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スチームガイストの朝はあちこちで渋滞が起きていた。――

 スチームガイストの朝はあちこちで渋滞が起きていた。仕事場へ向かう人びとの頭の波が橋から商業街へ流れ込み、交通は蒸気辻馬車タクシーの噴き出す煤と乗り合い馬車(オムニバス)の垂らす馬糞をもってして、人間を上と下から悪臭のなかに閉じ込めようとしていた。『生活習慣』のパンフレットが死にかけた蝶のように雑踏の上ではためいて、鵜が魚の獲れる水を探してがっくりと首を垂らしている。川にはぬめぬめした虹色の油の島がゆっくり流れ、発酵した果物クズのまわりで泡が盛り上がっては生アルコールのにおいを残して消えた。川の汚れを流すどぶの横に煉瓦の門があり、蒸気ホイッスルのわめく音とともに鋳鉄の格子扉が跳ね飛ばされて、ヒクテン商会の外交販売員たちが炭酸洗剤で脹らんだカバンを手に人間の河へフロックコートの右肩を尖らせて、切っ先をぶち込んだ。

 殺し屋はコーヒースツールでミルク・コーヒーを飲んでいた。すぐそばでは家で朝食を食べそびれた勤め人たちがいい加減に咀嚼したハムサンドをコーヒーで胃袋に流し込み、一日の活力が得られたと勘違いしながら数枚の銅貨を残して、人間の奔流へと身を投げた。そして、バランスを取るように大河からひとりの客が釣り上げられ、スツールのコーヒータンクから一杯のコーヒーを買うのだった。

 橋のたもとから歩いていく。蒸気船乗り場のすぐそばでは、嫁入り前の美しい娘が腰からベルトでコンロを吊って、ソーセージを焼いていた。人形売りの天秤棒からピエロと王様がぶら下がり、鼻にいぼのある山高帽の男のジョッキでジンジャー・ビールが勢いよく泡立っていた。

 機械もまた荒れ狂っていた。荷揚げ場では鋼鉄の鉤づめが船から荷箱をつかみ取り、運河沿いの開発地域では百手巨人(ヘカトンケイル)のようなハンマーが何十柱という鋼鉄を地面に打ち込んでいた。クリスタルをドアノブにカットできる機械がホテルのドアを一新し、地下隧道の掘削機械が海亀スープ屋の空っぽのカップをカタカタ鳴らした。

 高利貸クルネカが悪魔博士であり、自分でも殺したのを忘れていた殺しが実は悪魔博士の依頼であり、共通金券為替は思う存分使っていいとわかれば、どんなにいいか。ときどき、こういう行き違いのようなことがあり、自分が殺した人間ひとりひとりの顔を思い出さないといけないのだが、殺した人間の顔や数などいちいち覚えておくだろうか? 殺すまでは顔はもちろん、家族構成、職業、愛人の家から贔屓のレストランまで調べ通すものだが、殺した後は別に覚えておくこともないだろう。自分のやった殺しについて、洗いざらい警察にしゃべりたいなら別だ。だが、職業的暗殺者はそんな馬鹿なことしない。

 金属が入った箱を一度にひっくり返した轟音がした。蒸気機関貴族の乗ったキャリッジが異常な白煙を盛り上げて、木片がごっそりと客室から落ちた。汽罐がふたつに割れて、道に倒れ、機関士の焦げた死体が鉄柵の上に貫かれて、手足をぶらぶらさせていた。

「オーイ、オーイ」

 声がした。人が集まった。頭から血を流した貴族がクラヴァットを真っ黒に汚しながら、客室から転がり落ちた。群衆は助けるべきか踏み殺すべきか迷っていた。蒸気ホイッスルが鳴って、大きな蒸気機関が走ってきて、保険会社の職員が貴族を助け出した。革命の機会は失われた。群衆は頭に噂の種を植えつけて、ばらばらに散っていった。

 保険会社が来る。つまり、次には警官が来る。殺し屋は横町へ入った。屋台の屋根が立ち上がり、マーケットは通りの形で出来上がる。アーティチョークが並んだ荷車のそばで、又売り人の太った指が農民が受け取るべき利益を摘まみ上げて呑み込んでいた。顔の長い肉屋が肉を丸く切っていた。布屋根の下で燃える鍋のなかではミンチ肉のなかに不浄の臓物が静かに潜り込んでいる。その肉を狙って、犬がいる。誰のものともわからない鶏が羽ばたいた。風が吹いた。木組みに画鋲でつけた版画がバタつき、バケツの石炭の上を光が滑り、踊り子の赤い衣装の、その波形の折り目ひとつひとつにふんわりとした空気を差し込んだ。そのはるか上空では飛行船の腹で〈コッドード曲馬団〉の蒸気転画が一万の小さなチップの裏表を繰り返し、縦横無尽に白馬を駆けさせていた。蒸気転画デザイナーは昨晩、どこかの科学サロンで動画の命令を表すパンチカードをどんなふうにつくるのかを誇らしく説明したことだろう。

『甲冑職人街。八八。クルネカ。ほんとクズ』と手帳のアドレスに向かう前に必要なものを買いたかった。ナイフと絞殺具は持っているが、飛び道具を持っていなかった。具体的には銃が欲しかった。指先を少し動かして相手の死命を制する道具。同業者のなかにはいまだに銃を嫌うものが多い。マスケット銃やパーカッション式リヴォルヴァーは使えば、隣町まできこえる爆発音がする。暗殺はそういう大きな音を避けるべきだと言うのが、伝統派の言い分だった。それはわかるが、馬車で通りがかりに、舗道を歩くターゲットを射殺するのにはブランダーバスのような銃器はかなり使えた。一発ぶっ放せば、音は大きいが、うなりをあげた散弾は確実に相手の命を奪った。もちろん、ナイフは時代遅れだ、何が何でも銃を使えという自称革新派の肩を持つ気にもなれなかった。簡単に人の命を奪え過ぎて、仕事を無理に入れまくって、仕上げが雑になるのは、最後は自分の命で清算をしないといけなくなる。いつものように銃をホルスターに入れて、意気揚々と仕事に出たら、リヴォルヴァーで武装した警官隊相手に勝ち目のない銃撃戦をするのはギャングのすることであって、職業暗殺者のすることではない。

 結局、ナイフのいいところと銃のいいところを取って、きちんとひとつひとつ丁寧な仕事を心掛けるしかない。殺し屋は技術職であって、哲学者ではないのだ。

 とはいえ、そうやって用心深く生きていても、こうしてわけのわからない仕事?のようなものがやってくることもある。できることなら、クルネカが「ああ、それはわたしがお願いした仕事だ。××××で殺したあの男がわたしの依頼した殺しだったんだよ」と言ってくれれば、気持ちよく観光を楽しめる。とはいえ、スチームガイストは観る都市ではなく、つくる都市であり、それも飛び切りゴミをまいてつくる都市だった。蒸気機関掃除機は吸い込む塵の量以上に吹き出す黒煙のほうが多い。そんな理屈がまかり通るのは機械を称えるからだ。日々、機械文明を誉める詩が生み出され、時代の先端をゆくとちやほやされる。神学は人間の頭を押さえつけ、哲学はいかに生きるのが困難であるかを嬉々として教え、科学だけが人間の前にひざまずいて、便利な道具を次々と献上してくれる。全ての学問は科学に道を譲らなければならなかった。握って奪えるものを握れるだけ握れと神殿は教えてくれる。

「握れるだけ握る、か」

 殺し屋は手を軽く握って拳をつくった。セーム革の手袋がキュッと鳴いた。身は軽く、不思議と気分が良かった。殺し屋の手は小さいし、指は細いが、機械技師と同様、エンジニアだと思っていた。悪魔博士にとっての〈悪魔機械〉はこの小さな手に教え込んだ殺人術の数々なのだ。

 殺し屋はポケットからくしゃくしゃになった新聞の広告欄を取り出した。銃砲店の広告だった。その店には猟銃を縦にしまったガラスケース、蒸気機関内蔵マスケット銃、雷管を入れた円い缶と一緒に飾られる大口径リヴォルヴァー、〈鉄くずで鴨を撃ち落とせます〉の広告版にかけられたラッパ銃(ブランダーバス)、ジャーナリストたちがよく使う決闘用ピストルは死の儀式を司る神官のように堂々と天鵞絨の内張にはまり込んでいる。そして、銃以上に目立つ動物たち。ヘラジカの角のシャンデリア、アナグマの剥製、象牙。四角柱の全てからは鹿の頭が生えていた。

「いらっしゃい」大柄な老人が金属粉のこびりついたエプロンを外しながら、あらわれた。「どんな銃をお探しで?」

「人を撃ちたいんです」

「みなさん、そうおっしゃいます」

「大きな音がしないものが欲しいんです」

 そうして、買い物を終えて、店を後にするとき、その両肩にはベルトがギリギリにしめられていて、牛革製のショルダーホルスターには艶消し加工をした樹脂製の針撃ち銃(フレシェット)が入っていた。圧縮空気で発射される針は小さなダーツのような形をしていて、射程距離五メートル以内なら肋骨を抜ける。それに音がしない。ストックのなかに圧縮空気のタンクがあり、交換ができた。銃身はニ十センチに数ミリ足りないくらいあり、直径は三センチと太かったが、銃口は五ミリほどしかなく、そこから針が発射される仕組みになっている。どのくらいの消音効果が望めるか、どこかの裏路地で試してみたかったが、先に喉に刺さった魚の骨――悪魔博士に会わなければいけなかった。

 手帳を開く。『甲冑職人街。八八。クルネカ。ほんとクズ』。

「これで解決すればいいけど」

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