クルネカからもらった仲介料は消えて、――
クルネカからもらった仲介料は消えて、少しだが借金をつくってしまった。トラクナはまだイリュメアンが死んだことを知らない。まだ、死体が警察に見つかっていないので事件にもなっていなかった。ただ、知っていたとしても、トラクナは多少悲しんで見せただけで、自分の問題に頭を悩ませなければいけなかった。彼の借金はビリヤードでつくったもので、その相手はよりにもよって、カノーハだった。
撞球場〈串刺し〉で彼はカノーハの壁みたいな子分に挟まれて、椅子に座らされ、カノーハがビリヤード台にもたれかかるようにして、八番を狙う姿を見ていなければならなかった。
カノーハは顎髭を生やしたスマートな身なりの男だった。チョッキ姿のカノーハは青紫のズボンでブーツの胴を隠し、二色染めのクラヴァットを巻いていて、顎髭がなければダンディーで通っただろう。だが、それを本人の前で誉め言葉のつもりでいうマヌケはたちまちビリヤードのキューで頭を叩き割られる。彼はダンディーが心底嫌いだった。
「あんなのはただのヒモじゃねえか。ヒモがデカい顔するようになれば、世のなかは終わりだ」
「おれはダンディーなんかじゃないぞ」
「見りゃわかる。だが、おれに借りがある」
「わかったよ、何すりゃいいんだ?」
「物わかりがいいな。正直、お前の貸しはおれからすれば、大したことはない。床に落ちたからって拾うのも面倒なはしたカネだ。でも、借りには違いない」
カノーハは封筒を取り出してきた。赤い封蝋を押すのに、誰かトラクナのような不運な人間の指を使っていた。
「こいつをアーロップに渡せ」
「アーロップって、大金持ちのアーロップ? つーか、これ、強請? 頼むから、他のアーロップだって言ってくれよ」
「あのアーロップだよ。安心しろ。こっちから人をやると伝えてるから、やつが会わないってことはない」
「ヤバいんじゃないか?」
「ヤバいからなんだ? あのな、この封筒の蝋を押すのに使った指はアルコール漬けにして金庫に閉まってある。お前も指をスタンプにされたくなかったら、うだうだ言わず、これを持っていけばいいんだよ。おい、お前ら、男爵がお帰りだ」
〈串刺し〉から放り出されたトラクナは何十本という煙突が吐き出す黒煙に見守られながら、労働者街を歩いた。歩きながら、ある狂った画家の話を思い出していた。その画家は煤だらけの空が雲ひとつない青空に見えて、煙突が大樹に見え、蒸気機関はたくましい野生動物に見えていて、その画家が描くスチームガイストはいつだって、美しい森なのだが、ある日突然、画家は自分の頭を撃ち抜いた。おそらく本当のスチームガイストが見えてしまったのだろう。現実はいつだって幸福と矛盾し、発狂は幸福そのものであることを、もし語ってきかせる孫ができたら、話してやろうとトラクナは考えていた。若くてきれいで尻のむっちりした嫁は、もう、お義父さん、気味の悪い話をしないでくださいと、おれを叱るだろう、だが、その前におれが結婚して息子をつくらないといけないし、その前におれはアーロップかカノーハに殺されずに今日という日を終わらせないといけない。
サーカス団の蒸気ガーニーが角から曲がってきて、トラクナの横に停まった。馭者が乗るように言った。その隣には鼻の曲がったずんぐりした男が座っていて、レバーを引いた。湯気が吹いて、ドアが開いた。トラクナはきっとそうだろうと思い、なかに入り、そして、やはりそうだったと肩を落とした。様々な縁日機械がごちゃごちゃに積まれたなかにアーロップがいた。シルクハットを床に置き、フロックコートをその横に畳んで、仰向けになっていた。目を開けていて、トラクナが入ってくると、ゆっくり起き上がり、〈占い師ダルヴェーヌ〉にコインを入れようとした。
「一枚ないか?」
トラクナはスチームガイスト一の大富豪にコインを一枚都合した。
コインは占い師の手のひらに落ち、占い師はギシギシと油差しが必要だと泣きながら、託宣の筒を取り出し口に転がした。片眼鏡をかけて、筒を開けると、中身は空っぽだった。
「未来の予測は不可能か」
アーロップはトラクナのほうを見た。
「きみの未来はどうだね、男爵?」
「明日も一文無しですよ」
「そう悲観することもない。何かいい取引の仲介を頼まれるかもしれん。議員の買収とか。カノーハから預かったものを渡してくれ」
トラクナは封筒をアーロップに渡した。アーロップは目を細めて、口髭を撫でた。
「未来は不規則だが、現実は常に目の前に転がっているな。だが、予想ほどひどくはない」
「帰ってもいいですか?」
「もちろんだ。家まで送ろうか?」
「そこで降ろしてもらえれば」
アーロップは壁のラッパ管の蓋を取って、大声をあげた。
「客人が返る。車を停めろ」
扉が湯気を開けて開き、トラクナが外に出ると、蒸気ガーニーはゆっくり金属を震わせながら走り去った。工場の門が開くたびに、燃える鉄の滝を後ろに、海草みたいに揺れる男たちがぞろぞろとあらわれた。顎に煙草を噛んだ黒い唾液がぬらりと光り、骨の芯まで鉄になってしまった男たちは次々と居住地区行きの鉄道に乗って、運ばれていく。トラクナも客車の一台に乗った。汗と煤と金属の粉のにおいをさせた男たちは仕上げた機械のこと、巻き込まれて死んだ男のことを話し、番号がシリンダーに表示されるたびに男たちが十数人ずつ降りていく。トラクナは適当な番号で降りた。迷路のような路地だった。トカゲのように壁にへばりついたガス灯がかかっただけの暗い道で遠くには居酒屋の赤い光が見えたが、すぐに見失った。高い壁にときどき刃物屋が洞穴のように口を開けていて、火花が回転砥石の上で踊っていた。曲がり角の樽の上にランタンが置いてあって、キャンバス地を鎧のように身につけた男が壁に両切り葉巻のポスターをべちゃべちゃした糊で貼り付けている。
さっき見失った赤い灯を見つけようと思い、どこで見失ったのか思い出そうとしたときだった。暗さで見えない、十字路のあるほうでラッパ銃の轟音がきこえた。その後、くぐもった悲鳴や重そうな靴がバタつく音、肉が裂け、骨が折れる音がきこえ、しんとした。トラクナは箱が積み上がった扉の前に身を隠した。ジャムを煮込むような音がした。その音は十字路のほうから歩いてくる男の喉からきこえた。くぼんだ窓辺の蝋燭が男の顔をかすかに照らしたが、それはあの蒸気ガーニーの馭者席に乗っていた、鼻の曲がった男だった。その喉には大きな穴が開いて、そこから塊のような血がドボドボと流れ落ちていた。トラクナは来た道を走って戻りながら、アーロップとカノーハを罵った。蒸気ガーニーも罵った。うっかりすると尻で火がつく黄燐マッチ、間抜けババアの手違いで四階の高さから落ちてくるゼラニウムの鉢植え、警官の発砲、雷、嫉妬に狂った恋人の勘違い。自分を死なせようとするもの全てを罵った。
罵って罵って罵りまくって疲れ果てて倒れそうになったとき、目の前に真っ赤なガス灯があった。トラクナはすぐにビールを頼み、喉を潤し、魚のフライとさやいんげんを頼んで、咀嚼した。アーロップの手下たちは誰か間違った人間を襲って、返り討ちにあった。そいつにカネを払ってやりたい、とトラクナは感謝したが、ビールをもう一杯頼んだら、所持金はなくなった。カノーハとも当分は顔を合わせたくなかった。トラクナが殺されるとわかって、使いに出したのが間違いない。店を出ると、自分がまだアーロップ・インダストリーの敷地にいることを思い出した。そして、出口がどこにあるのかわからないことも。




