漁船の黒い三角帆が朝靄を切り裂き、――
漁船の黒い三角帆が朝靄を切り裂き、水気でキャンバス地が脹らんだ。外洋で魚群を潮ごと飲み込んだ大型漁船は凍ったタラでいまにも裂けそうだった。
船はリング・ゲート魚市場に吸い寄せられ、魚を吐き出す。タラ、カレイ、ウナギ、マグロ、タイ、マス、ニシン、アイナメ。無数の巻貝たち。数の少ない高価な海亀。海上でバラバラになった肉を茹でて絞り、樽に閉じ込めた鯨油。
かがり火で夜の名残を押しのけ、仲買人たちの意味不明の叫び声がサメの肝臓や海亀の甲羅を競り合い、呼び売りたちの籠に巻貝が流れ落ちる。山高帽に番号札を差した魚屋たちがコーヒースツールでコンデンスミルクをたっぷり入れたコーヒーを朝食代わりに呑み込んでいた。水に浸った道を蒸気機関が角を切り落としたカジキマグロを缶詰工場へ曳いていき、腐りかけた木が軋むたびに、タラの頭とハラワタがバケツに転がり込んだ。そのバケツはスープ屋の女将に売りつけられた。女将はそれを元がなんであったかわからないくらい切り刻み、出汁を取るのだが、その出汁は澄み切った、うま味のあるスープになる。
男と女が魚を中心に円を描いて踊る。トゥ・ルームズ・ホテルの調理人は路地の端から端まで並べられた魚のなかから、目の色が濁って体のひん曲がったサケを二匹、安値で買い取った。ホテルに戻ると、頭を切り落とし、ヒレと骨をはなし、ジャガイモやニンニクと一緒に湯に放り込んだ。その後、塩と胡椒をして、ジャガイモとサケとニンニクをすり潰し、ピンク色のマッシュポテトのようになったら、パンにのせて、オーブンで焼いた。香ばしいサーモン・トーストに焼いた卵と熱いコーヒーを添えて、盆に乗せ、ボーイがそれを客室に持って行った。
殺し屋は、ホテルのパジャマ姿で布団に入ったまま朝食を食べる、だらしないがたまには許したい贅沢を味わった。〈ボクサー〉での一件でオーナーから口止め料として結構な額をせしめたので、ホテルの質を上げた。食事を終えると、廊下の終わりからボーイたちの話す声がきこえてきた。
「だからさ、ありゃ、まさしく悪魔っすよ」
「なんで?」
「船に〈悪魔号〉って名づけてるっす。スクリュー式なんだけど、えらく速くて海軍でも追いつけねえっす。ヤバいブツを動かすなら、カノーハに頼めば間違いないって評判っすよ」
密輸屋かな、と、殺し屋は思った。港湾事務所に鼻薬を利かせれば、〈悪魔号〉の情報を流してくれるだろう。おそらく事務所か何かを持っているはずだ。
ホテルの前では金融街へ向かう軽蒸気三輪車が渋滞を起こしていた。首を横に向けると、水が建物の四階の高さまで噴き上げていた。車の客の何人かは馭者台に紙幣を投げて、証券取引所のある通りへと走っていく。殺し屋もそっちへ足を向けた。会社にカネを出す。単純だが複雑な仕組みが野心と強欲を引き寄せて、放さなかった。取引所の歩道も柱廊前の大階段も人であふれ、殴りつけるように買い、蹴飛ばされるように売った。建物のなかでは数少ない仲買人の刺客を持つ男たちが眼を血走らせ、「モホードン汽船! 二〇!」「フェイザック鉄鋼! 一七八!」と叫び、黒板では数字が書きつけられると同時に消し去られ、新しい数字が殴り書きされると、数字についての報告書が専用の筒に入れられて、専用の気送管に放り込まれ、町の反対側へ飛んでいき、大資本家の執務室で飛び出て、天井にぶち当たる。市内の金持ちの執務室の天井にはみな樹脂のぶつかった跡が黒く残っている。
殺し屋は証券取引所のまわりをぶらぶらした。投資家たちは一日じゅう回廊にいるので、それにあわせて、ハムサンド屋や蛇口付きビール樽を馬車で持ち込む飲み屋、ヤンパ人の床屋、並木のあいだにハンモックを吊って〈仮眠施設貸出〉の札を立てた抜け目ない子どもがいた。
鉄手形暴落の噂。オレンジ手形高騰の噂。銀行同士で預金を預け合い、資産を倍増させる手口――これは法で禁じておらず、どの銀行でも当然のように使われてる手だが、ひとたび大恐慌が起こって、銀行のひとつが沈めば、他の銀行も鎖でつながった船のように次々と海底へと引きずり込まれる。他にも債務者と所有権の一致しない不動産、現金輸送車が襲われる噂といった触るとただれる酸のような儲け話も転がっている。こんな怪しい技巧が飛び交うなか、生地がバラバラになりかけた古いフロックコートの老人は安ワイン一本で絶対に損をしないコツを教えてくれた。
「大衆と逆の動きをすればいい。大衆が買ったら売り、売ったら買う。大衆は常に間違う。覚えておくといい。これは株に限った話ではない」
街灯の笠から溜まり込んだ灰が落ちて、殺し屋の頭にもろにあたった。
「げっ」
なんとか灰を落とそうとしたが、触れば触るほど灰は細かく砕けて、髪に絡んで離れなくなり、頭のてっぺんとそのまわりが白髪のようになった。
「帽子を買わないと。でも、その前に髪を洗いたい」
怪しげな山師を一日じゅう相手にしているうちに睨むようなものの見方が常態となってしまった野外床屋が銅の温水タンクを据え付けているのを見つけて、殺し屋はすぐに椅子に座って、頭の灰を指差した。
「これ、何とかしてください」
「まかせてくれ」
床屋は殺し屋の髪にシャボンをつけ、タンクの注ぎ口からちょろちょろと流れるお湯をあてながら、念入りに泡立たせた。
「悪魔博士と〈悪魔機械〉?」
「そう。こういうところなら、その名にふさわしい人物がいるんじゃないかなと思ったんだけど」
「カタクチイワシみたいに大勢いるぜ」
「そのなかでも最も悪魔的で、最も博士的なのは? 〈悪魔機械〉を開発するようなことをしてるやつは?」
「そこまでになると、オクェンド・ミトレだな」
「ミトレ?」
「ありゃまさに悪魔だよ。あいつのせいで破産したやつが何人いるかわからん。本当に詐欺みたいなことをする。たとえば登録抹消銘柄とか」
「登録抹消銘柄?」
「破産した会社の株式だよ。クズだけど、ミトレがさわると、いきなり価値を持って、買い注文が飛びまわる。で、馬鹿どもは紙くずを手にして、ミトレはまんまと売り抜ける。悪魔だろ?」
「悪魔ですね。それに博士と言ってもいい知性もありそうだ。それにその登録抹消銘柄なんて、まさに〈悪魔機械〉的です」
「ところがな、ここからが変な話なんだが、ミトレにだまされた連中はみんなミトレを恨まないんだよ」
「なぜ?」
「わからん。あいつらはミトレも被害者で素晴らしい手腕があるのに、運が味方しなかったみたいに見るんだ。同じやり方で三回、ミトレにだまされたやつを知ってる。バカバカしい? 確かにそうだが、これには相場の極意みたいなものがある気がする。まあ、普通のやつじゃない」
「とても興味が湧いてきました。その、ミトレって人に。その前に帽子だけど」
バス停で蒸気二階建てバスに乗って、王太子記念アーケードで降りた。鋳鉄と防弾ガラスで細切れになった空が落ちてきて、石畳の道に光の迷路ができていた。古書商の店先に渡した針金から更紗のハンカチや馬の尾の毛でつくったブラシがぶら下がっていた。軽食屋の籠には、禿げ頭の大量斬首でもあったようにゆで卵が盛り上がっている。十字路広場では機関車を立てたような機械塔がオルガンを鳴らし、頭上を飛び交う輸送箱へ動力を割り振っていた。殺し屋は帽子屋に入った。ストーブパイプ型シルクハットや乗馬用山高帽、革製の自動車用帽子を勧める店主に首を横にふり続け、気づいたら、殺し屋は帽子ではなく、肘丈の短いマントを買って、外に出た。首元に赤銅のボタンがひとつついていて、裏地は薄茶のタータンチェックで質はいいし、気に入ったのだが、肝心の帽子はどこへ行ったのか、さっぱりわからなかった。
ふたつ先の角で騎馬警官が走ってきて、人の集まりに馬体をねじ込んだ。薄板に〈労働環境改善〉とペンキで書いて立札にしたものを掲げていた牧師が馬の胸にぶつかって、倒れた。後ろにいたボロを着た女と子どもたちは簡単に蹴散らされ、さらにもうひとり騎馬警官がやってくると、見物客も散り始めた。牧師は叫んだ——みなさん、お願いです! アーロップ機械工場では悲惨な労働事故が相次いでいます! 悪魔的な労働環境――
また、騎馬が牧師を跳ね飛ばした。悪ガキが笑った。誰かが炭酸水の壜をふった。牧師が何か叫んだ——悪魔、機械、悪魔――が、また追い散らされた。そのうち、ステッキが道を突く音がして、買い物が復活した。
殺し屋は手を軽く握って拳をつくった。セーム革の手袋がキュッと鳴いた。気分が軽くなり、帽子のことはどうでもよくなった。
悪魔博士と〈悪魔機械〉の候補者が三人も挙がったが、問題は彼らと出会ったら、また彼らを殺してしまうのではということだった。そこで殺し屋はカノーハ、ミトレ、アーロップの誰かひとりに会って、自分が相手を殺すかどうか、試してみることにした。ただ、殺したからどうだとか、殺さなかったからどうだというわけではないが、胸に靄のようなものを抱えていくのも、どうも気が向かなかった。昼食をアーケードにあった楽士のいる小さなレストランで取り、何も考えずに歩いた。いろいろな人間とすれ違った。そのどれもがカノーハ、ミトレ、アーロップのような気がしたが、ショルダーホルスターに入れたフレシェットで誰彼構わず殺したいとは思わなかった。これはいい兆候だ。自分が連続殺人鬼という、カネにもならない殺しを平気でする最悪の素人になりつつあるのかという苦悶の歩みはお昼に食べたキャベツのチーズスープをこなれさせるための楽しい散歩へと変化していった。鋳鉄の屋根が切れて、そのまましばらく歩くと、緑色の制服を着てマスケット銃を手にした一団が蒸気トラックに乗り、通り過ぎていった。そのころには通りは狭くなり、左右は灰色の、見た目が酷似した四階建てのアパートが続いていた。何度か道を曲がってみたが、どこも似たような通りで、街路をまたいでぶら下がる洗濯物や走りまわる子どもの木靴の高い音、バックギャモンを見物する老人たちの集まり、そして、商品輸送用蒸気機関が出入りする扉に書きなぐられた卑猥な落書きまでが同じだった。煙草をくわえて、ポケットからマッチの箱を取り出すと、音がしなかった。箱を開けると空っぽだった。日用品店が、これまで目に入らなかったのが噓のようにあらわれた。金物がぶら下がり、穀物袋にシャベルが刺さっていて、ガラスの箱には襟が飾られていて、錫製の十字に〈ホームメイド〉と打ち出されている。なかに入ると、床にまかれたおが屑が靴底で潰れ、外から見えなかったカウンター席には黒ビールのジョッキを握った老人が背中を尖らせて、うたた寝していた。帳場には腹に食い込むエプロンの紐のせいで、ずんぐりしたソーセージに見える女将がいた。マッチを買い求め、そして、ここがどこなのかをたずねてみた。
「ここはアーロップ・インダストリーですよ」
「この店が?」
「この店もそうですし、隣のアパートもそうですし、そこでうたた寝しているおじいさんもそうです」
「工場がどこにも見えないけど」
「アーロップ・インダストリーの敷地はとても広くて、会社は工場で働く労働者全員が住める居住区を敷地内に用意してるんですよ」
「途方もないお金持ちなんですね、アーロップさんというのは」
「ええ、途方もないお金持ちです。アーロップさんは。会えないかな?」
「誰に?」
「その、アーロップさんに」
「アーロップさんに?」
寝ていた老人が突然起きて、ケタケタ笑い出した。
「ルキノさん、笑っちゃだめですよ。あのね、あなた。アーロップさんに会うくらいなら、神さまに会うほうがもっと簡単ですよ。国王だってアーロップさんに会うためには列に並ばないといけないんです」
「列っていうのは横入りするためにある」
「アーロップさんはそこのところもぬかりありません。腕を機械に改造したお尻叩き係がいて、鋲を打ったお仕置き板で思い切り、お尻をぶたれます」
「なるほど、お尻がふたつに割れるのは困る」
「もうとっくに割れているでしょう? とにかく、アーロップさんに会うのに一番簡単な方法はアーロップ・インダストリーの役員になることでしょうね。役員会議はしょっちゅうあるそうですから」
「でも、歯車研磨係の見習いから成り上がるのはぼくとしてはちょっと時間がかかり過ぎる。多少の合法性を犠牲にすると、何か他にいい方法はないですかね」
「さあ、アーロップさんの弱みを握っているとか。でも、人に弱みを見せるような人じゃないですからね。アーロップさんは」
外に出ると、夕暮れどきだった。そんなに話した覚えはなかったが、大資本家の敷地では太陽ですら、管理されているのかもしれない。煙草をつけて、薄暗い路地を歩きながら、蒸気サイレンをきいた。労働者たちが帰って来る時間だった。道々に疲れた顔の男たちがあらわれ、貸家の玄関へと無気力に吸い込まれるものもいれば、酒場のある半地下の入り口へと滑り落ちるものもいる。殺し屋は迷路のような路地をぶらぶらと歩いた。遠くに酒場の赤いランタンが点っていて、頭上には貸家の窓の四角い灯――お互いの伴侶を早口で口汚く罵り合うのがきこえた。殺し屋は考えた。アーロップに面会の予約を取るのが無理ならば、家に忍び込むのが一番手っ取り早かった。強請みたいにして会うのはプライドに関わった。こっちは別にアーロップから金銭をまき上げるつもりはない。ただ、会ってみたら、殺してしまうかどうか確かめたいだけなのだ。
忍び込むなら、見張りを眠らせるのに使う麻酔をどこからか調達したほうがよさそうだ、そんなことを考えながら、小さな十字路に出た。道のひとつには木材の格子扉が閉じてあって、その先は小さな庭園になっているようだった。野菜煮込みのにおいがした。格子の向こうから金属音がした。
カチッ。
殺し屋は咄嗟に伏せた。轟音――体のすぐ上を散弾と木片と花びらが霰のように飛び過ぎた。壊れた扉のあいだからラッパ銃を手にした大造りの顔が見えた。殺し屋はフレシェットを抜きながら、仰向けに返った。
シュシュシュシュシュシュ!
顔から血の霧が噴き、大きな鼻が弾けた。獰猛な悲鳴が上がるが、殺し屋が立ち上がりながらまわし蹴りを腹に放つと、男はラッパ銃を落として、庭園へとひっくり返った。
残りの道からふたりの男――背の高い男と曲がり鼻の男があらわれ、サーベルを上段から振り下ろす。殺し屋は襟の後ろの二本のナイフを抜いて、背の高い男の懐に飛び込むと、腹をめった刺しにしようかと思ったが、返り血で服をダメにするし、マントは今日買ったばかりだと思い出し、抱くように手を相手の背中へまわし、腎臓を突いた。人間がだらしない砂袋に変じていくのを蹴り飛ばして離すと、最後のひとりのサーベルが死体に斬り込み、刃が骨に引っかかる鈍い音がした。殺し屋は武器を失った襲撃者の首を右のナイフで裂き、左のナイフを開いた傷に突っ込んで、切っ先で軽く円を描くようにして喉仏をえぐり出した。ゴボゴボと口から血を鳴らす男がよろよろと来た道を戻るのを好きにさせた。扉の残骸を蹴って外し、狭い庭園の、枯れた泉のそばにラッパ銃の男を見つけた。ダーツはまぶたを貫いて両目に突き刺さり、鼻があった場所には白い軟骨の崩れたものがついていた。左耳はちぎれかけていたが、しゃべることはできそうだったので、殺し屋は男を蹴飛ばして、たずねた。
「誰に雇われた?」
「くたばれ」
「答えが違う」
シュシュシュシュシュシュ!
手の甲に針の山ができた。
殺し屋は替えのダーツ・クリップを銃の機関部に差し込み、圧縮空気の小型タンクを新しいものに替えて、グリップに叩き込んだ。
「はい。誰に雇われた?」
「くたばれ」
「答えが違う」
シュッ!
ダーツが睾丸を串刺しにし、男は殺し屋に口をハンカチで塞がれたまま、くぐもった悲鳴をあげた。
「さあ、自分に正直になって。誰に、や、と、わ、れ、た?」
「ア、ア、アーロップ」
フレシェットの発射口を頭のてっぺんにぴたりとくっつけて、一度だけ引き金を引いた。
シュッ!
ダーツは頭蓋を抜いて、脳のなかに静かに沈み込んだ。
現場から離れて、フムムと悩む。
「アーロップはどうしてぼくを殺そうとしたんだ?」
殺す気はない。殺すかもしれないだけだ。
あの日用品店の女将がチクったか? 殺し屋の知らないスパイ網があるのか? 裏路地を歩く途中、にぎやかな黄色い光を吐き出す酒場があった。殺し屋はそこに入った。労働者たちが借金に縛られた女性たちの特別な給仕を受けていた。個室とジンジャービアを頼み、特別な給仕を断り、鏡を一枚持ってきてほしいと頼んだ。ろくに磨いていない、粗末な鏡がやってきた。だが、何度見ても、歪んだ額からは、貴族の少年従者か婦人運動にかぶれて女装をした女学生が大きな瞳でこちらを見返してくる。職業的な殺し屋だとひと目でわかる特徴はなかった。ただ、過程はどうであれ、殺し屋の命を不当に狙ったのだから、アーロップはそのペナルティを払わないといけない。それは間違いなかった。それを考えると、クスリと小さく笑えてきた。




