今と十一回目
クラスメイトのほとんどが緊張していた一月、僕は少しだけクラスから浮いていた。何せ、一人だけ進学しないのだから。大学受験に忙しい生徒からは、僕のことが随分と暢気に見えただろう。
だが僕は僕で、心の安静を保てていたわけではなかった。高校生活が終わり、知らない社会へ飛び込んでいくのは正直、苦しかった。
学生と社会人では、人生の楽しみ方が違うような気がしていた。そりゃあ、ほとんどの学生よりもお金を稼ぐことはできるだろう。だが、その代わりに自由な妄想、希望というものが失われる気がしていたのだ。
しかも僕が働くのは、僕がやりたい仕事ではなかったのだ。
もちろん、あの頃の僕にはやりたい仕事なんてなかった。だから誰かに文句を言おうにも、言えなかった。
もし僕が教壇に立つことがあれば、一番に言いたいのは夢を持つ重要性だ。
なんでもいい。野球選手でもサッカー選手でも、ケーキ屋さんやお花屋さんでも、総理大臣だって、世界征服でさえいい。夢を持っていれば、きっと頑張ろうと思える。
僕は思う。夢なんて破れない。自分で引き裂いたり、捨ててしまったりしない限り、夢は破れないのだ。
持たない限り、絶対に破れることもないが……。
そう。僕は挫折したことがない。幸か不幸か。
カレンダーについている大きな数字が増えていくのを、怖く思いながら、僕はその日も佐藤の次に教室に入った。
「おはよう」
扉を閉めながら僕がそう言っても、彼女は返事をしなかった。そのまま文庫本を読み続け、時々窓から外を見ていた。
僕は彼女に何かしたのだろうかと、心苦しくなった。だが、僕としては何もした覚えがない。最後に佐藤と会話したときと、何も変わっていない。身長が一センチ伸び、佐藤との身長差が広がっただけだ。
彼女は彼女できついのかもしれない。そっとしておくのがいいのかもしれない。
そう自己完結させながら、僕の気分は最下層へ向けて落ちていった。昼休みのあたりに泣きなくなったくらいだ。
彼女は仲良しの女子と、何もなかったかのように笑って話をしていた。
次の日も僕は二番目に教室に入った。二人きりにならないように、遅く登校することでもできたが、こればかりはどうしようもなかった。習慣というものだろうか。
僕は扉を開けて、教室の真ん中にある席へ座った。鞄からは何も出さなかった。ただ、ぼんやりと黒板を見ていた。日直は笹井と花川だった。
「おはよう」
僕の左側から聞こえた。僕の声よりも高く、落ち着いた声だった。
僕がその方向を見ると、そこには窓際の席に座る、僕の好きな女の子がいた。
「めずらしいね」僕はそう言った。
「なにが?」
「佐藤から挨拶するなんて」
「……」
「なあ」
「……何?」
「佐藤は夢あるのか?」
「……」
佐藤は何も答えなかった。昨日と同じように僕は心苦しくなったが、そのまま彼女を見続けた。
彼女は本から目を離し、外を見ていた。向こう側は雲ひとつない日本晴だった。
「……ない、かな」短く彼女は答えた。
窓に映る彼女の瞳と、目があった気がした。
「森村くんは?」
「……ないよ」
「そう」
彼女は読書を再開した。話は一枚分、後ろに戻った。
十六時半になったのを、僕は携帯のアラームで確認した。そういえば、と、今日が燃えるごみを捨てる日だったのを思い出した。家に帰ったら出さなければならない。そう考えながら、僕はもう一度目を閉じた。眠気がいつの間にか頭の上に乗っていた。
十六時四十分に到着した駅で、僕は降りた。周りには田畑と民家、電柱が並んでいるだけだった。バニラ色になりかけた空には電線がぶら下がっていた。二階以上の建物は遠くの方に見当たるか、見当たらないか、そんなところだった。
車掌が駆け込み乗車をやめるようアナウンスすると、電車は僕を置いて、南へと出発した。
ホームは一番しかなかった。単線区間というのは、危なくないのだろうかと考えたが、これまで大きな事故がないのを考えると、危なくないのだろう。
北へ向かう電車を待つために、もしくはここでじっとしているために、僕は椅子に座った。背もたれのある白いベンチだった。
ホームには、僕の他に誰かいるのだろうかと見回してみた。遠くの方に、お婆さんとジーンズを履いた女性がいるようだった。
改札口には改札機が一つしかなかった。券売機も一つだろうか。
僕は携帯電話をいじった。最近きたメールは、工場で働いていたときの同僚だった。彼は僕のあとに仕事を辞め、今は違う仕事に就いている。彼は自由過ぎる時間から抜け出すために、街を歩いたのだ。できるだけの力を使って。