた。気だるげな声で応答した秋乃に一つ質問をした。数秒後に電話口から返ってきた答えは見事にビンゴだった。礼を言って通話を切ろうとした俺に秋乃はこう告げた。


『念のために言っておく。頼むから魔獣絡み以外でトラブルを起こすなよ。君は第二の適合者となりえる素質があるのだからね。不良に言っても仕方ないとは思うがね』


 勘に触る言い方だったが、彼女なりに俺の身を案じてくれたのだろう。その想いを素直に受け取りたいところなのだが……。


「俺が第二の適合者ね、それが俺を指名した理由か。あっさり謎が解けたもんだ。……なれたらいいのにな……。……俺の推測がもし間違ってたら……その時はごめんな、せんせー」


 往来を行く人々をぽけーと眺めながら、もしもの場合を考えて先に謝っておく。


 適合者というのは魔獣とのシンクロ率が100パーセントに達し、魔獣との融合を可能とする契約者のことだ。シンクロ率MAXの成功率は限りなくゼロに近い。


 実際にその極致にたどり着いた者は世界でたった一人しかいない。困難ではあるが、たどり着けば鬼神のごとき力を得る。


 この際に俺は自分の立場を改めて考えてみる。


 契約者は社会的に微妙な立場だ。救世主、または英雄ヒーローであると同時に、テロリストや戦争そのもの扱いもされている。そのため契約者である例えば俺とかが、魔獣絡み以外で何か問題を起こした場合、特にイェーガー所属の契約者の肩身がさらに狭くなってしまうのだ。

 

 特に、といっても現在確認されている契約者の総数が約100人。これは世界規模の統計だ。その中でイェーガー所属の契約者は全体の約6割を占めている。つまり、半数以上の契約者の皆さんに迷惑がかかるというわけだ。そして、必然的に残りの4割が世間に迷惑をかける奴さんたちだ。


 時間潰しに携帯をいじっているとある記事に目が留まった。そして、うんざりして鉛のように重いため息を盛大に吐き出す。また契約者のテロ活動だ。場所は日本ではなくアメリカ合衆国テキサス州。


「またか……。いくら潰しても沸いてきやがるな。ゴキブリかっての」


 イェーガーはその言葉通り契約者を狩る存在なわけだが、割り合いを見れば分かるが狩る側の方が圧倒的に多い。ではなぜ一向に敵性の契約者は全滅に至るまで駆逐されないのか。理由は二つある。


 まず一つ目は、契約者の増加と減少が均衡しているからだ。いくら狩っても狩った分だけ沸いてくる。故に消えない。その原因は人間の心の弱さだと秋乃は推論していた。


 魔獣と契約者の関係は基本主従関係である。しかし、一番最初はそうではない。その象徴として一つの法則がある。契約者となりうる人間を見出すのは、魔獣そのものだ。それが今の通説だ。実際これは事実だ。ちなみにソースは俺。


 つまり、契約者は自分の方から自由に魔獣を選ぶことができないのだ。スペックの高い魔獣に選ばれるかどうかは運次第だ。だが、シンクロ率によって魔獣の力は変わるので一概にも強い魔獣に選ばれた契約者が強いとも言えない。


 この法則があるせいで誰が契約者に選ばれるか検討をつけられない。しかし、全ての契約者には一つ共通点がある。それは強さを求める心、強くなりたいという欲望だ。そんな欲望は誰しも持っているものだが、肝心なのはその理由だ。


 なぜ、力を求めるのか。これに尽きる。そして、この欲望の根源が共通している。契約者は一人の例外もなく皆、過去に魔獣または契約者に対してトラウマを持っている。『悪魔の一週間』から半年後に急速に契約者が増加したのも考えれば秋乃の推論を正しいと言える。


 人間は順応する生き物だ。半年ほど時間が経てば大抵の人間は現状を俯瞰的に認識することができる。つまり、心に少しだけ余裕ができるのだ。しかし、それは心に隙ができるということでもある。その隙間から溢れでるは絶望、憎悪、復讐心だ。


 その負の推進力に背を押された者は力を、強さを求める。そういう人間を魔獣は選ぶ。人間の心の弱さが契約者を生む、か。まったくその通りだと思う。


 そして二つ目は、


本当ほんとイェーガーは良いよな。暴れられるは金はもらえるわで。オレも契約者になりてーー!」


「けどよ、あれ。暴れ過ぎるとやっぱだめらしいぜ。周りへの被害が大きい分だけ報奨も低いんだとよ」

  

「だから、スカッと倒せば問題なしってことだろ。マジ楽勝。今のイェーガーは無能ばっか」


 改札の方から男が二人喋りながら歩いて来た。見たところ高校生だ。うちの生徒ではない。割りと大きい声で話していたので内容は聞こえた。ふと、二人の内の一人と目があった。そいつはぎょっと目を剥くともう一人の男と一緒にそそくさと歩き去っていってしまった。


 気付くと眉間に皺が寄っていた。どうやら知らず知らずの内にメンチを切っていたらしい。


「何が楽勝だ。契約者になったあとからもういっぺん言ってみろってんだ」


 吐き捨てるように呟く。『あの』試験を受けてからも同じことが言えるのだろうか、あの二人は。胸中に沸き立つ苛立ちを抑えるために、一度大きく息を吸ってからゆっくり吐き出す。心の波が少しだけ落ち着いた。 

 

 それで、二つ目は先ほどの二人の会話のほぼそのまんまと言ってよい。


 イェーガーは敵の契約者を無力化する|(正確には拘束する)とイェーガーという組織自体から報奨金がもらえる。このシステムが作られた理由は至極単純。褒美があったほうがモチベーションが上がるからだ。


 そして、周囲への被害の大きさに比例して報奨金は下がる。なるほど確かに、一般人にとっては羨ましい待遇だろう。しかし、案外この報奨金目当てで敵を狩る契約者は少ない。


 だが、考えてみればこれは当然のこととも言える。なんたって敵は凶悪なテロリストだ。万が一にも殺されてしまう危険性があるのだ。そして、契約者と魔獣は命を共にしている。いわば運命共同体だ。たと

え自身がほぼ無傷だとしても、魔獣が死ねばその時点で契約者も死ぬ。


 この世に死の危険を冒してまで金を欲しがる人間は、果たしてどれほどいるだろうか。


 これが二つ目の理由だ。敵を狩る狩猟者が圧倒的に少ないのだ。この点が契約者が嫌われている一つの要因だ。常軌を逸脱した戦闘能力を発揮させる魔力と、巨大な魔獣を従えるほどの権力を持っているにもかかわらず戦おうとしない。力を欲しても手に入れられない奴にとって、これほど腹立たしいことはないだろう。


 そこまで思考を巡らせ、ふと改札の方に目を向ける。そしてわずかに目を見開く。


 常に人間を吐き出し続ける駅の改札から一人の女がこちらに歩いてきていた。


 朝の陽光を艶やかな髪が反射してまるで燐光を放っているようだ。ひしめく人並みを縫うように颯爽と歩いてくる。その姿は途方もない存在感を放っていた。まるで広大な草原の中に咲く一輪の花の如し存在感。あれが本当の意味で高嶺の花か、と思いしみじみと嘆息する。


 ローファーをかつかつと鳴らしながら歩み寄ってきた令嬢は、俺の前でぴたりと立ち止まると冷ややかな瞳で見下ろしてきた。そして低いソフトな声が耳を打つ。


「まさか君が件のストーカーだったなんて。私も人を見る目が落ちたわね。反省するわ」


「ちょっと待て! 貴女あなたはなにか重大な勘違いをしている」

  

「警察に電話しないと」


「せめて俺の話を聞け!」


 思わず立ち上がった俺は見た。気温が3度くらい下がるのではないか、と思わせるほどに黒雪の視線は冷たかった。黒雪が面倒くさそうに嘆息すると、耳に指を掛けて上品な仕草でパッと黒髪をかき上げた。長い髪が綺麗に宙を泳いだ。


「それでなぜ君をような直情バカが手紙なんていう回りくどいマネをしたのかしら」


「ぜんぜん人の話聞いてねーっ!」


 黒雪は一瞬、何を言っているのか分からない、と言わんばかりの顔をした。不思議そうに質問してくる。


「ストーカー行為に至った経緯を私に話してくれるのではないの?」


「ぜんぜん違うわ! かすりもしてないわ! 俺の弁解を聞けと言ってるんだッ!」


「ごめんなさい。さすがの私でも類人猿の言葉は分からないわ」


「全世界の類人猿の皆さんに謝れ!」


 怒鳴り声を上げるも黒雪は澄ました顔で意に介さない。俺は疲れて苦悩のため息をつく。どうやらこの女に口では敵いそうにない。気を取り直して少しの勇気と努力で強張る口を動かす。


「偽物と言えどもこ……恋人だぞ、俺は。か……彼女と一緒に登校したいと思うのは変なことじゃないだろ」


 気恥ずしかったのでぶっきらぼうな口調で言う。免疫力のない俺にしては勲章ものの台詞だったと内心で自画自賛する。さて、どんな反応をするのやら。やられっぱなしは性に合わない。まあ、澄まし顔で流されるのは明らかだが、それでも少しばかりの反抗をしてみた。


 黒雪は一瞬きょとんと目を丸くしたが、やがてうっすらと頬を赤く染め、少し口角が上がった。俺は意外な態度に目を瞠った。


「くさいわよ、バカ……」

 

 それだけ言うと黒雪は硬直する俺を置いてそそくさと歩き去ってしまった。しかも、


 カツカツカツカツカツカツ。


 とローファーを音高く鳴らしながら驚くべきスピードで。


 しばらくして正気に戻った俺は慌てて、すいすいと回遊魚のように人波を避ける背中を必死に追う。まったく人にぶつかる気配を見せない。なんて精彩のある歩みだろうと内心で感嘆の声を上げる。おっかなびっくり人ごみの中を歩きながら、脳裏に先ほどの黒雪の表情を思い出す。


 にやけていたように見えたのは俺の気のせいか?



 前を歩く黒雪には割りと早く追いついた。何故なら早かったのは最初だけですぐにペースダウンしたからだ。考えてみればこれは当然のことだ。一日の半分は保健室にいるような彼女の体力などたかが知れているのだから。となりに並ぶと黒雪は少し息を切らしていた。


「大丈夫か?」


「平気よこれくらい。君が急に変なことを言うからよ」


「なっ……自分でも柄じゃないとは思ってたよ」


「本当に変な人……」


 まただ。常に黒雪は俺に冷たい声音で暴言や罵倒をしてくるが、この台詞を言う時だけ声に暖かさが宿る。彼女にとって特別な言葉なのだろうか。ちらりと黒雪を見るがその澄ました表情からはいかなる感情も読み取れなかった。


 俺の視線に気付いたのか、黒雪がこちらを見つめ返してきた。素っ気ない言葉を掛けてくる。


「なによ。いやらしい目で見ないでくれる」


「見てねーよ」


「ケンジ君は本当に目つきが悪いわね。その筋の人って感じ。きっと子供が見たら一発で泣くわよ」


「生まれつきなんだから仕方ないだろう。あ、今思ったことなんだけどよ」


「へぇーそうなの」


「まだなにも言ってねーよ!」


「それで」


「ぐっ……赤宮は聞いた限りスペックの高い、紗千と釣り合いそうな奴じゃないか。付き合えばいいんじゃないか」


 俺が意地悪い声音で提案すると黒雪はばっさりと切り捨てた。


「いやよ。あんな腹に一物持ってそうな人なんて」


 昨日会ったばかりだというのにこの会話だ。まるで旧知の仲のようだ。まあ、あちらが一方的に言ってきているだけなのだが。


 それからぱったり会話が途切れる。二人して幹線道路沿いの舗装された道を歩く。車の通る音と重機の甲高い音とかすかな振動が場を支配する。音源の方に目を向けると、道路を挟んださらに向こう側に5メートルはあるフェンスとその先の廃墟区を認めた。


 廃墟区、とは文字どおり廃墟なった街のことを指す。東京都の至る所に存在し、国が直々に関係者以外は完全に立ち入り禁止としている。5年の月日が流れ街は復旧されてはきているが、まだ完全修復にはほど遠い。関東地方で千葉、神奈川、茨城は東京ほどではないが同じような状態だ。これは海を泳いで上陸してきた魔獣による影響だ。


 俺らは二人とも黙ったまま静かに歩みを進める。これも、まただ。昨日もあったお互い無言なのになぜか気まずい空気にならない。むしろ落ち着くくらいだ。となりを悠然と歩く黒雪も前を見据えたまま依然のポーカーフェイスだが、どこか雰囲気が冷たくない気がする。


 胸中に生まれたやすらぎに自分自身で驚く。俺はなぜ会ったばかりの彼女に安心感を抱いているのだろう。この空気、どこか既視感を感じずにはおれない。自然体でいられる感じがする。そう、まるであいつ、タツミと一緒にいる時みたいな――――。



 学校に近づくにつれ段々と同じ制服の生徒たちが見られるようになってきた。それと同期して集まる視線と小さい囁き声。昨日よりも明らかにその数は多い。昨日の事件がもうかなり生徒たちの間に広まっているようだ。予想はしていたが、想像以上に居心地が悪い。俺だけなら一瞬視線を受けてすぐに逸らされるのだが、今はちらちらと何回も見られている。


 となりの黒雪を伺うが、やはり相も変わらずの澄まし顔だ。まったく意に介していない。


 感心せずにはおれない。よくこんな好奇心と疑心と羨望と嫉妬と殺意が複雑に混ざり合ったカオスな視線を受けて動じないとは。

 

 俺は肩をすくませて、この調子では確実に大輝にも知られているなと確信する。何と説明したものか。まさかストーカーに諦めてもらうために恋人のふりをしているとも言えない。言ったとしても信じてはもらえないだろう。


 何故ならとなりを昂然と歩く彼女は常に美しく、本人の意思に関係なく見るものを虜にする笑顔を持ち、病弱さを感じさせない毅然さと大人びた怜悧な容貌を合わせ持つ女なのだから。そんな女が俺なんかに頼みごとなんてするわけがないと思うのが自然だ。


 視線の集中砲火を切り抜けた俺たちは(黒雪はまったく効いていないようだが)玄関に辿り着いた。すると、そこにはある男が待ち受けていた。思わず顔をしかめる。


「赤宮総司……」


 そいつの名を口にする。目の前の男――――坊ちゃんこと赤宮総司は、昨日とは打って変わって紳士のような微笑みを浮かべている。正直言って気持ち悪い。


 赤宮がこちらに歩み寄ってきて、二人は下駄箱の狭間で相対した。奇しくも昨日と似たような構図だ。俺はどんな事態にも対応できるよう身構える。身構える、と言っても端から見たらやる気なさげに突っ立っているようにしか見えないだろうが。これこそ中学の荒れた時代に培った、相手の油断を誘う『あれ、こいつ顔に反して弱そうじゃねぇ』の構えだ。


 先に赤宮が口火を切った。


「おはよう、牙狼君。昨日はどうもすまなかった。少し動揺してしまった。君にはずいぶん失礼なことを言ってしまった。どうか許していただきたい」


 申し訳なさそうな声音でそう言うと、ぺこりと頭を下げた。眼前にあるストレートの短髪を見下ろしながら、これは演技なのでは、何か裏があるのではないかと逡巡する。


 朝の玄関で突然頭を下げる奴がいればそれなりに視線を集める。そして、そいつが人望が厚くいいトコの坊ちゃんならなおさらだ。なんだなんだと少しずつ人が集まってくる。このままでは俺が悪いみたいな感じになる。まさかこれを狙っていたのでは、と勘繰りながらも頷く。


「あ、ああ。俺は気にしてないから。お互い水に流そうぜ」


 腑に落ちないどころではない、だがやむなくこの場は納得しておく。スっと頭を上げた赤宮は安堵の表情を浮かべる。銀のフレームの奥の目が細まった。


「ありがとう。本当に昨日はすまなかった」

 

 その時、後ろから足音がしてそちらに意識を向けると、そこには別の下駄箱から履き変えた黒雪の姿。俺のとなりまで来ると、凛とした佇まいで綺麗に髪をかき上げると、出会った時に一度だけ見せた『あの』天使スマイルを浮かべた。


「おはよう、赤宮君。私も気にしてはいないから謝らなくていいわよ」


「おはようございます、黒雪さん。その慈悲、ありがたく頂戴します」

 

 そして右手を胸の前に掲げ、綺麗にお辞儀する。見事にその挨拶は様になっていて、格好いいですね。うん、憎らしいほどに格好いいよ。


 周りから「黒雪さんだ」「見て、赤宮君と一緒よ」「いつ見てもお似合いの二人よね」「あのとなりの男邪魔なんだけど」「……爆ぜろメガネ」という声が聞こえてきた。おい、最後の奴俺と友達になろう。


「私は保健室に行くからまたあとで、赤宮君」


 俺の恨めがしい死線にも気付くことなく、赤宮は柔らかい笑みを作る。それに応えるかのように、黒雪はにこっと微笑むと話は終わったとばかりにぎゅっと俺の手を握ると、赤宮の脇を通り過ぎていった。……え、手を……?


「ちょ……て、手を……は、離せ……」


 周りから「あの話ホントだったのかよ」「ガセネタではなかった……のか」と半信半疑の色を帯びた声が耳に届いた。よく見たら卒倒する者まで。


 鋭敏化された神経に透き通った柔らかい手の感触が伝わってくる。顔に血が上るのを意識しつつ、俺も卒倒しそうだとスパークする頭でぎりぎり思考する。俺の呻き声に聞き耳を持つことなく、たじろく俺を引っ張り続けた黒雪は、他の生徒に注目されながら保健室の前までスタスタと歩を進めてからやっと手を離した。


 高宮高校の校舎は第一校舎と第二校舎があり、エの字型をしている。第一は教室棟、第二は理科の実験や家庭科の調理実習など特別な時に使う部屋が集まっている。エの字の長い方が第一校舎だ。保健室はグラウンドに面した第一校舎の最も東に位置している。 


 振り返った黒雪は珍しく少しにやっと笑うと、からかうような声色で尋ねてきた。


「どう、どきどきした?」


「そ、そりゃどきどきしたわ。いきなり手を摑むな!」


「美男美女に挟まれた君があまりにも居心地悪そうだったから助けてあげたのよ。感謝くらいしたら?」


「……よく自分のことを平然と美女だと言えるな」


 憮然とそっぽを向く俺にしばしくすくす笑い続けた黒雪は、保健室の扉に手を掛けるとちらりとこちらを見て、なぜかおずおずと尋ねてきた。


「……ねえ、ケンジ君はお昼はいつもどうしているの?」


「いきなりだな。昼はいつも購買か食堂で済ましてるけど……それがどうした」


 唐突な質問だったが素直に答える。それから少し間が空いた。「ん?」と首を傾げる俺に黒雪は


「私はいつもお弁当なのだけれど今日は少し作り過ぎてしまったの。一人では消化しきれないから君も一緒に食べてくれない? だから昼休みは必ずここに来なさい、以上よ」


 一方的に早口でそう捲くし立てた黒雪は俺の返事を聞くまでもなく、保健室に入りぴしゃりと扉を閉めた。俺に背を向けていたので黒雪の表情を読み取ることはできなかった。


 数秒ほど唖然とした俺は我に返り、肩をすくめて思わず嘆息した。


「飯って……大輝に知られたら俺殺されるな、確実に」


 静かな廊下に俺の呟きだけが響いた。



 それから憂鬱な授業を四限こなした俺は、疲れて机に突っ伏していた。今日は胸ポケットに相棒はいない。授業から解放された生徒たちの歓喜の昼食タイムがこの場を支配している。中々にうるさい。


 まったくとんでもない災難だった。朝、教室に入った途端射殺さんばかりの冷たい視線を大量に浴びせられるわ、大輝にはHRが始まるまでこってり油を絞られるわ。


「なんとなく予想はしていたが……きついな」


 後で怒り覚めやらん大輝に訊いたところ、このクラスは俺と大輝以外は全員がファンクラブの会員で、その内の半分は親衛隊なる部隊に所属しているらしい。どうりで一段と冷めた視線をぶつけられるわけだ。現在進行形で。


「剣児」


 疲れ果てた俺の耳に押し殺した低い声が入り込んだ。ゆっくりと顔を上げると案の定そこには眉間に皺を寄せた大輝がいた。俺を顔を凝視しながら再度、今日何度目かの確認の言葉を口にした。


「お前、本当に黒雪さんとはなんでもないんだな?」


「ああ。何度も説明した通り、俺はさ……黒雪さんの告白現場にたまたま遭遇してしまい、目撃された黒雪さんは恥ずかしかったんだろうな。見られた仕返しに、俺の意思に関係なく勝手に、恋人のふりをしてるだけだ」


 辟易としつつも真剣な声音で、さぞ迷惑そうに説明する。まったくの事実ではないが、だからと言って嘘でもない。あの時のことを話したという事実を黒雪に知られたら社会的に殺されてしまうので、てか今でもう半殺しくらいにされているんだが。大輝には口外しないようにと釘を刺している。


 終始じとっとした視線を向けていた大輝は、俺の弁にぎこちなく頷いた。やむなく納得したらしい。10回の説明でなんとか納得してもらえたことに、胸を撫で下ろす。

 

「まあそうだよな……そうだよ、俺はなにを心配してたんだか。うん、そうだ」


「急にどうした?」


 言葉を切って得心したように大輝は、唸るように何度も頷いてから答える。


「いやな、冷静になって考えてみりゃ剣児みたいな野郎をあの黒雪さんが好きになるわけがないのだよ。俺はなにを焦ってたんだか。さっきまでの自分がバカらしいぜ」


「まったくだ。よし、大輝も納得したようだし昼飯でも買いにいくか」


 椅子から立ち上がりぐうっと体を伸ばしてからそう言うと、となりの大輝がさも当然のように


「じゃあ俺カツサンド」


「自分で買いに行け」


「ちぇー剣児のいけずー。だから友達できないんだよ」


 俺の返事に大輝は子供のように唇を尖らせる。


「気持ち悪い声出してんじゃねーよ。あと態度のせいじゃなくてこの顔のせいだ」


 ぶっきらぼうにそう言い返し俺は教室を出た。相も変わらずクラスメイトの視線は冷たいままだ。改めて考えてみると俺、黒雪に迷惑ばかりかけられているような気がする。


 ほかのクラスも昼食時間を楽しんでいるらしく、廊下を歩く生徒は少ない。弁当派の奴が多いのか、それとも授業終了と同時に食堂購買派は買いに行ってしまったためにいないのか。後者なら今ごろ生徒がその場所にあふれ返っているか。まあ俺には関係ないけどな。


 俺は案の定生徒のひしめく購買を素通りし、自分の教室とほぼ反対の位置にある教室の前で足を止める。保健室に近いこの教室。視線を上向けるとそこには1年G組の文字。クラスはAからHまでの8クラスあり、G組は進学校である高宮高校でも特に成績の高い生徒たちが在籍し、有名大学への進学者を輩出するためのクラスだ。


 入り口から中を覗き込むと運よく目的の人物がいた。視線を巡らせるが黒雪の姿はない。朝からずっと保健室にいるのか、あるいはHRの時だけ保健室にいて授業をしっかり四限受けてから、俺と飯を食うために今は保健室にいるのか。


 もし後者だったら正直言ってかなり意外だ。嘘をつくような奴ではないと思ってはいたが、それが俺に対してもそうだとはどうしても思えなかったからだ。あの辛辣な罵倒と暴言からして絶対黒雪は俺のことが嫌いだ。何故嫌われているかは皆目見当がつかないが。


「まあ、今はいないほうが好都合だ」


 ぽつりと呟いて俺はそいつの名を声を大にして呼ぶ。


 

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