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第4話 その手を離したのは誰か

 九月十七日。

 特急白山一号は、朝の薄曇りを裂くように上野駅を発った。


 七号車食堂車「サシ489」は、今日も変わらず銀器が並び、テーブルクロスが整えられている。見た目だけなら、何も問題はない。

 だが、その“何も問題がないように見せる”こと自体が、もう無理に近づいていた。


 白山廃止まで、あと二週間。


 厨房の奥で、源が鍋の火加減を見ている。

 腰の具合は相変わらず悪い。最近は、しゃがむ動作のあとに一拍置かないと立ち上がれなくなっていた。それでも本人は何も言わない。言わないどころか、前より動きを速くしようとしている節すらあった。


 涼子はそれを見るたび、苛立ちと不安が胸の奥で絡まるのを感じていた。


「チーフ、朝の仕込み、私もう少し持ちます」

「いらん」

「いらんじゃなくて」

「お前は客席見ろ」


 短く切られる。

 それ以上言うと機嫌が悪くなるのが分かっているから、涼子は唇を噛んで引き下がった。


 紗英は伝票の束を整えながら、そのやり取りを横目で見ていた。


「本社から、また連絡来てるわ」

「今度は何」

「“業務縮小も含めて安全優先を再徹底せよ”だって」

「じゃあ閉めろって言えばいいのに」

「言いたいんじゃない」


 紗英の声は疲れていた。

 前回の負傷は軽傷で済んだが、肘にはまだ薄くテーピングが巻かれている。動かせる。接客もできる。だが、無傷ではないことが見れば分かる程度には痛々しい。


「現場に全部押しつけてるだけよ」

 紗英は書類を置いた。

「続けるなら安全を守れ。守れないなら止めろ。でも、止める判断は現場でやれってこと」


 涼子は鼻で笑った。


「汚い」

「ええ。すごく汚い」


 その会話を、一馬は窓際の席で聞いていた。


 最近、彼の表情は少し変わった。完全に晴れたわけではない。だが、前みたいに“どこかへ逃げるために座っている顔”ではなくなっている。軽井沢の工場との交渉は相変わらず険しいものの、ようやく相手の怒りと必要を正面から受け止める話し方に変え始めていた。


 それでも今日は、食堂車の空気の悪さが気になった。

 何かが張り詰めている。

 破れる前の布みたいに。


     ◇


 その日の予約客の中に、一組の老夫婦がいた。


 品のいい身なりの七十代くらいの夫婦で、夫は背筋が伸び、妻は小柄で穏やかな顔立ちをしている。窓際の席に並んで座り、メニューを開く前からどこか嬉しそうだった。


「ようやく乗れたわねえ」

「最後になる前に、一度はと思ってたからな」


 夫の言葉に、妻が小さく笑う。


 涼子が水を置きながら声をかけた。


「白山、お好きなんですか」

「ええ。若いころ、この列車で金沢まで行ったんです」と妻。

「新婚旅行ではないんだけど」と夫が照れくさそうに付け足す。

「出張のついでに、無理やり家内を呼んでね」


「無理やりってひどいじゃない」

「来たじゃないか」

「来ましたよ」


 二人は目を合わせて笑った。


 それだけで、長い年月を一緒に過ごしてきたことが分かった。

 涼子はつられて少し笑ったが、その笑みの裏で、胸の奥がかすかに締めつけられる。

 こういう客にこそ、きちんと出したい。

 最後の白山で、がっかりさせたくない。


 妻はメニューを見ながら、少し迷って言った。


「実は主人、少し足が悪くて。揺れると立ち上がりにくいんです」

「そうでしたか」

「なるべくお手洗いの近い席がよかったんですけど……」


 その瞬間、涼子の頭の中で何かが先に動いた。

 食堂車の奥、サービス動線の邪魔にならず、かつデッキ側に出やすい席がひとつ空いている。通常はスタッフ側の都合であまり使わない位置だが、今日なら回せるかもしれない。


「でしたら、少し移動しやすい席に変えましょうか」

「え、いいんですか」

「はい、そのほうが――」


「涼子」


 低い声で止めたのは紗英だった。


「その席、配膳動線の確保で使用制限かかってるでしょう」

「でも今は混んでないし」

「“今は”でしょ」

「このお客様には、こっちのほうが安全だよ」

「全体では危険かもしれない」


 老夫婦の前で空気が止まる。


 涼子は分かっていた。

 紗英の言い分は理解できる。あの席を使うと、ピーク時にワゴンと客の動線がぶつかりやすくなる。普段なら避ける判断だ。

 だが、目の前の客にとっての安全は、明らかにこっちだった。


「少しの間だけ」と涼子。

「混んできたら別のやり方を考える」

「その“少し”が積み重なるの」


 紗英の声は硬い。

 老夫婦が気まずそうに視線を落とす。


 一馬はまた胸の奥がざらつくのを感じた。

 正しい。でも、切り方が鋭すぎる。

 だが、涼子の“今だけなら”も、すでに危うい癖になりつつある。


 源が厨房から顔を出した。


「……座ってもらえ。ピーク前に戻せばいい」

「チーフ」と紗英。

「客の足が悪いんだろうが」


 それで決まってしまった。

 紗英は口をつぐんだが、明らかに納得はしていない。


 老夫婦は何度も礼を言い、席を移った。

 妻は申し訳なさそうに微笑み、夫は「助かります」と頭を下げた。


 その笑顔が、かえって涼子の中の不安を増やした。

 今の判断は、本当に“助けた”ことになるのか。

 それともただ、自分がそう思いたいだけなのか。


     ◇


 高崎を過ぎるころには、食堂車は昼前の客でかなり埋まってきた。


 配膳のワゴンが行き交い、厨房からは油とスープの匂いが立つ。カップの触れ合う音、注文を通す声、椅子のきしみ。

 いつもの白山の昼だ。

 ただし今日は、ひとつ歯車がずれた状態のまま回っている。


 老夫婦の移った席は、やはり動線の中途半端な位置にあった。

 通れないほどではない。

 だが、混み始めるとワゴンを避ける角度が微妙に変わり、スタッフの歩幅も狂う。


 涼子は二度、三度、その席の脇をトレイ片手にすり抜けた。

 通れる。

 でも狭い。

 そして“通れるから大丈夫”と“安全”は違う。


 紗英は何も言わない。

 言わないことが、逆に圧になる。


 健太はその空気に飲まれていた。

 皿を下げる手つきがぎこちない。確認の声も小さい。失敗を恐れているのが見て取れる。


「健太、もっと声出して!」と涼子。

「は、はい!」

「返事だけ大きくても意味ない」

「……すみません」


 自分でもきついと分かる言い方だった。

 だが余裕がない。今の涼子は、客席も厨房も全部一人で支えようとしている人間の顔をしていた。


 一馬はその表情を見て、工場での自分を思い出した。

 余裕がなくなると、人は“正しいことを言う”より“誰かを急かす”ほうへ流れる。


     ◇


 問題が起きたのは、横川到着の少し前だった。


 厨房では、源が出来上がったばかりのグラタン皿を二枚、ワゴンに載せていた。熱々のホワイトソースが表面でふつふつ言っている。

 健太がそれを客席に運ぶ役目だった。


「持てるな」

「はい」


 言葉とは裏腹に、健太の手はわずかに震えていた。


「焦るな。真っすぐ行け」と源。

「はい」


 ワゴンが客席へ出る。

 その進路の先に、例の老夫婦の席がある。


 夫はちょうど立ち上がろうとしていた。

 お手洗いへ行くためだろう。妻が慌てて腕を取ろうとしている。揺れに備えて体勢を整えるのに、少し時間がかかっていた。


「申し訳ありません、少々お通りください」


 健太が声をかける。

 だが声が小さい。

 夫は聞き取りにくそうに振り返る。


「え?」

「お通り……」

 その瞬間だった。


 横川手前の分岐で、車体がぐらりと揺れた。

 健太が反射的にワゴンを引く。

 だが狭い。避ける角度が足りない。グラタン皿の一枚が滑り、ワゴンの縁で跳ねた。


「危ない!」


 一馬の声と、妻の悲鳴が重なる。


 次の瞬間、熱い皿が夫の脇をかすめ、床へ落ちた。

 皿は砕け、白いソースと陶片が飛び散る。

 直撃ではない。だが、飛んだ熱いソースが夫の手の甲にかかった。


「っ……!」


 夫が顔を歪める。

 妻が真っ青になる。


「あなた!」

「申し訳ありません!」


 健太が青ざめて立ち尽くす。

 涼子が飛び込み、すぐに濡れタオルを持ってくる。紗英は客席全体に「足元ご注意ください!」と声を張り、他の客を下がらせる。

 源も厨房から出てきた。


 動き自体は早かった。

 訓練された現場の反応だった。

 だが、遅かったとも言える。そもそも起きてはいけないことが起きたのだから。


「火傷、ひどくないですか」

 涼子が夫の手を冷やしながら問う。

 手の甲が赤くなっている。重症ではなさそうだが、明らかな受傷だ。


 夫は痛みに耐えながら首を振った。


「大丈夫……大げさなものじゃ……」

「でも」と妻。

「駅で診てもらいましょう。お願いです」


 その“お願い”は、夫に向けたものでもあり、食堂車側に向けたものでもあった。


 紗英が低い声で言う。


「横川到着後、駅員と医務対応を手配します」

 その顔色は悪い。

「営業は一時中断します」


 涼子が顔を上げた。


「待って」

「待たない」

「今はまずお客様の処置が先。でも、営業全部止める必要まで――」

「ある」


 紗英の言葉は一切ぶれなかった。


「受傷事故よ。軽傷でも事故は事故。現場の独自判断で続ける段階じゃない」


 涼子は言い返せない。

 言い返せないが、顔にははっきり出ていた。

 止めたら終わる。ここで止めたら、もう本当に戻れないかもしれない。

 その恐怖が。


 だが一馬は、今回は紗英の側にしか立てなかった。

 止めるしかない。

 そうでなければ、全部が壊れる。


     ◇


 横川到着と同時に、ホームは騒然となった。


 駅員が駆け寄り、老夫婦は控室へ案内される。妻は何度も「うちが動いたから」と言ったが、夫は「いや、こちらこそ立つのが遅れて」と言った。

 そのやり取りが、一番つらかった。


 誰も、食堂車を責めきらない。

 だからこそ逃げられない。


 ホームの風は冷たかった。

 EF63連結の準備音がどこか遠くで響いているのに、いつもの碓氷峠前の高揚は欠片もない。


 健太は顔色を失ったまま、ホームの隅で立っていた。


「僕が……僕がちゃんと止まってれば」

「お前だけじゃねえ」と源。

「でも、僕が」

「お前だけのせいにするな」


 源の声は怒鳴り声ではなかった。

 そのぶん重い。


「席を動かした判断。混雑を読めなかったこと。動線を切らなかったこと。声が通らなかったこと。全部だ」

「……はい」

「一個だけの責任にすると、次も同じことが起きる」


 一馬はその言葉に、胸を殴られたような気がした。


 一個だけの責任にするな。

 それは工場の件でも同じだった。自分一人のミスではある。だが、そのミスをチェックできない仕組み、現場を切り捨てる会社、数字だけで火を消そうとする体質。全部が繋がっていた。


 それでも、自分の責任が消えるわけではない。

 構造を語ることは、免罪符ではない。


 紗英は駅員へ報告を終えると、本社営業部へ公衆電話から連絡を入れた。戻ってきた顔で、もう答えは分かった。


「営業停止」


 短く言った。


 涼子が顔を上げる。


「今日だけ?」

「少なくとも本日は即時停止。以降は本社判断」

「そんな……」

「当然よ」


 紗英の言い方はきつかった。

 だが、そのきつさは怒りというより、自分自身を刺している感じに近かった。


「受傷事故が起きたの。軽傷で済んだからよかった、では終われない」

「でも、お客様だって……」

「それを言うな」


 紗英の声が、初めて少し震えた。


「お客様が庇ってくれたから続ける、なんて一番駄目でしょう」


 涼子は黙った。

 何も言えなかった。


 ホームの向こうで、老夫婦が駅員に付き添われている。妻はまだこちらを振り返っていた。責める目ではない。心配そうな目だった。

 その目が、余計に痛い。


     ◇


 営業停止の決定後、食堂車の中は急速に“仕事の終わった場所”の顔になっていった。


 途中だった仕込みを止める。火を落とす。食材を保管し、器具を固定し、提供中の客には事情を説明して退席してもらう。

 どれも手順は決まっている。

 決まっているが、その一つ一つが敗北の確認みたいだった。


 涼子は無言でナイフとフォークを下げていた。

 乱暴には扱わない。むしろいつも以上に丁寧だった。

 丁寧にしないと、自分が壊れるからだと一馬には分かった。


 健太はずっと「すみません」を繰り返していた。

 誰に向けてかも分からないまま。


 源は厨房の奥で鍋の残りを処理していた。

 その背中はいつもよりさらに大きく、そして年老いて見えた。


 一馬は、何か言わなければと思いながら、結局うまい言葉を見つけられなかった。

 慰めは違う。

 正論はもっと違う。


 代わりに、床に飛び散ったソースを拭いていた健太の横にしゃがみ、黙って雑巾を受け取った。

 健太が驚いた顔をする。


「広田さん……」

「一緒にやる」


 それだけ言って、床を拭いた。

 白いソースに混じった陶片が雑巾に引っかかる。

 事故は、こういう細かい破片になって残るのだと思った。


     ◇


 しばらくして、老夫婦が戻ってきた。


 夫の手には応急処置の包帯が巻かれている。大事には至らなかったらしい。

 それでも、現場の空気はさらに重くなった。


 妻が先に口を開いた。


「大げさにしたくないんです」

「申し訳ありません」と紗英。

「正式な報告とお詫びは、後日あらためて――」

「それも必要なんでしょうけど」


 妻は少し迷ってから続けた。


「私たち、本当にこの食堂車を楽しみにして来たんです」

 その声に、涼子の手が止まる。

「席を替えてくださったのも、ありがたかった。あなた方が気を遣ってくださったのは分かっています」


 だから余計に苦しかった。


「でもね」と夫が言った。

「気を遣うことと、安全であることは別なんだな」


 誰も答えられない。


 夫は一馬のほうではなく、スタッフ全員を見るように言った。


「私も昔、現場で働いていた。現場ってのは、目の前の困った人を見ると、つい“今だけなら”をやる」

 包帯の巻かれた手を軽く上げる。

「だが、その“今だけ”は、たいてい次の誰かが無理をすることで成り立ってる」


 源がわずかに目を伏せた。

 健太は完全に俯いた。

 涼子は息を詰めている。


「今日は、誰か一人が悪いんじゃないんだろう」

 夫の声は静かだった。

「だからこそ、ここでちゃんと止まったほうがいい」


 それは判決ではなかった。

 むしろ、痛いほど分かっていることを、外から静かに言い当てられた感じだった。


 妻が最後に、涼子へ向かって小さく微笑んだ。


「席を気遣ってくれて、嬉しかったんですよ。本当に」

 それが慰めではなく、事実だからこそ辛い。


 二人は頭を下げて去っていった。

 残された側だけが、その言葉を抱えることになる。


     ◇


 横川を出たあと、白山は営業を止めたまま碓氷峠へ入った。


 EF63が後ろから押し上げる重い唸りが床下から響く。

 食堂車に客はいない。椅子は整列し、テーブルは空き、使われなかったナプキンが静かに積まれている。

 本来なら一番活気づくはずの時間帯に、車内は不気味なほど静かだった。


 涼子は窓際の席に座り、拳を膝の上で握っていた。

 紗英は報告書の下書きを書いている。筆圧が強い。

 健太は倉庫で在庫数を数え直しているが、数字を読んでいる顔ではない。

 源は厨房の隅で壁にもたれていた。目を閉じているが、休んでいるというより、動かなければ倒れそうなのを堪えているように見えた。


 一馬は、その全員が“自分だけの責任ではない”と知りながら、“それでも自分の責任だ”とも感じているのが分かった。


 それが一番きつい。


「……広田さん」


 紗英が不意に声をかけた。


「はい」

「あなた、今日は工場へ行くんでしょう」

「そのつもりでしたけど」


 こんな状態で行っていいのか、少し迷っていた。

 だが紗英は淡々と言った。


「行きなさい」

「え」

「こういう日のあとに、逃げない訓練をしないと、次も逃げるから」


 きつい。

 だが、その通りだった。


 涼子が顔を上げる。


「紗英さん、その言い方」

「優しく言ったら行かないでしょ、この人」

「……まあ、それはそうかも」


 一馬は苦笑した。

 苦笑できたこと自体、少し前よりはましだった。


「行きます」

「で、今回は何を話すの」


 問われて、一馬は少し考えた。

 頭の中に、さっきの老夫婦の言葉が残っている。


 “今だけなら”は、次の誰かの無理で成り立つ。


「……会社の都合で押しつける再建案は、もう持っていきません」

「うん」

「工場の側がどこまで無理をしてるのか、そこをまず聞きます。その上で、こっちが背負えるものを増やせるか相談する」


 源が目を閉じたまま言った。


「最初からそうしろ」

「遅いですよね」

「遅え。でも、やらねえよりましだ」


 それだけで、一馬は少し背筋が伸びた。


     ◇


 軽井沢到着前。

 営業停止中の食堂車に、最後のアナウンスが流れた。


 ただの案内放送だ。

 次は軽井沢、まもなく到着します、と。

 それだけなのに、今日は閉店の鐘みたいに聞こえた。


 涼子が立ち上がり、厨房へ入る。

 源の前で止まった。


「チーフ」


「なんだ」

「今日の席移動、私が言い出しました」


「知ってる」

「でも、止めなかったのはチーフです」

「知ってる」


 源は目を開けた。

 疲れた目だった。


「責任を一人で背負おうとするな」

「でも」

「でもじゃねえ」


 源はゆっくり立ち上がる。

 腰のせいで、一瞬顔が歪む。


「お前が悪くないとは言わん。俺も悪い。紗英も健太も悪い。全員だ。だが、“誰か一人が悪い”で終わらせたら、次に何も残らねえ」


 涼子は俯いたまま、強く唇を噛んだ。

 泣いてはいない。

 でも泣く一歩手前の顔だった。


「……悔しい」

「そうだろうな」

「お客様のためにやったつもりだったのに」

「その“つもり”が、一番危ねえ」


 涼子は何も言えなかった。


 源の言葉は容赦がない。

 だが、ここで甘やかしたら終わるのも事実だった。


 外では、山の空気が少しずつ冷たくなっている。

 白山は峠を越えつつあった。


     ◇


 軽井沢に着くと、一馬はホームへ降りた。


 いつもなら、七号車の窓を振り返る。

 今日は少し違った。

 窓の向こうの食堂車は、働く場所というより、傷を抱えたまま止まっている生き物みたいに見えた。


 それでも、止まったまま終わるわけではないのだろう。

 問題は、その先に何が残るかだ。


 工場へ向かう道すがら、一馬は自分のノートを開いた。

 今日話すべきことを書き直す。


ーー相手が無理している前提で考える

ーーこちらの都合で“今だけ”を求めない

ーー責任を、辞表や謝罪で終わらせない

ーー続けるなら、誰が何を背負うのかを明確にする


 文字にしてみると、ひどく当たり前のことばかりだった。

 だが、その当たり前を、ずっと見ないふりをしてきた。


 背後で、白山の発車ベルが鳴る。

 食堂車は営業を止めたまま、それでも列車そのものは先へ進む。


 仕事も多分そうだ。

 どこかが壊れても、全体は先へ進いてしまう。

 だからこそ、壊れた場所を見て見ぬふりすると、次はもっと大きく壊れる。


 一馬は歩き出した。

 逃げないと決めた以上、今日も行くしかない。


     ◇


 その日の夕方、食堂車へ一本の内線が入った。


 紗英が受け、無表情のまま聞き、静かに受話器を置いた。

 涼子と源が顔を上げる。


「本社から」

「何て」と源。

「明日以降の食堂車営業、当面見合わせ」


 沈黙。


「再開時期は未定。事故原因の報告と再発防止策の提出を待って判断、だそうです」


 健太が椅子に座り込む。

 涼子は立ったまま動かない。

 源は何も言わなかった。ただ、鍋のないコンロを見つめていた。


 食堂車があるのに、食堂車として使えない。

 それは単なる休止ではない。

 存在理由を奪われるのに近い。


 紗英だけが事務的に続けた。


「明日は、営業じゃなくて報告書作成と聞き取り対応」

 そして一拍置いて、珍しく少しだけ声を落とした。

「……ここからが、本当の仕事ね」


 その言葉は正しかった。

 正しいが、救いはなかった。


 白山廃止まで、あと十四日。

 列車の終わりより先に、食堂車の時間が止まりかけていた。


この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」の番外編『食堂車へ、ようこそ』をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。

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