今と九回目
二年生の暇な春休みに一人でなんとなく予想した通り、佐藤と僕は三年生になっても同じクラスだった。僕らは三年五組の生徒になった。だが、その高校生活最後の学年はさほど楽しいものではなかった。クラスの雰囲気がよかったのは高校二年の時で、そのピークは秋にやった文化祭か、冬に行った修学旅行だろう。
楽しくなかった理由を一つあげるとするならば、僕らのクラスが進学クラスだったからだ。皆、大学進学へ向けて勉強をして、それからまた勉強をしていた。
だが、表向きはそんなことはなかった。テスト前に「あんまり勉強してないよ」と言う生徒はやっぱりいたし、休み時間に漫画本を読んでいる生徒もいた。ただ一年前と違うのは、「全く勉強していない」という生徒がいなかったことだ。
僕を除いて。
僕は進路調査票に大学進学の四文字を、丁寧に黒のボールペンで書いたのだが、梅雨が始まる前にうちに近くの工場へ就職することが決まった。
母親のよく分からない伝手でそうなったのだ。その伝手は高校生の僕から見ても怪しいものだったが、大学進学の費用がいらなくなったということが、あの頃は随分と楽に思えた。親のお金を心配しなくて済むというのは、子供にとって一つの足枷が外れたようなものだった。
そのことが決まった次の日、僕は佐藤と会話をした。第九回目の会話は、僕たちの進路についてだった。
朝早く教室に着くと、彼女は珍しく本を開いていなかった。開いているのは大学受験の参考書らしきものと、大学ノートだった。
「おはよう」
「おはよう」
眼鏡はもう彼女の一部のようになっていた。僕がお世辞を言う必要はなくなっていた。
「佐藤は大学行くの」
「もちろん」彼女は珍しく僕の顔を見ながら言った。「森村くんもそうでしょ?」
「まぁ」
「どこの大学?」
「お菓子の大学だよ」
「オカシノ?」
「そう」
「聞いたことない」
「……」僕は心で、だろうね、と呟いた。
彼女越しに外を見ると、空には厚い雲が広がっていた。今日の降水確率は、午前中は三十パーセント、午後から七十パーセント。よほどのいい男でなければ、傘を持ってきているだろう。
彼女の髪の毛はすでに元に戻ってきていた。一ヶ月前に少しだけ短くなっただけだ。もういつでも彼女はポニーテールにできる。しないのは、何か理由があるのだろうか。だが、僕はそれについて、聞かなかった。好意があると彼女にばれるのは、どうにも恥ずかしかった。
この県を北東から南西へと横切っている大きな河川。そこを越えるとき、電車の窓からは何も見えなかった。見えるのは鉄橋の青い壁と、それを繋ぐボルトだけ。あの壁は防音対策なのか、万が一電車が脱線したときに川へ落ちないためなのか。もしくは暴風対策かもしれない。
川が見えたのは橋に入る前と、出たあとの数秒だけだった。だだっ広い川は、開いた魚か、蛇のようだった。
河川敷では赤いユニフォームを着た少年少女たちが(遠くからでは、うまく見分けられないが)サッカーボールを蹴っていた。どうやら、この辺りは雨が降らなかったようだ。
川が見えなくなると、次に現れたのはビルだった。この地方に、僕は人生で一度か二度くらいしか来たことがない。知り合いもいないし、親戚もいない土地だ。
その事実は僕を安心させた。誰にも僕の怠惰な生活が見つからないのは、心休まることだった。
駅に着くと、僕は電車を降りた。高い場所にホームがあるせいか、少し風が強く、肌寒かった。乗ってきた普通電車は、十六時十五分に到着する特急電車のため少しの間待つようだった。
ホームにはちらほらと高校生の姿があった。僕の知らない高校の制服は、少しも僕をノスタルジックな気分にさせなかった。でも、感傷的にはなった。
若いということは、良いものだったような気がする。もちろんそれは喉元を過ぎた熱さだった。
僕はそう思うくらいに、老いたのだ。
僕はお菓子やパンが売ってある自販機に向かった。お腹が空いていた僕は、五十円二枚と十円を二枚投入して、ジャムパンを買うことにした。
ついでに横の自販機から緑茶を買った。それから黄緑色をした椅子へと座り、パンの袋を開けた。
僕は反対ホームで電車を待つ人たちの列を見ながら、それを頬張った。
イチゴジャムの入ったパンは甘くて美味しかった。でも、それは砂糖だけの甘さであり、イチゴの甘さではないような気がした。そして、美味しいと思うのは、お腹が空いているからで、パンを食べたからではないような気がした。
幸せは、客観的に見るから素晴らしいと思うのであり、自分が不幸だから暖かいと感じるのだろうか。
僕が欲しい幸せとは何だろうか。
僕はペットボトルの蓋を開けて、苦すぎない緑茶で甘さを消し去った。