「イリュメアンが死んだ。わが女神よ、安らかに」――
「イリュメアンが死んだ。わが女神よ、安らかに」
ヒトロが首をふった。
「ひょっとすると、おれが会いにいったときに死んだのかもしれない」
トラクナはぞっとした。締め出されたと思って、ドアを叩いていたとき、殺人鬼はイリュメアンを絞め殺していたのだから。
「新しい売人を探さないといけない。いっそ、男爵、きみが売人になればいい」
「冗談じゃないですよ。うまくやってきていたはずのイリュメアンが殺されて、誰が売人になりたがるんですか?」
「いま、売人になれば、彼女の顧客を全員受け継げるではないか」
「この三日間、物事全てがめちゃくちゃなんですよ。クルネカにディナに会わせろと言われて、その後、クルネカが殺られた。イリュメアンも殺られた。カノーハにアーロップにお使いに出されて、アーロップに殺されかけた。今度はそのアーロップが機関車の下敷きにあった」
「死神はきみを刈る鎌を研ぎに出してるんだな」
トラクナはニガヨモギのリキュールを口にした。〈レンベルーク〉は相変わらず、文士たちの不満で靄がかかっていた。
「それで、真面目なところ、売人は誰になりそうですか?」
「ミトレが警察と話している」
「あいつの専門はゴミ株漁りでしょう?」
「カネになれば、なんでもいいんだよ」
「で、実際、誰が継ぐんです?」
「レネ警視が継ぐだろうな」
「警察が売人ですか。いろいろ落ちましたね」
「きみだって昨日今日生まれたわけじゃないから、わかるだろう? 警視は麻薬の流通量を完全な管理下に置くつもりだ」
「タダで?」
「売上から経費を差し引いた額で」
「ミトレはなかなか引き下がらないでしょうね」
「まあ、話し合いが続くだろうな。だが、警視が勝つさ。それに警視が売るなら、きみも買いに行きやすいだろう?」
ヒトロは赤色紙幣を七枚置いた。
「勘弁してくださいよ」
「もう、警視はイリュメアンが死んだときいた瞬間から、売り始めている。イリュメアンが持っていた押収品も在庫になっているわけだ。男爵、カネに困っているだろう? カノーハとはもう会えない。だが、極めつけは警視がきみをイリュメアン殺しの重要参考人として探していることだ」
〈レンベルーク〉のドアが開き、煙が外へと流れ出た。胸甲をつけ、銃剣付きのマスケット銃を持ったふたりの警官があらわれて、トラクナの体を両脇から持ち上げた。トラクナはギリギリで赤色紙幣をポケットに入れることができたが、あとはされるがままに引きずられ、外に待っていた護送馬車に放り込まれた。
格子窓に顔を近づけて、馭者台の警官におれは容疑者じゃなくて重要参考人だろと言ったが、鉄格子を警棒で叩かれただけで終わった。鋼鉄のベンチに座り、警察署へ着くまで、大人しくした。警察署では刑事弁護士と警察まわりの記者が大勢、依頼人と特ダネを探して、うろつき、警官たちにしつこくつきまとっていた。妻殺しの男が引きずられてくると、大騒ぎだった。刃物で刺したのか首を絞めたのか。有罪答弁で情状酌量を狙うか、無罪を主張して徹底抗戦か。重要参考人トラクナは彼らにとって無価値だったので、すぐに受付を通り過ぎ、安っぽい絨毯をかけた階段を上らせられた。漆喰塗りの廊下には鉄の棒が腰くらいの高さにあり、そこに窃盗犯や色情魔が手錠でつながれていた。トラクナはその後も連れまわされた。国王の胸像がある部屋や速記官がガチョウの羽の先を切っている事務室をいくつか通り過ぎ、短い廊下の行き止まりのドアが開かれた。
警視がいるのはわかっていたが、ミトレとカノーハがいたのは予想外だった。
「そこに座りなさい」警視がデスクの前の椅子を指した。トラクナは座った。ミトレとカノーハは警視の左右にある肘掛椅子に座っていた。トラクナの椅子には肘掛がなかった。
警視は鼻から葉巻の煙を吹いた。大きいが少し前のめりな鼻から左右へ流れる紫煙は頬髯と呼ぶには少し足りないもみあげの上をなぞって、ピック油で撫でつけられた髪の上でゆっくりと混ざった。誰も何も言わず、三人はトラクナを見つめた。ミトレは楽しそうに、カノーハは無関心を装って、そして、警視はまばたきせず、睨むわけでもなく、トラクナを見つめ続けていた。
「ふたりのことは知ってるな?」警視が言った。きいているのではなく、既に知っていることの確認だったが、何か言わないと気づまりだったので、
「ああ、ミトレからは払いはたっぷりだが、罪悪感もたっぷりの仕事を何度かもらったことがある。カノーハのせいで、おれは殺されかけた」
ミトレがヒヒヒと笑った。この品のない笑い方のせいで、証券仲間から弾かれ、ゴミ株あさりをすることになったのだ。
「アーロップ氏の身に起きた不運のことを話すためにきみを呼んだわけじゃない。アーロップ・インダストリーで見つかった、三人のごろつきの死体は今ごろ無縁墓地に埋まっている。わたしが話したいのは未来のことだ」
「クスリのことか?」
「そうだ。これから麻薬の流通はわたしが管理する。そして、このふたりが副官となる」
「そりゃおめでとさん」
警視は顔色を変えなかった。ゆっくり立ち上がった。そして、トラクナの隣に立つと、その拳がこめかみにぶつかり、トラクナは椅子ごと倒れた。目から星が飛んでいた。
「おめでとうございます。警視、だ」
「おめでとうございます、警視」
「座りたまえ」
椅子を立てて、また座った。警視も自分の、赤い革を張った椅子に座り、話を再開した。
「下層階級への流通過多は治安への不確定要素になる。その一方でサロンで消費される目的の流通もまた野放図にしていいものではない。特に、婦人運動という男女の役割を転倒させようとする馬鹿馬鹿しい思想のために致死量の薬物を流通させようとするなど、あってはならないことだ」
「イリュメアンを殺ったのはあんたか?」
トラクナは殴られるのを覚悟できいたが、警視はまだ一度もまばたきをしていない目を向けるだけで、否定も肯定もしなかった。
「きみは仲介屋だ。イリュメアン嬢ときみのあいだで取引があることは知っている。ただ、イリュメアン嬢とサロンとの関係で手が出せなかっただけだ。それで、これからはわたしのために仲介をしてもらう」
「おれの仲介はカタギ相手のちょっと訳アリの取引とか」
警視は一枚の、毛羽を取られた紙を緑のラシャ地の上に置いた。リストだった。
「一週間やる。この連中と会え。もう行っていいぞ」
また重武装の警官がふたりあらわれたが、警視が呼び止め、
「それとこれはわたしからのプレゼントだ。ヒトロに渡したまえ」
十回分の麻薬を入れた小瓶を渡した。
トラクナはまた両脇から持ち上げられ、馬の曳く護送車に乗せられ、〈レンベルーク〉で突き落とされた。ヒトロはまだ〈レンベルーク〉にいた。十回分の麻薬を渡すと、お釣りはとっておいてくれというので、心安らかに赤色紙幣七枚を自分のものにした。警視からもらったリストを見ると、ヒトロの名前があった。他にも悪名高い中毒者や又売り人、薬剤師、盗賊。サロンの上流婦人や政治家の名前はなかった。
「警視はどうだった?」
「少なくともおれのことは殺さなかったですね。カノーハとミトレが副官になるんだと」
「悪は常につるみたがり、最後は裏切り合う」
「その最後ができるだけはやく来てくれればいいんですけどね」
カネが入ったので、何か飲もうと思って、給仕を探した。客全員が吹かした煙草の煙のせいで鼻をつままれても誰がやったのかわからない。体の切断面みたいな赤いマフラーを背中に垂らした男にぎょっと脅かされ、灯と煙の動きが金髪の女の裸踊りの幻影を見せ、前の国王の等身大肖像画は生きながら漆喰壁に埋められようとしていた。給仕、給仕、給仕。給仕は見当たらなかった。
「なに、飲みたいなら、僕の家に来ればいい。いいブランデーがある」
ヒトロは会計を済ませて、トラクナを連れ出し、静脈瘤のある足を引きずり、関節の軋みで震えながら、ウサギ皮通りへと向かった。
「支えますよ」
「僕は歩くとき、若い女性以外には体を支えさせないことにしている」
鐘が鳴る。街じゅうの大物がパンケーキのように平らになったアーロップの死を(形だけでも)悼むために大聖堂に集まっている。聖歌、司祭、香が葬式の雰囲気を醸し出し、黒い目出し帽をかぶった馬に霊柩車がゆっくり曳かれる。本物の金を使った棺には地図みたいにくるくる巻いたアーロップの亡骸が入っている。
木工作業場の上にあるヒトロの家に帰ると、階段を上げるので痛んだ膝をさするよりも前に銀の注射器を戸棚から取り出し、シャツをめくって左腕をめくると、腕の付け根をきつく紐で結び、腕の内側に浮き上がった血管目がけて、クスリを吸い上げた注射器の針を刺した。注射器を押して、引いて、を繰り返しながら、少しずつ麻薬を血と混ぜて体の注入し、最後まで注射したころにはヒトロは翼の生えたイルカになっていた。
トラクナはブランデーはどこにあるんだとたずねると、ヒトロは古新聞で満載のガラス棚を指した。戸棚の扉を開けると、古新聞が雪崩を打ってきて、半分以上残っているブランデーのボトルが首を見せた。それから汚れた靴下やチラシや袋をどかして、ブランデーを助け出し、一番マシなグラスを取り出すと、早速、一杯干した。いい気分になった。そうすると、部屋のひどさも我慢ができてくる。――ヒトロの部屋は何かの包装紙や空き缶、カラカラになったレタスが落ちていて、ベッドの上にはキルトの布団が一枚だけいい加減に畳んであった。本棚はなく、本は一冊もなかったが、アルコールランプが置かれたテーブルには、ヒトロの頭が詩文で破裂しそうになる前に吐き出すのに使う、銀の万年筆とインク壜が置いてあった。もし、詩人として活躍していれば、もっと豪勢な暮らしもできたはずだが、ヒトロは麻薬への耽溺を選んだ。いま、詩人は口もきけないくらいの快感のドブにはまり込んでいた。
「どうして本が一冊もないんですか? 自分の詩集を置かないとは思ってましたが、それ以外もないとは」
「それはだね、大切なのは表現しようという意思であって、表現された完成品ではないからだ」
「毎日、先生の体で階段を上り下りするのは辛くないですか?」
「通り過ぎる。止まる。また通り過ぎる。これが宇宙だ」
「靴下が散らかってますが」
「そのへんの籠にまとめてくれ。洗濯女が取りに来る」
「それらしいことを言ってくれると思ってましたが」
「僕を何だと思ってるんだ。靴下は洗われなければいけない」
「感性」
「それで人が理解し合うことは不可能だ。人が理解し合うのはただ知性だけ。感性はその人間、その瞬間だけのものだ」
「インスピレーション」
「うそっぱちだ。だが、安ワインを三本ぐらい開けると、降りてきたと勘違いできる。神秘主義的問題ではなく、生化学的問題だ」
「女性」
「知っているかね? サメの歯はサメ肌で出来ている」
「詩」
「僕の頭を破裂させようとするとんでもないものだが、実際はわたし自身だ。わたしはそのわたし自身を新聞の余白に書き散らし、燃やしている」
「愛」
「常に頭から離れないもの」
「出版社」
「僕がいかに人間に対して寛容でいられるかを教えてくれる」
「科学」
「みなは進化する。僕は散歩にでかける」
「寮付き学校」
「魂の牢獄。月並み過ぎてうんざりする表現だが、これが一番適切で正確だ」
「麻薬」
「常に頭から離れないもの」
「愛と麻薬のこたえが全く同じですよ」
「そういうことだよ。男爵。自分自身なんてものは存在しない。僕以外の世界じゅうのその他が寄り集まり、そこにできた人型の空洞が僕だ。何かでそれを満たすなら、麻薬がいい」
「韻文と散文なら、どちらが好きですか?」
「散文だね。韻文は油断していると音楽になってしまう。それでは僕の頭のなかの詩文を半分しか外に出せない。そうしたら、男爵、僕は破滅だ」
「残り半分を出版すればいいんですよ。麻薬を買うカネなんて簡単だし、毎日、階段を上らなくてもよくなりますよ」
「ダメだ。恵まれた状態から麻薬を射つのとどん底の状態から麻薬を射つのでは快楽の度合いが違う」
「まあ、わかりました。代理人になってピンハネする夢が消えました。でも、これからはずっと買いやすくなりますよ。警視は売人を増やすつもりです」
「自分の商品を自分に使うような連中か?」
「警視はその手のことは許さないでしょう」
「まだ麻薬の害がそこまで知られていなかったころは、身なりさえきちんとしておけば、ブルジョワの住む家に、ちょっとトイレ貸してくださいと言って、麻薬を射つことができた」
「古きよき時代ですか」
「麻薬も安かったし」
「そろそろ帰りますよ」
「きみも一発やっていくといい」
「おれはしません」
「もったいない」
ヒトロの家を後にして、トラクナはポケットのなかのリストのことを考えた。もう、この街もいよいよイカれてきたなというのが、正直な感想だった。もし、おれが――と、トラクナは考える――まともな頭の持ち主なら、こんなリスト破り捨てて、この街にバイバイするが、いまは少しでもカネが欲しかった、リストのメンバー全員にレネ警視の新しい秩序に逆らうなと言っておけば、少し稼げるだろう、切符代にいくらかの余分なカネ。逃げるのはそれからでも間に合うはずだ。
「とにかく、売人になるのだけはごめんだ」




