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トラクナは自分の運が悪運なのか幸運なのかわからず、――

 トラクナは自分の運が悪運なのか幸運なのかわからず、困っていた。昨晩、〈デナリウス〉から無傷で逃げられたのは間違いなく、幸運だった。だが、使った分は知らぬ存ぜぬを通して、クルネカに残りの金を返して、ディナ・ホールギーケへの仲介を断ろうと思っていたところで、クルネカとその雇員が殺られたときいて、この運が悪運なのかもしれないと思い始めた。

「いや、きみ、そりゃあ、幸運に違いないさ。クルネカからの前金を返さずに済んだのだから。あの守銭奴とカネのやり取りをしたら、最後なところをどこかの奇特な御仁が殺っつけたわけさ。こりゃあ、慶事ってわけだ。きみのために殺っつけたと勘違いしても誰も笑わんよ」

「でも、受付嬢まで殺されたんですよ?」

「そう、それ。そこが重要だ。僕に言わせればね、タチが悪いのはあの受付嬢のほうさ。カネを借りに来た人間から紙幣を一枚まき上げるのは暴利でその債務者を破滅させるよりもタチが悪い。しかも、あの女は日めくりカレンダーを二十日間、放っておいても平気なんだぞ? 犯人は悪の所在に詳しい人物だね」

「そうなら、ガイストじゅうの人間が殺っつけられますよ」

「それは違うな。僕やきみは悪人ではない。ただの役立たずだ」

「資本主義は役立たずを悪とします」

「犯人は資本主義者じゃないよ、男爵。そうなら、クルネカの部屋のものをひとつも盗まず去っていくなんてありえない」

 確かにヒトロの言う通りだ、とトラクナは思った。

〈レンベルーク〉の天井に溜まった紫煙の厚みのなかでは詩人や小説家、零細出版人のため息が燻されている。スチームガイストきっての喫茶店には才能の枯渇をごまかしている作家、女がらみのゴタゴタで絶えず自殺を考える詩人、ギムナジウムを出たばかりの若い才能を詐欺みたいな契約で縛る出版人が一杯のコーヒーで三時間粘っては自分を認めない文壇への恨み言を繰り返している。

 息をすると肺が灼けるこの店で文学に関わっていないのはトラクナだけだった。トラクナの話し相手のヒトロは十三歳のころ、発表した詩集で文学界を驚かせた才能の持ち主であり、本物の文学者の魂を持っていた。本物だからこそ、彼は十三歳で出版して以来、一作も世に出さず、七十歳になる今日まで貧乏下宿と〈レンベルーク〉の往復をして暮らしてきた。才能が枯渇したわけではなく、〈レンベルーク〉で破綻した文学者たちを相手にしているとき以外の時間に、この老人は廃新聞の余白に詩を書き殴っていた。そして、完成するそばからずんぐりしたストーブのなかで燃やした。大切なのは頭が破裂しないためのガス抜きに過ぎなかった。どうやってこの老人が生活の資を得ているのかは不明だが、〈レンベルーク〉にいれば、誰かしらコーヒーを奢ってくれたし、家賃も一か月か二か月溜めることはあっても、いよいよ追い出されるというときに、この古い文学の生き証人のために寄付をする篤志家があらわれて、家賃をきちんと支払ってくれた。

「おれはそんなカネありませんよ」

「知っているさ。それに今の僕は幸い、カネに困っていない」

「どうやって、そんなふうに暮らせるんですかね」

「コツはカネのことを意識しないことだ。一切、考えない。すると、珍しがって向こうから飛び込んでくる。それより、男爵、ひとつ頼みたいことがあるんだがね」

「なんですか?」

「麻薬だよ。売ってくれる人間を知っているかね?」

「知っていますけど、でも、いいんですか? これ以上、やったら、本当に死んでしまいますよ」

「仕方がない。一回始めたら、やめられないのだ。若いころ、やめてみたことがあったが、まったくとんでもない生き地獄を味わった。あれ以来、僕はコーヒー代や家賃、女に渡すカネを切らすことはあっても、麻薬を買うカネだけは切らさないようにしている」

「もう、骨と皮だけじゃないですか」

「その通り。だから、遠出ができない。それにきみはこの街の怪しげな取引のなかをうまく泳ぐコツを心得ている」

「あまり気が乗りませんね。おれはあなたのファンのひとりですから」

「十三歳の悩める魂に免じて、買ってきてくれないか? 僕がひいきにしていた売人はもう十分稼いだといって、郷里に帰ってしまったのだ。男爵、道徳は死に絶えたのだ。麻薬の売人が客をほっぽり出して、帰郷するなんて、あってはならないことだ」

「獲物街の三番の二階に住んでます。名前はイリュメアン。女性です」

「きみはさっき言ったじゃないか。僕が骨と皮だけだって。獲物街までなんて、とてもじゃないけど歩けない」

「タクシーか辻馬車を使えばいいじゃないですか」

「そんなカネは持っていない。哀れな老人を助けると思って」

「あなたはこの世で最も幸福な老人ですよ」

「じゃあ、この世で最も幸福な老人を助けると思って。もちろん、タダとは言わん。注射で四回分買ってきてくれたら、一回打たせてあげよう」

「おれは麻薬はしません」

「あんなに素晴らしいのに?」

「まだ、体が資本の年齢ですので」

「麻薬を打つと、効いているあいだは十三歳のときに出版社に食われなかった自分になれる。どこかの森の奥でひとり、鳥や蝶と話をしながら暮らす、本物の詩人になれるんだ。素晴らしいだろう?」

 トラクナは結局、ヒトロの言いなりになることはわかっていた。それにイリュメアンに会えば、彼女を通してディナのことをきけるかもしれなかった。イリュメアンは世にも珍しい、麻薬を売る婦人運動家だ。彼女は女には麻薬は売らない。男だけに売り、破滅させ、女の地位を上昇させるという野心があった。

 すっかり冷めきったコーヒーを飲み干し、数枚のコインを置いて、店を出ると、監獄塔の時計が午後六時の鐘砲を打った。ガス灯よりは薄暗い夕闇を頼りに動ける時間だった。ディナについて考えるのは、たとえ未遂に終わったとしても、クルネカに彼女を売ったことのうしろめたさが彼をなかなか放してくれなかったからだ。

 汚れた空が真っ赤に燃えていた。街は影に閉じていた。木戸で塞がれた商店街の向こうからコウモリが飛び出して、香具師の帽子に糞を落とした。トラクナが歩くと、靴底が砂利を噛んだ。シケモクが踏み潰され、靴が地面を離れるときには臼にかけたように細切れになっていた。人びとは家に帰るか、賑やかな街に行くかで悩んでいた。麻薬を買いに行くのはトラクナただひとりだった。

 獲物街はタクシーを使うほど離れていなかった。三番地には改革派の新聞社が入っていた。黄色く光る曇りガラスに映る編集者の影がわめき散らし、廊下には書物が埃をかぶって積み上がっている。階段には雑誌の束が乱雑に置かれていて、なぜ大家が文句を言わないのか、不思議だった。実はイリュメアンと会ったのはこの新聞社でのことだった。発行人からトラクナに政府の注意を引かずに印刷機を手に入れられないかと頼まれたとき、イリュメアンが女性解放についての記事を持って、あらわれたのだ。彼女はトラクナは破滅すべきと思って、麻薬の試し打ちを勧めたが、トラクナは賢くも断った。何度か会ううちにイリュメアンもトラクナは何が何でも破滅させるほどの価値はないと思い、むしろ自分たちに近い反政府的人間と認めたらしく、トラクナを利用するようになった。彼女は女性には麻薬は売らないが、上流婦人には売った。彼女たちは権力のある男に対して、影響力があるにも拘らず、婦人解放を理解せず、享楽にふけっているので、破滅すべきだった。トラクナ男爵家は五百年の歴史を持っていたから、上流婦人が麻薬を欲しがり、イリュメアンが売りたがれば、自然とトラクナが橋渡しをした。

「思えば、おれは誰かの仲介ばかりしている。おれ自身は何がしたいのか、よく分かってないのに」

 男爵はドアをノックした。

「どうぞ。鍵はかけていません」

「麻薬の密売人にしては不用心だな」

 トラクナが入ってくると、イリュメアンが振り向いて笑った。

「この街の有力な貴族夫人が参加するサロン三つにわたしが供給している。だから、警察は手が出せない」

「ヤク目当ての強盗は?」

「これがあるわ」

 イリュメアンは婦人用ジャケットの左前をめくってホルスターのなかの〈竜騎兵〉リヴォルヴァーを見せた。

「それで? 買いに来たの?」

「ああ。四発分」

 トラクナは肘掛椅子に座った。丸底フラスコをあぶるアルコールランプのそばに、家事代行機械についての読みかけの論文があり、参政権大会のポスターが貼られた四角柱には紙に巻いて吸うと空を飛んだ気になれる花びらが一枚ずつピンで刺して乾かされていた。

 イリュメアンはゴム製のポンプ玉を握って、四回分の麻薬を壜から吸い出して、小さな瓶に移し替えている。横顔を見ると、鼻が少し低いが、眼差しの知性をむしろ際立たせて見えた。キャンバス地のスカートの裾からはっきりと足首が見えると、それを破廉恥と指差す男たちの姿が目に浮かんだ。そして、そういう男たちが三文劇場の裸踊りに手を叩き、股間をまさぐる。その矛盾が消えるその日まで、イリュメアンは男たちに麻薬を売る。勝ち目の薄い戦いだ。だが、歴史は勝者のものだが、芸術はいつだって敗者の哀しさを詠いあげる。

「で、誰がやるの?」

「女じゃない。ヒトロだ」

「彼は才能がある。その才能を社会正義のために使わないのは罪よ」

「きみにとっちゃ、個人主義は罪なんだろうが、おれやヒトロみたいな人間は社会と約束したんだ。お互い、これっきりにしようって」

 イリュメアンはデスクの引き出しを開けて、スクラップ・ブックを取り出して、赤いインデックスが飛び出ているページをめくった。

「アルコール中毒の男が自分の妻を殴りながら、十年も生きてきた。彼女はついに耐えられずに逃げ出した。救護院に駆け込んだのに、救護院は彼女を夫に引き渡した。なぜだと思う? 彼女が夫のためにパンを焼かなかったから。十年間、パンを焼いてあげて、たまたま一度だけパンを焼かなかった。それが妻側の落ち度だと言ったのよ。この記事を見て、すぐにわたしは彼女を訪ねたけど手遅れだった。肺炎で亡くなったの。パンを焼けなかったのは、肺炎で死ぬ寸前だったからよ。あなたはこれが正義だと思う? この男を罰する法律が存在しない。それだけでこの男が許されるべきだと思う?」

「もし、そいつがここにヤクを買いに来たら、致死量の濃度にしたやつを売りつけてやればいい」

「できることをただやるだけじゃ不十分よ」

「じゃあ、サロンに一発やったら泡吹いて死ぬようなヤバいのを売りつけるかい?」

 イリュメアンは否定も肯定もせずに言った。

「ディナはわたしのやり方に賛同してくれないのよ」

「おれを見て、ディナを思い出すの勘弁してくれないか? それについて、ききに来たのは目的のひとつだが、ちょっと、彼女のことで罪悪感を抱え込んでるんだ」

「彼女は元気よ。精力的で、大切な同志だけど、わたしとは方法が異なるの」

「なあ、イリュメアン。きみは長いこと売人をやってるけど、一度も自分で商品を試したことがない。でも、ほとんどの人間はきみみたいに強くないんだ」

「そうかもしれない。でも、その強くない男たちが、毎日、家に閉じ込められた妻をベルトで殴っている。女性が学を持つことに反対している。女性が要職に就くことに反対している」

「だが、そいつら、全員を過剰投与で殺すのは不可能だよ。イリュメアン。きみはいい人間だ。だから、引き返せない間違いはしないでくれ」

「ディナはあなたのことも話していた。ききたい?」

「うーん。そのために来たんだが、よしとこう。またの機会にするよ」

「ビールはいかが?」

「飲みたいな」

「ここにはないわ」

「なんで、きいたんだ?」

「わたしがそんなに立派な人間じゃないことをあなたに教えるなら、ビールに絡めるのが一番でしょ?」

「おれは別に飲んだくれってわけじゃないよ。ただ、ビールは清涼飲料水の一種だと思ってるだけ」

「店は向かいにあるわよ」

「わかった。とりあえず、薬はもらっておこう。きみがおれを締め出す気になるかもしれないから」

 ヒトロから預かった代金を渡すと、壜をポケットにしまい、部屋を出た。マカダム舗装された道を渡ると、店があった。上縁の丸いガラス窓に吹き付けられた〈酒税支払い済み〉の化学文字がビール味の涙を流していた。なかは天井が低く、衝立で細切れにされていた。果物みたいな顔をした男たちが帽子を取らず、貝をつまんではビールの入った茶色い壜に口をつけていた。ゴミ箱から巻貝の殻があふれていた。奥のカウンターには左腕のない大男がいて、残った腕を膨らませて、貝を塩で茹でていた。ビール壜の並ぶ棚の上に小さな棚がつくり足されていて、そこには磨かれた勲章ふたつが置かれていた。

「貝を一皿、ビールひと壜」

「はいよ」

「景気はどうだい?」

「悪くない。貝が高けりゃ、豆を売るし、豆も高けりゃ、フライを売る。客はビールを飲みに来る」

「ビールが高かったら?」

「売値にのせる」

「そりゃひどい」

「それでも人はビールを飲む。貝や豆みたいに替えがきかない」

 皿と壜を手に仕切り席のひとつに腰を下ろした。ビールは苦く、むき身は塩辛い。トラクナが子どものころ、ビールのことはホップ入りエールと呼ばれていた。巷で見かけるのはホップを使っていないエールだった。いつの間にか、エールは見なくなった。工場が増え、大勢の人間がスチームガイストに流れ込むと、そのうちひとりがエールつくりにホップを入れる文化を持ち込んだ。エールが飲みたかったら、田舎の、自分用にエールをつくっている農家に行くしかなかった。

 貝は噛むたびに歯に抵抗し、海に沈んでいたころの潮がしみ出した。ひとつで食べるには塩が辛すぎるが、ビールとはよく合った。

 空っぽの壜と皿をカウンターに返すと、トラクナは店主に「女性を待たせているんでね」と気取って、イリュメアンの家へ戻り、ドアノブを回した。鍵がかかっていた。

「おいおい、本当に締め出したのか?」

 トラクナは自分が何か彼女の気に入らないことをしたか、考えた。

「おーい、イリュメアン。いるんだろ? 開けてくれよ」

 外から見たとき、窓には明かりがついていた。

「なんだよ、おれ、締め出されるようなこと、したか? なあ、こんなのフェアじゃないぞ」

 ガチャガチャとドアノブをまわしたが、開けてもらえる気配はなかった。

「わかった、わかった。今日は帰るよ。じゃ」

 また〈酒税支払い済み〉の店に戻ると、店主がニヤリと笑った。

「女と会うんじゃなかったのか?」

「女の気まぐれにいちいち怒ったりしないもんだ。ビールと貝」

 さっきと同じ仕切りに戻って、貝から身をほじくり出した。全部ほじくり出してから殻をゴミ箱に落とすと、表のドアが開く音がして、こんな声がきこえた。

「コケコッコー!」

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