ターニングポイント
「じゃ、メイ---悪いけど留守番お願いね」
渡瀬さんはそう言うと、事務所を出て行った。
今日は事務の佐々木さんが急遽お休みで、社長である渡瀬さんは私用でどうしても出掛けなければならず、事務所が誰もいなくなるのはまずいという事で、私が留守番をすることになった。
私は笑顔で渡瀬さんを見送ると、1人残った事務所内を見回す。綺麗ではあるのだが、やはり所々床や壁などに汚れがあり、私にはそれが気になる。
「さて…と、久しぶりに掃除でもしましょうかねぇ」
私は袖を捲ると、掃除用具を引っ張り出してきた。
元々私は掃除が好きで、渡瀬さんと出会ったのも、私がこのビルのメンテナンスで働いていたのがきっかけだった。
2年前---
「ねぇ、あなた!モデルの仕事に興味ない?」
5階フロアの床を磨いていた私に、お洒落な格好をした女性がいきなり話し掛けてきた。
「は?」
言われた意味が判らず、思わず間抜けな声で聞き返していた。
そんな私に彼女は別に気を悪くした風でもなく、私の顔を見ながら笑顔で答えた。
「この前から気になってたの!その長身は勿論だけど、姿勢の良さや歩き方、モデルに向いてるって……」
その女性は私に名刺を差し出すと『気が向いたら電話して』とにこやかに去って行った。
私は名刺に目を落とした。そこには【next】の文字と『渡瀬千紗』と言う名前が記されていた。
それから何度か渡瀬さんは私に話しかけてきたが、私は曖昧な返事を返すだけだった。
その時の私はモデルになる気など全く無かった。
高校を卒業後、短大へ進学したのをきっかけに、私は家を出て一人暮らしを始めた。
私と父は一緒に祖父母のいる田舎に引っ越して農業を手伝っていたが、父は私が高校2年の時に再婚した。義理の母はとても優しい人で、私とも仲良く接してくれ進路の事も真剣に相談にのってくれた。
私が短大に行きたいと言った時も、義母は父を説得してくれた。
「五月ちゃんが、行きたいって言ってるんだから行かせましょう。一人暮らしは心配だけど、五月ちゃんはしっかりしてるから大丈夫よ。ねぇ、自分達の娘を信じましょうよ」
義母はそう言って、私の短大進学を応援してくれた。
そして短大に入った私は、保育士の資格を取る為必死で勉強した。
しかしいくら実家から仕送りをして貰ってるとはいえ、学費と生活費をやりくりするのは大変で、私はアルバイトをすることにした。
それがビルのお掃除の仕事だった。時間は主に夕方や夜だったが(その方が時給も良かったりしたので)、夏休みの時などは昼に入ることもあった。
「五月ちゃん、これ食べる?美味しいわよ」
「わぁ、ありがとうございます。斉藤さん」
お昼は斉藤さんや他のおばちゃんが一緒なので、休憩にはおやつがあり夜とは違って楽しい。
そんなアルバイト生活を卒業まで続けるつもりだった。
しかし人生そんなうまく行かないもので、保育士の免許は取ったが就職先が無く、結局そのままこのバイトを続けている。
今日はお昼にバイトが入っていたので、斉藤さんや井上さんと休憩で一緒になった。
「あの、聞いていいですか?」
私はおやつを食べながらお喋りをしている2人に話し掛けた。
「うん?何?五月ちゃん」
2人は私の方を見た。
「あのですね、5階に入っている【next】って所の渡瀬さんって知ってます?」
私の質問に斉藤さんが笑顔で答えた。
「千沙ちゃんでしょ?知ってるわよ。いい娘だよ、私達にも笑顔で挨拶するし、時々差し入れもしてくれるんだよ」
笑いながら井上さんも頷く。
「何?千沙ちゃんがどうかした?」
2人が不思議そうに私の顔を見ている。私は制服のポケットから名刺を取り出した。
その名刺を2人が覗き込む。
「この前、仕事中に渡瀬さんに話し掛けられて『モデルにならないか?』って言われたんですけど……」
「すごいじゃない!」
私の言葉に2人は驚いた。
「五月ちゃん、千沙ちゃんって数年前まではモデルで有名だったのよ!その彼女が言うんだから、五月ちゃんもしかしたらモデルに向いているのかもしれないよ。やってみたら?」
「でも、私なんてただ身長が高いだけだし……」
「何言ってんの!五月ちゃん、可愛いわよ。確かに身長は高いけど、モデルやるならその方がいいんでしょ?千沙ちゃんが言うんだから間違いないわよ。自信持ちなさい」
なぜか私よりも2人が興奮している。
(モデル?私が?……)
コンプレックスになっている身長がもしかしたら役に立つかも……
そう思った時、モデルという仕事に少し興味が出てきた。
【next】と書かれた扉の前に、しばらく佇んでいた。
どうしよう、やっぱり止めようか……
斉藤さん、井上さんの2人に言われて、つい勢いで電話を掛けてしまったけど、本当に私なんかが出来るのだろうか?
そんな事を考えていたら勢いよくドアが開いた。
「あ、良かった!遅いからどうしたのかと思ってたの」
驚いている顔の私を見て、渡瀬さんは安心したような笑顔を浮かべ事務所へ招き入れた。
中に入ると入り口付近の席に女性が座っていて、目が合うとにっこりと会釈してくれた(それが事務の佐々木さんだった)。
私は軽く頭を下げると、渡瀬さんについて部屋の奥にある応接室へと入った。
「−−−で、決心ついた?」
渡瀬さんは座ると単刀直入に聞いてきた。
「本当に私なんかが、モデルの仕事出来るのか、判らないんですけど」
不安な思いが顔に出ていたんだと思う。彼女は真剣な表情で答えてくれた。
「勿論、すぐにモデルとして使える訳じゃない。でも素質はあると思う。あとはあなたの努力次第かな?」
(私の努力次第か……)
「あの…何も判らない素人ですが、よろしくお願いします」
私は渡瀬さんに深々とお辞儀をした。
そんな私に彼女は頷くと、書類を広げた。
「契約書よ、目を通してね。しばらくはモデルとしての基本的なレッスンをしてもらうから…仕事はその後からだから、またその時に話をしましょう」
「はいっ!」
そして、私は渡瀬さんの事務所に入る事になった。
おそらくあの日が、私のターニングポイントだったと思う。
トゥルルル……トゥルルル……
私が壁や床の汚れを落として一息ついていた所に、事務所の電話が鳴った。
慌てて受話器を取り応対すると、聞きなれた---でも、どこかかしこまった声が聞こえてきた。
「あ、いつもお世話になっております。【グローリー・コーポレーション】の朝倉です。恐れ入りますが、渡瀬社長へお取次ぎ願えますか?」
あまりにも余所行きの声に私は思わず微笑んだ。彼が電話の向こうで戸惑っているのが判る。
(………?)
「朝倉さん、電話の声いつもと違う…」
私は彼にいつも話し掛ける様に返事をした。
「…メイか?」
彼も私だと判ると、普段の口調に戻っていた。
「はい……社長は今、私用で出掛けていて事務所にいませんけど、もしよければ要件をお聞きしますが」
「いや、丁度良かった。実はメイに取材の申し込みが来てるんだ。それで君のスケジュールを確認したかったから」
「し、取材って何?何で私に?」
朝倉君の言葉に、私はパニックになった---私に取材って、どうして?
「何でって、『あの娘は誰?』って問い合わせが、うちにどれだけあったと思ってる?マスコミも謎のモデルを追って躍起になってるぞ。だからこちらも宣伝も兼ねて取材を受けますと返事をした。という事ですが。何か問題でも?」
「私、取材なんて受けた事ない」
彼の話を聞いているうちに少し冷静になってきたが、今度は不安になって答える声が沈んでいた。
「大丈夫、その時には雪村さんも同席するから。君は記者の質問に答えるだけで問題ない」
「でも…」
「それに取材を受けて顔と名前が知られれば、今後君の仕事にも有利になると思うよ」
朝倉君が励ますように言ってくれた。その言葉に少しばかり勇気を貰った気がした。
「…わかりました、スケジュールはファックスで送ります。それでいいですか?」
「ああ、それに合わせてこちらも取材の日程を組んでいくから。わかり次第連絡する……そうだ、この前社長と話したメイの送迎の件だけど、俺がする事になったから…取材の日も迎えに行くから、自転車なんか使うなよ」
え?私の送迎の件って何?---聞いてませんけど!
私は『いいです!自分で行けます』と、必死に朝倉君に訴えたけど、彼はそんな私を無視して電話を切ってしまった。
もし、私がモデルの仕事をしてなかったら、朝倉君と再会することもなかったんだろうなと思うと、何か不思議な気持ちになった。そして【アンジェリア】の仕事を引き受けなければ、昔の様に話をする事もなかったんだと思う。
その意味でも今が、私のもう一つのターニングポイントなのかもしれないと思った。