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夜空の影と紙屑を浮かべながら、海面は——

 夜空の影と紙屑を浮かべながら、海面は膨らんだり、萎んだり。第七埠頭には膝から上を切り取られた巨人の脚のようなものが二本生えている。蓄炭塔だ。血肉の代わりに石炭を詰め込んだ脚は赤と青のサイン灯を交互に点滅させていて、その向こうでは外輪汽船の群れがもう使うことのない帆柱を立てていた。

 ガス灯の下の鋳鉄のベンチにはショートヘアの少女のようにも見えるし、長髪の少年にも見える不思議な人物が大きな目に寂しい夜の波止場を映して座っていた。襟のない黒いシャツの上に詰襟のジャケットを着て、ぴっちりした乗馬ズボンの膝から下は皺が目立つ編み上げのブーツでさらに絞られていた。肩まで伸びた髪に、静電気混じりの風がパチッと触れると、蒼白い襟足がつかの間に見える――ジャケットの襟の内側に器用にしまわれた二本のナイフの柄も。頭の上に手を乗せて、抵抗の意思がないことを示しながら、このナイフを投げるにはこれがバレにくく、素早く使いやすい、絶妙な位置だった。同じようなものなら、左の袖の内側に絞殺用のワイヤーが巻いてあるし、踵を押し込めば、つま先から人差し指くらいの長さの切っ先が飛び出した。だが、一番は黄色いセーム革の手袋だ。最近、犯罪学者たちが指紋を検出して犯人を割り出す方法を研究しているという噂があった。たいていの犯罪者は不可能だと笑ったが、一部の玄人たちはセーム革の手袋を買い求めた。

 この人物は玄人だった。人を殺すのが職業だ。

 殺し屋は胸ポケットから手紙を出した。ここ最近、殺し屋を悩ましている謎めいた手紙だ。


 親愛なる殺し屋どのへ!

 貴殿の仕事ぶりには当方は非常に満足しております。これほど迅速な対応をしていただけるとは思ってもみませんでした。おかげで当方のライフワークである〈悪魔機械〉の開発がより一層進みました。これは非常にありがたいことです。当方といたしましては、今後とも緊密なお付き合いをして、当方の問題解決にご協力していただければと思い、伏してお願い申し上げる次第であります。


                       悪魔博士


 追伸:報酬は共通金券為替でお送りいたしました。どの銀行、信託会社、貯蓄会社でも現金化できます。


 問題は殺し屋はこの悪魔博士にあったことはないし、彼のために誰かを殺したこともないし、何なら誰を殺せばいいのかもさっぱりわからない。ただ、共通金券為替は本物で、結構な額だった。

 返せといわれそうなので、換金せずにポケットに入れたままにしている。

 間違いかとも思ったが、宛先は殺し屋で間違いないし、封筒に書かせる暗号もあっている。間違いなく殺し屋への手紙だ。

 殺し屋は手紙を畳んで、内ポケットにしまった。悪魔博士なる人物を探して、スチームガイスト市に着いたのは夜中だった。よくわからない依頼を抱えていると、ひどく疲れてしまい、しばらくベンチから立ちたくなかった。

 汽笛の鈍い音がした。姿の見えない貨物船が南国の果実ではちきれそうになって、闇のなかを手探りしているのが想像できた。ガス灯でうっすら見える、霧で湿った樽のあいだをネズミ殺しの猫が走る。船長は長年の海暮らしで白く固くなった指をギシギシと曲げて積荷目録を開き、樽のひとつひとつがどこの誰のものなのかを確認している。目録のなかでは樽の中身はバナナやマンゴーだが、実際には禁制品――武器、麻薬、奴隷娘が入っているのかもしれない。窮屈な樽のなかで奴隷娘が喘ぎ、それをききながら、船員のひとりがギターを鳴らして、猥褻な唄を歌う。

 売春婦がやってきた。殴られたようなアイシャドーとたるんだ皮膚に塗った漆喰まがいの白粉で、なんとか食いつないでいる疲れた女だった。ふと、殺し屋は自分が、男か女かどちらに見えるのか、ぼんやりと考えた。着ているものは紳士服だが、男装の麗人に見えるかもしれない。

「あんた、ふたなり?」

「その言い方は少し傷つく」

「悪かったね。でも、ふたなりだからってどうってことはないよ。むしろ、ラッキーだよ。あたしの知ってるふたなりはあたしに突っ込みながら、自分のにはバナナを突っ込んでた。バナナなら街じゅうで売ってるのを見かけるからね。最高にいいってさ。突っ込まれて突っ込むのは」

 娼婦は殺し屋の隣に座った。煙草を取り出したが、空だった。娼婦は空箱を投げた。花壇の上を重そうに飛んでいき、チューリップにぶつかって、転がった。

 殺し屋はロースターを一本、箱から振り出した。

「あんがと」

 娼婦が煙草をつける。紫煙が霧のなかでほどける。

「今日はもう、終わり?」

「まあね」

「ぼくは今日、ここに着いたんだ。悪魔博士って人を知ってるかな?」

「知らない。でも、経済学博士号を持ってる高利貸を知ってる。そいつじゃない?」

「〈悪魔機械〉を開発するのがライフワークらしい」

「十日で三割の金利がまさにそれだよ」

「じゃあ、本当にそいつなのかな」

「他にあてがないなら、会ってみるのもいいかもね」

「どこに行けば、会える?」

 娼婦が指をこすった。黄色紙幣を一枚握らせた。

「甲冑職人街の八八番地。その三階に事務所がある。クルネカって名前。ほんと、クズだよ」

 殺し屋はそれを手帳につけた。甲冑職人街。八八。クルネカ。ほんとクズ。

 それからトランクを手に立ち上がる。

「行っちゃうの?」

「まだ宿も決めてない」

 そのまま、海に背を向けて歩いた。沿岸砲兵隊の空砲が深夜を知らせた。

 娼婦が客を取るのをやめる時間でも、道は腐った煉瓦を血管にして、人間を汚れた血球に見立て、日夜流れ続ける。心臓(ポンプ)の役割はくたびれた欲望が務めた。カーバイト・ランプの白けた光のなかで、文字が粗悪な紙から浮き上がろうとしていた。くだらない流行唄(はやりうた)や時代遅れの騎士物語、蒸気計算機の数字の羅列。どれも安いインクで閉じ込められ、見えない湯気で道ゆく人びとの精神をむかつかせた。隣ではレモンと塩の味しかしない煮凝りのなかでぶつ切りにされたウナギのよった皮が震えている。壁に刺さった鉄杭から機械織の既製服がさらし者のようにぶら下がり、ボロボロの絨毯の上でひと山いくらで売られているブリキ片の山は文明ご破算のにおいがした。浅黒い顔の太った南方人が二連発ピストルをベルトの前に差し、豚の脂でてらてらした唇をぴちゃぴちゃさせ、唾の玉が口髭に引っかかっている。

  人びとが疫病を避けるように歩いている。敷石の外れた穴に鉄管が鈍くあらわれていた。通しているのは蒸気でも汚水でもなく、樹脂(グッタペルカ)で上下を守った真鍮製の書類筒だった。圧縮空気を使った書類送達網は大商社や王立機関のような強力な団体の独占だった。もし、この鉄管を壊せば、禁固二年。なかを行き来する書類を取り上げれば、十年の懲役だった。それでも、こうして鉄管を掘るものが後を絶たないのは、書類筒のなかには金塊に匹敵する情報が入っていることがあるからだ。

 煉瓦のトンネルを抜けると、蒸気自動車(スチーム・キャリッジ)が劇場帰りの夫婦を乗せて、殺し屋の鼻先をびゅんと通り過ぎた。光が屋根の上でこずんでいた。壁際には数人の母親と幼児たちが一枚の毛布でつながって疲弊している。そのそばでは辻馬車が止まっていて、ガラスの代わりに青い蠅取り紙が垂らしてあった。殺し屋は馭者席に座る退役槍騎兵の馭者に青色紙幣を二枚見せて言った。

「おすすめの宿屋」

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