今と十回目
夏が終わり、秋が始まってすぐに僕は風邪をひいた。十月の後半、二十日あたりだろうか。その日、僕は学校を休んだ。高校入学以来、初めてのことだった。
といっても、僕が風邪をひいたのは月曜日ではなく、前週の金曜日だった。
その日の午後に、風邪の症状が出始めて、家に帰ると僕はそのまま布団に倒れた。母親が持ってきた体温計よると、僕の体温は三十八度五分だった。
僕はそれを見ると、違うウイルスにも感染したように、余計にぐったりと疲れた。
次の日の土曜日に病院へ行き、何に効くのか分からない薬を貰って帰って来た。それを飲みながら僕は、寝床で眠り、時たま起きて、水分を摂りながら、それを出した。
それでなんとか僕は月曜の朝までに、風邪をおとなしくさせて、熱を三十六度八分にまで下げた。
でも結局、その日僕は学校を休んだ。誰かに風邪をうつしては申し訳ないと思ったのだ。それに、僕以外のクラスメイトは大事な時期を迎えていた。うつされた風邪のせいで受験勉強が間に合わなかったとは絶対に言われたくはなかった。陰口でも嫌だった。
火曜日の朝、僕が教室に着くと、やはり佐藤はいた。いつも通り、こちらを向いて、僕を確認すると正しく黒板の方を向いて座りなおした。
「おはよう」
「おはよう。……風邪治った?」
受験勉強に疲れたのか、彼女は参考書ではなく本を読んでいた。文庫本にしては、厚みのある本だった。
「治ったよ。……三日で治した」僕は自分の席に座り、一時間目の数学Ⅲの教科書を出しながら言った。「でも、昨日は予備みたいなものだったんだよね。熱も三十六度台だったし」
「なんで来なかったの? 今まで皆勤だったのに」
「うつしたら申し訳ないからだよ」
僕がそう言うと、彼女はページをめくり、額を擦った。そして、「ふーん」と返事をして、そのまま黙った。どうやら本の世界へと入っていったようだった。
佐藤との第十回目の会話がこれだ。そして、これは記念すべき会話だ。相変わらず挨拶をするのは僕からだったが、彼女は十回目にして初めて、僕に話題を振ってきたのだ。
誰も気づいていなかったと思うが、この日、僕は初めて学校に来てよかったと嬉しく思った。
佐藤との会話はあと二回だ。第十一回目と第十二回目がそれになる。あと一回については二時頃に結論を出したように、入れないことにする。高校三年間で僕が彼女と話をした回数は十二回。そう、十二回なのだ。
自分にそう言い聞かせながらも、僕はぼんやりとあと一回の会話を思い出していた。だが、自分と佐藤が高架下で立ち止まったところで、僕はタバコの火を揉み消すように脳を揺らし、違うことを考えるように促した。
そのとき、大きな音を立てて特急電車がホーム入ってきた。赤い色をしたそれは、大勢の客を乗せていた。
電車が完全に止まると、巨人が空気を吐き出すような音が聞こえ、一車両に二つある扉が一斉に開いた。
多くの人間がホームへ降りて、黒くなったコンクリートを早足で踏み鳴らしながら改札口へと続く階段を下りていった。高校生、大学生、サラリーマン、主婦、その誰もが疲れているようだったし、これから癒されるのを心待ちにしているのか、嬉しそうだった。
羨ましい限りだ。
僕は乗客の入れ替えを見ながら、ジャムパンの袋をゴミ箱に捨てて、元の電車へと戻った。
特急電車から乗り換えたのか、幾分か席が埋まっていた。長椅子を占領するのは、もう無理だった。
運よく空いていた元の席に座ると、僕は目を閉じた。お腹が膨れても、人生について安心はできていなかった。