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思い出話

 改札口で乗り越し料金、五百九十円を払って駅を出ると、道路を挟んで反対側に僕たちは渡った。そこから少しだけ歩き、比較的大きな道路(車線は四つあった)に出た。

「近くに大きな通りがあったんだな。気づかなかった」

「ホームからは見えないからね。電車からは見えるんだけど」

 目を閉じていて気づかなかったのだろうか、通りには高い建物とは言えないが、三階建ての建物がいくつかあった。

「ここ」と先導していた佐藤は立ち止まり、ポニーテールを揺らして喫茶店を示した。

 喫茶店は、レンタカー屋と歯医者の間にあり、とてもアットホームな雰囲気を出していた。何よりも驚いたのはその外見だった。それはほとんど民家だった。菱形に穴が開いた塀があり、入口から玄関に向けて飛び石が三つ置かれていた。青い瓦屋根を持つ建物の玄関はガラス張りで、そこから店内が見えない限り、そこが喫茶店だと、僕は思わなかっただろう。

「随分と変わった喫茶店だね。実家みたいだ」

「私、ここで働いてるの」

 僕は佐藤の後ろについて、玄関に見えるところをくぐり店内へと入った。ガラス戸にはキッサとだけ書かれていた。

「あれ? みーちゃんどうしたの?」

 声の主はレジのところにいた。五十代だろうか。細身の彼女は大きな目をぱちくりとさせて、こっちを見ていた。

「高校の頃の同級生」と佐藤は僕を紹介した。

「どうも」僕は頭を下げた。

「いらっしゃい。今、お客さんいなくなったから、どこの席でもいいわよ。それにしても、忘れ物でもしたのかと思っちゃった」

「いいえ。そこで久しぶりに会ったから」佐藤はそう言いながら、奥のテーブルへと僕を連れていった。

 店内には丸テーブルが七つあった。玄関(僕はそう呼ぶことにした)から入って、左側にはカウンター席もあり、その隅にレジがあった。

 僕らが座った席からは庭が見えた。ほんのりと白い置石があり、地面には、近くにある松の色に似た苔が生えていた。

「いいところだね。落ち着くよ」

「うん」

 目の大きなおばさんは、メニューを持ってきてくれた。

「おすすめはこの特選ブレンドコーヒーか」おばさんは開いたメニューの右側を指差した。「ホットチョコレートね。ケーキはチーズケーキも美味しいし、チョコレートケーキも美味しい」

「へぇ」と僕は相槌を打ってみた。

 だが、おばさんは「じゃあ、注文が決まったら呼んでね」と言い、去っていった。彼女は昔の簡素なメイド服のようなものを来ていたが、足もとはスリッパだった。

 僕は正面に座っていた佐藤を見た。なんだか新鮮だった。

「高校の頃の半分はすでに喋った気がする」

「せいぜい三分の一くらいでしょ」

「そうかな」

「そうだよ」

 結局僕は、おすすめのブレンドコーヒーを頼み、彼女はホットチョコレートを頼んだ。

 おばさんが「お待たせしました」とそれらを持ってくるまで、僕らは互いに喋らなかった。

 おばさんはそれを変に思ったのか、何も言わずに静かに奥に入っていった。

「森村くんは、今、何してるの?」

「何も」僕は正直に答え、首を振った。「佐藤は――ここで働いているんだったね」

「そう」

「どうだった? この七年」僕はコーヒーカップを触りながら聞いた。

「別に、普通だったと思うけど」

 僕はカップを持ちあげ、コーヒーを飲んだ。今日一番の美味しさだった。苦くて酸っぱくて、甘かった。

「そっちはこの七年どうだったの?」

 僕は考えた。だが、思い出すには、まだ僕はそこを脱していない気がした。

「……どうだろう。まだよく分からない」

 佐藤は甘い匂いのするホットチョコレートをゆっくりと飲んだ。そして、一度、僕の胸のあたりを見た。

「ねぇ、どうしてあのとき、私に話しかけたの?」

「あのとき?」

「私たちが初めて話したとき」

「ああ、第一回目」

「第一回目?」

「そう。僕が佐藤とした第一回目の会話」

「私が森村くんとした、第一回目の会話ね。……あのとき、本のこと聞いたでしょ?」

「聞いたね」

「なんで?」

僕は瞼にかかっていた前髪を払った。だが正解はそこから出てこなかった。

「正直言うと分からない。あの頃は、女の子と話したかったのかもしれない。本のタイトルを聞いたのは、なんとなくだと思う。会話を続けようと思ったのかも」

「そう」

「そうだよ」

「じゃあ、第二回目は?」

「第二回目……」僕はもう一度、それを思い出した。「一学期の終業式の日だな」

「よく覚えてるね」

「覚えてる。ちなみに第一回目のときに佐藤が読んでいたのは『ゴリオ爺さん』っていう本だった」

「へぇ。……懐かしいな」

 こんなことまで覚えているのは気持ち悪いかな、と僕は思ったが、もう言ってしまったものは仕方がない。昔のことだ。

「よく覚えてたね。本のタイトルなんて」

「それしか覚えていないよ」僕は嘘をついた。

「そうなんだ」

 彼女はもう一度ホットチョコレートを飲んだ。

「第二回目は終業式の日で、佐藤が完全試合を達成した日だよ」

「あ、覚えてる」

「そう?」

「うん。一学期全部一番乗りできたから」

「完全試合ってそういう意味だったんだ」

「え、分かってなかったの?」

「なんとなくしか」

「そうだったんだ」佐藤はくすっと笑った。「でも、あの日は危なかったんだよね。学校に行く途中、遠くに森村君の姿が見えてさ、ちょっと走ったもん」

「へぇ」

「で、鞄から文庫本を出して、呼吸と整えていたら森村くんが来てね。……ぎりぎりだったなぁ、あの日は」

 僕はあの日の佐藤を思い出してみた。確かにぎりぎり一番をとれた佐藤がいた。いつもとは違い、右手だけで本を掴み、左手で頬杖をついていた。

 そういう理由があったのかと、僕は笑いそうになったがなんとかこらえた。ほんの少し向こう側から電車の音が聞こえてきた。

「第三回目は?」

「第三回目は、一年の秋だよ。俺らが日直の日で、俺が扉を開けるのと同時に『おはよう』って言った日」

「それも覚えてる。結構、驚いたんだからね」

「知ってるよ。驚いた顔をしてたし、あれ以降、教室の扉が開きっぱなしだったからね」

「悪かったね。毎回閉めてもらって」

「いや。別に嫌じゃなかった。二番手の役目みたいで、なんとなく嬉しかった気がするし」

「ならよかった。――そういえば、そのあと日直の役割分担した?」

「した。こっちとしてみれば押しつけられたようなものだけどね」

「そうだった?」

「そうだよ。すでに役割は決まっていて、俺は言われたままに従っただけ」

「そうだっけ?」

「そうだった」

 僕は一呼吸入れるように、コーヒーを飲んだ。

「第四回目は雨の日だったよ。……タオルを貸した日」

「ああ」彼女は額を擦った。「うん。それはよく覚えてる」

「そして、それは返ってこなかった」

 僕は笑って彼女を見たが、彼女はばつが悪そうな顔をしていた。

「別にいいんだけどね。特別困らなかったし」

「あれはねぇ……。ちゃんと洗って返そうと思っていたんだけど」

「だけど?」

 彼女は困った顔をしていた。だが、意を決したのか口を開いた。

「実は、あのタオル捨てられちゃったの」

「誰に?」

「あのとき付き合っていた彼氏に」

 僕の鳩尾あたりが少しだけ窮屈になった。だが、それはほんの少しだ。失恋ほどの辛さではない。ちょっとご飯を食べすぎたかなといったくらいだ。

「……もしかして嫉妬されたの?」

「そう。帰り道に見つかっちゃって、近くの川に投げられたの」

 僕は声に出して笑った。随分と凄い男の子と彼女は付き合っていたんだな。

「それで?」

「それで喧嘩して、春休みになって別れて……。タオルのこと忘れてたの」

 僕はさらに笑った。可愛らしいものだ。あの長い髪もそのために短く切ったのだろうか。もしそうだとしたら、彼女は僕が思っているよりずっと古風な子だったんだな。

「それは申し訳なかったね」

「なにが?」

「タオルを貸してしまって」

 佐藤は首を振った。

「別に。彼氏に嫉妬されるより、タオルで濡れた髪を拭けたほうがありがたかった」

「そう」

「うん」

「それならよかった」

「それで」彼女はカップを触った。「第五回目は?」

「第五回目は二年生になってから。初めて二年五組に入ったとき」

「同じクラスになったよね」

「偶然にもね」

 僕は美味しいコーヒーを口に含み、飲んだ。

「佐藤が髪を切っていて、俺は驚いたんだよね。実は佐藤のポニーテール気に入ってたんだ」

「へぇ。知らなかった」

「言わなかったからね」僕は痒くなった耳を掻いた。「そして、ぼーっと、窓際にいる佐藤を見てた。そのとき、初めて佐藤が笑うところを見た」

「嘘だぁ」

「何が?」

「私、そんなに暗い女子だった? クラスでも普通に笑ってたと思うけど」

「同じようなことを、そのときも言われた。『私が笑うところ初めてみた?』って」

「それで?」

「たぶん、初めてじゃないって答えたよ。実際、佐藤は暗い子じゃなかったし。……大人しいほうではあったと思うけど」

「そうだったかなぁ。結構、賑やかだったはずだけど」

「男子の世界からはそう見えたんだよ」

「そういうものかもね」

 僕はその言葉を聞き終えたあとに、思い出し笑いをした。

「どうしたの?」佐藤は目を大きくして言った。「思い出し笑い?」

「そう」

「なんで?」

「俺が黙って見てて、『なんか覗いてるみたいでごめん』って謝ったら、佐藤が『教室で気を抜いていたのは自分だから』って」

「それで?」

「それだけだよ。……あのとき怒ってた?」

「うーん。覚えてないけど……。たぶん怒ってないんじゃないかな」

「ならよかった」

「でも、タオルの件とそれでチャラね」

「分かった」

僕は頷いた。

「……次は?」

「第六回は二学期の始業式だったね」

「覚えてないなぁ」

「初めて教室じゃない場所で話したからね」

「どこで話したっけ?」

「階段」

「階段? ……やっぱり覚えてないかも」

「始業式が終わって、体育館から教室に帰るときに隣に佐藤がいたから、話しかけようと思って話しかけた」

「うん」

「夏休みはどうだったって聞いたら、別にどうもなかったって返ってきて。同じことを俺も聞かれたから、俺も同じように何もなかったって答えた」

「うん」

「……それで終わり」

「それだけ?」

「それだけ」

「うーん。確かに二年の夏休みは何もなかった気がするな」

「実は俺はあったんだよ。彼女と別れたんだ」

「へぇ。彼女いたんだね」

「いた。半年くらい付き合って終わった」

 何を言っているんだろうか、僕は。そんなことを今言っても、あのころの僕が癒されるわけでも、あのころの佐藤と仲良くなれるわけでもないのに。

「第七回目は、十一月の最後の週だったと思う。佐藤が眼鏡をかけはじめた月だね」

「ああ、眼鏡」

「今はしてないみたいだけど」

「まぁ、うん」

「眼鏡のことについて聞いたら、似合うかどうか聞いてきたんだ」

「うん。どうだった?」

「似合ってなかった」

「ええ?」佐藤は驚いて言った。

「でも、あのときは似合ってるって言った」

「眼鏡似合ってなかった?」

「色は合ってた。でも、眼鏡は似合ってるとは正直思わなかったなあ」

「そう?」

「うん。正直に言うとね」

「まぁ、あれは……」

「あれは?」

「いや、笑われるからいい」

「気になるね」

 僕はそう言いながら庭を見た。生垣に小鳥がいるのが分かった。

「まぁ、タオルと同じようなものだよ」

「……なるほど」

 僕はほどよく冷めたコーヒーを飲んだ。二杯目をたのむことはないだろう。あのおばさんもいないし。

「……何回あるって言ってたっけ?」

「会話?」

「そう」

「十二回」

「そうだった。……次は何回目だっけ?」

「第八回目」

 僕はテーブルの下に隠していた左手の中指を開いた。

「三月の初めだった。佐藤が眼鏡を変えたあたりだな」

「青色の眼鏡か」

「そう」

「確か森村くん、私の前の席だったよね?」

「机を挟んで一個前だった」

「ああ、そうだ」と彼女は言って、ホットチョコレートをゆっくり飲んだ。「で、やっぱり眼鏡似合ってなかった?」

「前より眼鏡っ子っぽくはなっていたよ」

「そう?」

「そう」僕は自分が笑うのを感じて言った。「それから徒歩通学かどうか、聞いた」

「森村くんは電車通学だったっけ?」

「うん。そんなふうに第八回目は終わった」

「私たちあんまり話してないんだね」

「話してないね」

「……話せばよかったね」

「……そうだね」

 本当にそうだろうか。でも、そうすべきだったのかもしれない。そうすれば、もっと今が楽しかったのかもしれない。予想にもならない希望だが。

「第九回目は三年生になってから」

「覚えてる」と佐藤は少し大きな声をだした。「たぶん、森村くんが嘘をついた日だ」

「嘘?」

「大学行くって嘘ついた日」

 そうだったな。あの日の自分を思い出して、僕は笑った。

「オカシノ大学って何だったの?」

「……俺は進学じゃなくて、就職したんだよ」

「知ってる。どこからか聞いた」

「工場に勤めてたんだよ、俺は。和菓子をつくる工場に」

「それでオカシノ?」

「そう」

「でも何で嘘ついたの?」

「なんでだろう……。なんでだろうね」

「……でも、気持ちは分からなくもないかな。私も結構秘密主義だったから。最後の方まで専門学校か大学か迷ってて、それを誰にも言わなかったから」

「……秘密主義か」

 僕は秘密主義だっただろうか。ただ、僕は他人と比べて傷つくのが怖かったような気がする。今みたいに。僕はずっと誰とも連絡を取っていない。自分を正直に話すのが怖いのだ。人の目や、それに対する自分の愚かさを見たくないのだ。

「工場は辞めたの?」

「一年前に辞めた。体から甘い匂いがしてきたから」

「何作ってたの?」

「饅頭か、団子か……」

「美味しそうだね」

「息をせずに目隠ししていれば、そうかもしれない」

 僕は記憶の中にある、空気いっぱいに詰まった和菓子の甘ったるい匂いをコーヒーで消した。

「第十回目は秋口だね。俺が皆勤賞を逃した次の日」

「それも覚えてる。ちょっと恥ずかしいけど」

「恥ずかしい?」

「そう。私の中では恥ずかしい記憶」

「どうして?」

「……前の日、森村くん休んだでしょ? それで、私間違えてその日、二番目に入ってきた男子に挨拶しちゃったの」

「それがどうして恥ずかしいの?」

「だってあの男子――名前なんていったか忘れたけど、凄く驚いてたからね」

「そうなの? なぜだろう」

「なぜって、私そんなに男子と話してなかったでしょ?」

 僕は顎を親指で擦りながら、会話以外の佐藤を思い出してみた。彼女はいつも仲良しの女子と話していた。男子と話していたときもあったような気がするが、ぼんやりとし過ぎていて、妄想との区別がつかなかった。

「……そうかもしれないね」

「だから、いきなり私が男子に話しかけるのって変でしょ?」

「そうだね」

「つまり……、よく分からないけど森村くんと間違えて、知らない男子に挨拶したのが恥ずかしかったの」

 知らない男子。同じクラスだったのに可哀そうだ。まぁ、僕もきっとどこかで知らない男子呼ばわりされているだろう。彼女もそうかもしれない。

「……でもさ、なんで佐藤は俺に挨拶しようと思ったの?」

「どうして?」

「いつも、俺から挨拶してたのに」

「そうだった?」

「そうだった」

 佐藤はまた額を擦った。

「……タオルのことを謝ろうと思ったの」

「今更か」僕は笑った。

「そう今更」

そう言い終わると佐藤も笑った。

「佐藤くん、コーヒーのおかわりは?」

「いや、まだいいよ」

「そう。じゃあ、第十一回目の話をして」

「うん。第十一回目は……。その前に前日の話をしないとね」

「うん」

「前日も俺は佐藤に挨拶したんだ。でも、佐藤は返事をしてくれなかった。それが苦しくてね。その日はちょっと落ち込んでた」

「なぜ私が返事しなかったか分かる?」

「七年たった今でも、分からない」

「……ちょっと意地悪してみようと思っただけ」

「それだけ?」

「佐藤くんの嘘がばれた翌日だからね」

「なるほど」

 僕はそう思いながらも、それと意地悪との関係が掴めていなかった。掴めない気もした。

「その次の日が第十一回目だよ。佐藤が挨拶をしてくれて――」

「さすがに大人気なかったからね」

 いや、こちらこそごめん、と、なんだか謝りたくなったが、僕はうまく踏みとどまった。

「俺が夢について聞いた」

「夢……か」

「うん」

「私なんて答えた?」

「ないかな、って」

「そう」

「……俺も聞かれたから、ないって答えた」

「……お互い寂しい若者だったね」

 そう。そして、僕は今でもそうだ。君の中にいる寂しい若者の一人だ。

 僕は夕日に赤く塗られた庭の緑を見た。でも、何も思わなかった。なぜだか額縁に飾られた下手な絵のように見えた。

 佐藤のほうを見ると、彼女も庭を見ていた。高校時代よく見ていた、横顔だった。奥二重の切れ長の目は、化粧でさらに整えられていた。強いまなざしと真っすぐ整った眉毛は変わっていなかった。ポニーテールもそのままだった。柔らかそうな耳とすっと伸びた顎のラインは、七年分だけ大人になっていた。

「次が最後ね。十二回目」目線を庭から僕に移して彼女は言った。「最後は覚えてる。卒業式が終わったあとだね」

 僕は首を振った。

「それは十二回と一回の、一回だ」

「どういうこと?」

「十二回と一回の一回のときは、俺らはもう高校生じゃなかったから」

「それで?」

「……俺はカウントしないことにした」

「どうして?」

 佐藤は真っすぐ僕の目を見た。

「俺にとって高校生活は三年間で、校内だけだったから」

「じゃあ、最後の会話は覚えてないの?」

「覚えてるよ。でも、まだ思い出していない」

「そう」彼女はカップに目線を落として言った。

「とにかく、第十二回目だ。十二回目は二月の二十三日だったと思う。卒業式の練習って、おかしくないかっていう話をした。そうしたら、佐藤が『高校時代の練習もあればよかったのに』って言ったんだ。覚えてる?」

「うーん。……覚えてないな」

「そう。でも言ったんだよ。俺はそれを面白い考えだと思ってね……。それから俺と佐藤はそれについて話したんだ。珍しく佐藤は文庫本を閉じてね」

「……」

「……それからお互い黙って、他の誰かが教室に入ってくるまで俺はずっと佐藤を見てて、佐藤も俺を見てた」

「……ああ、今思い出した。あったね、そんなこと。……二人ともじっと座ってね。面接官みたいだった」

 僕はコーヒーカップのつるつるとした表面を触った。テーブルの下に隠していた左手も、テーブルの上に出した。

「……あのとき、なんで私をじっと見てたの?」

「あのときは理由もなく見てた。でも、今考えると、たぶん……」僕は彼女と目線を外してテーブルを見た。「思い出すために見てたんだと思う」

「忘れないためにじゃなくて?」

「俺はそんなに強くないよ。ずっと頭の中に何かがあるなんて、辛くて生きていけないよ。俺は必要なときに、必要な分だけ、思い出を眺めたいんだ」

「私は……」佐藤は柔らかく笑って、もう一度横顔を僕に見せた。「高校生活をやり直してみたくなったから、森村くんを見てた」

 懐かしい空気が流れた。二人で教室にいたときのような、誰も邪魔しない、僕らもお互いを邪魔しない時間だった。

「……ねぇ。あと一回の、最後の会話のとき、本当は何を言おうとしてたの?」

「あのとき」僕は今よりもずっと幼かった彼女の顔を思い出した。「……いまさら言えないな」

「そう」

「……佐藤は何か言おうとしてたの?」

「あのときは」佐藤はティーカップのもち手をいじった。「森村くんが何を言うのか待っていただけ」

「そうか」

「そう」

 

 二人で駅に戻ると、佐藤はすぐにやってきた電車で、さらに南に向かっていった。

 僕は彼女に手を振りながらそれを見送り、北へと戻る電車を待った。

 彼女と再会して、正直嬉しく思ったが、それ以上のことは何も思わなかった。今はもう彼女に恋していないし、これから昔を取り戻すかのように、親しくなろうとも思わなかった。

 ただ少しだけ、心が水面に顔を出した。

 それでも、僕の二ヵ月後の予定は変わっていない。生と死の計画の両方がぼんやりと練られている。だが、頭のどこか重要な部分では、そんな未来のことは考えられておらず、佐藤としたあと一回の会話がどんどんと、線路の向こうからやってくるように思い出されていた。


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