一回目と二回目
佐藤との初めての会話は簡単なものだった。教室に入って、彼女を発見した僕が「おはよう」と挨拶をして、佐藤が「おはよう」と挨拶を返す。その次に僕が「何を読んでいるの」と聞き、佐藤が文庫本の表紙を僕に見せる。
「ゴリオ爺さん」と僕は呟いた。
「そう」
「面白い?」
「まだ読み始めたばかりだから」
「そう」
それだけだ。第一回目の会話はそれだけだ。かといって、第二回目、第三回目が壮大で、幻想的だったかというとそうではない。この会話をコピーして、十一回ペーストしても、あまり僕の人生には影響がないように思える。高校を卒業して七年後の金曜日、午後一時半に僕はここで散歩しているだろうし、貯金を食いつぶしている無職だろう。
では第二回目の会話を思い出してみようか。あれは高校一年の、夏休み前、終業式の日だった。
一学期全部の一番乗りを彼女に取られていた僕は、思い切って朝七時三十分に学校に着くようにした。別に一番乗りに固執していたわけじゃないのだが、一学期最後の日だし、せっかくだから一番乗りをしてやろう、と、ちょっとしたお茶目な行動をしたくなったのだ。そのために僕がやったことは、いつもより二つ分早い電車に乗ることだった。もちろんそのためにやったことは早起きで、それをおかしく思う家族の目をごまかすためにやったことは嘘を吐くことだった。どんな嘘だったかは覚えていないが、どうせ今でも思いつくようないいかげんな嘘に違いない。例えば、早く学校に行って勉強するとかなんとか。終業式のある日に勉強する僕を想像できるやつが、あの頃にいただろうか。いなかっただろう。
とにかく僕は、早めの電車に乗り、その電車は予定通りに七時二十分に学校の最寄り駅に着いた。そして、僕はいつも通りに高架下を歩いて学校へと向かった。
前からこの辺りは、あまりまとまりのない地域だった。家もあれば、会社もあり、マンションもあったし、ファミリーレストランもあれば、工場もあった。もちろん学校もあったし、図書館もあった。人々と街が、需要と供給が変なバランスを保って共存していた。そして、それが住みやすいと思う人もいた。その一人が僕だ。だから高校を卒業した今、僕は近くのアパートに部屋を借りて一人暮らしをしている。
学校に着いたのは、予定通り七時三十分だった。僕は職員室へ行って、そこにいる早起きの先生に挨拶をした。そして、鍵を貰おうと、鍵がぶら下がっている手作りの壁掛けボードへと向かった。
だがそこに、一年三組の鍵はなかった。
「あの、先生」と僕は三年五組の担任をしている飯森先生に聞いた。「一年三組の鍵は」
「ああ、佐藤さんが持っていったよ」
「佐藤さんが」僕の頭に窓際の席で本を読んでいる彼女が浮かんだ。
「そう。あの子いつも早いよな」
僕はその言葉を聞き終わる前に「失礼します」と言い、職員室を出た。
僕は階段をゆっくりと登った。息はさすがに切れなかったが、毎日四階まで行くのは辛かった。
一年一組と、二組を通り過ぎる。昼間とは違い、後ろにある小さな黒板が存在感を出していた。どちらの教室にも、誰もいなかった。
一年三組の扉を僕は開けた。そして、そこで立ち止まった。
佐藤しおり、もしくは佐藤かおりは本を読んでいた。鋭い朝日の光を遮るように、カーテンを窓の半分までひいていた。最近見る、彼女とあまり変わらなかった。だが、ひとつ変わったところがあった。彼女はいつも両手で本を掴んでいるのだが、今日は右手だけで本を掴んでいた。そして空いた左手を頬杖にしていた。顔はわずかにこっちを見ているようだったが、それはカーテンから透ける朝日が眩しいからかもしれない。決して僕を待っていたわけではなく。
正直に告白するとこの時、僕は恋に落ちたのだ。初めて見た、新鮮な角度からの、彼女の顔に僕は惚れたのだ。
ほんのりとかいてきた汗を僕はシャツに吸わせた。もう少しだけ、彼女を見ていたかった。
「おはよう」と僕は言った。
「おはよう」と彼女は頬杖をついたまま言った。
彼女のポニーテールが初めて、可愛いものとして僕に飛び込んできた。
「早いね」彼女は頁を一つめくった。
「佐藤さんこそ」
「でも、これで私の完全試合ね」
僕は彼女が何を言っているのかよく分からなかったが、なんとなく理解することにした。
「コールドゲームにすべきだよ」
僕は意味も分からずにそう返した。
僕は彼女から横に三つ離れた席に座り、かばんを机にかけた。そして、ちらりと彼女を見た。
彼女と目が合うと、僕は机に視線を移した。急に顔が熱くなった気がして、僕はそのまま机に突っ伏して、寝たふりをすることにした。
寝たふりの間、僕はずっと彼女を思い出していた。奥二重の切れ長の目。強い眼差し。真っすぐ整った眉毛。今まで古いと思っていたポニーテール。柔らかそうな肌色の耳。すっと伸びた顎のライン。
僕が起きたのは一時間後で、教室にはほとんどの生徒がいた。廊下にも生徒がいて、静かな学校はわっと騒がしくなっていた。それに気付かないほど熟睡していた理由は、きっと早起きに違いない。
僕は恐る恐る窓際の席を見た。隣の席と、その前の席にいたやつが邪魔で少ししか見えなかったが、佐藤はそこにいた。だが、本は閉じられ、彼女は前の席にいる女子と話をしていた。