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「罪深え人だったからなァ」――

「罪深え人だったからなァ」

 両岸は煉瓦で出来た工場でふさがっていた。見晴台をかぶった寸胴な炉が並び、坩堝から太陽が溶けたみたいに鉄が流れ落ちている。工業水路は黒いべたべたした水面から鉛管パイプを生やし、石炭で沈みかけた艀が鎖でつながれていた。遠くでは鋳鉄の橋を馬が荷車を曳いていて、馭者は皮一枚残して打ち首にされたみたいに頭を前に傾けている。

「昔のアーロップを知ってるの?」

「わしは先代のそのまた先代のころから、ここで働いてる。アーロップさんが——」

 と、船頭は櫂を漕ぐ手を休め、自分の腰くらいのところに手をやった。

「このくらいのときに、先代の後ろをちょこちょこ走りまわってたころから知ってる。無邪気ないい子だったんだよ。昔は」

「本当は殺す気はなかったんだけど」船べりによりかかっていた殺し屋は水面に浮かぶどろどろの発酵物から顔をそむけた。「向こうが先にやってきたから」

「しょうがねえ、罪深え人だったからよ」

「なんで、ぼくを狙ったんだろう?」

「さあねえ、何せ罪深えからなあ。先代から継いだとき、工場は小さかったんだよ。工員はみんな家族みてえだった。いつから、こうなったのか」

「これ、返すよ」

 殺し屋は赤色紙幣を三枚と一緒に専用スパナを渡した。船頭はそれを前掛けにつくった大きなポケットのなかに入れた。

「いつからかなあ。世のなかがおかしくなったのは。工場はみんな手で動かして、水車以上のものの力は借りなかった。誰かが石炭を燃やすことを考えてから、世のなかがどんどんおかしくなってった。あのころ、この町は小さくて、ただのガイストだった。いつの間にか、湯気がかかるようになって、気づけば、この有様よ」

 老人が指したのは灰色の曇り空だった。分厚い煤の気流のなかを広告用気球が浮かび、モンズリル歯磨き粉を使うよう訴えている。

「罪深え。川をこんなにして、しっぺ返しが来ねえわけがねえよ」

 そう言いながら、櫂を蹴って、ガタンと鳴らした。へばりついていた煤と泥がざばりと落ちた。

 見上げると、工場から工場へ巨大な坩堝がクレーンで運ばれていた。工業区域に満ち切った蒸気機関はたとえ経営者が死んでも止まることはなかった。いまや産業は人でもなく蒸気でもなく、配当金と割引された手形で動いていた。

 船頭が少し舟を左へ寄せた。古い船着き場がドブのなかへ崩れ、ボロボロの帆舟が沈んでいる。舳先の天使が黒く泡立つ水の瘴気で腐蝕していた。煙突から落ちてくる灰が雪のようにふらついた。野菜くずと破れた作業服でできた浮島にカラスが止まっていて、何かの死骸をほじくり返している。

 汽舟(スチーム・ランチ)が緑の制服とピストルを手にした警備員を乗せて、すれ違った。舳先が切り分けた波で舟が上下に揺れた。路地から捨てられたボトルがドプンと消えた。

「わしがガキのころはこの川で鱒が取れた。いま、鱒が欲しかったら、冷凍されたのを疲れた油で揚げたのを買わないといかん。鱒はきっと海に逃げたんだろうなあ。これじゃあ、ナマズも住めねえよ。釣りはするか?」

「お腹が空いたら」

 左右の岸から機械塔と畜炭塔が門柱のように伸びていた。その先はアーロップ・インダストリーの敷地外、市街地だった。塗った色と高さが違うだけの家が岸辺に並び、漁師が網の巻き取り装置を修理している。空は相変わらず暗かった。正午の号砲が鳴った。

「なあ、悪魔博士ってのは、そんなに重要かい?」

「正直、このままにしておくのが、ちょっと気味が悪くて」

「もう、十分、機械は見たじゃねえか」

「〈悪魔機械〉はまだだよ。あ、あそこで降りるから」

 細い、もやしのような桟橋が脚を泥に突っ込んでいた。そこに舟が寄っていき、殺し屋は船を降りた。ギイギイと木材がたわんだ。

「これから、どうする?」

「四、五日大人しくしてるよ。そこからはわからない」

「こんな罪深え街、はやく出てっちまったほうがいい。そうだよ」

 殺し屋は喘息の咳のような声で話す船頭の背中が靄のなかへと消えていくのを見送った。すると、街の喧騒がドブのうめきに上書きされた。四、五日大人しくする予定の街は商品を売るためにわめき散らしていた。「クレソンだよ! クレソン!」「おいしいリンゴ! 新鮮! 新鮮! 新鮮だ!」「ニシンの酢漬け! うまいよ、うまいー!」「見てくれ! 真っ白な紙だ!」「さあ、買った、買った、買った、買った、買ったァー!」「タラのフライ! カリッとしてるよ!」

 やかましい商人たちを大聖堂のてっぺんから石造りの人面フクロウが見下ろしている。テーレ神殿は髭とローブで膨らんだ信者たちが緩衝材となって理性の石像のまわりに詰まっていた。〈産業ホテル〉では銀行学派の集いが開かれ、地金学派を打ち負かすための理論を頭に詰め込み、水晶教団が水浸しの道のように静かにその教義を広げていた。ビヤホールでは昼間からビールを飲める特権のあるものたちがあらゆる宗教を滑稽だと笑っていた。

 殺し屋はビヤホール教に入信することにした。〈ホップ・ホップ・ホップ〉に入ると、ランチ価格で羊肉と一パイントのビールを買えた。殺し屋は年齢の分かる身分証の呈示を求められなかった。殺し屋の横では四歳くらいの少女が空っぽのジョッキを手にビールを買い求めていたからだ。天井から破れた旗がぶら下がるホールでは馭者と工場労働者のなかでも、泥酔して人を轢いたり、機械を壊すことを屁とも思わない猛者たちがビールをあおっていた。殺し屋は端の席に座った。ステージでは喜劇なのか政府批判なのかわからない出し物の真っ最中で赤いスカーフの洗濯女が紳士や司祭や国王を尻を蹴飛ばしていた。羊の骨が投げつけられて退屈な出し物が終わると、頼んでいないのにビールのおかわりが来た。

「頼んでないけど?」

「あの人のおごりですよ」

 あの人、を見た。ホールの中央で真っ赤なフロックコートに腰まわりを絞らせた、いかにも胡散臭そうな男が諸君!と叫んで、挨拶をしていた。その場にいた客は全員、おごりのジョッキを振り上げて、フレー!と返した。殺し屋もそうした。タダのビールはそのくらいの義理をつくるのだ。

 男は扇動家だった。まず、ここにいる労働者諸君が不当に搾取されていて、それを叩き壊すには労働者による強力な政府が必要であり、その勢力を指導するものが必要であり、その指導者とは自分なのだ!と叫んだ瞬間、またおかわりのビールが来た。

「そうだ、そうだ!」「お前の言う通りだ!」

 多少学のありそうな勤め人風の男が立ち上がって、指導者に万歳三唱をしようと言い出した。すぐに万歳、万歳、万歳!と叫び声が上がり、すっかり酔っ払っていい気分になった男たちは扇動家の言いなりになって、外へと練り歩くことになった。殺し屋は絶対厄介なことになると、ゾクゾクしながら、それについていった。ビヤホールの外には蒸気トラック四台が待っていて、樽のなかには武器になりそうな角材が差さっていた。ますます厄介だ、と、さらにゾクゾクして、殺し屋は角材を一本受け取った一辺六センチの、材木工場から出てきたばかりで新鮮なおが屑のにおいがした。トラックはそのまま、黒い旗に鷲のマークがある旗を振りながら、樽職人通りを走り抜け、古い音楽堂のある公園で止まった。そこにも労働者が集まっていたが、ビールがなく、演説は牧師や女性教師が行っていた。池を背にした音楽堂で労働者の権利について話していた。だが、ビールがなかったし、十数人の警官が見張るように集会を睨んでいた。

 やっちまえ!と誰かが叫び、ビアホール教団は音楽教団の労働者に襲いかかった。労働者同士で苛烈な殴り合いが始まり、鳩の絵が描かれた旗が破られて踏みつけられ、腹に頭突きを食らった牧師が池に転がり落ちた。ベンチが飛んだ。角材が折れた。額がぱっくり割れた。警官は何もしなかった。笑っていた。殺し屋がそれを荷台に残って、煙草を吸いながら見ていたところ、肩をつかまれた。

「おい、お前も参加しろ!」

 手に煙草を押しつけ、毒ついた口に手のひらをぶち込んだ。唇の内側が歯にぶつかって切れ、血が飛んだ。相手はたたらを踏んでトラックから落ちた。そいつが袋叩きにされているのを見て、また煙草をつけた。実にゾクゾクした。労働者が自分たちの天下を望み、資本家に殴り掛かるかわりに同じ労働者の集会に殴り込むあたりがゾクゾクした。あの扇動家は絶対に資本家からカネをもらっているだろう。全てはビジネスなのだ。

 しかし、そのうち飽きてきた。ビヤホール派が押されてきた。音楽派が数で圧倒してきた。倒れたものは足蹴を避けるために転がりまわらなければならなかった。扇動家は既にずらかっていた。

 ひとつ、実験をしてみることにした。

 荷台から飛び降り、池のほうへ大きくまわっていった。樫がひどく傾いた岸辺に扇動家がいた。帽子はなくなり、フロックコートの肩が破れ、綿が漏れていた。ネクタイはちぎり取られ、口は縦に割れていた。池も水でハンカチを濡らし、額の傷にあてていた。

「やあ」

 殺し屋が声をかけた。

 扇動家は雷につながれたみたいに震えて、振り返った。

「な、なんですか?」

「いえ、ちょっと試したいことがあるんです」

 殺し屋が、じっと見つめてくると、扇動家は言い訳じみたことを言った。

「いいんですよ、それは」殺し屋は手を上げて制した。「そのかわりに適当に話をしましょう。今日はいい天気ですね」

「曇り空だ」

「ビールはおいしい」

「いいですか? わたしはちょっとあおっただけで、あとのことはそれぞれの責任で——」

「××××の××」

「な、なんですって?」

「ぼくの秘密のアドレスです。ここに共通金券為替を送りましたか?」

「何がなんだかわからない」

「じゃあ、あなたは違うんですね」

「だから、何が!」

「しーっ、彼らにきこえますよ。バレたら、あなた、リンチです」

「きょ、脅迫するのか?」

「違いますよ。事実を言っただけです」

 殺し屋はフレシェットを取り出して、額を狙った。

「な、な、な!」

「ぼくの秘密のアドレス、ききましたよね? 知られた以上、生かしておけないんです」

「勝手に話したんだろうが!」

「それについては申し訳ないと思っています。ごめんなさい」

 シュッ。

 ダーツは扇動家の右耳をかすり、水のなかへシュポッと鋭く刺さるように消えていった。扇動家は目をきつく閉じたまま、震え、ズボンを汚していた。

「おかしいな、殺す気が出てこない。やっぱり、何か違うのかな」

 殺し屋はフレシェットをしまい、ぶつぶつつぶやきながら、その場を後にした。道を歩いていると、扇動家を八つ裂きにしようとする労働者たちとすれ違った。十秒ほど後でギエーッ!と叫び声がきこえてきた。

 音楽堂のある広場へ戻ると、労働者たちは怪我人数人を残して消えていた。警官たちの姿もなく、蒸気トラックは全て操縦桿を叩き折られ、木製の荷台には火をつけられていた。

 通りに出て、辻馬車に乗り、トゥ・ルームズ・ホテルへ戻った。柱時計が午後三時の蒸気笛を吹き、殺し屋は一階の喫茶店でコーヒーとコンデンスミルクを頼んだ。コンデンスミルクはごく小さなカップに入ってやってきた。それを全部入れて、スプーンで念入りに混ぜた。コーヒーは頭が痛くなるほど甘かった。

「ん?」

 ふたつ隣のテーブルから水兵風のドレスを着た少女が殺し屋を見つめながら、小さなアイスクリームをなめていた。肩で内側へカールした髪、猫みたいに光る大きな瞳のあいだは狭かった。少女はひとりだった。椅子から降りて、殺し屋のほうへ近づくと、殺し屋にたずねた。

「あなたひとり?」

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