第1話 あなたの背中、ひと押しします
九月最初の朝、上野駅十六番線ホームは、まだ夏の熱を引きずったまま、異様な熱気に包まれていた。
カメラの放列。
怒鳴るような駅員の声。
最後の姿を焼きつけようとする人々のざわめき。
クリーム色と赤の車体が、ホームの光の中に長く横たわっている。
特急「白山」。あと一か月で消える列車だ。
だが、その車両を見上げる客たちの目の輝きとは無縁の顔で、一人の男が七号車のほうへ歩いていた。
広田一馬、二十五歳。
人混みを避けるように肩をすぼめ、自由席車両へ滑り込む。吊革も、車窓も、ラストランの空気も、彼にはどうでもよかった。膝の上の鞄だけが重かった。中に入っているのは、ノートパソコンと、資料と、茶封筒。たったそれだけなのに、鉄の塊でも抱えているみたいだった。
発車ベルが鳴る。
特急白山一号金沢行きは、長い警笛とともにゆっくりと上野駅を離れた。
隣の席の夫婦が、朝から缶ビールを開けている。通路ではリュックを背負った学生が仲間とはしゃいでいた。
車内は浮かれている。自分だけが場違いだ、と一馬は思った。
鞄を開け、ファイルを引き抜く。
表紙には、太い文字で印字されている。
**契約解除通知書**
その下から、もう一通の茶封筒が顔を出した。自分で書いた辞表だ。昨夜、夜明けまでかかって、何度も書き直した。丁寧な字にしようとしたのに、最後のほうは筆圧が乱れていた。
辞める。
責任を取る。
そう決めたはずだった。
なのに、封筒に触れる指先が冷たい。
軽井沢の下請け工場。
発注数量の桁を一つ間違えた。たったそれだけで、工場は不要な在庫を抱え、他の受注を断り、人もラインも回したあとだった。会社は違約金の範囲で処理するつもりで、一馬に謝罪の窓口役だけを押しつけた。
会議室で上司が言った言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。
「君のミスだ。まずは先方に行って、火消しをしてこい」
「感情的な対応をされても、余計な約束はするな」
「会社としての立場を損なうな」
火消し。
立場。
その言葉のどこにも、工場で働く人間の顔はなかった。
一馬は窓に額を寄せた。
都心の景色が後ろへ流れていく。ビル群が途切れ、住宅街になり、灰色の空が広がる。
謝りに行く。
土下座して、辞表を出す。
それで終わりにする。
そう思うたび、腹の底が少しだけ軽くなる。
その感覚に気づくたび、吐き気がした。
終わりにしたいだけじゃないのか。
責任を取るんじゃなくて、ここから逃げたいだけなんじゃないのか。
考えたくなくて、彼は目を閉じた。
◇
七号車食堂車「サシ489」は、別の意味で修羅場だった。
「申し訳ありません、ただいま少々お時間いただきます!」
「ハンバーグ二、カレー三、サンド一!」
美咲涼子は、狭い通路をトレイ片手にすり抜けながら声を張っていた。ポニーテールが忙しなく揺れる。いつもなら優雅さの象徴みたいな食堂車が、今日は戦場だった。ラストラン目当ての客が押し寄せ、朝から満席が続いている。
厨房の奥では、チーフの源がフライパンを振っていた。
洗い場では新人の健太が皿を抱えて半泣きになっている。
「健太! 皿が足りねえぞ!」
「す、すみません、今っ……」
涼子はテーブルの空きを確認しながら、息を整えた。
忙しい。けれど嫌いじゃない。
むしろ、こういう日のほうが、生きている感じがする。
この列車も、食堂車も、あと一か月で消える。
本社は静かに終われと言う。最後くらい波風を立てるな、と。
ふざけるな、と思う。
終わるからこそ、最後までちゃんとやるのだ。
「涼子さん!」
健太の声が裏返った。
振り向く。
洗い場の蛇口から、水が細く頼りなく出て、すぐ止まった。
「……は?」
涼子は厨房に飛び込んだ。
給水タンクのメーターを見る。針は赤。ほとんど空だった。
源の顔が険しくなる。
「上野で給水したんだろうな」
「し、しました! したんですけど……」
「けど、何だ」
「バルブ、たぶん……ちゃんと開ききってなかったかもしれなくて……」
金属音が響いた。
源がレードルをシンクに叩きつけたのだ。
「馬鹿野郎!」
健太が肩をすくめる。
食堂車にとって水は血だ。
コーヒーもスープも洗い物も、全部止まる。衛生を守れない以上、本来なら閉めるしかない。
源が短く言った。
「看板下ろすぞ」
健太の顔から血の気が引いた。
涼子はとっさに声を上げていた。
「待って」
源が振り向く。
その目はもう決めている目だった。
「無理だ。水なしじゃ回らねえ」
「全部は無理でも、やりようはある」
「ない」
「あります」
涼子は倉庫の棚を開け、奥の段ボールを引きずり出した。中には紙皿とプラコップの備蓄がある。非常用に残していたものだ。
「これを使えば洗い物は減らせる。コーヒーも量を絞る。メニューは絞る。仕込み済みで回せるものだけにする」
「紙皿で食堂車やれってのか」
「何もしないよりはましです」
源の眉間に深いしわが寄る。
職人の顔だった。紙皿なんて、矜持が許さないのだろう。
だが涼子にも譲れないものがある。
「ここで閉めたら、ただの“営業停止”です」
「現にそうだろうが」
「違う。お客さんには、最後に乗りに来た一回しかないんです」
言いながら、自分の声が少し震えているのが分かった。
「あと一か月しかないんですよ。なくなるって決まってるからって、こっちまで先に終わってどうするんですか」
健太が顔を上げた。
源は黙ったまま帽子をずらし、荒っぽく頭をかいた。
数秒の沈黙のあと、低い声が落ちる。
「……クレームはお前が全部受けろ」
「受けます」
「味が落ちるって文句もだ」
「受けます」
「健太、泣くな。紙皿全部出せ。メニュー絞るぞ」
「は、はいっ」
源がコンロに向き直る。
涼子は息を吐いた。勝った、とは思わない。ただ、止まらずに済んだだけだ。
彼女は手書きの案内を作って客席に出た。
**本日、水不足のため一部メニューを変更しております**
見苦しい貼り紙だ。
でも、逃げるよりはいい。
◇
高崎を過ぎたころ、一馬はようやく空腹に気づいた。胃がひきつるように痛い。朝から何も食べていない。
それでも食欲なんてあるはずがないと思っていたが、隣の車両から流れてくるソースの匂いに、身体のほうが先に反応した。
重い腰を上げる。
七号車の自動ドアの前に立つ。
開いた瞬間、明るい声が飛んできた。
「いらっしゃいま――」
言葉が止まった。
一馬も足を止めた。
「……涼子?」
「……一馬?」
七年ぶりだった。
高校時代、クラスの中心にいたあの美咲涼子が、紙皿に乗せたカレーを手に立っていた。少し日に焼けて、きつい目つきが前よりはっきりして見える。でも、笑う寸前の口元の形は変わっていない。
涼子は一瞬だけ面食らった顔をしたが、すぐ仕事の顔に戻った。
「久しぶり。悪いけど、今日はまともな営業じゃないの。水が死んでるから、出せるもの限られてる」
「水?」
「見れば分かるでしょ」
メニューボードには乱暴な字で、
**カレー**
**ハンバーグライス**
**コーヒー**
だけが残されていた。
「……じゃあ、カレーで」
「座って。窓際なら空いてる」
促されるまま、一馬は席に着く。
心臓の鼓動が変だった。よりによって今、よりによってこんな顔のときに、会いたくなかった。
横川に着くと、列車はしばらく停車した。ホームの喧騒が窓越しに揺れている。やがて、車体の後ろから鈍い衝撃が伝わった。
「うわっ」
カップの中のコーヒーが大きく揺れる。
涼子が布巾で押さえた。
「びっくりしすぎ」
「何だ今の」
「ロクサンがついたのよ」
聞き返すと、涼子は少しだけ得意そうな顔になった。
「ここから先、碓氷峠。白山だけじゃ登れないの。後ろにEF63って機関車を二両つないで押してもらう」
「押してもらう……」
「そう。ここから先は意地じゃどうにもならない坂」
発車すると、すぐに列車は傾き始めた。
トンネルに入る。床下から腹の底を叩くような重い唸りが響く。コーヒーの水面が、ありえない角度に傾いていた。
「……すごいな」
「毎日見てても変な感じするよ」
涼子は向かいの席にどさりと座った。ホールが少し落ち着いたのだろう。けれど休憩している顔ではない。
彼女は一馬をじっと見た。
「で?」
「何が」
「何が、じゃない。何があったの」
一馬は目を逸らした。
窓の外はトンネルで、逃げ場がない。暗いガラスに、自分の顔だけが映っている。
「顔、終わってるわよ」
「ひどい言い方だな」
「本当のこと」
笑えなかった。
一馬は鞄に手を入れ、茶封筒を取り出してテーブルに置いた。
涼子の視線が落ちる。
封筒の表書きを見て、眉が動いた。
「……辞表?」
「ああ」
それから、一馬は途切れ途切れに話した。
発注ミス。
工場の損失。
会社の対応。
今日の謝罪。
自分のせいで、現場が潰れるかもしれないこと。
話しているうちに、自分でも情けなくなった。惨めで、薄っぺらくて、まるで言い訳を並べているみたいだった。
「だから……辞める」
「それで?」
「それでって」
「辞めて終わり?」
「俺にできることなんて、もう――」
最後まで言い切る前に、涼子が封筒を指先で弾いた。
ぱし、と乾いた音がした。
「ふざけないで」
声は大きくなかった。
だから余計に冷たかった。
「辞めたら工場が助かるの?」
「それは……」
「助からないでしょ」
「でも責任は」
「誰にとっての責任?」
一馬は詰まった。
涼子は身を乗り出してくる。怒鳴ってはいない。でも、その目が怖かった。
「辞めたら、あんたはそこから消えるだけじゃない。怒鳴られなくて済む。会社の中でも居場所を失わなくて済む。楽になる」
「そんなつもりじゃ」
「あるでしょ」
言い返せなかった。
ある。
あるに決まっていた。
辞表を書いたとき、少しだけ安心したのだ。
これでもう終われる、と。
終わらせたかっただけだ。
責任じゃない。逃げだ。
列車が大きく揺れた。
コーヒーが縁ぎりぎりまで寄る。だが、こぼれない。
涼子が窓の外ではなく、床の向こうを指すみたいに言った。
「今、この列車の後ろで、泥だらけの機関車が押してる」
「……」
「白山だって一人じゃ登れないの。格好いい特急でも、坂の前じゃ助けが要る」
一馬は黙って聞いていた。
説教というより、彼女自身が何かに喧嘩を売っているような口ぶりだった。
「うちも同じ。今日、水がなくなった。普通なら閉める。でも、それで済ませたくなかった」
「……紙皿のことか」
「そう。みっともないよ。食堂車が紙皿なんて。でも、だから何。閉めて客から逃げるよりまし」
そこで初めて、一馬は涼子の手を見た。
指先が少し赤く荒れている。トレイを運び、熱い皿を持ち、洗い物をし、何度も水や洗剤に触れてきた手だ。
「私たちだって格好悪い。最後の一か月で、水切らして、紙皿で営業してる。最悪よ」
涼子は笑わなかった。
「でも、そこでやめたら、本当に終わるだけじゃない」
言葉が、まっすぐ胸に入ってきた。
「工場の人の前で格好つけたいの?」
「……違う」
「じゃあ泥かぶりなさいよ」
その一言で、全部ひっくり返った気がした。
泥をかぶる。
それは、怒鳴られることだ。
軽蔑されることだ。
無能だと突きつけられることだ。
そして、それでも消えずに、相手の前に立ち続けることだ。
一馬が怖かったのは、損害額でも処分でもなかった。
自分が“駄目な人間”として見られることだった。
辞めることで守ろうとしていたのは、責任じゃない。
自分の薄い自尊心だ。
みっともない。
それを認めた瞬間、胃の奥がねじれた。
「……俺、最低だな」
「今さら気づいたの」
「うるさい」
けれど、その悪態は少しだけ息を楽にした。
テーブルの上には、昨夜作った再建計画の資料がある。徹夜で作ったくせに、どうせ無駄だと鞄の底へ押し込んでいたものだ。会社の流通網の使い方、余剰在庫の転用先、分納と回収の案。完璧ではない。でも、ゼロではない。
一馬は辞表をつかんだ。
封筒の角が指に食い込む。
今すぐ破り捨てるほど格好よくはなれなかった。
そんな資格もない。
だから、ただ鞄のいちばん奥に押し込んだ。
「……行く」
「どこへ」
「工場へ」
自分の声が、さっきより少しだけ低く聞こえた。
「殴られるかもしれない」
「でしょうね」
「追い返されるかもしれない」
「十分ある」
「でも……謝るだけじゃなくて、残った在庫をどうするか、一緒に考えたいって言う」
涼子はしばらく黙っていた。
それから、やっと小さく息を吐く。
「最初からそうしなさいよ」
「できれば、もっと優しく言ってくれないか」
「無理」
トンネルを抜け、ぱっと光が差し込んだ。
車窓の外に、秋の気配をまとった軽井沢の木々が広がる。さっきまで斜めだったコーヒーの水面が、ゆっくり水平に戻っていく。
峠を越えたのだ。
その事実だけで、涙が出そうになるのを、一馬はこらえた。まだ何も終わっていない。むしろここからだ。
軽井沢到着のアナウンスが流れる。
列車が静かにホームへ滑り込んだ。
一馬は資料のファイルを抱え、立ち上がった。膝が少し震えている。だが、それでいいと思った。怖くないふりをする必要はもうない。
「……ありがとう」
そう言うと、涼子はトレイを抱えたまま顔をしかめた。
「礼なら、全部終わってからにして」
「終わるかな」
「知らない。でも、逃げたままよりはまし」
相変わらず容赦がない。
でも、それがありがたかった。
「コーヒー代、払う」
「いらない」
「いや」
「その代わり」
涼子はようやく、少しだけ高校時代の顔で笑った。
「片づいたら報告に来なさい。ツケにしとく」
「……ツケ、か」
「踏み倒したら許さないから」
一馬は頷いた。
ドアが開く。
高原の冷たい空気が流れ込んできた。
ホームに降りると、後ろで重い金属音がした。
役目を終えたEF63が切り離されたのだろう。ここから先は、白山は自分の力で走る。
一馬は一度だけ振り返った。
七号車の窓の向こうに、涼子の姿が見えた。もうこちらを見てはいない。次の客に頭を下げ、紙皿のカレーを運んでいる。
彼女もまた、自分の戦場に戻っている。
改札の先に、工場がある。
怒りと失望が待っている。
逃げ道は、もう鞄の奥だ。
一馬は息を吸い、歩き出した。
◇
「いらっしゃいませ、お待たせしました!」
客が入れ替わる。
ホームの空気が流れ込み、またすぐ慌ただしさにかき消える。
源が厨房の奥で怒鳴る。
健太が紙皿の箱を抱えてよろける。
みっともない営業だ、と涼子は思う。
でも、止まっていない。
一馬が座っていた席を拭きながら、彼女は窓の外を見た。もう姿は見えなかった。
九月一日。
白山廃止まで、あと三十日。
本社は静かに消えろと言う。
波風を立てるな、在庫を減らせ、余計なことをするな、と。
冗談じゃない。
最後の一か月だからこそ、ちゃんと足掻く。
泥臭くても、不格好でも、客の前で下を向かない。
そうしないと、本当に終わってしまう気がする。
「涼子さん、次のオーダー入ります!」
「はいはい、聞こえてる!」
彼女は両頬を軽く叩いた。
まだやれる。
まだ終わっていない。
「お待たせしました、特製ビーフカレーです!」
発車の汽笛が鳴る。
特急白山は、秋の信濃路へ向けてゆっくり動き出した。
それぞれの峠は、まだ越えたばかりだ。
この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」の番外編『食堂車へ、ようこそ』をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。




