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第2話 冷めたスープと親心

 午前九時三十分。

 上野を発った特急白山一号は、曇った空の下を北へ向かっていた。


 七号車食堂車「サシ489」の隅、進行方向左側の二人掛け席で、広田一馬はノートパソコンを睨んでいた。


 画面には、味気ないファイル名が並んでいる。


ーー再建計画修正案_ver.5


 それを見ているだけで、胃の奥が冷えていく気がした。


 軽井沢の工場へ通い始めて、十日。

 毎回、頭は下げている。土下座もした。数字も組み直した。在庫の転用案も、支払いサイトの調整案も、受注再建のシミュレーションも作った。


 それでも駄目だった。


『数字合わせの紙なんか見たくねえ』

『あんた、自分の会社だけ助かればいいと思ってるだろ』

『現場を舐めるな』


 工場長の怒鳴り声は、いまだに耳の奥から離れない。


 一馬はキーボードの上で手を止め、深く息を吐いた。


「……また駄目か」


 弱音を口に出した瞬間、自分で自分にうんざりする。

 駄目なら直すしかない。そう頭では分かっている。だが、何をどう直せば相手に届くのかが分からない。


「いらっしゃいませ。……って、またあんた?」


 顔を上げると、涼子が銀色のポットを手に立っていた。


「または失礼だな」

「失礼じゃないわよ。十日で何回来てると思ってるの」


 呆れたように言いながら、彼女は慣れた手つきでコーヒーを注いだ。

 深煎りの香りが立ちのぼる。その匂いだけで、少しだけ肺が広がる気がする。


「ここに来ると、落ち着くんだ」

「こんな揺れる場所で?」

「怒鳴られる前に心を整えるにはちょうどいい」


 涼子は笑ったが、目元にはわずかに疲れが見えた。


「ありがたいけどね。あんたでも客は客だから」

「コーヒー一杯だぞ」

「一杯でも売上は売上よ」


 そう言ってカウンターへ戻っていく背中を、一馬は何となく見送った。

 明るく振る舞っているが、前より肩が細く見える。白山廃止まで、あと二十日。彼女たちに残された時間も、確実に減っていた。


 コーヒーをひと口飲んだときだった。


「違う! 何度言ったら分かる!」


 厨房から源の怒声が飛んだ。


 一馬は反射的に顔を向けた。ガラス越しの厨房で、源が寸胴鍋を前に健太を睨みつけている。


「コンソメが濁ってる! こんなもん客に出せるか!」

「で、でも、マニュアル通りの時間で……」

「鍋を見ろって言ってるんだ!」


 次の瞬間、源は鍋の中身をシンクにぶちまけた。

 黄金色になるはずだったスープが、まだ湯気を立てたまま排水口へ消えていく。


 一馬は息を呑んだ。


「作り直せ。次はねえぞ」


 健太が泣きそうな顔で新しい鍋を用意し始める。

 普段の源は頑固でも、ここまで感情を剥き出しにはしない。今日は明らかに荒れていた。


 カウンターの奥で、紗英が小さくため息をつく。


「朝、電話があったのよ」

「電話?」と涼子。

「娘さんから。『孫が生まれたから顔を見に来て』って」

「え、いい話じゃない」

「それが、『今は無理だ』って切っちゃったの」


 涼子が眉をひそめる。


「何それ。最悪」

「でも更衣室で、ずっと写真見てたわよ。にやにやしながら」


 一馬は思わず苦く笑った。

 不器用な父親。仕事からしか愛情を出せない世代。


 ……自分の父親もそうだった。


 海外出張ばかりで、家にはほとんどいなかった。帰ってきても仕事の話しかしない。進路のことも、学校のことも、まともに話した記憶が薄い。

 そのくせ、学費も物もきっちり用意して、父親の役目は果たしたつもりでいた。


 源の背中に、昔の父が重なった。


 だが、それだけではなかった。

 源の包丁のリズムが、ときどき乱れる。左手が無意識に腰へ伸び、顔が歪む。


 一馬は目を細めた。


「……腰か」


 水を注ぎに来た涼子が、はっとした顔をした。


「気づいた?」

「ああ。かなり悪いだろ」

「ここ数日ひどいのよ。湿布貼って、薬飲んで、ごまかしてる。休んでって言っても聞かないの。『あと二十日だ、這ってでもやる』って」


 誇り、なのだろう。

 同時に、危うさでもある。


「倒れたら終わりだ」

「分かってるわよ」


 分かっている。だが止められない。

 涼子の顔には、そう書いてあった。


 一馬はそれ以上言えなかった。部外者が口を挟める領域ではない。そう思う一方で、嫌な予感だけが残った。


     ◇


 高崎を過ぎたころ、一人の男が食堂車に入ってきた。


 四十代半ばくらい。高そうなスーツを着ているが、ネクタイは緩み、髪は乱れ、顔色は悪い。携帯電話を握る手に無駄な力が入っている。


「いらっしゃいませ」


 涼子の声にも、男は無言で頷いただけだった。

 一馬から二つ離れた席に腰を落とし、メニューも見ずに言う。


「ビール。あと、すぐ出るもの」

「かしこまりました」


 空気が悪い。

 そう感じたのは一馬だけではなかった。近くにいた客がさりげなく席を移る。


 男はビールを半分ほど一気に飲んだあと、電話に出た。


「……ああ、俺だ。なんだまたトラブルか」

 声が低い。

「ふざけるな。現場を見てないのはそっちだろうが」

 次第に声が大きくなる。

「家に? 帰れるわけないだろ。今から出張だ。……うるさい、切るぞ」


 乱暴に電話を切り、携帯をテーブルに叩きつける。

 グラスの水が跳ねた。


 紗英が注意しようとして、男の目つきに止まった。

 一馬は思わず肩をすぼめる。関わりたくない。だが、関わらずに済みそうな気もしなかった。


「ご注文は」

「スープ。コンソメだ。それとステーキ」


 その一言で、厨房の空気が固まった。


 コンソメ。


 さっき捨てたばかりの鍋。作り直したとはいえ、まだ落ち着いていない。しかも源の腰は限界に近い。


 源は低い声で「あいよ」とだけ返した。


     ◇


 ステーキは焼き上がり、あとはスープの最終確認だけ。

 本来なら源が温度と味を見てから出す。それがこの店の決まりだった。


 だが、安中付近のカーブで列車が大きく揺れた瞬間、源の動きが止まった。


「……っ」


 フライパンを握ったまま、体がくの字に折れる。右手はかろうじて離さなかったが、左手が腰を押さえた。


「チーフ!」

 健太の声が裏返る。


 源はシンクの縁を掴んで歯を食いしばっていた。

 客席から、苛立った男の声が飛ぶ。


「おい、まだか」


 健太の顔が真っ白になった。

 チーフは動けない。客は怒っている。自分がやるしかない。そういう焦りが丸見えだった。


「健太、待って!」と涼子。

 だが健太はもう聞いていない。


 保温鍋の蓋を開け、お玉でスープをすくい、温めておいた皿へ注ぐ。

 見た目はきれいだった。透明な琥珀色。失敗しているようには見えない。


「お待たせしました、特製コンソメスープです!」


 男の前に皿が置かれる。

 湯気は立っている。だが、一馬は胸の奥に嫌な冷たさを覚えた。


 男がスプーンを持ち上げる。

 スープを口に含む。


 そして、止まった。


 嫌な沈黙だった。

 次の瞬間、スプーンが皿に叩きつけられた。


「……おい」


 声が低い。低いぶん、余計に怖い。


「なんだ、これは」

「は、はい……?」

「ぬるい」


 健太の顔から血の気が引く。


「ぬるいと言ってるんだ!」


 車内の空気がびりっと裂けた。


 湯気はあった。けれど、温かいと適温は違う。特にコンソメは誤魔化しがきかない。

 一馬にも分かった。これは、客に出す温度ではない。


「金を払えば何でも食うと思ってるのか!」

 男は立ち上がった。

「俺を馬鹿にしてるのか!」


 それはスープだけへの怒りじゃなかった。

 会社か、家庭か、あるいはその両方か。男の中で積もっていた何かが、ぬるい一杯で切れたのだと分かった。


「申し訳ございません!」


 涼子が飛び込み、深く頭を下げる。


「すぐお作り直しします。今度は必ず――」

「いらん!」

 男が吐き捨てる。

「もういい。降りる」


「お客様」

「触るな!」


 振り払った腕が涼子の腰に当たり、彼女がテーブルの角へぶつかった。


「涼子!」


 一馬は立ち上がりかけたが、涼子はすぐに体勢を戻した。

 痛みを顔に出さない。目だけが鋭くなっている。


「お気に召さなかったことは、心からお詫びします」

 声はぶれない。

「ですが、スタッフに当たって終わりでは、お客様の気持ちも収まらないはずです」


 男がぎろりと睨む。


「……何が言いたい」

「作り直させてください」


 涼子はまっすぐ男を見た。


「嫌な後味のまま、この列車を降りてほしくないんです。今度は、逃げずにきちんとしたものをお出しします」


 そのとき、厨房の奥で源がゆっくり立ち上がった。

 顔は土色で、脂汗が浮いている。それでもコンロの前に戻る。


「健太、どけ」

「チーフ、でも」

「どけ」


 有無を言わせない声だった。

 痛みを押し殺した職人の声だ。


 男は舌打ちし、懐中時計をテーブルに置いた。


「横川までだ。それまでに出せ。出せなきゃ終わりだ」


「……承知しました」


     ◇


 横川まで、あと数分。


 厨房では源が最後の力を振り絞るように鍋に向かっていた。

 列車は減速を始め、外では山が近づいてくる。ホームに着けば、後ろにEF63が連結される。時間はない。


 一馬は見ていられなくなった。


 事情を話せばいい。チーフは怪我をしている、限界だと伝えれば、客だって多少は――


「あの、実は」


 口を開きかけた瞬間、涼子の鋭い声が飛んだ。


「お客様」


 一馬ははっとする。

 涼子は高木に向かって笑顔を作ったまま、背中側の手を強く握っていた。


 余計なことを言うな。

 そう言っていた。


「……座っていてください。これは、私たちの仕事です」


 一馬は黙って椅子に座り直した。

 善意のつもりでも、当人たちの矜持を奪うことがある。第1話で少し分かったつもりだったのに、まだ分かっていなかった。


 そのとき、横川到着と同時に、車体がどすんと突き上げられた。


「うおっ」


 連結だ。

 後ろにEF63がついたのだ。


 高木が顔をしかめる。


「何だ今の」

「これから碓氷峠を登るんです」と涼子。

「この列車だけでは登れないので、後ろから機関車に押してもらいます」

「……変な列車だな」


 そう言った高木の前に、静かにトレイが置かれた。


 源だった。


 白いコックコートは清潔だが、本人はもう限界に見えた。呼吸が浅い。額の汗が異様だ。それでも背筋だけは不自然なほど伸びている。


「お待たせしました」


 皿からは、今度こそ確かな熱気が上がっていた。


「ずいぶん待たせたな」と高木。

「言い訳は?」


 一馬は息を止めた。

 腰が痛い。新人が焦った。事情はいくらでもある。


 だが源は首を振った。


「言い訳はありません。私の不手際です」

 低く、掠れた声。

「半端なものをお出しするわけにはいきませんでした」


 そして深く頭を下げた。

 その姿勢だけで、腰が悲鳴を上げているのが分かる。それでも顔を上げたとき、目は死んでいなかった。


「どうぞ、ご賞味ください」


 高木はしばらく源を見ていたが、やがてスプーンを取った。


「またぬるかったら、そのときはただじゃおかん」

「はい」


 汽笛が鳴る。

 白山が再び動き出した。床下からEF63の唸りが響く。列車はゆっくり、だが確実に坂へ向かう。


     ◇


 高木はすぐには飲まなかった。


 立ちのぼる湯気を見ている。

 その間に涼子が水を替えに行き、何気ない顔で言った。


「うちのチーフ、不器用なんです」

「あ?」

「頑固で、無口で、自分の体のことは後回しで」


 高木は鼻を鳴らした。


「そんなの、ただの馬鹿だろ。休めばいい」

「そうですね」


 涼子は苦笑した。


「でも、この食堂車、あと二十日でなくなるんです。四十年ここに立ってきた人だから、最後まで自分で鍋を振りたいんでしょうね」

「……」


「昨日、娘さんから電話があったんです。孫が生まれたから来てって。でも『今は無理だ』って切っちゃった」

「ひどい親父だな」

「でしょう?」


 涼子は少し笑ったあと、声を落とした。


「でも、休憩中にずっと孫の写真を見てました。しかも、休みの日に工房にこもって、ベビーベッドを手作りしてるんです」

「ベビーベッド?」

「腰が痛いのに、です。言葉で何か言うのは下手なのに、作ることでしか気持ちを出せないんですよ」


 高木の表情が、わずかに緩んだ。


 テーブルの上の携帯電話。

 家からの着信履歴が、きっとあの中に残っているのだろう。さっきの怒鳴り声を思い出しながら、一馬はそう思った。


 高木は小さく息を吐いた。


「……損な男だな」

「ええ、本当に」


 涼子が離れる。

 高木はしばらく携帯とスープを見比べるようにしていたが、やがてスプーンを持ち上げた。


 白山は勾配にかかり始めていた。車体がわずかに傾く。窓の外の杉林が流れる。

 高木が、ひと口飲む。


 その瞬間、表情が変わった。


 劇的というほどではない。

 むしろ、崩れるように力が抜けた。


「……熱いな」


 ぽつりと漏れた声。


「申し訳ございません、冷ましましょうか」と涼子。

「いや、いい」


 高木は首を振った。


「この熱さがいい」


 それは温度の話だけではなかった。

 源が黙って背負ってきたもの、言葉にできない気持ち、最後まで台所に立とうとする執念。それらが、今度の一杯には入っていた。


 高木はもう一口飲み、深く息をついた。


「……美味い」

 厨房に聞こえるような声で言う。

「最高のスープだ」


 ガラスの向こうで、源の肩が小さく震えた。振り返りはしない。ただ背中でそれを受け止めていた。

 健太は今にも泣きそうな顔で固まっている。涼子が頭を下げる。


 高木は携帯電話を取り上げ、数秒だけ迷ってからリダイヤルした。


「……ああ、俺だ」


 今度の声は、さっきの怒鳴り声と違っていた。


「悪かったな。急に切って。……帰りに土産を買っていく。軽井沢のジャムでも」

 少し間が空く。

「いや、別に熱があるわけじゃない。……ただ、美味いスープを飲んだだけだ」


 その会話を聞きながら、一馬はノートパソコンの画面を見た。

 利益率。損益分岐点。コスト削減。人員整理。


 どれも間違ってはいない。だが、決定的に足りない。


 冷たい。


 そう思った瞬間、この数日何度も突き返された理由が、ようやく腹に落ちた。


 自分の計画書は、さっきのぬるいスープと同じだった。


 形は整っている。

 手順も間違っていない。

 でも、相手がそこに何を失い、何を守りたいのかが入っていない。


 工場の人たちは数字を否定したんじゃない。

 自分が安全圏に立ったまま、「これで助かるはずです」と言ってきたことに反発していたのだ。


「……くそ」


 一馬は唇を噛み、画面を閉じた。


 必要なのは修正案ver.6じゃない。

 相手の技術を本気で必要としていること、自分も泥をかぶるつもりでいること、その覚悟が見える言葉だった。


 彼は手帳を開き、乱暴な字で書き始める。


ーーお願いではなく、共にやり直したいという話として書く

ーー工場の技術がなければ再建できないと明言する

ーー会社の論理ではなく、自分の責任として話す

ーー相手の損失と怒りを先に認める


 トンネルに入り、轟音が食堂車を揺らす。

 ペン先が紙を走る。

 初めて、自分の言葉で何かを書いている気がした。


     ◇


 車内の空気は、少し和らいでいた。


 高木は電話を終え、残りのステーキにナイフを入れている。健太はまだ硬い顔のまま皿を下げ、涼子は客席を回る。

 一見すると、ようやく丸く収まったように見えた。


 だが、一馬だけは見てしまった。


 厨房の死角で、源が壁にもたれ、ポケットから薬瓶を出すところを。

 蓋を開け、錠剤を掌に多めに落とす。ひとつや二つじゃない。喉へ一気に流し込む。


「……おい」


 思わず声が出そうになったが、飲み込む。

 源は顔を上げ、一瞬だけ一馬と目が合った。


 見たな、と言う目だった。

 同時に、余計なことを言うな、とも。


 一馬の背中に冷たいものが走る。


 外ではEF63のモーター音が唸り、白山は碓氷峠を登り続けていた。

 熱いスープで救われた客がいて、少しだけ言葉を取り戻した父親がいて、自分もまた次の一手を見つけかけている。


 なのに、厨房の奥では、別の何かが確実に壊れ始めていた。


 源は何事もなかったように姿勢を戻し、次の鍋へ向かった。

 だが、その手は、ほんのわずかに震えていた。


 白山廃止まで、あと二十日。

 まだ終わっていない。


 それは希望ではなく、警告のようにも聞こえた。


この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」の番外編『食堂車へ、ようこそ』をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。

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