甲冑職人街八八番地には三階建ての建物があった。――
甲冑職人街八八番地には三階建ての建物があった。二階には左右の角まで伸びるテラスがあり、それを支えるのは円柱ではなく、男女の彫刻だった。ここに金を借りに来るもの、支払いの猶予を請願しに来るものはテラスの下で今にも押しつぶされそうな顔をしているこの彫像たちに自分を重ね合わせる。だが、殺し屋の耳目に入ったのは、テラスではためく洗濯物と、暇な床屋のハサミがチョキチョキと宙をうまそうに食う音だけだった。
一階には計算代行業者がヴォンデネーリンから輸入される冷凍ニシンの為替変動リスクを計算し、隣の貿易会社では計算結果がやってきたら仕上げる契約書の前で経営者が凍りついていた。二階はテラスに面したガラス窓と扉から光が差し込み、居住者の秘密を守る分厚いドアが十七ほど、光に足元を温められていた。三階には法律事務所と公証人事務所と特許取得代行人事務所がガラス窓のなかで大金と誠実な約束を結合させる困難に立ち向かっていた。
クルネカ資金融通事務所はそのガラスの迷宮の奥に扉を構えていた。壁は漆喰で塞がっていて、なかでどんなえげつない取引が行われても、それを見ることはできなかった。ただ、やってきてすぐ、クラヴァットも乱れ、襟の外れかけた紳士が「くたばっちまえ! この守銭奴! その利子ともどもくたばっちまえ!」とわめきながら、ドアを開け、そのまま、つかつかと歩き去った。こうした客は珍しくもないらしく、他の事務所の雇員たちは顔も上げなかった。
なるほど悪魔博士は悪魔的な利子を取り扱うが、まさしくそれは〈悪魔機械〉にふさわしい悪魔的な代物と言えた。
ドアの前に立ち、考えた。なんと話を切り出そうか。悪魔博士と自分をつなげるのはあの手紙と共通金券為替だ。とりあえず、為替を見せて、反応を見て、それでわからなかったら、あなた、ぼくに殺し頼みました?と遠回しにきいてみよう。殺し屋はドアをノックした。
「どうぞ」
女性の声がきこえて、ドアを開ける。右手に受付机があって、嬢というには齢を取り過ぎた女性が大きな帳簿に羽ペンでなにか綴っていた。殺風景な部屋で受付と反対側には柱時計があり、その隣には日めくりカレンダーが五日前の日付でぶら下がっていた。
「クルネカ氏にお会いしたいんです」
「アポはございますか?」
「ありません」
すると、女性はペンをインク壺に差して、右手のひらをするっと見せてきた。
「きれいな手のひらですね。それでクルネカ氏にお会いしたいのですが」
女性は親指と人差し指をこすり合わせた。
「あの、クルネカ氏にお会いしたいんです」
「クルネカ氏はお忙しい方です」
「出直せってことですか?」
「クルネカ氏は慈しみ深い方です」
受付女は自分でも信じていないことを隠そうとしなかった。
「でも、高利貸が慈しみ深いって、それってちょっとおかしくないですか?」
「クルネカ氏は従業員に慈しみ深い方にはいつだってお会いしたいと思っています」
部屋に入ってゴミでも見るような目をされた瞬間から賄賂とわかってはいた。そういうことはしょっちゅうあるし、それに不正だと声を上げるほどウブなつもりはなかった。だが、日めくりカレンダーを五日間も放置する女に払いたくなかった。金額の問題ではなかった。矜持の問題だった。
殺し屋は手を軽く握って拳をつくった。セーム革の手袋がキュッと鳴いた。すると、心が軽くなり、まあ、仕方ないくらいの気持ちになって、青色紙幣をポンと一枚、きれいすぎる手のひらに置いてやった。
殺し屋は受付の隣にあるドアからクルネカの執務室に入った。クルネカ資金融通事務所はふた部屋しかなかったのだ。クルネカは殺し屋が思ったよりもスマートだった。強欲な高利貸ときくと、ぶくぶく太って、服に金を費やすのをもったいないという、薄汚れた格好を想定していたが、クルネカは紳士だった。着ている燕尾服はおそらく勤務用で夜会用は別にあるのだろうとも思うし、青いペイズリー柄のチョッキは腰をできるだけ細く見せる流行に乗っていた。前髪を少し盛り上げて逆立つ波のようにし、控えめに頬へ降りる髭は熱したツマミで少しずつ、ふんわりさせていたし、頬を少し赤くするために粉をはたいていた。ただ、部屋がガサツだった。壁は書類棚で塞がれていて、応接用の椅子のひとつから綿が少しこぼれ落ちていた。
「それで――何の御用ですか?」
殺し屋は共通金券為替を見せた。
「なんです? 担保ですか?」
にっこり笑って、為替のゼロを数えるクルネカは人語を解する狼のように見えた。
「あなたが振り出したものでは?」
「わたしが? 失礼をお許し願いたいが、あなたとは今日初めてお会いするようですが」
「ああ、そうでしたか。すいません。ぼくの勘違いです」
殺し屋が立ち上がろうとすると、クルネカが立ち上がって、手をあげた。
「いえ。確かに今日が初対面ですが、何かお役に立てるかもしれません」
人語を話す狼は共通金券為替をどうやって手に入れようか、考えていた。彼には自分の目の前にあらわれた為替や小切手は何としても自分のものにしたい悪癖があった。
「そうですか」
すとん、と腰を下ろす。クルネカも座った。
「わたしの仕事は若者の夢を応援するものでしてね」
「それは大変な仕事ですね」
「大変ですが、やりがいがあります。いまの社会は常に更新され続けます。封建時代のような一点に資本が集まって、そよとも動かない時代とは違います。あらゆるものが価値を持ち、あらゆるものが価値を生み出す時代です。この世界を飛躍させる若者が、初期投資がままならず、社会全体の跳躍力が削がれてしまうのを見るのは、とても心が痛むのです」
「ぼくはどんな夢を持っていると思います?」
「そうですね。海外植民地に興味をお持ちでは?」
「はい。ぼくは海外植民地が大好きです」
「そして、鉱山について、あなたは新しい掘削技術をお持ちだ」
「まさにぼくは新しい掘削技術を持っています」
「導入されれば二十倍の利益が出る」
「出ますね」
「でも、先立つものがない」
「ないですね」
「わたしはお手伝いできると思います。まず、その共通金券為替を担保として、ローンの頭金をお貸しするというのはどうでしょう?」
「それがいいです」
「それと、新しい掘削技術ですが、特許をお取りですか?」
殺し屋は遊ぶことにした。
「とっきょ? それはなんですか? すっとこどっこいの親戚か何かですか?」
これだけでよかった。クルネカはその特許を自分の名義で申請しようとしていることなど、少しも出さず、お人好しの紳士を装った。しきりに技術についての図面のようなものはないかと言ってきたが、そのたびに殺し屋は喉が渇いたとか、小腹が空いたとかこぼし、そのたびに、不機嫌な顔の受付嬢が通りまで降りていき、レモン水やアップルパイを買ってきた。
そろそろ話を引き延ばすのは無理かと思った殺し屋は、
「あ、そうだった。図面をお渡ししますね」
と、言って、ポケットのなかの、手帳から切り取った『甲冑職人街。八八。クルネカ。ほんとクズ』のページをデスクにそっと置いた。
高利貸はそれを見て、笑顔が凍りつき、そして、わからなくなり、殺し屋を見て、ぽかんとした。
殺し屋が立ち上がると、顔も一緒に上に向いた。
相手がからかわれたと気づく前に、殺し屋は手を軽く握って拳をつくった。セーム革の手袋がキュッと鳴いた。気分が軽くなり、指をピシッとそろえた手刀を水平に滑らせて、高利貸の喉仏へ打ち込んだ。首の骨が折れたのが手袋の皮を通じて伝わった。まだ不十分だと思い、今度は左手でもっと振りかぶって、命中したら手が痺れるのを覚悟で打ち込んだ。手は痺れたが、ボキッと確かな音がして、クルネカの首が真後ろへ仰け反って垂れた。ドアの開く音がした。受付嬢がいて、ぽかんとしていた。殺し屋は素早くフレシェットを抜き、引き金を一度だけ絞った。
シュッ。音はきこえなかった。あまりにも小さな音だったので、不発を疑った。だが、受付嬢を見ると、銃で狙ったのと同じ場所、額の中央にごく小さな赤い点がついていた。受付嬢は腰から崩れて膝をつき、目を開けたまま、ドアの側柱によりかかり、動かなくなった。どちらか、あるいはどちらもが漏らし始めて、ひどいにおいがしたので、ハンカチを取り出して、口と鼻にあてた。
隣の受付事務室に出ると、受付嬢の頭を抜いた小さな矢が日めくりカレンダーに深く刺さっていた。殺し屋はそれを五日分ちぎり取ってくしゃくしゃにすると、ゴミ箱に入れた。ドアを開けて、外に出ると、ガラス窓の向こうで雇員たちの操る文書作成機械が真冬で歯の根の合わないようなガチガチという音を途切れなく鳴らしていた。誰も顔を上げなかった。彼らと彼女たちには打ち込むべき文字があり、数字があり、テキストがあった。雇員たちの指は古代劇場の観客席に似た機械の上でキーを叩き続けるためにあった。本来なら月給と引き換えに売ったのは指だけだったが、雇員たちはいつの間にか魂まで売っていた。そうなることを実業家たちは忠誠心と呼んでいた。
建物から出ると、殺し屋は西へ伸びる道を歩いた。広場の中央には巨大な機械塔が立っていた。金色に輝く歯車の一群、ピストンと伝動機、狂ったように揺れる振り子。全てがハチドリのように動いていた。この機械塔がなぜ立っているのか、どんな役に立つのか、誰も知らなかった。「知らないけど、何かの役に立っているんだろう?」巨大で複雑なものがそこにあれば、必ず何かの役に立っている、だが、それを考えるのは自分ではなかった。忠誠心が行き着く先だ。
考えることは重要だ。魂の証だ。
だから、殺し屋は考えた。
ぼくはなぜ、彼らを殺したんだろう?




