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ヤンキーと令嬢と狼

「マスター起きてください。朝ですよ」


 混濁した意識の中に、凛とした聞き覚えのある声がするりと耳に入り込んできた。俺は呻き声でその声に応じると、心地よいまどろみの波に身を預けようとする。すると再び少女の声が聞こえてきた。


「マスター起きてください、マスター。……本当にマスターは朝が苦手ですね。あまりこの方法は使いたくないんですけど、このままではマスターが遅刻してしまう。これは仕方のないことなんです」


 何やら不穏な言葉が聞こえた気がしたんだが。嫌な予感がする。そして数秒後、その予感は的中した。


「あむっ」


 突然右腕に鋭い痛みが走る。まどろんでいた意識が一気に覚醒する。


「痛ってぇー!」


 あまりの痛さにベッドから跳ね起きる。窓から差し込む白い光に、時計を見ると7時を指していた。昨日寝たのが午後9時頃だったから、なんと十二時間寝ていたことになる。静かな部屋には首振り状態の扇風機の駆動音が響いている。


 視線を右腕に移すと、何かに噛み付かれたような痕が残っていた。まあ、誰がやったかは考えるまでもないが。俺はとなりに澄まし顔で寝そべっている相棒を見やる。銀色の狼は通常のサイズである5メートルから、1メートルほどの大きさまで縮小していた。


 魔獣は契約者のエナジーを消費することで異次元からこの世界に顕現できるわけだが、その方法以外でも魔獣はこの世に出現することができる。魔獣は契約者のエナジーを消費せずとも自身の魔力を使うことで顕現ができる。だがその場合、通常よりもかなりサイズが小さくなってしまうのだ。


 俺の視線に気付いたフェンがふっとこちらに顔を向ける。


「おはよう、フェン」


「おはようございます、マスター。気分はどうですか?」


「お前が噛み付いてきたせいで最悪だ。もっとほかの起こしかたはなかったのか?」


「せっかく私が起こしてあげたのに文句ですか。一回で起きないマスターが悪いんです」


 そう言うと、ぷいっと顔をそむけてしまう。俺はやれやれと思いつつ、視線を顔から下に移動させる。透き通るような銀色をした毛並みは、窓から差し込んだ光を浴びてきらきらと輝いている。俺はその美しい背中に右手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。


 フェンはぴくりと身じろぎすると、気持ちよさそうに目を細めて尻尾を振った。しばらく俺にされるがままになっていたフェンリルは、こちらに向き直ると顔を不快そうに歪めた。


「マスター、汗くさいです」


「七月のこの暑い時期に扇風機一台で寝れば、誰だって汗をかくさ」


 言い返すと、ちらっと天井端に視線を向ける。そこには長方形の四角い箱が備え付けられている。紛れもなく、エアコンである。夏場の暑さを吹っ飛ばしてくれる優れ物だ。だが、それは今年に入ってから一度も活躍していない。理由は一つ、フェンが冷房が嫌いだからだ。そのせいで俺は冷房の恩恵を受けることができず、毎日寝苦しい夜を強いられている。事実いまも全身は寝汗でびっしょりで不快感が半端ではない。


「さきにリビング行ってますね」


 フェンはぽつりと呟くと、ベッドから飛び降りてそそくさと部屋から出て行った。


「そんなに俺くさいのかよ」


 誰もいない部屋で呟き声が虚しく響いた。



 2035年7月3日月曜日。


 部屋から出た俺はすぐにシャワーを浴び、スーツそっくりの真っ黒い制服に着替え、朝食を作り始めた。俺とフェンリルは東京都第15区にある3LDKの平屋の一戸建てに暮らしている。両親とは別居しており、別に仲が悪いというわけではない。むしろ良すぎるくらいで、特に父さんと母さんは新婚かよ、と突っ込みを入れたくなるほどだ。


 今暮らしているこの家は6年くらい前まで暮らしていて、引越しをする際、売りに出さずに残していたのだ。なんでもこの家には新婚時代の思い出がいっぱいつまっているから、などという惚気全開の理由だ。呆れを通り越して感嘆する。


 この家には高校に入学する前の春休みに引っ越してきた。一人と一匹が暮らすには広すぎるくらいだ。数十分で朝食を作り終えて、楕円形の木製テーブルの上に並べる。白飯と味噌汁に鮭の塩焼きという簡素な料理だ。机の下にはフェンが行儀よくお座りしていて、物欲しそうな視線をこちらに向けている。


 魔獣は基本食事を必要としない。腹が減ったり、喉が渇いたりなどの原始的欲求はあるらしいが、絶食しても死ぬことはない。それに異次元空間に戻れば、欲求そのものが消滅する。だから本来なら俺に飯をせがむ必要はないのだが。


 俺はため息を呑みこむと今に始まったことじゃないしな、と納得してフェンの分の鮭の塩焼きと豚肉のしょうが焼きが乗った皿をフェンの前にコトンと置く。すぐに料理にかぶりつこうとする相棒を右手で制する。


「いただきますをしてからだ。いつも言ってるだろ」


「マスターのケチ!」


「ケチじゃない。これは食事をする前の儀式だ。我が家でこれをしない奴には飯を食わせない」


 ふて腐れた声で吠えたフェンはしばらく「う~~」と唸り続けたあと、ぼそりと「……いただきます」と呟いた。


「よくできました。それじゃ俺も食べるか、いただきます」


 両手を合わしてお決まりの台詞を口にする。と同時に肉にかじるつくフェン。一人と一匹は黙々と料理を食べ進めていく。数分で食べ終えた俺は、コップに注いだ麦茶を飲んで一息つくと、リモコンの電源ボタンを押してテレビを点ける。丁度、朝のニュース番組が放送されていた。その内容に俺の目は釘付けになった。


 画面右上のテロップには、荒々しい黒筆調で「魔獣同士の戦いで、街が半壊!!」と書かれている。


 現場に飛んでいるキャスターが、スタジオのゲストコメンテイターと談話しているところだった。


 キャスターの話を総合すると、昨日の午後二時頃に第25区で、魔獣が一体出現した。現場にはイェーガー所属の契約者が二人居合わせていて、すぐに交戦に入った。その戦いは15分間の激闘の末に、イェーガー側の魔獣が敵の魔獣を倒し、敵の契約者を捕縛して終結した。


 画面が現場の映像に切り替わる。そこはもう惨憺たる有り様だった。民家や家屋はほとんどが瓦礫と化し、ビル郡はほとんどぼろぼろと半ばから折れている。地面はひび割れ電柱は横倒しとなり、そこには灰色の世界が広がっていた。あちこちに火災の跡が見られ、凄惨な光景が戦いの激しさを物語っている。


 戦いの余波による被害者は1万人に上り、近隣の医療施設は野戦病院と化しているようだ。被害総額は約100億円だそうだ。今までの被害総額で第3位らしい。試験が終わって帰宅したらすぐ寝てしまったので今まで知らなかった。


 これでさらにイェーガーを含めた全契約者の社会的立場がさらに悪化しただろう。最近では契約者は戦争やテロと同じ扱いになってきていると聞く。国会の政治家のあるグループは契約者に人権を認めるべきではないとまで言ってるらしい。これでは救世主というより疫病神だなと思い、思わず嘆息する。


「これは……ひどいな」


「皆が私たちみたいに難しい試験に、合格したわけじゃないですから」


「そうなのか」


 これは初耳な情報だった。そんな俺を見てフェンは嘆息すると、呆れた視線を向けてくる。


「1回目の試験の前に秋乃が説明したのですが……。覚えてないんですか?」


「半年も前の話じゃねーか、覚えてるわけねぇだろ。それで、なんで皆が俺らみたいな試験受けてないんだ?」


 話を逸らした俺を見て、遠慮なくため息を吐くフェン。


「はぁ……。皆、試験は受けているんです。ただ、難易度が私たちとは違ったのです。私たちの試験の担当だった秋乃まゆりは、20人いる選考試験官の中でも1位、2位を争う実力者なんです。試験官は希望者が合格しうる実力を身に付けるまでつきっきりで指導するので、秋乃ほどの実力者と戦いたければ最低半年は待たなければならない。その点に関しては、私たち運が良かったです。秋乃から指名してくれましたから」


 俺もそれは同感だった。半年前、俺たちはイェーガーになるため面倒くさい履歴書を書き――――もちろんフェンリルは書いていないが――――イェーガー本部である防衛庁に送った。そしたら一週間後、電話がきたと思えば今週から試験を始めますときた。最低でも一ヶ月後だろうと思っていた俺たちはそれは驚いたものだ。


「なんで秋乃は、契約結んだばっかの俺たちを指名したんだろうな。希望者が少なかったのか」


「それは秋乃本人に聞いてみないとわかりませんね。まあ良かったではありませんか、実力をつけてからイェーガーになったのですから。私たちが戦っていればここまでの被害はなかったでしょう。……ただイェーガーになったからには、マスターも身の振り方を考えなければなりませんね」


 眦を鋭くしたフェンに、俺はそうだなと呟く。


 5年前、日本から約5000キロメートル離れた太平洋の沖合いで、突如次元の歪みが発生した。それは異世界とこちらの世界を繋ぐゲート。そこから出てきたのは体長5メートルを超える大量の怪物たちだった。そいつらが俗に魔獣と呼ばれる奴等だ。


 怪物たちは空を飛び、海を渡り、世界中に散らばっていった。驚くことに怪物たちは知能が高く、自我を持っていた。奴等は人類に攻撃を開始した。世界各国の主要都市に進撃を始め、人類も反撃したが魔獣に人類の持つ兵器類は一切通用せず、人類はなすすべもなく蹂躙されていった。


 このまま人間は滅亡するのかと思われた矢先に、魔獣たちを吐き出した異世界のゲートは出現から1週間で跡形もなく消滅した。それと同時に世界各地に散らばった魔獣たちも忽然と姿を消した。人類はなんとか滅亡を免れた。


 魔獣が猛威を振るったこの期間は後に『悪夢の一週間』と呼ばれ、東京都は天災とも言うべき魔獣の侵攻で尋常な被害を受けた。東京都は43区制になり(皇居のある場所を第1区として、そこから若い番号を振っていった)契約者が現れだしてから魔獣に対する警戒が異常なものとなった。


 その例がイェーガー日本支部がある防衛庁に設置された5基の魔力レーダーだ。日本国土で発生した魔力を感知して、全イェーガーに通達する。このシステムのメリットは、魔獣が出現する前に契約者を捕縛することができるということ。もし契約者が魔力を引き出せば、その時点で現在地が割り出されイェーガーの御用となるわけだ。俺も一回無意識に魔力を引き出してしまい、防衛庁まで連行されたという苦い思い出がある

 

 さて、話を戻すと――――


 契約者は世界的に危険視されていて、正義を掲げるイェーガー所属の契約者も例外ではない。イェーガーは一部の人間には救世主として拝められているが、大半の人間には畏怖されている。いつか人類に反旗を翻して、攻撃してくるのではないかと。


 基本的に魔獣に人類の兵器は通用しない。契約者を殺せば魔獣も死ぬが、人類最初の契約者は魔獣の体内に隠れるという荒業を使い、そうなってしまえば打つ手がない。現在、人類が魔獣に勝つ方法はイェーガーに頼るのを除けば一つしかない。核兵器を使用する。流石に核物質は魔獣の体内にいても防ぎきれないだろうという予想だ。まあ、日本は非核三原則を唱えているので万が一にも核が使われる心配はないだろうが。


 生まれつきの恐い顔のせいで、学校どころかご近所でも浮いている俺が、実は契約者で先日イェーガーになりましたなどと知られたら、本気で居場所がなくなる。下手したら魔獣や契約者を恨んでいる人間に刺されかねない。フェンはそれを危惧しているのだろう。


 思考を巡らせる俺を心配そうに見つめてくるフェンの頭を、少し乱暴に撫でる。俺は安心させるために努めて明るい口調で言う。


「契約者の個人情報はイェーガーが管理してるし、まあ今まで通りの生活しとけばバレないだろう。俺もこれ以上周りの人間に嫌われたくないし。お、もうこんな時間か。さっさと学校行くか」


 ちらりと視線を振って時計を確認すると、7時50分を回っていた。完全登校時間は8時40分なのでまだ余裕はあるが、早いにこしたことはない。テレビを消して立ち上がり自分とフェンの食器をシンクで水につけ、俺の後ろをついてきたフェンと夫婦みたいな会話を交わつつ、玄関でスニーカーを履いて家を出る。


 施錠をして、空を仰ぐと熱い陽光が降り注いできた。存在を主張するかのように蝉たちがかまびすしく鳴いている。げんなりしつつ、歩き出す。


 ここら辺は閑静な住宅街で道にはまばらに歩行者がいるが、明らかに俺を避け前方は何一つ障害物なし。どこの番長だよと辟易しつつ、足早に進む。後方から安堵のため息が聞こえてきて、舌打ちのかわりにため息を吐く。チクショウ、俺が何をしたってんだ。


 遠くから重機の騒音が耳朶を打つ。5年前の傷は癒えておらず比較的被害の少なかったこの地域も道路の補修や建物の修理が続いている。修復の手が回らない地域は今だに廃墟のような場所もあり、進入禁止となっている。


 それから数十分歩くと、俺の通う私立高宮高校の正門に辿りついた。周囲のほかの生徒の刺さるような視線を浴びつつ、下駄箱で履き替え1年A組の教室の扉を開ける。賑やかだった教室がほんの一瞬だけ静かになり、俺に集まる視線。だがすぐに逸らせれ、喧騒が戻ってくる。慣れたとはいえ、これはちょっとしたイジメになるんじゃないかと思ったがもちろん口には出さない。


 窓際の一番後ろという不良にお似合いな席についた俺は、すぐに机に突っ伏した。こうでもしてなきゃ時々感じる視線に耐えられなくなるからだ。そんな傍から見たら絡んでくるなオーラを放出しているであろう俺の耳に、聞きなれた声が飛び込んできた。


「よう! 剣児おはよ。相変わらず不機嫌オーラ出してんなー。朝から辛気くさい顔しやがって。お前の唯一の友達であるオレにその恐い顔を見せてくれ」


 堂々とした物言いで俺に挨拶してきた奴を見上げる。そこには憎らしいほど端整な顔立ちをした男子が満面の笑みで立っていた。こいつの名は小野大輝。短めのスポーツ刈りは爽やかさを演出し、人目で体育会系だとわかる。その顔は戦国時代の若武者のような凛々しさがあり、切れ長な眼は笑えば綺麗な曲線となり、残念なことにとても愛嬌のある顔をしているのだ。残念なことに。


「大輝、恐い顔は余計だ。あとお前、鼻面汚れてるぞ」


「うお、マジか!」

  

 驚いたように顔を仰け反らせ、ポケットから手鏡を取り出し、目を剥いて顔を手元に近づけると腕で鼻をごしごしと擦る。お前は女子か、と内心でツッコミを入れつつ、俺はその妙にオーバーなリアクションを見て察する。


「朝練のあとにまた保健室に行ったのか?あいかわらず熱心なことで」


「まあな。こんな顔で黒雪さんと話してたなんて、嫌われちまったかな……」


 語尾は小さくなり、顔を俯けて急にしょんぼりとしだす大輝。俺は内心で面倒くさい奴だなと思いながらも、フォローの言葉を口にする。


「そう落ち込むな。そのぐらいで嫌うような奴じゃないだろ、黒雪は」


「あったりめーだ! 黒雪さんはこの程度で人を嫌うような心の狭い人じゃねー!」


 がばっと顔を上げ、急に元気になりだした。どうやらさほど落ち込んでもいなかったらしい。俺が半ば呆れていると、大輝がビシッとこちらを指差してきた。


「剣児、なんでお前は呼び捨てなんだ! 理由を15文字以内で答えろ!」


「苗字なんだから別にいいだろ」


「よくねーし、あと15文字以内じゃねー!」


「文字数はどうでもいいだろうが。タメなんだからいいだろ。それに俺、さん付け嫌いなんだよ」


「それは普通自分が呼ばれるのがいや、みたいな感じで使うと思うんだが……。とにかく呼び捨て禁止だ! オレですらまださん付けなんだからな」


「わかったよ、これからはさん付けで呼ぶ」


 喚く大輝にうんざりして、適当に相槌を打つ。黒雪のことになるといつもこうなる。正直言ってかなりうざいが、羨ましいと思ったりもする。


 俺の反応を見て満足したのか、大輝は鼻の下を伸ばしながら喋りだす。


「黒雪さんあいかわらず可愛かったな~~。朝日を浴びながらのあの笑顔は反則だぜ。あれをもう天使だ」


 しみじみとそう語る大輝を見ながら、俺は大輝にうんざりするほど教えられた限りの黒雪の情報を頭から引っ張り出す。


 黒雪紗千くろゆきさち。高宮高校1年G組、出席番号は7番。知らぬ者はほとんどいないであろう有名人だ。理由はいくつかあるが、まず、それなりに名の知れた進学校であるうちの入試の成績でぶっちぎりの首位を獲得するほどの成績優秀者で、なおかつ文句のつけようがない華麗な容姿を持つことによる。


 もうひとつ彼女を有名人たらしめている理由は、病弱な体質だ。昔から体が弱いらしく、学校にきても一日の半分は保健室にいる。なのに、中間テストと期末テストの両方と抜き打ちの学力テストで学年1位を取っている。もはや天才の域ではなかろうか。


 そんな彼女に付けられたあだ名は、深窓の令嬢。いかにも男子が興味をそそられそうな言葉だ。事実、校内にはファンクラブが存在し、大量の会員がいて学年問わずほとんどの男子が所属しているらしい。中には女子の会員もいるらしく、大輝からこの情報を聞いたときは心底驚いたものだ。


 なぜなら、男子にモテる女子とは嫉妬の対象になりやすいと俺はイメージしていたからだ。特に女子の嫉妬は恐ろしいという。普通ならいじめられかねないものだ。


 彼女がそうならないのは、深窓の令嬢というあだ名とは裏腹に毅然とした性格ゆえだろうと大輝は推測していた。嫉妬よりも憧れのほうが強いのだろう。俺は実際に会ったことがないので同意はできなかったが、大輝が言うからにはそうなのだろう。


 目の前で間抜け面をしているこの男は、サッカー部に所属していて毎日、朝練が終わると保健室に向かう。保健室はグランド側にあり、窓越しに黒雪と会話という名のアピールを行っている。


「前から思ってたんだけどよ、大丈夫なのか?高嶺の花なんかに手を出したらファンクラブの奴等が黙ってないんじゃないか?」


 俺に対して口は悪いが、それでも唯一の友達だ。俺が心配してそう訊くと、大輝は二カッと笑いサムズアップしてきた。


「その点は問題ない。会員が黒雪さんにアタックすんのはダメだけど、オレは会員じゃないし。それに、ファンクラブの掟第10条に、『会員は黒雪さんの恋路を全力で応援する』ってあるからな」


「へー、ずいぶん寛容なファンクラブだな。まあそれなら安心だ。ま、頑張れよ。俺は何もできないけど応援してるぜ」


 そう言ってやると大輝は、笑みを深くした満面の笑みで元気よく言った。


「あんがとよ。マジで何もしなくていいからな。不良の友達がいるなんて黒雪さんに知られたら、オレの好感度が下がる」


 胸倉に摑みかかりたい衝動を必死に抑えつつ、俺は押し殺した声で言い返す。


「オイ、俺にケンカ売ってんのかそれは。あと俺は不良じゃない、断じて。顔が普通の人より恐い平凡な高校生だ」


「そういう態度が不良ぽいんだよ。あと恐い顔だって自覚があったんだな」


 大輝は楽しげに少し笑いを押し堪えながら言った。その姿がどっかの白衣の女性と重なり、気付けば大輝の頭をどついていた。


「いって~な。はいはい、わかったよ。剣児はだいぶ顔が恐いけど普通の奴だよ。俺と何も変わらないどこにでもいるただの高校生だ」


 笑いながら頭を軽くさする大輝は、後半を強調するかのように大きい声でそう言った。周囲の喧騒が一瞬だけ小さくなる。これはクラスの皆に向けたものだ。大輝は俺のためにこうやってたびたび俺は不良ではないアピールをしてくれる。クラスのムードメーカー的存在である大輝の言葉はそれなりに効力があるはずなのだが、今のところ気兼ねなく話し掛けてくるのは大輝ただ一人だ。


 出会った4月くらいから続けているのだが、皆にはなかなか理解してもらえない。人の信用を得るのはとても難しいことなのだと改めて実感している。俺自身もこの現状を何とかしようと積極的にクラスの奴等に話し掛けようとするが、半径2メートル以内に近づくと逃げられてしまうのでどうしようもない。


 視線を巡らせ、周囲の反応を伺う大輝は、不満がるどころか満足そうに頷くと小声で俺に言ってきた。


「まあ、一週間前と比べれば良くはなってるな。友達が誤解されたまんまじゃオレも嫌だからさ。あともう一息だろう、頑張ろうぜ」


 そう言って俺の肩をぽんと叩いた。その時、予鈴が鳴り担任教師が教室の前の方の扉から入ってくる。それに気付いた大輝は、「じゃあ、またな」と言い残しそそくさと自分の席に戻っていった。


 俺はその後ろ姿を見つめながら、心の中で友情の大切さをかみ締めた。


 さっきは大輝に不良ではないと言ったが、正確には俺は元不良だ。生まれつきのこの恐い顔のせいで、中学入ってから上級生やら他校のヤンキーに絡まれまくり、なし崩し的に喧嘩してついた名前が血に飢えた狼。住む場所を変えて高校デビューを狙ったわけだが見事に失敗した。顔が恐いだけで不良扱いという中学よりひどい扱いを受けている。

 

 そんな理不尽を受け、人間不信に陥りそうになった俺に話しかけてきたのが爽やかイケメン野郎の小野大輝だ。見た目不良の俺に臆すどころか馬鹿にしたり、俺がクラスになじめるような言動をしてくれたりと、不思議にこちらの懐に滑り込んでくるようなところがあり、陽気で人好きのする、肝の据わった奴だ。


 大輝は俺が元不良であることを知っている。それを知った上で俺の手助けをしてくれている。本当にいい友達を持ったなと改めて思う。それと同時に、心の中に重い罪悪感が圧し掛かる。


 俺は大輝に自分が契約者であることを隠している。唯一の友達である大輝に隠しごとをしている自分が嫌いだ。だけど、打ち開けることはできない。契約者は人々に畏怖、または敵視されている。大輝のまるで化け物を見るかのような眼を想像して、思わず首を振る。大輝はそんな奴ではないと思っているが…………。


「あんないい奴を信頼してないなんて……。俺は友達失格だな」


 口の端に自嘲の笑みを刻み、声にならない声でそう呟くと、号令の合図に立ち上がる。途轍もない罪悪感と自己嫌悪に苛まれながら、俺はHR開始の礼をした。

 


 窓から差し込む夕日に思わず眼を細める。俺は今、大量のプリントを持ちながら階段を登っている。予想以上に重いなこれ、なんて思いながら3階に到着した。授業が終わりさっさと帰ろうとする俺に、突然クラスの女子が涙目で俺にプリント運びを手伝ってほしいと頼んできたのだ。

 

 不思議に思ったが断る理由もないし、それに手伝いをすることで少しでも悪いイメージを払拭できるのでは、と打算的な考えをした俺は快く了承した。廊下の突き当たりにある資料室の扉を足で開け、部屋の壁に備え付けられている棚に置く。


「はぁ、だるい。しかしこれも俺の明るい学校生活のためだ」


 自分に言い聞かせるように呟いた俺は振り向いて出口へ向かう。だがある物が視界の端に入り、足を止める。それは俺の身長ほどの大きさの姿鏡だった。何でこんな物がこんな場所に、と不思議に思いながら歩み寄る。


 鏡に映った男は不良と思われても仕方ない顔立ちをしていた。大人しいスタイルの、黒い髪。長めの前髪の下の、吊り上がった切れ長の両眼はこちらを睨んでいる。人相の悪い顔は仏頂面で不機嫌そうな雰囲気を醸し出している。中肉中背で少し筋肉質にスーツの如く黒い制服。


 俺が忌避して止まない姿がそこにはあった。任侠映画の主役を張れそうな押し出しの良さだ、と大輝に言われたことがあるが、ちっともうれしくない。思わず深いため息を吐いた。


「本当に恐い顔ですね。小野の冗談もあながち間違いではありませんね」


 突然、凛とした声が響く。声のほうに眼をやると、胸ポケットからひょこっと顔を出してこちらを見上げる小指ほどのサイズの生き物がいた。呆れた声で呼びかける。


「フェン、お前いつのまに俺のポケットに忍び込んだ。魔力を無駄使いするな」


「マスターが玄関を出てしばらく突っ立っていたので、ズボンからよじ登りました。この大きさでの魔力消費は微々たるものです。マスター、机に突っ伏す時はゆっくりしてください。危うく窒息するとこだったじゃないですか」


 後半は戒めるように文句を言うフェン。俺は呆れつつ言葉を返す。


「フェンに酸素は必要ないだろ。それに家以外では異次元で休めと指示を出していたはずだが」


「異次元は何にもなくて退屈なんです。マスターがどういう学校生活を送っているのか気になったんです。ずいぶん寂しい青春を送っているんですね」


「うるせえ。さっさと異次元に戻れ、こんなとこ誰かに見られたら痛い奴だと思われんだろうが」


「そういうわけにはいきません。私はマスターの忘れ物を届けにきたんです」


 そう言った瞬間、俺の目の前に小さい異次元のゲートが開いた。そこから物体が二つ出てきて手に取る。一つは艶のある黒革の手帳。もうひとつはシルバーの腕時計のようなもの。


「あ、これ……」


「イェーガーの許可証ライセンスとホロディスプレイ内臓の腕時計。イェーガーの証を忘れるなんてマスターは馬鹿なんですか」


 冷たい視線を俺に向けながら罵倒してくるフェン。完全に自分の不注意なので何も言い返せない。この許可証を見せれば敵として認識されることはないし、腕時計は敵の魔獣が出現したらホロディスプレイが展開されて正確な位置を表示する仕様だ。その時俺の脳裏にある疑問が過ぎり、フェンに訊く。


「異次元は魔獣以外は存在できない。それ以外の生物や物体はすぐに朽ちて消滅するはずだ。なんでこれは無事なんだ?」


「魔力でコーティングすれば半永久的に存在を保てます。そうだマスター、今度異次元に来てみませんか。何もない空間でずっと過ごすのがどれほどの苦痛か判りますよ」


 楽しげな口調でそう言うフェンに強張った笑みを返す。


「……いや、遠慮しとく」


 面白くもなさそうな顔で「そうですか……」と呟いて、フェンはすぽっとポケットに収まった。異次元に戻るつもりはないらしい。出会った頃は従順だったのに、なぜ今はこんな反抗的になってしまったのだろう。そんな思いを馳せつつ、後ろを向いて出口へ歩き出そうとした俺の耳に上履きの音が届いた。靴音は二つ、どうやらここに向かってきているようだ。


 妙な胸騒ぎがして俺は咄嗟に部屋の隅にある掃除用具入れの中に隠れる。中は狭く、埃っぽくて思わず咳き込みそうになるのを堪える。またもやポケットから出てきたフェンが苛立ったように文句を言う。


「マスター! 鼻がむずむずします。早く出てください」


「我慢してくれ」


 小声で言ったと同時に足音が止まる。部屋に人が入ってくる気配。なおも言い募ろうとするフェンを無理やりポケットに押し込み、耳に意識を集中させ息を殺す。しばらくの静寂を破ったのは女の声か。


「それでなにかしら、話って」


 秋乃より低く、絹のようななめらかな響き。口調からしてやはり女子か。耳に心地良いその落ちついた声に答えたのは男の声。


「あ、あの、その、ど、どうしても僕あなたに言いたいことがあって……」


 焦りと動揺が混合した落ち着きのない声。知らない声だったがそのたどたどしい口調と自信なさげな声色から俺は、この男は俗に陰キャラと呼ばれる類の、自分とは正反対の人間であると理解した。いや、俺も大して変わらないキャラのような気もする。そんな男子の言葉を包み込むような優しい声色で先を促す女子。


「そんなに焦らなくていいから、ゆっくりでいいわよ」


 それからしばらく沈黙が続き俺が苛々としてきた頃、男子の半分裏返った声が部屋中に響いた。


「あ、あなたを初めて見たときからず、ずっと好きでした。ぼ、僕とつ、付き合ってください!」


 情けないほど噛み噛みな告白を聞いて、俺は内心辟易した。なんと王道な台詞だろう。これは絶対にふられるな、と恋愛などしたことのない俺でも解った。果たして女子は数秒、間を空けて答える。


「……ありがとう。でもごめんなさい。私には心に決めた人がいるの。申し訳ないけど君の思いには答えられない」


 本当に申しなさそうな声色で交際を断る女子。その反応に何となく好感を覚えた。しばらく重苦しい沈黙が続き、男子の沈んだ声が響く。


「……そうですか。あの好きな人ってこの学校の生徒ですか?」


 先ほどとは違う落ち着いた声で訊く男子。女子の少し戸惑った雰囲気が伝わってきた。少し逡巡したような間が空き、女子は戸惑いがちに答えた。


「そうよ。この学校の生徒……」


「告白しないんですか?」


 なおも質問を重ねる男子。ずいぶん失礼な奴だな。もうふられたのだから、さっさと立ち去れよ。ここすげー汚くて居心地悪いんだからさ!と内心叫ぶ俺の耳に律儀に答える女子の声。


「しないわ。まずその人と話したこともない。彼いつも不機嫌そうな顔をしていてね。だから、その、ちょっと話しかけづらいの。彼を前にすると恥ずかしくなってしまって。それに彼、私のことを知らないかもしれないし」


 少し笑うような気配を滲ませた女子の言葉には、本心からの思慕が込められていた。その男はずいぶんな幸せ者だなとのんきに思った。そんな羨む気持ち全開の思考は女子を間近で見ていたであろう男子の、抑えがたい何かをはらんだ声に中断させられた。


「…………そんなに、そんなにその男が良いんですか。そんな顔面凶器みたいな奴が……。そんな不良みたいな奴が」


 何だか自分のことを言われているような気がして、舌打ちしそうになる。やばい、コイツ殴りたいッ!震える拳を何とか抑えていると、女子の少し不機嫌さが滲む声が聞こえた。


「知りもしない人間を馬鹿するのはよくないわ、なにより彼に失礼よ。もう用は済んだわよね、私は帰るわ。あなたも早く帰りなさい」


 とそっけない言葉を投げかけた。その言葉で男子の抑えていた感情、女子の想い人に対する嫉妬かあるいは憎悪が爆発した。男子が鋭く声を張り上げた。


「そんな奴に僕が劣るのか! そんな奴よりっ、僕のほうがあなたにふさわしいはずだッ!! そんな不良まがいの奴ではあなたの価値が下がる!」


 興奮の度合いが増すばかりの男の叫びを聞いて、俺は吐き気がした。プライドが高い、自信過剰野郎ときた。げんなりとする俺の耳に女子の悲鳴が届いた。


「僕のほうがあなたにふさわしいッ!」


「きゃっ! やめて、離してっ!!」


 顔も知らない女子の嫌悪感と恐怖が混合した悲鳴を聞いた途端、勝手に右手が動いて派手にドアを開け放っていた。視界には驚愕の表情を浮かべながらも嫌がる女子の腕を摑んだまま男子と、涙目で放心した表情の女子。無意識に俺の口から鋭い叫び声が迸った。


「おい、お前! さっきから聞いてりゃ自分のことばっか言いやがってよ。少しは彼女の気持ちを尊重しようとは思わねーのか! とりあえずその手を離せ」


 長めの黒い髪のいかにも陰キャラといった感じの男子を全力で睨み付ける。男子は怯んだように摑んだ手を離したが、息を詰めたかと思うと眼を見開いて叫びながら俺に殴りかかってきた。


「う、うるさい! 僕の邪魔をするなああああ!!」


「うっせんだよ! 雑魚がッ!!」


 喚く男子のパンチを軽く避けると、すかさず鳩尾に右拳は叩き込む。小さい呻き声を漏らすと、俺の足元に膝から崩れ落ちた。俺は倒れた男の首根っこを摑んで持ち上げ、目線を合わせると押し殺した声で言う。


「二度とこんなことすんな。判ったらさっさと失せろ、手前ぇの顔見ると吐き気がすんだよ」


 あまりに恐い顔をしていたのだろう、一瞬で顔を蒼くした男子は何度も頷いた。俺が手を離すと、男は足元をふらつかせながら逃げ去っていった。それを見届けた俺をため息をついたあと、頭を抱え込んだ。


「やっちまった。ネクタイの色からしてさっきの男二年だよな。先輩ぶん殴っちまった……」


「ついにやってしまいましたね、マスター。これで正真正銘の不良になったわけです。高校生活終了ですね。明日から学校でマスターは一人ぼっちですね。大輝の頑張りが無駄になりましたね。けど、マスターには私がいます。私が話し相手になってあげますから」


 ポケットから顔を出してこちらを見上げながら、哀れみの視線を向けて囁くフェン。その慰めになってない言葉を言うとすぐに引っ込んだ。それを聞いて絶望が押し寄せてきた。


「俺の学校生活が……。俺の青春……。結局こうなっちまうのか」


「あ、あの」


 ぶつぶつと呟く俺は、後ろから戸惑いの色を帯びた声がかけられた。振り向くと、涙をぬぐう女子の姿。男子のスーツみたいな黒とは違い、明るい青色のブレザーのリボンの色は、1年生であることを示す赤色だ。その瞳に恐怖が浮かぶのを覚悟したが、驚いたことに女子は柔らかい天使のような笑みを浮かべた。


「助けてくれてありがとう。えっと、君、牙狼剣児君だよね」


「なんで俺の名前を……」


「えっと……その、だ、大輝君から聞いたの」


 俺は女子の言葉に含まれた単語を聞いて眼を見開く。そんな俺を気にすることなく、目の前の女子は話し続ける。


「そんなこの世の終わりみたいな顔しなくても大丈夫よ。さっきのは正当防衛だし、それに私を助けるためにしたことでしょ。さっきの彼も言いふらしたりしないと思うわ。後輩に返り打ちにされたなんてプライドの高そうな彼にとっては黒歴史よ。だから安心して」


 微笑を浮かべる女子を見て、なんとか落ち着いた俺は改めて目の前の彼女を見やり、そのあまりの美貌に息を呑んだ。


 長い真っ黒なストレートの髪を背中にさらりと流し、艶やかな髪に縁取られた雪のように白い顔に、美しい微笑みを湛えている。切りそろえた前髪の奥、星空を封じたような虹彩までも黒く見える瞳が冴えざえとした光を放っている。


 線の細い顔に小ぶりだがスッと通った鼻筋の下で、桜色の唇が彩りを添える。すらりとした華著な体を皺一つないブレザーに包み込んだその姿は、大輝の言っていた特徴と完全に一致する。そうか、彼女が…………。


「そういうあんたは、黒雪……黒雪さんか。深窓の令嬢」


「あら、知っていたのね。なんか意外。不良って情報に疎いイメージがあったわ」


「そういう偏見は良くない。毎朝ニュースはチェックしてるし、授業も全校朝礼もサボったことはない。あと不良って……まさか、それも大輝から聞いたのか?」


 そう問うと黒雪は、どこか焦ったような表情を浮かべる。なぜだ?


「そ、そう。大輝君から聞いたの」


「あの野郎……」


 思わず口から押し殺した呻き声が漏れる。俺の不良疑惑を払拭してくれるかと思えば、学校の有名人には簡単にバラす。一体、あいつは何がしたいんだ。


「そ、そういえば君、なんでロッカーなんかに隠れてたの? もしかして、何か見られて困るようなことでもしていたの?」


 首をかしげて、いぶかしげな顔で訊いてくる黒雪。その瞳にわずかに疑念の色が浮かぶのを見て、俺は肩をすくめてみせる。


「別に何もしてないよ。クラスの女子のプリント運びを手伝ってここまで来たら足音が聞こえてさ。なんか胸騒ぎがしたから咄嗟に隠れたんだよ。まあ、俺の予感は的中したわけだが。……あんた、いつもあんな……」


 俺は表情を改めて、遠慮気味に訊ねた。


「…………」


 それだけで何のことか察したらしく、黒雪は目を伏せた。長い睫毛が強調されて、表情に儚さが纏う。少しばかり息を呑んで、やはり深窓の令嬢だなと思った。黒雪はやや沈んだ声で答えた。


「告白されたことは何度かあるけど、あんなことをされたのは初めて……。私を好きになってくれたのは素直に嬉しいけど、気持ちに応えることはできない。……ねぇ、全部聞いてたのよね?」


 顔を上げた黒雪は消え入りような声でそう問うてきた。心なしか頬が赤い気がするが、気のせいだろう。俺は素直に頷いた。途端に顔を真っ赤に染めた黒雪は、じろりと睨んできた。


 しーん。


 突如、超高密度で凍りついた空気を、短いひと言が切り裂いた。


「忘れなさい」


「…………は?」


 さらに瞳を鋭くした黒雪は、有無を言わせぬ態度で続きを口にした。


「すぐに記憶から抹消しなさい。さもなくばありもしない噂を流すわよ。主にファンクラブの皆さんに」


「う……」


 そんなことをされたらファンクラブの皆さんに殺されかねない。割りと本気で。安定した(とは言いがたいが)学校生活を送るために今は彼女の要求を呑むしかない。俺が逡巡しているうちに黒雪の視線に込められた殺気が強まってきたので、慌てて頷く。


「あ、ああ。努力する」


「努力?」


「すみません、もう完璧に忘れました。だからそんな冷たい眼で俺を見ないでくれ!」


 絶対零度の視線を受けて、思わず頭を下げた。こんな場面、他人の眼にはさぞかし滑稽に写るんだろうな、と思った。ため息を吐く気配がしておそるおそる顔を上げると、黒雪は納得したように頷いた。


「もし思い出すようなことしたら、君を社会的に殺すから。覚悟しといてね」


 にっこりと微笑みながら、洒落にならない脅しをしてきた黒雪。薄ら寒い感覚が背中を走った。どこが天使だよ。思い切り悪魔じゃないか。俺の反応に満足したのか、大きく頷くと笑みを消して真剣な顔で衝撃的なひと言を口にした。


「ケンジ君、私の恋人になりなさい」


 頭を鈍器でがつんと殴られたような衝撃。思考が停止する。口をぽかんと開けて呆然とする。実際は数秒だっただろうが、俺にはその何百倍の長さに感じられた沈黙の末、唐突に放たれた言葉の意味を理解した瞬間、顔に一気に熱が集まる。俺は口をわななかせながら、なんとか言葉を発する。


「な…………な、なに言って……」


 そんな情けない俺の姿を見て、黒雪はくすりと笑ったあと澄まし顔で答えた。


「ごめんなさい。語弊があったから訂正するわ。……私の恋人のふりをしてくれない?」


「………………は? え~と…………はぁ!?」


「うるさい。静かにして」


 眉を寄せて不機嫌そうな顔で、注意をしてくる黒雪。だが、俺はなんとか脳内で言葉の意味を理解すると、当然ともいえる質問をぶつける。


「どうして俺なんだ……?も、もしかして俺のこと……」


「そんなわけないでしょ。馬鹿じゃないの。ヤクザみたいな顔つきで赤くならないでくれる。気持ち悪い。一体どういう脳みそをしていたらそういう思考回路になるのかしら。そろそろ細胞分裂しとかないと、大人になったときつらいわよ」


 黒雪のまるでウジ虫を見るかのような嫌悪感MAXの冷めた視線が、俺のハートに突き刺さる。


「じょ、冗談に決まってんだろ。な、何ホンキにしてんだよ」


 なんとか絞り出した声は、情けないほどに震えていた。黒雪はため息をつくと質問の答えを口にした。


「柄の悪い男と一緒にいれば下心ありの男子が近寄ってこないと思ったから。ほら、私って可愛いから」


「自分で言って恥ずかしくないのか。あんた、ナルシストか」


「事実なんだからいいじゃない。自分が可愛いことを自覚してない人よりマシだと思うわ」 


 嫌味のつもりで言ったのだが、澄ました顔で返されてしまった。俺の中で深窓の令嬢のイメージが崩れつつあるのを意識しながら、質問を続ける。


「それで、男子が鬱陶しいから俺を恋人役に?」


「そうよ」


 さも当然といわんばかりの態度にやっぱりかと思いながら、当たってほしくなかった。俺は一つため息をついた。


「さっき好きになってくれるのは素直にうれしいとか言ってなかったか?」


「もちろん言ったわよ。けど……」


 そこで少し目を伏せて、わずかに言い淀んでから言葉を続ける。 


「今回は無理」


 そう言ってポケットから一通の手紙を取り出し、差し出してくる。怪訝に思いながらも素直に受け取り、内容を読み取る。読み終わり、思わず嘆息してしまう。


「ストーカーって奴か……」


 俺の呟きに黒雪は黙って頷く。手紙の本文は目も当てられないような少しばかりの吐き気を催すほどの物だった。黒雪は感情の読み取れない顔で


「そういうことだから私の恋人役をしなさい。私みたいな美少女と偽物といっても恋人になれるんだから感謝しなさい」


 と平然と言った。あまりの物言いに俺は抗議の声を上げる。


「なんだそりゃ!? 頼む側のくせになんでそんなにえらそうなんだ! あと、そういうことだからってどういうことだ!」


 喚く俺に黒雪は呆れかあるいは憐れみの視線を向けてくる。


「今までの話の流れでわからなかったの? 手紙は私の下駄箱に入っていたの。つまり、手紙の相手はこの学校の生徒である可能性が高い。というよりもう確実よ」


「なんでそんなことが言えるんだよ?」


「毎日手紙が入れられているものだから、下駄箱に超小型の監視カメラを仕掛けたの。それで撮れた映像では顔は見えなかったけど、あの制服は明らかにこの学校の男子の制服だった。ここまではわかる?」


 まるで見下すような目に文句の一つも言いたくなったが、話が進まなくなると思い我慢する。カメラのことを突っ込みたかったが、返答が何か怖いのでやめた。俺が黙って頷くと黒雪は話しを続けた。


「君みたいな顔面凶器が恋人役なら、ストーカーに八つ当たりされるようなこともないと思うし、もし何かされても撃退できるでしょ。不良なら」


 黒雪は花の咲くような笑顔で顔面凶器と不良の部分を強調する。一応理解はできたが納得はできない。俺みたいな奴が役といえど恋人となれば、寛大な心をお持ちのファンクラブの皆さんも黙ってはいないだろう。いくら中学時代ケンカに明け暮れた俺でも流石に相手にしきれない。


 高校生活始まって以来、最大の危機を回避するためやや理不尽な物言いに対し、必死に反対材料を探す。


「あんたはいいのかよ。俺みたいな奴を恋人役に選んで。周りの目とか気にならないのか?」


「もちろん気になるわよ。だけど、君以上の適役はこの学校にいないの」


「そ、そうだ! 大輝とか良いんじゃないか。あいつの方が適役だと……」


 言い募ろうとした俺に対し鋭くて、だがどこか拗ねたような視線をぶつけてくる。


「そんなに私と一緒にいたくないんだ」


「い、いや別にそういうわけじゃ……」


「なら決まりね」


 これ以上何を言っても無駄なようだ。俺は諦めてため息混じりに「……わかった」と答える。正直――――魅力的な誘いではあるが、だからこそなぜ黒雪のような有名人が、という気後れが先に立つ。俺より腕っぷしのある奴なんていくらでもいるだろうに。


 そこである推測に辿り着く。まさか契約者だということがばれている、と思い立ち黒雪の表情を盗み見るがその顔からはいかなる感情も読み取れなかった。中々なポーカーフェイスである。そんな俺の思考を知るよしもなく黒雪は「それに」と続ける。


「君は私のことを恋愛対象として見ていないからね」


 それが何で俺を恋人役に、という質問の答えだとすぐには解らなかった。なぜならそう言った黒雪の表情はどこか寂しげで、痛々しく俺は息を詰めた。まるで自分自身の言葉に傷ついているかのような――――――。


 何でそんな顔してんだよ、という言葉は出せなかった。訊いてはいけない気がした。その表情を隠すかのように、まるで俺の追及を拒むかのように黒雪は勢いよく振り返るとひと言告げた。


「玄関で待ってるから。ちゃんと来なさいよ。来ないと君のありもしない噂、流すから。それでは、あとでね」


 それだけ言うとすたすたと歩き去ってしまった。その声は相変わらず有無を言わせない冷たさがあったが、少し悲痛の色を帯びていた気がした。



 一旦教室に鞄を取りに戻った俺は少し急ぎ足で玄関へ向かった。そこにはすでにローファーに履き替え、玄関の扉に背を預けた黒雪がいた。夕方の茜色の空から降り注ぐ陽光を艶やかな黒髪がはね散らし、輝くようだ。所在なさげに伏せられた黒い瞳の上では長い睫毛が揺れている。


 その姿は一幅の絵画の如く俺の目に映り思わず息を呑み、不覚にも見とれてしまった。


 ふとこちらに気付いた黒雪は少しだけ顔を綻ばせて安堵の表情を浮かべたかのように見えたが、ハッと我に返ったかのようにいつもの澄まし顔になった。


「遅い。そんなとこに突っ立ってないで、さっさと来なさい。気持ち悪い」


「最後のは完全に悪口だよな」


 先ほどの表情は俺の身間違いだったようだ。こんな毒舌っ娘に一瞬でも見とれた自分が恥ずかしい。スニーカーに履き替えて歩み寄ると、


「行きましょう」


 と言ってきた。それに対し俺は


「行くって……どこに?」


「とりあえず喫茶店にでも。とにかくデートっぽいことをしましょ。私が無計画で行動するように見える?」


「いや、まったく。というかデートね……………………デートっ!?」


 あまりの驚きに思わず仰け反りつつ、俺は黒雪の刃の如く鋭利な視線を浴び、黙殺されてしまう。事態を把握しきれていない俺を置いて黒雪が踏み出したので、慌ててあとに続く。二人は玄関を出て正門に向けて歩き出す。陽が落ちてきた空は茜色に染まり、熱い日差しで額にうっすら汗が浮かぶ。


 まだ放課後になって30分と経っていないので、当然俺たち以外にも帰宅する生徒はいるわけで……。周りから無数の視線が体中に突き刺さる。片や学校の有名人に片や見た目が完全に不良の二人だ。周りから見ればさぞかしおかしな組み合わせだろう。


 そして、集まる視線は好奇と羨望と憎悪が混ざり合っている。どちらにしろ明日から俺の学校生活は終わりに向かうのではないかと思う。大輝になんて説明しようかと半ば他人事のように考える。早くも諦めの境地に達しつつある。


 なんとなく気になって、ちらりと視線を振ると隣を歩く黒雪はまったく気にしていないようで、ローファーをかつかつと鳴らしながら颯爽と歩いている。こういう状況には慣れっこなのだろう。流石は『毒舌』の深窓の令嬢だ、とのんきに思考していた。


 その時。


「黒雪さん!」


 後ろから焦った声が飛んできた。振り返ると一人の男子がこちらに走ってきていた。二人の目の前で立ち止まると、俺を一睨みしてから焦りと困惑の表情で黒雪に大声を浴びせてきた。 


「黒雪さんっ! なぜこんな男と一緒にいるのですか!? この男は危険です、こいつは不良ですよ! こんな奴と関わるとロクなことがないんです!」


 見た目で人を判断しちゃいかんでしょう、と戒めの言葉を口にしようとした時、男子は勢いよくそこまで喋ったあと言葉を切って、怒りの矛先を俺に向けてきた。憎憎しげに俺を睨みながら詰め寄ってきた。


「おいお前。黒雪さんに何をするつもりだ」


 銀のフレームの眼鏡の奥、切れ長な眼に敵意を滲ませる男。制服を綺麗に着こなし知的さを感じさせる目の前の男は眉根をきつく寄せ、握った拳は細かく振るえている。俺は肩をすくめて答える。


「心配しなくても何もするつもりはないよ。ただ一緒に帰るだけだ」


「嘘をつけっ! お前みたいな社会のクズがそれだけで済むはずがないだろ!」


 俺の声は届いていないようだ。黒雪に並ぶほど口が悪い。周りの生徒たちが何事かと集まってくる。周囲からこそこそとした声が耳に届く。「黒雪さんだ、いつ見ても麗しい」「黒雪様よ、ああなんてお美しい。まさに女神だわ」「黒雪さんをこんな間近で見れるなんて、俺今日ツイてるわ」「「清楚系黒髪美少女萌えー!」「……ねぇ、あのとなりにいるのは何かしら?」「……さあ、DQNかなにかじゃない」


 誰だよ、ヤンキーとか言った奴は!


 まあおそらく、というか確実にこの男はファンクラブの会員だろう。敵意の籠もった瞳を見て弁解は無駄だと悟る。ちらりと見ると、黒雪もげんなりとした表情を浮かべていた。だが、すぐに表情を改めて興奮冷めやらぬ男に向き直り、


「赤宮君、確かに彼は不良で血も涙もない暴君だけどそこまで悪い人じゃないわ。それに、私は脅されて一緒にいるわけではないのよ。私は彼に告白して、返事を待っているところなのよ。これから軽くデートするところなの」


 とんでもないことをさらりと言い放った。目の前の赤宮という男と周囲の人並みがしーんと凍りついた。俺もまた口をあんぐりと開けたままフリーズし、冷や汗がダラダラと額から頬へと流れた。


 静寂のなか、黒雪はあろうことか右腕にがっしと自分の腕をからめてきた。


「ではごきげんよう、赤宮君」


 そして、花道のごとく左右に並ぶ生徒たちの間を、俺をぐいぐいと引き摺りながら進みはじめた。


 そーと後ろに視線を投げると、突っ立ったまま俺を睨む赤宮の険悪な表情が残像のように俺の視界に貼りついた。



 「おいおい、何してくれてんだよ!! 俺明日からあんたの友達やらファンやらに八つ裂きにされるぞ!」


 正門から東に向けて歩道を歩き出したところで俺は、ようやく我に返って黒雪の腕から手を引抜き、叫んだ。当の本人は、少し首を傾げてすまし顔でとぼける。


「どうかしたの?」


「どうしたもこうしたもねぇよ! 確かにあの赤宮って奴の相手をするの面倒だったから、助けてくれたのは感謝する。だが、やりかたってものがあるだろ」


「謎のストーカー君を敬遠するには十分な方法だったと思うけど。これでその誰かさんがあの場にいてくれたら大成功なんだけどね。それに、君も満更でもなさそうだったけど」


 意地の悪い声音でそう言う黒雪に、俺はぐっと口をつぐむ。あういう場面に経験の浅い俺は言葉を返すこともできず、黙りこむ。俺の反応に満足したのか、黒雪は愉快そうに微笑む。


「ふふ……。その反応からすると君、やっぱり仲の良い女の子とかいないのね」


「やっぱりとか言うな」


 かつかつとローファーの踵で舗装されたアスファルトに歯切れのよい音を鳴らしながら、黒雪は俺の表情を眺めてくすくす笑い続けた。やがて、表情を改め声のボリュームを下げて続けた。


「もしかしたらストーキングとかされてしまかと思ったけど大丈夫そうね。まあ、ケンジ君と同じ種類の人なら話は別だっただろうけど」


「さりげなく俺を攻撃するのやめてくれる。あとその言い方だと俺がすごく陰湿な野郎みたいに聞こえるんだが」


「あら、ごめんなさい。無意識だったわ」


「ホント性質悪いな」


「褒め言葉として受け取っておくわ。さて、せっかくのデートなのだしゆっくりお茶でもしながら相手の正体でも考えましょ」


 そう言うと、黒雪は向きを変え、最初からそこを目指していたのだろうコーヒーショップチェーンの店舗へと歩み入った。


 平日の夕方とあってか店内には客の姿がそれなりにあって、学生もちらほらと見える。そして、黒雪が足を踏み入れた瞬間少なからぬ視線がさっと集まるのを俺は感じた。目の前のすらりとした後ろ姿を見て、女の子とお茶を飲む経験が絶無だったことを思い出す。それを意識すると俺は今更ながら腰が引ける思いで、入り口で躊躇してしまう。


「何してるの? さっさと入るわよ」


 先に店内に入った黒雪は怪訝そうな顔をこちらに向けて、そう言うとすたすたと歩いていってしまう。俺は覚悟を決めてそのあとに続く。


 奥まったテーブル席に座った俺たちは、もちろん割り勘で、とりあえずコーヒーをオーダーした。自分のコーヒーに角砂糖を二個ほど落としてスプーンで混ぜていると、正面からくすくすと笑い声が聞こえてきた。そちらを見ると、口元に手を当てて笑いを堪えようとして堪えきれていない黒雪の姿。


「何笑ってんだよ」


「その顔で角砂糖二個も入れるなんて何かのギャグかしら。そんなに私を笑わせたいの?」


「そんなんじゃないし、あと偏見はよくない。今日初めて会った奴をよくそんなに馬鹿にできるな」


 あの大輝ですら初対面でここまでの態度ではなかったぞ、と胸中で愚痴る。何の気なしに言った台詞だったのだが、黒雪の瞳にわずかな動揺の色が浮かぶのを見て、俺は好奇心で訊いてみた。


「あんた、何か隠してるだろ?」


「……人に言いたくないことの一つや二つくらい、ケンジ君にだってあるでしょ」


 なぜか頬をうっすらと赤くしてまっすぐ見つめてきたので、思わず口をつぐむ。あまりに遠慮のない質問だった。自分も人のことは言えないな、と苦笑する。


「まあ、確かにな。ごめん、余計な詮索だった。恋人って言っても偽物なんだし俺にとやかく訊く権利はないよな」


 珍しく素直な気分で、謝ったのだが黒雪は不満そうに唇を尖らせ、じろりと睨んできた。


「……あんたって呼ばないで。一応恋人なんだから名前で呼んで」


「い、いや無理だ。女の子を下の名前で呼ぶとか」


「いいから呼びなさい」


 顎をつんと横に向けて、黒雪は少し頬を膨らました。澄ました顔で毒を吐いたかと思えば、笑ったり拗ねたりと表情がころころと変わる様子を見て、大人っぽくて儚げな深窓の令嬢のイメージがどんどん崩れていく。しかし、ショックを受けたり失望することはない。


 勝手に期待して、勝手に理想を押し付けて、勝手に理解した気になって、そして勝手に失望する。


 それがどれだけ自分勝手なことなのか、俺は身に染みて知っている。それがどれだけ自己中心的な考えなのか、俺は知っている。俺はすでに、そのことを取り返しのつかない形で思い知らされている。


 だから、俺は許容する。目の前の美しくて強引で、毒舌で遠慮知らずで、意外と子供っぽい一面もある彼女を。もう二度と自分の思いを押し付けないために。


 自分の決意、そして名づけられない一つの感情を抱えながら俺は本題に移るべく口を開いた。


「ストーカーは一体誰なのか。くろゆ……さ、紗千は相手に心当たりはないのか?」


「ん……そうね」


 俺に向き直った黒雪は軽く頬杖をついて、考える仕草をする。窓から差し込む淡い橙色の光が清潔感のあるきれいな黒髪を眩く照らす。その品のある佇まいは自然と俺の脳内に、お嬢様という単語を連想させる。


 いつしかぼんやりと見とれてしまっていた俺は、黒雪が白い指先で軽く右手に触れてきたことで我に返る。


「これといった心当たりはないわね。私の立場上、妬まれたり敵視されることはあると思うけど」


「立場って……お譲様?」


「バカモノ」


 冷たい声を浴びさせられて思わず首を縮める。


「あ、有名人てことな」


「それ以外になにがあるのよ。けど、そういう人たちから探すとなると骨が折れるわね」


 頬杖を解いて、苦悩げに少し眉を寄せる。俺は頷いて同意を示す。


「そうだな。学校の生徒の数は約1200人。この中からそいつらをピックアップするだけでもたいへんだよな」


「そうなのよね。相手は同じ一年だけれどそれでも約400人」


「なんでそんなことがわかるんだ?」


「なんでって……そういえば一つ言い忘れていたわ。撮影した映像からわかったことは二つあるの。まず一つは男子生徒であること。もう一つはネクタイの色が黒色だったてこと」


 高宮高校の男子は一年生が黒、二年生が紺色、三年生が茶色のネクタイを着用している。黒雪の言葉に頷いていると、脳裏にある一人の男の姿が過ぎった。我知らずその名前を口にしていた。


「さっきの赤宮って奴もネクタイの色は黒だったな」


 俺の呟きを予想していたのか黒雪はあの男の説明を始めた。


赤宮総司あかみやそうじ。一年G組、出席番号2番。成績は上位で運動神経も高い。赤宮建設の一人息子。高宮高校の建設を牽引したこの会社から『宮』の字を取ったみたい。いわゆる坊ちゃんね。コミュニケーション能力が高く、交友関係は広い。理知的な雰囲気を持ち、温厚で誠実な男子。誰にでも分け隔てなく接する性格から男女共に慕われている」


 あくまで事務的な口調で告げる。彼のことをあまり快く思っていないようだ。俺はその説明を聞いて眉をひそませる。


「絵に書いたようなリア充、というか勝ち組だな。……爆死しろ」


「本音が漏れてるわよ」


 呆れた声で指摘され、口をつむぐ。しまった。心の中でだけで言ったつもりだったのだが。先ほどの赤宮の姿を脳裏に浮かべながら唸る。確かに理想的な人物像なのだが…………。


「「なんか嘘くさい」」


 少し眉を寄せた黒雪と見事にハモった。二人は顔を見合わせ、ふっと吹き出した。控えめな笑い声を収めた黒雪はなぜかどこかうれしげな声で言う。


「やはり君もそう思う。話した感じでは確かにいい人なのだけど、なにか裏がありそうなのよね」


「そうだよな。さっきも俺に敵意むき出しだったし。まあ気持ちもわからなくはないがな」


「そうだったわね」


 そう言った黒雪は視線を宙に泳がせる。俺と同じように先ほどの赤宮の姿を思い出しているのだろう。何か結論に至ったのか黒い瞳が見つめ返してくる。


「確証がない以上なんとも言えないわ。運が良いことに同じクラスだし、明日から私なりに調べてみる。あ、ケンジ君はなにもしなくていいから。君、こういうの苦手でしょ」


「……紗千に任せる」


 内心でなぜこの女は俺の性格的な短所を知っているのだ、と少しばかり驚く。そして出会った時からずっと彼女のペースだなと思い、なんとなく面白くない。一泡吹かせてやりたいと思った俺は、恋人なら誰でも言うような言葉を口にし、


「ホントさ、紗千は何でもできるよな。そういうところ俺はす、す、す…………」


「す?」


 ようとしたが黒く輝く瞳に真っ向から見つめられて、心拍数が少し上昇するのを感じながらそれでも頑張って言おうとした。が、まっすぐな視線に射止められ、


「な、なんでもない。ま、まあ俺も大輝に訊いてみたりするよ。あいつ、交友関係広いし。さすがに紗千に任せっきりてのも悪いからさ」


 視線を泳がせつつなんとか誤魔化す。恋愛経験が皆無で女子に対する免疫力がゼロに等しい俺に『好き』なんて冗談でも言えませんでした。特にここ半年間はイェーガーになるために自己の強化とフェンとのシンクロ率向上に没頭していた。つまりこの半年間で女といったら秋乃くらいとしか会話をしていないのだ。それに、


「そう。あまり期待しないでおくわ。あ、大輝君ではなくてケンジ君に対してってことよ」


 相変わらずひと言多い目の前の女は、黙っていれば息を呑むほどに華麗で、この上なく可憐な容姿をしているのだ。性格はお世辞にも良いとは言えないが。


「本当に君は聞いたとおりの不良ね。顔は恐いし赤くするわで気持ち悪い。本当に…………ひどい顔」


 突然、真面目な顔になった黒雪は感じいるように呟く。


「うるせえ。溜めて言うな、傷つく」


「本当に変な人ね、剣児君は」


 さらに馬鹿にされたので俺は言い返そうとしたが、声が音になることは叶わなかった。


 黒雪がその顔に美しく穏やかな微笑を湛えていたからだ。大きい目の中には柔らかな光がある。窓から入る陽光に照らされた彼女は舞い降りた天使のようだ。息を呑み、ただ見蕩れた。


 黒雪が何か思いついたように「あっ、そうだ」と言わなければ、おそらく30分ほど俺は彼女に見入っていただろう。



 窓から見える茜色の空を宵闇が侵食してきだしたのを見て、俺たちは店を跡にした。結局あれから軽食を注文して、1時間以上話し込んでしまった。終始、ただの雑談だったが。黒雪曰く、デートなのだから恋人らしいことをしましょ、と。


 雑談が恋人らしいことなのかいささか疑問に思ったが、断る理由もないので了承した。お世辞にも人付き合いが得意とは言えない俺が、今日会ったばかりの女の子と長時間話すことができたのは奇跡に等しい。と言っても会話の内容は俺への質問ばかりだったが。


 契約者である、ということ以外のすべての情報を吐き出した気がする。特筆すべきことと言えば、彼女がいたことはあるか、また現在いるのかという質問をしてきた時の黒雪は、瞳を爛々と輝かせていた。やはり女の子は恋愛面にはかなりの興味を示すみたいだ。鼻先数十センチまで身を乗り出してきた黒雪。思わぬ不意打ちにドギマギしながらも答えた。もちろん彼女いない歴イコール年齢と。


 その時の黒雪の表情を俺は一生忘れないだろう。いろいろな感情の交ざった複雑な表情を浮かべた黒雪は、自分の体勢を顧みて少し頬を赤く染めると、ストッと静かに座り直してひと言呟いた。「やっぱりね」と。震える拳を抑えるのにたっぷり十秒を要した。


 もしかしたらストーカー野郎がいるかもしれないと危惧した俺は、黒雪を駅まで送り届けている最中だ。黒雪の家は第13区にあるらしく、電車で四駅だそうだ。


 夕暮れの大通りの歩道に二人分の影が投げられる。行き交う人たちはみな黒い影に沈み、足早に歩いていく。並んで歩く俺たちに目を留める者も居らず、まるで二人だけが、平らな影の国に彷徨いこんでしまったかのようだった。


 店の時とは打って変わって二人の間には沈黙が流れていた。だが、嫌な沈黙ではない。黒雪もそう思っているようで、ゆったりとした足取りで歩みを進めている。そろそろ駅が見えてくる所で視界の端に、ある光景が飛び込んできて俺はピタリと足を止める。


 道路を挟んだ向こう側にある街頭モニターのパネルに、二ュース番組の録画動画が映されていた。今日の昼頃、第22区で敵性の魔獣が出現しイェーガーの契約者と十分ほどの戦闘が行われたあとに消滅した、という内容だった。この場合の消滅は敵に逃げられたということだ。空から撮影された映像には対峙する二体の魔獣が映し出されていた。


 画面右側にいる一体は、魔獣の中でも珍しい人型だ。体長は5メートルほどだが直立しているせいか、同じ体長のフェンリルよりも一回り大きく見える。細過ぎる手足に胴体。細い縦縞の入ったワインレッドの燕尾服にシルクハット、赤い勲章を下げ、立襟の黒マント(裏地は赤)を羽織り、翻している。


 その姿を見て、俺の脳裏にある言葉が過ぎる。まるで≪吸血鬼≫だ。


 もう片方の魔獣は、不気味さを映像越しに醸し出す吸血鬼とはまったくの別物だった。まず、美しかった。紅蓮を纏うその姿は、この世で一番美しいと疑いもなく思えた。渦巻き、荒れ狂う深紅の炎。しかし、ただの熱エネルギーではない。二枚の巨大な翼と湾曲した長い首、二股に分かれた七色に輝く尾、そしてルビーの如く煌めく二つの眼を持つ巨鳥。


「不死鳥(フェ二ックス)…………」


 知らず知らずの内に呟いていた。思わず見蕩れた。生命力を具現化したような荒々しくも美しいその姿に。そのあまりに美しいその姿に視線を釘付けにされた俺は、不意に右腕の裾をぎゅっと引っ張られた。それでハッと我に返った俺は、視線をモニターから右腕に移す。まず白く華著な指が視界に入り、その指を辿っていき、視線を上に上げていった俺は目を見開き息を詰めた。


 黒雪が顔を蒼白にし、大きな目を不安そうに見開いていた。細い体は小さく震え、触れる指越しにある一つの、俺もよく知っている感情が伝わってきた気がした。これは恐怖か――――。


「おい、どうした…………」


 だが、一体なぜだ。なにを彼女は恐れているのだ。今になってストーカーのことが怖くなったのか。いや、そうじゃない。俺に会ってからの彼女の言動を一つ一つ思い出していく。そして、ある一つの推測に辿りつき思わず黒雪を凝視する。不安そうに揺れる瞳と視線がぶつかり、さらにぎゅっと強く裾を握られる。夜空のような黒い瞳の奥に、底知れない闇を――――――見た気がした。


 《PTSD》。心的外傷後ストレス障害。危うく死ぬまたは重症を負うような出来事の後に起こる、心に加えられた衝撃的な傷が元となる、様々なストレス障害を引き起こす疾患のことである。俗にトラウマと呼ばれるものだ。


 2035年の現在において、この言葉はさほど珍しくもないものだ。あの『悪夢の一週間』を経験した人間の半分はこの心の傷に悩まされていると聞く。日本の中でも主要都市であるここ東京は、最も魔獣に蹂躙された場所であるが故に多くの人間の心に蔓延している。中には契約者や契約者の操る魔獣によってこの障害を患った者もいるだろう。


 癒えることはあれど消えることのない深く刻まれた傷が、先の映像を見たことで疼き、表現しようのない絶対的な恐怖が呼び起こされたのだとしたら――――。


 これはただの推測だ。確証はまったくない。白い街頭の光に照らされた血の気の失せた白い顔を見て、俺は必死に言葉を探す。何か言わなければならない、そう思うのだが口を開け閉めすることしかできない。そんな自分が恨めしい。


 そんな俺を見かねてか黒雪は左手を胸の前でぎゅっと握ると、小さく震える唇を動かし強張った笑みを浮かべた。


「……なんて間抜けな顔。顔芸の練習でもしてるの。……ごめんなさい、急におかしくなっちゃって。大丈夫、少しすれば収まると思うから。君に心配されるほど私は弱くないから…………」


 か細く、消え去りそうな声だった。語尾は掠れてよく聞こえなかった。震えを押し殺すかのように両腕で自分の体を抱きしめる。言葉とは裏腹に震えは一向に収まる気配を見せない。


 その姿を見た瞬間、胸の奥が疼いた。それを認識した時には、俺は気付けばサチの頭を不器用に一撫でしていた。今の彼女はあまりにも弱々しく見えた。


 頭を撫でられて少し安心したのか、体の震えが弱くなった。そして、あろうことかゆっくりと体を俺にもたらせてきた。体がかちんと固まり、一瞬で心臓が早鐘を打ち出す。体が一気に熱を持った。いつもの俺ならすぐに引っぺがすところだ。


 だが、今はそんなことはしなかった。あとから思えば過度の緊張で動けなかったと言える。周囲の通行人の目に耐えながら、ぎこちなくできるだけ優しく、黒雪の頭を撫で続けた。


 この状況、あいつなら抱きしめるという超高難易度のアクションを軽がるとしてしまいそうだ、と頭の隅で思考した。それと同時に胸の奥で鋭い疼痛がした。思わず眉根をしかめる。


 それから数分間はその状況が続いた。その間、俺は必死に頭の中でひたすら二次方程式を解いていた。別段、数学が好きというわけではなく単に気を紛らわすためだ。こうでもしていないと、妙にいい香りのする髪とか柔らかい体の感触とかに意識を持っていかれるからだ。


 仙人モードに移行しつつある俺の意識を黒雪の囁きが引き戻す。


「……ケンジ君……もう……落ち着いたから……」


「あ、ああ」


 手を離すと両頬を真っ赤に染めた黒雪が視界に入り、羞恥心が臨界点を突破しそうになる。一瞬頭の中で逃亡という魅力的なフレーズが浮かんできたが、今逃げたらアトが怖いという結論に至ったため自制する。この思考を0.5秒で終わらせた俺に黒雪は一歩後ずさってから、少し目を逸らしつつぽそりと呟いた。


「その…………ありがとう。もう……大丈夫だから」


「そ、そうか。そりゃよかった」


 短い会話が終わると同時に、痛いほどの沈黙が二人の間に満ちた。これはかなり気まずい。すぐさま脳内で解決策を検索したが、そもそもこういう状況に陥るのが初めてなので当然、正解を導き出すことはできなかった。黒雪は両頬を真っ赤に染めているしどうしたものだろう、と嘆息しそうになる。


 その時。


 ぞわっと脳に氷柱を突っ込まれたかのような悪寒が全身を走った。


 バっと振り返る。視覚に全神経を集中させ、縦横無尽に視線を振り回す。だがそこには渋滞ぎみの道路と往来する人波だけがあった。


 不意に肩を叩かれた。思わずびくっと身を竦めた。すぐさま振り返るとそこには面食らった黒雪がいた。


「急にどうしたの? 大丈夫?」


 少し眉をひそめ、怪訝そうな顔をしながら俺に気遣わしげな視線を向けてくる黒雪に、「何が?」と返そうとしたその時、ようやく自分が派手に息を切らしていることに気付いた。タイミングを見計らったかのように頬に一滴の汗が流れる。それは紛れもなく冷や汗だった。


「あ、ああ。大丈夫だ」


 その声は自分でも驚くほど掠れていた。黒雪はさらに眉を寄せ、心配そうな顔で俺の顔を覗き込んでくる。少しドギマギしつつ、今の俺は『あの』黒雪が心配してしまうほどの顔をしているのか、と失礼な思考を巡らせた瞬間、じろりと睨まれてしまう。


「なにか失礼なことを考えていない?」


「い、いや。そんなわけないだろ」


 それでもじーと俺を睨んでくる。まさか急に殺気を感じたとも言えない。


 そう、殺気だ。あれは紛れもない敵意の籠もった視線だった。中学の頃から幾度となくその視線をぶつけられてきたが、さっきのは今までで最上級だった。


 そして、俺はそんな視線に含まれた感情をなんとなく読み取ることができる。経験から導き出された特技である。今回のあれは初めてぶつけられた感情だった。


 あれはおそらく、嫉妬、だ。


 不意に胸のあたりから何かの動きを感じた。そこには胸ポケット。怪訝に思い視線を集中して見えたそれは、目の覚めるような鮮やかな蒼。


「!」


 俺は半ば条件反射的に後ろを向いた。すっかりそいつの存在を忘れていた。果たしてポケットからちょこんと頭と両足を出したフェンは、開口一番にこう告げた。


「いやらしい」


「は!?」


 俺は声のボリュームを最小限にした驚きの声を上げた。そんな俺にフェンは半目でじとーとした冷めたねちっこい視線をぶつけてくる。そんな目をしてくる理由が皆目検討もつかず、素直に訊いてみた。


「なんなんだ、その目は。俺なにかしたか?」


 俺の質問にフェンは目を伏せ、重いため息をついた。そしてぎろりとこちらを見上げると、愚痴を言うような口調でぶつぶつ呟いた。


「ええ、なにかしましたよ。まず相棒である私の存在を忘れ、そこの女の色香に惑わされ、私を蚊帳の外にして二人でイチャイチャしてました」


「お、お前にはイチャついているように見えたのか!? って、イチャつくとかそんな言葉いつ覚えた?」


「私の知識欲を侮らないでください。あれは誰がどう見てもイチャついていると思うでしょう。正門前で堂々とたくさんの生徒に向けて告白、放課後デートに、あげくの果てには危ないから駅まで送っていく?

 どこの彼氏さんですかマスターは! そして先ほどそこの女に擦りよられて心拍数を急上昇させたくせにまだとぼけるのですか?」


「ぐっ…………」


 これぞまさしくぐうの音も出ない、なのだと思った。ぜんぜん反論できない。なぜなら列挙されたほとんどが紛れもない事実だからだ。だが、俺は真剣な顔と声音で何とか反駁を試みる。


「確かにフェンの言う通りだ。……だが一つだけ間違いがある。俺は断じて惑ってなどいない!」


「どの口がそう言いますか」


「この口だ!」


「わかってますよ、言われなくても! 冗談で話を逸らそうとしないでください。これは私のとって死活問題なんです!」


 鋭い視線と共に犬歯を剥き出しにして唸るフェン。俺も負けじとその目を見返す。ここに往来の中で立ち止まり、自分のポケットを真剣な眼差しで見つめる不良のような男という滑稽な景色が誕生した。


 しかし、その睨み合いもすぐにあっけなく終了した。なぜなら、 


「なにをぶつぶつと独り言を言ってるの? ついに頭になにか沸いたのかしら。信頼できる脳外科を紹介してあげるから行ってみたら。あ、それとついでに精神科と整形手術ができる病院も紹介するわ。君の顔を見るのにそろそろ私の目と心が耐えられなくなってきたから」


背後からこれ以上ないであろう毒が俺に向かって放たれたからだ。


「遠慮という言葉を知れ! このど…………」


 そろそろ堪忍袋の緒が切れかかり、ちゃっかり左手で胸ポケットを覆いつつ、振り向きざま「この毒舌野郎ッ!」と言ってやろうとした。しかし、黒雪の顔を視界に収めた瞬間思わず息を詰めた。


 その表情は言葉とは裏腹に優しげな雰囲気を纏っていた。ほぼポーカーフェイスを貫く黒雪がとても感情豊かな表情をしていた。


 綺麗な形をした眉は困惑ぎみに八の字になり、時には心を折らんばかりの氷点下の温度を持つ瞳の中には、蛍火のごとし儚くも暖かくて柔らかい、強い意思の炎が灯っていた。そこから注がれる視線は慈愛に満ちていた。心配している、と顔に書いてあった。


 胸中に満ちた苛立ちは消え去り、頭の冷えた俺はとりあえず


「本当に狂っちまったその時は、紹介してくれ。これでも成績は学年10位だ。ちょっとだけ待っててくれ」

 

 とにやっと笑ってみせた。そして黒雪の反応を見ずにまた背を向ける。しっかり伝えておかないとずっと馬鹿扱いされてしまうからな。


「……それで用件はなんだ? なにか言うべきことがあったんじゃないのか」


 小声で囁き掛ける。数秒後、決まりの悪そうな顔でフェンが顔を出した。その感情の揺れる瞳から意を汲んだ俺はひとまず謝る。


「悪かった。相棒の存在を一時といえども忘れるなんて。本当にすまなかった。ちょっとばかし気が緩んでたみたいだ。今は時間がないから話しはアトでしようぜ」


 できるだけ真面目な顔と声で言った。そんな俺を見てフェンは、目線を逸らして仕方ないと言わんばかりのため息を吐くと本題に入った。


「つい先ほど、半径10メートル範囲内で魔力を感知しました。とても嫌な匂いのする魔力でした。……それだけです」


 それだけ言うとぴゅっとポケットに潜り込んでしまった。やはりまだお怒りのようだ。それにしても…………魔力か。


 思案に没入したくなる衝動を必死に抑えつつ、振り返った俺を待っていたのはいつもの澄まし顔の黒雪だった。その瞳にはほんのわずかに心配の色が見て取れた。


「今、用事すんだからよ。そんじゃ帰ろうぜ」


 努めて軽い口調で言う。黒雪はふぅと浅く息を吐くと「そうね」と返してきた。今はその気遣いがたまらなく助かった。今、何か質問をされたら脳裏に焼け付くような怒りを隠し通せる気がしなかったからだ。


 ふと顔を上げると太陽は西の方角に朱色を残して、夜の暗闇が空を支配していた。いくつもの星々が自己主張するかのように瞬いている。まったく同じ星がないように人間も十人十色。それぞれの個性を持っている。さまざまな思想や欲望や信念、そして感情を持った契約者は星の数には到底及ばないがたくさんいる。茫漠とした広さを持つ無限の空に向けて、


「面倒なことになったな」 と口の動きだけで呟いた。澄み渡った空を見ていたら、胸中に渦巻く怒りという名の激情が少しだけ弱まった気がした。



 野郎が嫉妬を糧に力を行使しようとしたなら、俺は怒りを持ってしてその黒い感情を打ち破ろう。

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