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End

 第十五桟橋にスクリュー船の黒い影が盛り上がっている。帆のない新式の船。見回りのランプ。桟橋のそばには旅行代理店の平屋があった。

 なかはガランとしていて、額入りポスターが数枚、マンゴーの香水をスプレーされて掲示されていた。嵌め木の床はガス=マントルの光で漂白されていて、目が眩みそうだ。

 カウンターには太った眼鏡の禿げ男がいて、何か書き物をしているのか、視線を手元に落としていた。近くに寄ると、円周率を書き続けていて、机じゅうが数字で埋まっていた。

「すいません」

 男は手を止めた。

「桟橋の船、まだ乗れますか?」

「乗れますよ」

「じゃあ、一等席一枚」

 男はエメラルド色の厚紙をぴったりと機械のくぼみにはまらせると、銀メッキにクルミ材で挟んだレバーを肉の厚い指でつかんで手前に引いた。活字を打ち込まれる音がけたたましくなり、厚紙には〈ライオン号〉〈ファラハン行き〉〈23時30分出航〉〈一等〉の字が刻印された。

 殺し屋は赤色紙幣を三枚支払って、チケットをポケットに入れた。

「あと、ひとつ」

「なんでしょう?」

「為替の換金とかできませんか? トラベラーズチェックみたいなものなんだけど?」

 殺し屋は共通金券為替を見せた。

「明日、銀行で換金できますよ。チケットはキャンセルすればいい」

「今すぐ手放したいんだ」

「そうは言っても……ああ、でも」

「でも?」

「ついさっき仲介屋がそこのレストランに入っていったんですよ。いろんな怪しい取引の仲介をするやつで、訳アリの手形なんかも扱ってるんじゃないですかね。でも、手数料が取られますよ?」

「それでいいです」

「出航はあとニ十分ですからね」

 レストランはチケット売り場の反対側の壁に入り口を開けていた。広い部屋にテーブルが五つあって、厨房では死んだ魚のような目をした女がハムを焼いていた。唯一の客は厨房から一番遠い、海側の窓のそばの席に座って、ナプキンで鶴を折っていた。

「男爵?」

「きみか」

 殺し屋は、座っていい?とたずね、トラクナはもちろんとこたえた。

「来てたとは知らなかった。仕事か?」

「仕事のような、そうじゃないような。まあ、解決して帰るところ」

「そりゃよかった。もう一度来たいと思える街じゃないだろ」

「ちょっと緑が足りない」

「正直になれよ」

「まるでゴミ箱。疲れてる?」

「いろいろあったんだ」

「いい取引があるんだけど」

「取引?」

 そのとき、焼いたハムが二枚、やってきた。トラクナはハムにナイフを入れた。殺し屋は共通金券為替をシミだらけのテーブルクロスの上に置いた。

「それがどうした?」

「今すぐ換金してくれない?」

「明日、銀行に行けば、満額もらえるぞ?」

「それはそこの受付のミスター円周率にも言われた。でも、今すぐ手放したいんだ」

 トラクナはポケットのなかから財布を出し、赤色、青色、黄色の紙幣を全部出した。

「これと小銭。これがおれが持ってる全財産」

「じゃあ、これで」

「明日まで待てないほどか?」

「何が?」

「この街」

「用事は済んだ」

「まあ、ゴミ箱だしな」

「男爵は? 旅行に行くの?」

「そのつもりだったが、やめた。おれみたいな人間は薄汚れた街でしか暮らせない。コネはここに全部あるし、おれがいなくなったら困るジャンキーのじいさんもいるんだ」

「義理人情に縛られてるわけだ。あ。ひとつ、試したいことがあるんだけど、いい?」

「好きにしなよ」

「ありがとう。じゃあ——」

 殺し屋は手を軽く握って拳をつくった。セーム革の手袋がキュッと鳴いた。

「どうともならないや」

「試したいことは終わったか?」

「うん」

「いい手袋だな」

「うん」

「全身黒なのに、手袋だけ黄色ってのは反骨精神っぽくていい」

「ありがとう。そろそろ行かなくちゃ」

「じゃあな」

「うん。それじゃ」

 ぼくが殺したひとたち、みんなによろしく。


                         〈了〉

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