今と七回目
その年の十一月頃から、佐藤は眼鏡をかけ始めた。佐藤とクラスメイトの女子の会話によると、佐藤は少し視力が悪くなったらしい。
僕は教室の真ん中に移動した自分の席から、黒板の横にある掲示板を見た。そこには今月の予定表が貼ってあった。
内容は、どの委員にも部にも所属していない僕にとって不必要なものだった。例えば委員会活動日。例えば陸上大会。
だがその時は、その一枚の紙が視力検査の役にたった。どうやら僕の視力は悪くないらしい。全てが分かるわけではなかったが、小さく書かれたその二つの予定を確認できるということは、悪くないということだろう。
佐藤との第七回目の会話は十一月の最後の週だったと思う。今回はいつも通り、教室で会話をした。
僕は教室に入って、扉を閉めた。そして、「おはよう」と挨拶した。
彼女は廊下のほうを向きながら本を読んでいた。教室では絶対に気を抜かないことにしたらしい。
「おはよう」そう返事をしながら、佐藤はこちらをちらりと見た。
彼女の眼鏡は縁なしのもので、柔らかそうな耳へと伸びるフレームは、秋に溶け込みやすそうな大人しいピンク色をしていた。
「眼鏡かけるようになったんだな」
「うん」彼女はそう言って、こちらを向くのをやめて、正しく座った。
僕は自分の席へと向かった。
「似合う?」
「いい色だね。佐藤に合っているよ」僕はそう言って、席に座った。
「色じゃなくて、眼鏡」
「似合うよ」僕はそうお世辞を言った。
「ありがとう」
どういたしまして、と僕は心の中で言った。本当に口に出したら、どんな顔をされるものやら。
――どんな顔をされるのだろう。言ってみればよかったかな。そう思いつつ、僕は彼女を見た。ポニーテールにはしていなかったが、彼女の髪は随分と伸びた。
流れる景色は思ったよりもつまらないものだった。住宅街を抜けて、田畑が見え始めたのはいいのだが、そこには人らしきものがいなかった。田畑を縫う道路を、車が走っているのを見つけただけだ。
僕は大きくため息を吐いて、目を閉じた。寝ようと思えば寝られそうだった。
だが、そろそろ電車を乗り換えなければならない。この各駅停車する電車は、次の駅で北へ折り返すのだ。
車掌が駅の名前を言うと、電車は止まり、扉が開いた。
僕は、同じ車両にいたおばさんが降りるのを確認してから電車を降りた。
おばさんはそのまま階段を上がっていった。この駅の近くに家があるのだろうか。
僕はホームにあったプラスチック製の四人掛けの椅子に座って、次の電車を待つことにした。
反対ホームの向こう側には車両基地があった。灰色の車庫に入るためなのか、働きに出るためなのか、電車が長い列をなしていた。
五分ほど待つと、もっと南へ行くための電車がもうすぐ来るとアナウンスがあった。
もっと南に行って、僕はどうするのだろうか。どうせ僕は帰ってくるのに。まぁ、いい。考えるな。考えないことも大事なことだ。そうだろう? いいや、お前の答えはどうでもいい。そうなのだ。
ホームに入ってきた薄緑の電車は、ゆっくりと止まっていった。そして、その電車の扉に僕はゆっくりと入った。
その車両には自分以外の乗客がいなかった。
僕は車両の真ん中にある長い座席に座ることにした。出勤ラッシュ時や帰宅ラッシュ時には経験できないだろう長椅子占領を、僕は果たした。
だが嬉しくはなかった。自分は何をやっているのか。そう一番に思った。