殺し屋は手を軽く握って拳をつくった。――
殺し屋は手を軽く握って拳をつくった。セーム革の手袋がキュッと鳴いた。気分が軽くなり、左袖の内側に巻いた暗殺用のワイヤーがするりと流れ出た。両端に結んだ小さなリング——自分の尾に噛みつく蛇を模していた——に指を入れると、ワイヤーをイリュメアンの首に絡めた。麻薬が落ちて、飛び散った。ピンとワイヤーが張った。イリュメアンが喉をかきむしった。ゲッ、ゲッと喉が鳴いた。以前、隣の沼がカエルの繁殖地だった宿に泊まったとき、こんな音をきいた。求愛の歌だと思っていたが、実は蛇に生きながら飲み込まれるカエルの断末魔だと知った。イリュメアンが腕をふりまわした。リングに通した人差し指と中指が痺れそうだ。殺し屋は後ろから足を蹴って、標的をひざまずかせると、背中を右ひざで押しながら絞めた。
誰かがドアノブをまわした。
ガチャガチャと錠がつっかえた。
「おいおい、本当に締め出したのか?」
声がした。妙に聞き取りやすい声だった。
「おーい、イリュメアン。いるんだろ? 開けてくれよ」
標的がガタガタと震えだした。
「なんだよ、おれ、締め出されるようなこと、したか? なあ、こんなのフェアじゃないぞ」
ガチャガチャとドアが鳴った。
「わかった、わかった。今日は帰るよ。じゃ」
とんとんとん、と階段を降りる足音がする。イリュメアンのほうはがっくりと頭を前に垂れ、動かなくなっていた。ワイヤーを外すと、紫色の細い線が首を一周し、顔は血がせき止められたために赤く脹れていた。ジャケットを脱いで椅子にかけると、左の袖をひっくり返し、秘密の隠し場所にワイヤーを巻いて、小さな留め金をつけた。S字型の海蛇を模した小さな銀で、少し強く引っぱれば、手にワイヤーがすとんと落ちてくる。ジャケットを着て、部屋を出て、新聞社のガラス窓越しに政道批判のにおいがするインクをかぎ、外に出て、フムと考えた。
「どうして、ぼくはあのひとを殺したんだろう?」
いくら考えてもこたえは出そうになかった。〈酒税支払い済み〉が目に入る。
殺し屋は手を軽く握って拳をつくった。セーム革の手袋がキュッと鳴いた。気分が軽くなり、一杯引っかける気分になった。酒場へ歩き出すと殺し屋の前にいた男が、ガラスのはまった酒場のドアを開けると、叫んだ。
「コケコッコー!」
男は身なりのきちんとした紳士風で、突然おふざけで鶏の真似をするようには見えず、安酒場に入るようにも見えなかった。どこかの病院から逃げてきたのかもしれなかった。
店は天井が低くて、衝立でいくつも区切られていた。衝立のひとつにつき、ひとりだけで、娼婦と一緒にやってきたり、ぶらりと会って意気投合したふたりが飲む店ではなかった。ただ、ビールが飲みたい。そういう人間のための店だった。
奥のカウンターには左腕のない大男がいた。
「ビールと貝」
一パイント半の壜入りビールと茹でたての巻貝の皿を手に手近な空いている仕切り席についた。ジョッキの底で丸く焦げた跡のあるテーブルに塩を入れた壺と貝の身をほじくり出すフォークがあった。殺し屋はひとつほじくってはそれを食べて、殻を捨て、ビールを少し口につけた。そして、コケコッコー!のときを告げる声がきこえてくるかと思ったが、静かに貝を食べているようだ。
「ぼくはどうしてあのひとを殺したんだろう?」
殺し屋はクルネカを殺した後、とくに考えもなしに人通りを避け、正午でもひどく暗い町を歩いた。どの道をどうやってきたのか分からなくなりたい気分だった。道に迷ったときに得られる匿名性が欲しかった。町はシーンとしていた。左右は煉瓦の家屋で閉じていた。ポスターが一枚、糊で崩れたデザインが転倒して悶えている。町の上に渡された桁と線路を機関車が横断するたびに地面がしびれた。――悪魔博士と〈悪魔機械〉は何かのたとえなのか、本当にそういう機械をつくる博士がいるのか。その博士は優れた科学者であったが、学会を追放され、ひとり、世を恨みながら、〈悪魔機械〉をつくっている。そういう幻想が共通金券為替の形で殺しのポケットに入っていた。義務の重さは紙一枚だった。
「浄めたまえー」
水晶教団の教典を読む声が崩れた壁の向こうから響いてきた。
「二頭の牛に育てられた水晶の御子よ、澄み渡りたまえー」
声から遠ざかるように歩いた。踏み潰されたゴミの発酵するにおいがツンとした。道の先を車輪のついた蒸気機関が横切った。曳かれる車で山になった干し草の、てっぺんだけが救われたように光っていた。角に臓物屋があった。まな板の上の内臓に白い脂が波打っていて、それを男がペンで縦横に線を引くようにして細かく切り、大きいものには串を刺して、火の上に置き、残りは全部スープ鍋に流し込んだ。町はハラワタのクズがスープに溶けて消える音がきこえるくらい静かだった。
殺し屋は何度も、なぜ高利貸とその受付嬢を殺したのか考えたが、このころに抽象思考のゲームのように扱い始めた。ただでさえ少ない脂肪が殺し屋の体のなかで思考のために、溶かされ費やされた。このゲームのルールでは『死んで当然』と『死ぬべきではなかった』は扱わないのがルールだった。それ以外のところから、自分がやった殺しの動機を考えた。すると、何かこたえらしきものがゲーム盤の中央にあるラードの海からゆっくりと、泡を立たせながら、浮かび上がろうとするのだが、悪魔博士の正体を調べないといけないという現実の問題がゲーム盤をひっくり返し、殺し屋を行動へと搔き立てた。殺し屋があの共通金券為替を使ってもいいのかを調べないといけなかった。
殺し屋はテーブルのひとつについて、緑のスパイスが浮かぶ濁ったスープにさじを浸した。その味で舌をひりつかせながら、壁を這うムカデが梁の木材のヒビへと逃げていくのを眺めていると、店主が火で半分に縮んだ臓物を数枚、皿にのせて持ってきた。
「この店は長いんですか?」
「三十年になる」店主は脂で照り輝く手を前掛けで拭いた。
「お客は?」
「近所の芝居小屋だろう。芝居がはけると、ここに食いに来る。そっちは? このあたりは観光で来るような場所じゃない」
「人を探しています。名前は悪魔博士。〈悪魔機械〉をつくるのが生涯の目的らしいです」
「そんなやつは大勢いるよ。だが、まあ、博士ってのは、ちょっと知恵がまわるってことか。それじゃあ、獲物街の売人とかかな」
「売人?」
「麻薬だよ」
「ちょっと興味が湧きました」
臓物屋の店主からイリュメアンのことをきいたとき、彼女を殺そうとは思ってもみなかった。
最後の貝を食べ終わると、二本目のビールもちょうどなくなった。衝立には〈食器は自分で返す〉と焼き印がされていた。
店を出て、少し広い通りに出ると、ふたり乗りの蒸気自動車や辻馬車、パイプオルガン風の煙突から聖歌の代わりに黒煙を吐く蒸気ガーニーの窓には尋常ではない美しさの令嬢の視線がちらりと流れ、詩人や画家に霊感を与えている。交通整理で立っていた巡査に劇場がないかとたずねると、歓楽街でまとまったガス灯の光の塊を指差してホイッスルを吹いた。
良家の女中は絶対に出歩かない時刻、ジェンナ大公通りでは扉を開けては紳士やドレス姿の女性たちを光とともに吐き出した。蒸気研磨技術でつくられたクリスタルガラスのショーウィンドウには機械を仕込んだマネキンが宝石をまとった姿で椅子から立ち上がり、ため息をして、陶器でできた青い目をつまらなさそうに客たちへ流した。三本の高架線が灯をまたいで広場に集まり、宙に浮かぶターンテーブルで機関車は別の客車に付けなおされ、町はずれの丘へと走っていく。まぶたが開かないほどのきらめきだが、殺し屋は彩色ランタンと花で飾られたオペラ座や舞踏ホールには興味が湧かなかった。もう少し乱暴な趣味のあるものが見たかった。
殺し屋は手を軽く握って拳をつくった。セーム革の手袋がキュッと鳴いた。気分が軽くなり、すぐに蒸気ガーニーから降りてきた洒落た紳士の群れを見つけた。この手の紳士たちはいつだって暴力の見世物に精通している。愛人のカネ、正確には愛人の夫のカネをあてにして暮らしているので、他人が自分に尽くすことは当たり前だと思っている彼らはときどき標的になる。嫉妬深い愛人が雇い主であることもあれば、対立するダンディーなこともある(カネと妻を寝取られた夫からの依頼は不思議なことに一度もない)。せっせと人を殺して暮らしている労働者の殺し屋には社交界の複雑怪奇な習性は分からないが、それが少なくない収入を約束してくれる以上、多少なりとも研究をしなければいけない。それで分かったことはダンディーは群れで動くこと。群れには本物のダンディーがひとり、その他はダンディーになりたいダンディーであること。本物とそれ以外を見分けるコツは本物は流行をつくり、それ以外は流行を追いかけること。愛人と一緒にいる時間よりも取り巻きと一緒にいる時間のほうが圧倒的に長いことなどがわかった。こうして調べてみると、ダンディーは殺してくださいと言いながら歩いているように見えた。ひとつ難点があるとすると、ダンディーの取り巻きはダンディーのすること着るものを全て完璧に真似るので、狙撃などの遠距離からの暗殺では見分けがつかなかった。それにダンディーはひとりでいる時間がない。取り巻きといる以外の時間は愛人と一緒にいる。面倒くさくなって、標的のダンディーをその取り巻きもろとも爆弾で吹き飛ばして任務完了にしたいと思ったことは一度二度ではなかった。しかし、ダンディーと言えども生理的必要性には逆らえない。たいてい、殺し屋がダンディーを仕留めるのはトイレでのことだった。
ダンディーたちは美貌と巧みな会話で生きているが、そこにほんのわずかな獣性を備えると、料理のスパイスみたいにピリッとまとまり、愛人からカネを引き出しやすいのがわかっているので、きっと殺し屋も楽しめるお遊びに導いてくれるに違いなかった。
ジェンナ大公通りから公園通りへ曲がり、しばらく歩くと、〈ボクサー〉に入っていった。ふたりの人間が殴り合うのを見ながら、料理を食べるという大変趣味のよい高級レストランだった。
殺し屋の衣装は見方によっては貴族の専属少年従者に見えるので、ダンディーのひとりからシルクハットを受け取って、しずしずとついていけば、あっけなく、なかに入ることができた。シルクハットはすぐにそばの長椅子に捨てた。持ち主の取り巻きは本物を見るので忙しかった。
入ってしまえば、こっちのもので、すぐにダンディーたちから離れ、青色紙幣で席を買うと、殺し屋はナプキンが山型に折られて皿に乗っている席に案内された。拳闘用のリングは中央にあって板張りになっていて、その中心からひな壇状に席が用意されていた。ダンディーたちは当然のように一番リングに近い席に案内されていた。殺し屋の席は一段上だった。〈ボクサー〉はナプキンを首元に突っ込んではいけない水準のレストランだが、殺し屋のシャツとジャケットは黒く、ソースが飛び散ったら簡単にはわからない。だから、遠慮なく首に突っ込んだ。そのかわりにナイフで歯に挟まった肉をほじったり、痰を吐いたりしない。お互いに妥協をするべきだった。
給仕たちは客を待たせず、急いでいるようには見えない絶妙な速度で注文を取ってまわり、銀の盆に赤ワインと子牛の頬肉をのせて、優雅な立ち振る舞いで持ってくる、特別な訓練を受けていた。染みひとつない白いエプロンを取ると、客の紳士たちと見分けがつかなくなる彼らのプライドは見ていて窮屈だったが、ダンディーたちのような人種は他人がプライドを持つなんてことは考えもしなかったので、まったく気にしていない様子だった。
「宮仕えの辛いところだ。さて」
殺し屋はメニュー表を見た。手を軽く握って拳をつくった。セーム革の手袋がキュッと鳴いた。気分が軽くなり、高価格のメニューを注文する気力が湧いてきた。
三回手を上げて呼んで、三回目でダメなら四回目は指を鳴らしてやろうと思っていた。指を鳴らしたときの音の大きさには殺し屋は自信があったのだ。しかし、料理が決まると、一度も手を上げることもなくギャルソンがやってきて、注文を取った。そういう仕事を見ると、殺し屋は嬉しくなった。プロ意識は好きだった。
殺し屋の注文したローストポークのジンジャーソースと二切れの小さな温野菜ミートパイ、それにライ・ウィスキーがやってくると、試合が始まった。戦うのは白人と黒人だった。どちらも短いズボンをはき、張り出した厚い胸の前に拳を構えている。白人の皮膚は赤く引き締まり、黒人のほうは背中に鞭で何十回と切り裂かれた跡が盛り上がって残り、背中にかいた汗がいくつも分かれて輝いていた。最初のうちは足を使って、ジャブを放っていた。黒人のほうはジャブを必ず左の前腕で防がせた。八ラウンドではやくも白人の左腕が使いものにならなくなった。一度、クリンチしたとき、白人びいきのレフェリーがふたりを引き離すと見せかけて、黒人の手の指を折ろうとしたが、黒人はそれより先に飛びのいた。黒人の戦闘精神に火がついて、それからは左の前腕が紫に脹れ上がるまで情け容赦のない拳が飛んだ。そして、一瞬空いたガードを黒人は見逃さず左ストレートが顔にもろに入り、右フックがよろめいて下がったこめかみに入って、白人は走るように右へよろめいて。頭からうつ伏せに倒れた。鐘が鳴った。塞がりかけた左目でじろりと審判を睨んだ。試合中に選手の指を折ろうとする馬鹿な真似をやめさせるには何発殴ればいいか、計っているようだった。
殺し屋は箱から一本煙草を振り出し、燭台の蝋燭でつけた。次の出し物が始まった。車輪付きの機械でできた牛を使った、道化師の闘牛はひどく退屈だった。牛の頭の剥製から伸びている角は硬質ゴムでできていて、殺傷力がなかった。三回目の出し物では、不条理ながら殺し屋が参加することになった。トイレから出て、切れた煙草を買いにカウンターに行く途中、例のダンディーの本物にぶつかって、靴を踏んでしまった。本物は貴族的な無関心でかわしたが、崇拝者のひとりが妙に怒った。そんなふうに怒った時点で本物から程遠くなりますよ、と親切のつもりで教えたら、ますます怒られた。そして、気づいたら、顔に手袋を投げつけられ、殺し屋はリングのなかに軽すぎるレイピアを手に立つことになった。
「どういうルールですか?」殺し屋は審判を買って出た紳士にたずねた。この紳士はこのレストランに子牛の頭肉と海亀の煮込みを食べに来たのだが、この勝負で最も中立の立場を取れるということで、名誉のための審判になることを承諾したのだった。「あんまり、この手のしきたりに詳しくないんです」
「なんでも質問してください」審判は小説のなかでしか決闘を見たことがなかった。
「相手は殺してもいいですか?」
「それは——」
審判は取り巻きのダンディーのほうを見た。剣を鳴らしていた。威勢はいいが、審判は自分の息子と同じくらいの年齢の若者が胸を刺し貫かれて死ぬ場面に遭遇して、果たして落ち着いていられるだろうかと不安になり、殺し屋にこう、こたえた。
「殺さないほうがいいでしょう」
「それはよかった。お金にならない殺人なんてしたくないですから」
「ん? いま、なんと?」
「いえ、なんでもありません。左右に動いても?」
「前後の動きだけです」
「なんだか本物の決闘みたいですね」
「本物の決闘ですよ。お若い方」
「使わない左手は後ろにまわしたほうがいいですか?」
「ぜひ、そうしましょう」
「ますます本物になってきた」殺し屋は審判へ少女のように笑いかけた。
勝負は二秒で終わった。ブドウ酒の袋を突き刺すみたいに太ももを刺し貫かれた偽ダンディーが転がって、おいおい泣きわめき、客のなかにいた医者が慌てて、リングに降りることになった。殺し屋はリングから梯子のような階段を上って、カウンターでロースターをひと箱買い、自分の席に戻って、一服した。
本物のダンディーが担架で運ばれる取り巻きを見ていた。だが、まもなく関心がないように気だるげな視線は宙にたまり込んだ紫煙の渦へと浮き上がった。そのころにはリングはすっかり片づけられ、最後に残った血の跡を、掃除夫がシャボンをぶちまけて、モップで拭き取ると、刃傷沙汰は各人の記憶にだけ存在する過去の出来事になった。
殺し屋はこたえがカネにならないからだ、となるのをわかっている上で、灰をコーヒー皿に落として、考えた。
「どうして、ぼくはあいつを殺さなかったんだろう?」




