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第3話 きまりの外で揺れるもの

 九月十一日。

 信越本線を北へ走る特急白山一号の車内は、妙に乾いた空気に包まれていた。


 七号車食堂車「サシ489」も、見た目だけなら平穏だった。

 銀のカトラリーは整えられ、テーブルクロスに皺はない。磨かれた窓には山あいの曇り空が流れている。コーヒーの香りもする。外から見れば、いつも通りの食堂車だ。


 だが内側は違った。


 カウンター横の掲示板に、新しい紙が貼られている。


ーー業務運用確認事項(本社営業部指示)

ーー調理・提供・接客に関する例外運用を原則禁止すること

ーー衛生、安全、会計処理の各手順はマニュアル記載どおりに実施すること

ーー独自判断による代替対応は禁止


 字面はまっとうだ。

 どこにも間違いはない。


 それなのに、食堂車の空気は朝から重かった。


「“独自判断は禁止”だって」


 涼子が紙を見上げたまま、吐き捨てるように言った。


「じゃあ先週みたいな水不足の時は、客を全部追い返せってこと?」

「書いてある以上、そう解釈せざるを得ないわね」


 相原紗英は淡々と答えた。

 涼子より二つ年上。背筋の伸びた立ち姿は今日も隙がない。眼鏡の奥の視線は冷たく見えるが、単に感情を表に出さないだけだと一馬は少し分かり始めていた。


「“せざるを得ない”じゃないでしょ」

「じゃあ何? 本社指示を無視して、また現場判断で回すの?」

「客の前に立つのはこっちだよ」

「だからこそよ」


 紗英の声は低い。


「こっちが勝手に例外を積み重ねるたびに、いつか誰かが怪我をする」


 その言葉に、涼子の顔つきが変わる。

 源は厨房の奥で包丁を研ぎながら、何も言わない。健太は二人の視線の行き来に怯えている。


 一馬は窓際の席でそのやり取りを聞いていた。

 最近、彼は軽井沢の工場へ向かう前にこの食堂車へ寄るのが半ば習慣になっていた。コーヒー一杯で居座る後ろめたさはあるが、ここに来ると、自分がまだ逃げずに動いていることを確認できる気がした。


 もっとも、今日は落ち着くどころではなさそうだった。


「怪我をするって、何かあったのか」


 一馬が口を挟むと、紗英がこちらを見た。


「本社にヒヤリハット報告が上がったのよ。先週の紙皿運用も含めて」

「誰が上げたの」

「私」


 涼子が振り返った。


「は?」

「だから、私が上げたの」

「なんで」

「なんで、じゃないでしょ」


 紗英の目が細くなる。


「源チーフが腰を痛めた状態で無理をしていたこと。健太が温度確認を飛ばして提供したこと。水不足のまま通常営業に近いことを続けたこと。どれも事故の芽だった」

「でもあの日は、乗りに来たお客さんのために――」

「それで事故が起きたらどうするの」


 涼子が言葉に詰まる。

 その沈黙に、一馬は嫌な既視感を覚えた。正しい言葉ほど、人を追い詰める。


 紗英は続けた。


「私は現場を潰したいんじゃない。逆よ。なくなるからって何をやっても許される空気のほうが危ないって言ってるの」


 その理屈は理解できた。

 理解できるからこそ、涼子の苛立ちも分かる。


 最後だから、客に何かを残したい。

 最後だからこそ、失敗できない。


 同じ“最後”を見ているのに、向いている方向が違うのだ。


     ◇


 列車は高崎を過ぎ、空席が少しずつ埋まり始めていた。

 食堂車にも昼前の客が流れ込む。


 その中に、小さな女の子を連れた母親がいた。

 女の子は五歳くらいだろうか。黄色いワンピースに、小さなリュック。母親は三十代前半、顔色が悪く、目の下に薄い隈がある。


「二名様ですね。こちらへどうぞ」


 涼子が案内すると、女の子は窓際の席に座るなり、目を輝かせた。


「ママ、すごい! 電車の中なのに、お店みたい」

「そうだね」


 母親は笑ったが、どこか硬い。

 一馬は無意識にその親子を見ていた。母親はバッグから薬袋のようなものを取り出しかけ、すぐにしまい込んだ。


 ほどなくして、女の子が元気よく言う。


「ハンバーグ!」


 だが母親はメニューの一角を指さして、涼子に小さな声で言った。


「すみません……このお子さまランチ、卵が入っていますか」


 涼子がメニューを覗き込む。


「プリンとタルタルに使っています。あと旗つきライスの上の薄焼き卵も」

「そうですか……」


 母親の顔が曇る。

 女の子は不思議そうに見上げた。


「卵、だめなの?」

「今日は別のにしようか」

「やだ、これがいい」


 その一瞬で、空気が少しだけきしんだ。

 母親は声を抑えたまま、涼子に言う。


「重いほうではないんですけど、念のため避けていて……。卵抜きにしていただくことって、できますか」


 涼子は反射的に「できます」と言いかけた。

 だが、その前に紗英がカウンターから出てきた。


「申し訳ございません。アレルゲンを含む厨房で調理しておりますので、個別除去対応は承っておりません」


 母親が固まる。

 女の子の顔も曇った。


「でも、薄焼き卵を乗せないだけでも……」と母親。

「見た目上の除去は可能でも、完全除去の保証ができません」

 紗英の言葉は事務的で、正確だった。

「万一の際の責任が取れないため、マニュアル上、お受けできないんです」


 女の子が泣きそうな顔になる。

 母親は「そうですよね……」と引き下がろうとした。


 そのとき、涼子が口を開いた。


「少し、お時間いただけますか」


 紗英が鋭く振り向く。


「涼子」

「ただ断るんじゃなくて、できる範囲を――」

「“できる範囲”が事故を呼ぶのよ」

「でも、あの子、楽しみにしてる」


「楽しみと安全は別」


 その一言は強かった。

 強すぎて、女の子の母親まで傷つけた。


 一馬は胸の奥がざらつくのを感じた。

 どちらも間違っていない。なのに、言葉の置き方一つで人を追い込む。


 母親は慌てて立ち上がった。


「すみません、無理を言って。大丈夫です、出ます」

「お客様、少々お待ちください」と涼子。

「だから駄目だって言ってるでしょ」と紗英。


 客席の空気が冷えていく。

 周りの客も、様子をうかがい始めた。


     ◇


「広田さん」


 不意に、源が一馬を呼んだ。


 厨房の奥、湯気と鉄の匂いが混じる場所へ招かれる。

 源はまな板の上でトマトを切りながら、親子のほうを顎で示した。


「お前、ああいう時どう思う」


「どうって……」


 一馬は言い淀む。


「紗英さんの言ってることは正しいです。でも、あの断り方じゃ……」

「じゃ、涼子が勝手に“抜き”対応して、もし何かあったら」

「それは……」

「客の笑顔は守れても、命を守れなきゃ意味がねえ」


 源の声は低い。

 だが、紗英を全面的に擁護しているわけでもない顔だった。


「じゃあ紗英さんが正しいんですか」

「正しい、だけじゃ足りねえんだよ」


 源は包丁を置いた。


「現場ってのはな、正しさを客にそのままぶつけても駄目だ。でも、優しさだけで手を出してももっと駄目だ」


 一馬は黙る。


 その言葉は、工場との交渉でも同じだった。

 正論だけでは届かない。

 情だけで踏み込めば壊れる。


 源はコンロの火加減を見ながら続けた。


「紗英は、事故を起こさないためにああ言ってる。本気で守る気があるから厳しい」

「涼子さんは」

「客をがっかりさせたくねえんだろ。最後の白山で、子ども泣かせたくないんだよ」


 どちらも守ろうとしている。

 ただ、守る対象の順番が違う。


「で、チーフならどうします」

「俺か?」


 源は親子の席を見た。

 女の子は泣くのを堪えて、窓の外を見ている。母親は小さく頭を下げたまま動けない。涼子と紗英の間には、まだ緊張が残っていた。


「……“別のもんを、ちゃんと喜べる形で出す”」


「別のもの?」

「抜き対応じゃねえ。最初から安全に出せる皿を、あの子に“代わり”じゃなく“ちゃんとした一品”だと思わせる」


 一馬ははっとした。

 マニュアルを破らず、気持ちも切らない。

 難しいが、それしかない。


 源は低く吐き捨てるように言った。


「だが今のままだと、誰もそこまで頭が回ってねえ。涼子は熱くなってるし、紗英は意地になってる」


「じゃあ止めないと」

「お前がな」


「え?」


「お前、客の顔して座ってるから、逆に言えることがあるだろ」


 それは乱暴な丸投げに見えて、妙に核心を突いていた。

 スタッフ同士では意地になる。

 だが客の立場なら、少しだけ空気を変えられるかもしれない。


 一馬は親子の席へ向かった。


     ◇


「すみません」


 一馬が母親に声をかけると、彼女は驚いた顔をした。

 見ず知らずの客に話しかけられれば当然だ。


「いきなり申し訳ありません。僕、ただの客なんですけど……この食堂車、何度か使っていて」

 自分でも変な前置きだと思ったが、止まらなかった。

「ここ、最後なんです。あと少しでなくなる」


 母親は戸惑いながら頷く。


「はい……」

「だからこそ、たぶん皆、雑に断りたくはないんです。ただ、怖いんだと思います。何かあったら終わりだから」


 そのとき、紗英がこちらへ来かけたが、源が無言で手を上げて制した。

 一馬は続ける。


「もしよければ、卵を抜いた“お子さまランチっぽいもの”じゃなくて、最初から別の料理として頼めるものを、一緒に考えてもらえませんか」


 母親は少しだけ表情を和らげた。


「別の料理……」

「はい。安全第一で、そのうえで、なるべく残念な気持ちにならないように」


 女の子が小さな声で言う。


「ハンバーグは、だめ?」

 一馬はしゃがんで目線を合わせた。

「だめ、じゃなくてね。“もっと特別なの”を作ってもらえるかもしれない」


 その言い方が正解かどうかは分からなかった。

 だが、女の子は少しだけ興味を取り戻した顔をした。


 そこへ、涼子がトレイを持ってきた。


「……ご提案なんですが」


 声音はさっきより落ち着いている。紗英とぶつかった熱が、少しだけ下がったのだろう。


「通常のお子さまランチは無理です。でも、卵を使っていないハンバーグと、白ごはん、それから温野菜で、お子さま向けの盛り付けにしてお出しすることはできます。厨房内で完全除去の保証はできないので、その点だけご了承いただければ」


 紗英が補足する。


「“アレルゲン除去食”としては提供できません。ですが、使用食材を明示したうえで、卵を直接使わない別メニューとして選んでいただく形なら、規定上は可能です」


 言い方は相変わらず硬い。

 だが、さっきより確実に前に進んでいた。


 母親は何度も頷いた。


「それで十分です。ありがとうございます」


 女の子がぱっと顔を上げる。


「旗つく?」

 涼子はそこで、ようやく少し笑った。


「旗はつけます」


 その一言で、空気がほどけた。


     ◇


 料理が出るまでのあいだ、列車は安中を過ぎ、横川へ近づいていった。

 車窓の山が近くなり、食堂車の中も昼の混雑に入る。


 一馬は席に戻ったが、気が休まることはなかった。

 さっきの一件は、うまく収まったようでいて、根本は何も解決していないからだ。


 紗英は会計伝票を整理しながら、涼子に言う。


「さっきの件、誤解しないで。私は意地悪で止めたんじゃない」

「分かってる」

「分かってない顔してる」

「そっちこそ、客の前で言い切りすぎ」


 火種はまだ燻っている。


 やがて、親子の席へ料理が運ばれた。

 白い皿に、小ぶりのハンバーグ。人参とじゃがいも、ブロッコリー。白ごはんの上には小さな旗。旗の根元には、ケチャップで描いた笑顔。


「わあ……!」


 女の子の声が弾む。

 母親も目を見開いた。


「ありがとうございます……」

「通常のメニューとは違いますけど」と涼子。

「今日は“白山特別プレート”です」


 それは明らかに、マニュアルにない名前だった。

 だが“アレルゲン除去食”とも言っていない。絶妙なところで線を引いている。


 女の子がハンバーグをひと口食べる。

 目を輝かせて、母親を見る。


「おいしい!」


 それを見た瞬間、涼子の肩から力が抜けた。

 紗英も無言のまま視線を外す。安心したのが分かった。


 だが、その直後だった。


 横川到着の衝撃とともに、車体がどすんと揺れた。

 EF63連結の瞬間だ。


 その揺れで、親子のテーブルに置かれていたスープカップが傾いた。


「危ない!」


 一馬が声を上げるより先に、紗英が飛び込んだ。

 カップを押さえ、熱いスープがテーブルクロスへこぼれる。女の子の腕にかかる寸前だった。


 だが次の瞬間、紗英の体勢が崩れる。

 床のわずかな水滴に靴が滑ったのだ。


「きゃっ――」


 肘がテーブル角に強くぶつかり、鈍い音がした。

 カップはどうにか落とさなかったが、紗英はその場に片膝をつく。


「紗英さん!」


 涼子が駆け寄る。

 客席がざわめいた。


 一馬も立ち上がる。

 紗英は「大丈夫」と言おうとしたのだろうが、言葉になる前に顔が歪んだ。肘だけではない。手首もひねっている。


 源が厨房から出てくる。


「下がれ。健太、タオル!」

「は、はい!」


 母親は青ざめて何度も頭を下げた。


「すみません、私たちのせいで……」

「違います」と紗英が息を詰めながら言う。

「こちらの不注意です」


 その言葉に、一馬は胸の奥が冷えた。


 これだ。

 これが紗英の怖さでもあり、強さでもある。

 自分が痛いのに、先に客の責任を消す。


 涼子がタオルを当てながら、珍しく取り乱した声を出した。


「だから言ったじゃない、客席を一人で無理して回るなって!」

「今それ言う?」

「言うよ!」

「……お客様の前で感情的にならないで」


「そっちが言うな!」


 そのやり取りを聞きながら、紗英の指先が細かく震えているのを一馬は見た。

 痛みだけじゃない。

 たぶん、別の感情も混じっている。


     ◇


 列車は横川を出て、碓氷峠へ入った。

 後ろからEF63が押し上げる重い唸りが床下から響く。車体はゆっくり傾き、食堂車のグラスがかすかに鳴る。


 営業は一時的に縮小され、紗英は乗務員室脇の小さな休憩スペースに座らされていた。肘は赤く腫れ、手首にも湿布が巻かれている。骨まではいっていないらしいが、痛むことは明らかだった。


 一馬は紙コップの水を持って行った。

 紗英は最初、受け取るのをためらったが、やがて小さく礼を言った。


「……さっきは、ありがとうございました」

「いや、何もしてない」

「親子の空気をつないだでしょう」


 一馬は苦笑する。


「チーフに押し出されただけです」

「それでも、言える人は少ないわ」


 しばらく沈黙が落ちた。

 車体が揺れる。カップの水面が斜めになる。


 一馬は思いきって言った。


「紗英さん、そこまでして守りたいんですね。マニュアル」


 紗英はすぐには答えなかった。

 窓の外では、峠の斜面が流れていく。


「新人のころ、一回やったのよ」


「何を」

「“できる範囲で対応します”っていうやつ」


 声は平坦だったが、その平坦さの奥に何かが沈んでいた。


「車内じゃなくて、研修中の店舗で。ナッツアレルギーのお客様に、トッピング抜きのデザートを出したの。厨房が同じでも、直接入ってなければ大丈夫だろうって、先輩も私も思った」

「……」

「結果、軽い症状で済んだけど、救急車を呼ぶ騒ぎになった」


 一馬は息を止める。


「それ以来、“できる範囲”って言葉が信じられないの」

 紗英は自嘲気味に笑った。

「私、客を守るために働いてるつもりなのに、善意で危険を増やした。だから線を越えるのが怖い」


 ようやく分かった気がした。

 彼女は冷たいんじゃない。

 **怖い**のだ。

 もう二度と、自分の判断で客を危険に晒したくない。


「でも今日は、線を少し動かした」

「ええ。悔しいけど、涼子の顔を見たら、ただ切るだけじゃ駄目だと思った」


 そこで紗英は一度目を閉じる。


「……本当は、あの子を泣かせたくなかった」


 その本音は小さかった。

 だが、飾っていなかった。


     ◇


 一方、厨房では涼子が荒れていた。


「だからさ、なんで自分で全部背負うの」

 鍋をかき混ぜる手つきが強い。

「紗英さんは正しいよ。でも正しさを振り回したら客は置いてかれる」

「分かってる」と源。

「分かってるなら、もっと早く言ってよ」

「お前が先に熱くなるからだ」


 涼子が振り向く。

 その目の奥に、涙ではない、苛立ちとも悔しさともつかない熱がある。


「私はただ、最後の白山で嫌な思いしてほしくないだけ」

「知ってる」

「じゃあ」

「でもな」


 源は低い声で言った。


「お前、客を助けるつもりで、自分の気持ちを押しつける時がある」


 その一言に、涼子が黙る。


「“この子を笑わせたい”“最後だから何とかしたい”――気持ちは分かる。だが、それで線を踏み越えたら、結局は自己満足だ」

「……」

「紗英は怖がってるんじゃねえ。痛い目を見たから止めてる。お前はそこを分かってやれ」


 涼子は俯いたまま、ふきんを握りしめた。


「でも、ただ断るだけの白山なんて、嫌だよ」

「だから考えるんだろ。きまりの中で、どう客を喜ばせるかを」


 源の言葉は厳しい。

 だが、涼子を折るためではなく、前に進めるための厳しさだった。


 一馬はそのやり取りを、厨房の入口で聞いてしまった。

 自分にも刺さる。

 工場との交渉で、彼は何度“助けたい”を口実に、自分の都合のいい着地点へ持っていこうとしただろうか。


 守りたい。

 でも、その“守る”が自分本位になった瞬間、相手の尊厳を踏む。


 今日の食堂車は、そのことを嫌というほど見せていた。


     ◇


 軽井沢が近づくころ、食堂車は落ち着きを取り戻していた。


 親子は会計を済ませ、降りる準備をしている。女の子は旗を大事そうに持ち、母親は何度も頭を下げていた。


「本当にありがとうございました」

「こちらこそ」と涼子。

「また……は難しいかもしれませんが、今日来ていただけてよかったです」


 母親は少し迷ってから、紗英にも向き直った。


「さっき助けてくださって、ありがとうございました」


 紗英は一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく頭を下げた。


「いえ。お怪我がなくてよかったです」


 女の子が紗英に向かって言う。


「おねえさん、いたかった?」

 紗英は少し目を見開き、それから、珍しくやわらかく笑った。


「ちょっとだけ。でも大丈夫」


 女の子は持っていた旗を一本抜き取って、差し出した。


「これあげる」


 紗英は受け取らずにいられなかった。

 その指先が、少しだけ震えていた。


 親子が去ったあと、しばらく誰もしゃべらなかった。

 静かな車内に、コーヒーカップの触れ合う音だけが響く。


 最初に口を開いたのは涼子だった。


「……さっきはごめん」

「どっちに対して?」と紗英。

「両方」

「私も言い方が悪かったわ」


 和解、とまではいかない。

 だが少なくとも、相手を“敵”として見ていた空気は薄れた。


 源が鼻を鳴らす。


「やっと人間になったか」

「チーフ、そういう言い方」と涼子。

「うるせえ。健太、次の仕込み入れろ」

「はいっ!」


 健太の返事だけが、やけに元気だった。


     ◇


 一馬は降車前に、紗英へ一本のメモを渡した。


「何これ」

「工場の人に話す内容の整理です」


 そこには、自分なりの言葉でこう書かれていた。


ーー正しさだけでは届かない。だが、感情だけで線を越えてはいけない。

ーー相手が守りたいものを聞いて、その範囲で一緒に解を探す。


 紗英は読み、少しだけ眉を上げた。


「あなた、前よりましな顔するようになったわね」

「褒めてる?」

「ぎりぎり」


 そのとき、列車が軽井沢ホームへ滑り込む。

 ドアの向こうに、高原の冷たい空気が待っている。


 一馬は立ち上がった。


 今日は工場長に、新しい提案を持っていく。

 数字だけではなく、工場の技術を必要としていることを、真正面から言うつもりだった。断られるかもしれない。怒鳴られるかもしれない。だが、前よりは少しだけ、何を話すべきか分かっている。


 ホームに降りる直前、後ろから涼子の声が飛んだ。


「一馬!」


 振り向く。

 涼子は腕を組み、少しだけ不服そうな顔をしていた。


「今日は助かった。けど、客の顔して混ざるなら、今度からちゃんと昼飯二品は頼んで」

「商売っ気あるな」

「当たり前でしょ。こっちも最後なんだから」


 その言い方に、一馬は笑った。

 笑えたこと自体が、少し前の自分にはなかった。


「分かった。次はハンバーグも頼む」

「最初からそうしなさい」


 ドアが開く。

 軽井沢の風が流れ込む。後ろでは、役目を終えたEF63が切り離される金属音が鳴った。


 白山はここから先、自分の力で走る。


 一馬はホームへ降りた。

 だが、背中に残る食堂車の気配は、もうただの逃げ場ではなかった。


 正しさだけでは、人は運べない。

 情だけでも、人は守れない。


 その両方を抱えたまま進むしかない。

 きっと、仕事というのはそういうものだ。


 そして七号車でもまた、それぞれが自分の線の上に立ち直ろうとしていた。


 白山廃止まで、あと十日。


 終わりが近づくほど、誤魔化しは利かなくなる。

 だからこそ今、何を守るのかが問われていた。


この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」の番外編『食堂車へ、ようこそ』をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。

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