「最初は2と8が信用できなくなる。――
「最初は2と8が信用できなくなる。それで、7や15に賭ける。それで、1と5と7も信じられなくなる。そうやって、数字全てが自分に反逆していると思うようになる。偶数も、奇数も、5の倍数も。最後には赤と黒が信じられなくなり、そのころにはすっからかんというわけだ」
トラクナは壁にかけられた、巨大な蒸気ルーレットの管のなかを赤い球がぐるぐるまわり、数字を逆恨みする破産者たちを生み出すのを眺めていた(彼女は先月まで劇場の踊り子だった)。壁には交差するピストルの絵が飾ってあり、題名のプレートがあるべき場所に〈ご自殺はあちら〉があり、単発ピストルをテーブルに並べた部屋が扉を開けていた。
「洒落てやがる」
カウンターをコツコツ銀貨で叩く。だが、バーテンダーは首をふった。
「もうツケはきかない」
「だから、払うってんだ」
「駄目だ、男爵。あんたのツケ、そんなんじゃ足りないんだぞ。ウォモさんはツケを払うまで、あんたには水一杯も飲ませるなって」
何、言ってやがる、と思ったとき、トラクナはいかにもカネに詰まった貧乏貴族らしい男がこっちを見ているのに気づいた。にらむと向こうもにらみ返してきた。肩へ届くまであるこげ茶の髪が少し外へと開いていく、その流れが眉尻を情けなく下げさせ、薄くて色のさめた上唇の上に横たわる髭もまた口の端から死んだニシンの尻尾のように垂れ下がっていた。鼻は細く、尖っていた。肩も同じくらい尖っていた。その分、頭が沈んでいた。相手は夜遊び向きの燕尾服ではなく、外歩き用のフロックコートを着ていた。そのフロックコートがトラクナをますます怒らせたのだが、というのも、そのフロックコートはトラクナが今着ているものと同様にあちこちが剥げたビーバー毛の襟をつけてあって、仕立て屋にコートの裾を切り取って塞がせた穴の位置まで同じだった。そこまできて、トラクナはこの冴えない疫病神みたいな男がバーの鏡に映った自分だと気づいた。
「なんて顔だ。落ちぶれてる落ちぶれてるとは思っていたが、まさかここまでとはなぁ」
カウンターをコツコツ銀貨で叩く。バーテンダーは無視した。
すると、金貨が一枚、するっと大理石の台の上に滑った。
「これでツケには足りるでしょう?」
そう言って、男は赤色紙幣を一枚出した。
「ウィスキー。わたしと男爵に」
トラクナは考えた。クルネカのような高利貸がツケを払ってくれて、しかも一杯おごってくれることについて。考えた末、トラクナは言った。
「おれのはダブルだぞ」
クルネカは馴れ馴れしい顔でトラクナの隣に座った。トラクナは嫌な顔を隠さないことにした。何もかも気に入らず、それはなぜかというと、何もかもから富のにおいがするからだった。白粉を軽く打った頬からは金貨のにおい、流行に合わせて腰を細く仕立てた燕尾服からは暴利のにおい、格子縞のチョッキからは紙幣投機のにおい、ブーツの胴を隠すラッパズボンからは富くじ付き国債のにおいが、むっと香った。
「なんだか、生魚みたいなにおいがするな」
「お元気そうで何よりです、男爵」
「そりゃ元気さ。こうして、ツケを払ってくれる親切な高利貸がいるんだからな」
「そう尖らず、乾杯しましょう。男爵の健康に」
「乾杯。でも、おれのほうが齢は十も下なんだぜ。もちろん、おれのほうがはやく死ぬだろうがさ」
ふたりで火酒を飲み干すと、クルネカが甘ったるい声で言った。
「本日はお願いがございまして。もちろん、男爵にもお礼はします」
「きかせてくれ」
「金塊仲買人をされていたころのお知り合いがいるでしょう?」
トラクナは人生で最も幸運で最もはやく過ぎ去った日々のことを思い出した。人もカネも狂ったように走りまわり、黄金の女王にすらかしずかれるあの世界。仲買人は十三人だけ。だが、金塊投機で甘い汁を吸いたいものはその百倍では済まない数がいた。スチームガイスト金塊取引所。トラクナは金本位制の守り手である白亜の城塞に入ることのできる十三人のひとりであり、蒸気表示盤に揺れ動く、世界じゅうの金塊相場を示す数字に対して影響力を行使できるひとりだった。全ては過ぎ去った日々だった。彼が買えば、皆が買った。彼が売れば、皆が売った。売るふりをして、さんざん金の価格を下げた後、最安値の金を買い集めるだけで、領地がひとつ増えた。そのために大勢の素人が、ブランデーを口にした後、にっこり笑って、自分の頭をピストルで吹き飛ばした。あのとき、一緒に頭を吹き飛ばさなかったことがトラクナの最大の後悔だった。
トラクナはいま、クルネカを哀れに思った。彼よりも齢が上なのに、いまだに金儲けを卒業できない高利貸のことを。
「知り合いはいる。半分は金持ちで、残り半分は自殺した。いい降霊術師を紹介しようか?」
「いいえ、結構です。わたしが会いたいのは金持ちになったほうですよ」
「クルネカ。おれはあんたをどうしようもないクソ野郎だと思ってる。それに金塊仲買人になりたいと思っておれに口をきいてくれと言ってきたのはあんたが初めてじゃない。ただ、考えてみてくれ。おれもあんたもクズだ。だが、あんたはカネのあるクズだ。唸るほどのカネがな。そんなカネのあるクズなあんたの話をきかないんだから、連中がただのクズであるおれの話をきく可能性は限りなく低い」
「でも、ゼロではないでしょう?」
「生き残った連中はカネで爵位を買った。おれは親から受け継いだ。それがあいつらには憎くてしょうがない。あいつらが大枚はたいて買ったものをおれがタダで受け継いだのが気に入らない。しかも、それで落ちぶれたときたもんだから」
「わたしは金塊仲買人を最終地点だとは思いません。彼らを使う立場になりたいのです」
「それが賢い」
「ですが、わたしをさらに高みへ持ち上げるには三年、最高でも五年間、金塊仲買人になる必要があります。男爵、あなたを紳士と思って、告白しますが、わたしはもう高利貸の仕事にうんざりしているのです。カネを返すあてもない連中の惨めな言い訳をききたくないのですよ」
「証文を目の前で破ってやればいい」
「それも考えましたが、それはわたしが彼らたちと同じ場所に落ちるだけです」
「わかった。クルネカ。あんたは生まれながらの指導者タイプだよ。だが、金塊仲買人だけはあきらめることだ。連中はまさにあんたが返すあてもないカネのことで走りまわっているから、あんたと話をしない。あんたが債務者たちをひとつ下の人間だと思うのと同じ理由だ。高利貸はどれだけやり手でも金塊仲買人にとって、撞球場のハスラーに過ぎない」
クルネカは人の言葉を解する狼のように笑ってうなずいた。
「その通りですよ。彼らはわたしと話をしない。だから、あなたに仲介を頼むんです」
「おれのことはあんた以上に下に見ているよ」
「現役の金塊仲買人はそうでしょう。でも、元金塊仲買人では?」
「ディナのことか?」
「彼女はこの街に影響力を持ち、そして、あなたには借りがある」
零落した金塊仲買人は本気でクルネカを殺したくなった。ディナ・ホールギーケは金塊仲買人のなかでも最も優れた知性の持ち主だった。だからこそ、やめたのだ。いまの彼女の職業は〈女傑〉だ。文筆で、生きている。彼女の婦人解放論に対し、様々な連中が決闘を申し込むが、彼女は全員を半殺しにして、思い知らせた。
スチームガイストで最も優れた知性の持ち主に、この富のにおいをさせる怪物を引き合わせることを考えると胸が悪くなった。だが、実際、口に出たのは、
「いくら出す?」
クルネカは相変わらず人語を解する狼だった。人は紙幣の厚さで話す。青色紙幣の束をひとつポンと置いた。
「これは手付です。わたしを彼女に引き合わせることに成功したら、この倍の厚さの束を赤で払いましょう」
トラクナは札束を引っさらって、内ポケットに入れた。これを仕立てた時期の流行が胴に余裕を持たせるときのもので助かった。でなければ、この薄汚れた取引が脹らんで見えた。
汚い真似はいつまでも抱えないに限った。トラクナはバーテンダーからペンとインクを借りると、四つ切紙にディナにクルネカと話をしてほしい旨を無礼に思われないが、くどくも思われない修辞で綴って、ふたつに折り、メッセンジャー・ボーイを呼んだ。芸を仕込んだ猿みたいな目立ったジャケットを着た子どもが男爵が磁石でできているようにすっ飛んできたので、手紙を持たせて、ディナ・ホールギーケの家へもっていくように頼んだ。メッセンジャーは手のひらを上にして出した。
クルネカは払わなかった。トラクナが青色紙幣で払った。
それからトラクナはカジノを出た。もうクルネカの顔を見ていたくなかった。自分が身を持ち崩してからやった最悪の裏切りだったが、青色紙幣の束を考えると断れるわけがないと自分をなぐさめた。
カジノが入っている建物の前には円い柱が続いていて、蒸気辻馬車も止まっていた。機関手はいつ客がきてもいいように発進最低量の石炭を吝嗇に食わせ、馭者席のある前部は歓楽街から流れてくる光の靄に鼻先を突っ込んで、蒸気弁をフルに開放して、走り出すのを待っていた。
空腹だった。小金が入ると、移動にタクシーを使う悪癖が蘇り、気づいたときには馭者に〈デナリウス〉までやってくれと言っていた。〈デナリウス〉に着くと、ボンネットのなかに顔が引っ込んだ受付嬢に紙幣を見せて言った。
「ひとり」
すぐにひとつだけ空いている席へ案内された。娼婦と遊び人がフォークで刺したフライド・ポテトをぶつけあっている。床ではポテトが踏み潰され、絨毯に白い発疹ができていた。〈デナリウス〉でひとりで卓についているのはトラクナだけだった。白いテーブルクロスの海に瓶に蝋燭を刺した灯台が立ち、ディナーを乗せた皿たちが引き寄せられてきた。クルトンがひとつ浮かんだスープ。オードブルは卑劣な取引のおかげでカブと大根ではなく、メロンのスライスに格上げした。次はピクルスソースがたっぷりかかったリブアイステーキ。肉汁パイを二切れ。デザートに頼んだ桃とベリーのメレンゲ・パイにフライド・ポテトが飛んできて、刺さった。飛んできたほうにはフォークを投石機の腕みたいに振っている娼婦がいた。二十歳を越えているかも怪しい若者たちはくすくす笑っていた。ポテトを投げてきた娼婦はとてもかわいらしい、小さな鼻をしていた。
トラクナはにこりと笑いかけた。立ち上がった。おどおどしながら、自分は皆さんにポテトを投げつけられても仕方がない負け犬です、みたいにゆっくり近づいた。そして、よく、人より長いと言われる腕が届くくらいになったところで、娼婦の顔のど真ん中にある小さな鼻めがけて拳を炸裂させた。




