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覇道を歩む『冷たい炎』

 大兄皇子を影から見守るようになってどれくらいが経った頃だろうか。

 大兄皇子はいよいよ飛鳥の地を整え、人とてそれから免れぬものではなかった。

 皇子はそれまで郡や郷などが扱っていた戸籍をまとめ、大王と宮の吏が管理できるようにと命を下した。

 これによって税と軍を正しく定むことができ、来たる唐や新羅の軍に備えるとの思いもあった。

 まだ飛鳥の地を整えたにとどまっていたが、しかし皇子の力は強く、この地に住まう人はもとより、周りのいまだつづまやかな屋に住まう人もその戸籍に加えられていった。

 

 大和は、その戸籍には記されなかった。

 

 自分は母の胎で死んだ忌み子。大兄皇子様の影。

 それそのものは受け入れている。

 しかし周りが新たな律の中に入る度、大和は自分が一人であり、表には出ることがないのだと胸に刻まれた。

 月が冷たく輝く夜、大兄皇子が御簾の奥で寝息を立てたことを聞いた大和は、隠れていた処からそっと抜け出し自らの寝屋へ帰る。

 その頃までにはもう主だった宅の火は消え、辺りは寒々しく静かであった。

 刹那、強い風が吹く。

 大和の髪が揺れ、衣が揺れる。

 横の宅がきしみ、鈍い音を立てた。

 大和はどこか、飛鳥そのものが揺れた気がした。


 明くる日、大兄皇子は幾人かの供と兵を伴い、飛鳥の地を回りに出かけた。

 日も空に高くあり、明るい頃合いであった。

 大和も顔に覆いをし、少し離れてその後を追う。

 大兄皇子は伴った者に何事かを語り、その者は飛鳥の地を指して言葉を返していた。

 そのいかにも重き様子に、大和は声をもう少し聞こうと歩み寄る。

 ふと、遠くで雷が空を揺らし、日がにわかに雲で隠される。

 何か凶兆の前触れではないかと、大兄皇子の供は手を合わせたり、空の神に向かって祈りの言葉を上げたりした。

 大兄皇子達の歩みが止まり、大和も進むのを止め物陰に潜む。

 風の流れが変わり、どこかから低い経の様な響きが流れてくる。

 

 遠くから、僧がこちらに向かって歩んで来ていた。

 

 それは見上げんばかりの大男で、木の幹の如き腕は恐ろしくも、しかし片手合掌を崩してはいなかった。

 日すら呑むほどの黒い法衣を纏い、その上には火よりも赤き袈裟。

 連珠を合掌の手に絡ませ、反対の手には輪が不気味に欠けた錫杖を携えている。

 僧の歩みは緩やかながら力強く、その後を追うように雨が地を濡らしゆく。

 経を上げているのだろう口は常に動き、それでいて歩みながらも瞑目し。

 そのあまりの妖しい姿に大和は息を呑んだ。

 しかし訝しく思う間もなく、僧を見るや大和の頭は引き裂かれんばかりに痛み、その中が掻き回されるが如き、いっそ死して果てたほうがどれだけ良いか分からないほど苦しんだ。

 また、幻か……。

 痛みに薄れゆく意識を繋ぎ止めようと、大和は倒れ込みながら腸の中のものを吐く。

 しかしどれほど経っても、かつてのような幻が目に映ることはなかった。

「御身、安けくありや?」

 地の底から響くような声が降ってくる。

 僧が大和を見下ろしていた。

 その目は慈悲に溢れているようで、同時に身も凍るほどの恐怖も呼び覚ます。

「頭の苦しみ、死に落ちる程と見受ける。これを飲むが良」

 僧は懐から薬らしき草を取り出し大和の口に押し込んだ。次いで口を満足に動かすこともできぬ彼に、携えていた竹で水も注ぎ込む。

 しばらくの時が経ち、少し痛みが和らぐ。

「……法師様、ありがとうございます」

 絞り出すように声を出すと、錫杖をつき僧は立ち上がる。地に穴が穿たれ、その力と重さの程を見せつけられるようだった。

「御身、その目と共に大事になせよ」

 僧は一つ合掌すると、そのまま歩み去った。

 僧を追う雨が、柔らかに大和を濡らす。

 雨に濡れてなお、僧を見送る大和の瞳は燃えるように輝いていた。


 体を引き摺るようにして宮へ戻ると、既に大兄皇子はその座に着いていた。

 その間大兄皇子から目を離したこと、その姿を見失ったことを恥じ入ったが、暗がりの中にいる自らを見てふと思う。

 自分は、この世にいながらにしていない者。

 大兄皇子様から目を離したとて、あのまま頭が割れて死してしまったとて、誰が気付こうか。

 父は忌み子がついぞ役に立たなかったと憤るだろうか。

 兄はもとより自分に関心を向けていない。

 母と安子は泣いてくれるだろうか。

 そのような思いが胸を巡り、大和の目に我知らず涙が浮かぶ。

 どのような任に就かされようと、まだほんの子であるのだ。

 その時、大兄皇子の鋭い目が大和の潜んでいる所を射抜いた気がして、思わず身を強張らせる。

 気付かれるはずもない。大兄皇子様は自分がここにいることはおろか、鎌足にもう一人子がいることさえ知っているはずがないのだ。

 しかし気付かれていないとしても、『冷たい炎』の目は、大和を恐れさせるには十分であった。


 その夜は月もなく、冷たい風が耳を切るかの如く染み入った。吐く息は白く昇り、わずかに刺す星の瞬きに溶けて消える。

 宮から宅までのわずかな道、それを忍びながら大和は遠くに鳥の声を聞いた。

 闇に響く鳥の声。そしてどこかから跳ねた魚の水音。

 刹那、大和の頭の奥が明るくなり、そして眼前に鈍く光る刀子が現れた。

 それは動けない大和の腹を裂き、腸を抜き取る。

 次いで首が落とされ、転がる首の目から、大和は鳥である自分を見つめていた。

「……!」

 驚く暇もあらばこそ、次に見えたのは青々と茂る草だった。

 目を覆い尽くさんばかりに生えた草は清々しい匂いを放つが、大和にはそれが死の匂いに感じられた。

 地に横たわったまま息もできず、動くこともできず、ただ哀れな大和は死を待つ他なかった。

 苦しみ抜いて死ぬその刹那、大和は背びれを少しだけ動かし、そして息を詰め、死んだ。


 もはや声も出せず、大和は口を大きく開き喘いだ。

 鳥として死に、魚として死に。

 あの割れるが如き頭の痛みが引き起こす幻とはまた違う、恐ろしいもの。

 胸を押さえうずくまる大和の頭には、しかし引っかかるものがあった。

 自分は、あれを、知っている。

 確かではない。そも自分は鳥ではなく、魚でもないのでだ。しかし、知っている。否、死が魂に刻み込まれている。

 大和はしばらくの間、地に伏しながらその事を考え続けていた。 

 

 そのような日がいくつ過ぎ去った時だろうか。

 かねてより大兄皇子が定めていたことが、ついに大和の耳にも入ることとなった。

 未だ動きの見えず、しかし飛鳥を脅かすやも知れぬ唐や新羅に備えるため、大兄皇子は飛鳥の地からやや離れた近江へと宮を移すというのだ。

 鎌足はもとより遷都の事は心得ており、長きに渡る不在もそのためであった。

 大兄皇子の代わりとして何度も飛鳥と近江を往き来し、その度に多くのえだちを連れ彼の地を整えさせていたのだった。

「大和様は宮におられます故、中大兄皇子様への民の声などお聞きになりませんか?」

 ある時、安子が大和の体を拭きながら問うた。

 寒さの頂は越えたが、未だ吹く風は身を凍えさせ、揺らめく火を見るとどこか心安らぐ、そのような時分である。

「稀に大兄皇子様に声が届くこともあるが、皇子様は尊いお方。そのような声に耳を傾けている暇はないのだ」

 大王と民との隔たりは大きく、飛鳥やその周りに何事かあれど群臣がそれに向き合い、大王の御下には持ち行かない事しばしばであった。

 それは未だ大王の座につかない中大兄皇子とて同じである。

「なにやら飛鳥の地は揺れ動いてございます。……その、宮が近江へ移るに対し、中大兄皇子様の御役があまりに重いのだと。ああ、畏れ多いことでございます」

 大兄皇子はもちろんのこと、群臣や飛鳥に暮らすもの共も近江へ移るのだ。

 さらには筑紫を始めとした各地にも兵を増やし、唐や新羅に備えている。

 多少の役が増えることなど仕方のないことだろう。

 大和はそう感じていたが、まだ子に過ぎない事もあったのかも知れない。

 そのように安子に言うと、彼女は少し悲しそうに頭を振った。

「もちろんでございます。この国をお守り下さる中大兄皇子様の為に、多少の事は致し方のうございましょう。ですが、民がそう思うかはまた違うところなのです」

 この国のために力強く為すべき事を行い、それでもそのように思われる大兄皇子を思い大和は胸が傷んだ。

 いや、あの方は『冷たい炎』。そのような些末な声などすでに意に介さないことだろう。

「人の心は揺れておるやも知れん。だが大兄皇子様の行いが揺れることはないのだ。私も、及ばずながらその後をついて行かせていただいている」

「大和様のお年でそのお考え、そのお働き、大変ご立派で、出過ぎたことを申しますが安子も嬉しゅうございます」

 目を細めて安子は言う。

 彼女は時として母のように振る舞うこともあるが、大和もそれを咎めたりはしない。いつも自分の置かれている立場をわきまえており、何より『金目』の世話をしているというだけでもありがたいことであるのだ。

 次いで大和の食事の世話を始める。

 飯を盛り、焼かれた魚が大和の鼻をくすぐった。

 次いで菜を盛っていた安子であったが、ふと思い出したように言う。

「そう言えば、近ごろなにやら恐ろしげな法師様が飛鳥によくお見えになると、御宅に仕える者が申しておりました。仏様にお仕えする法師様を恐ろしいなどと……」

 安子は手を合わせ、悲しげに言った。

「どのようなお方なのだ?」

 見ただけで恐ろしく思うなどあるのだろうか。

 いや、かつて出会ったあの法師ならば、あるいは。

「天を突かんばかりの巨躯で、夜よりも暗い衣、その上には火もかくやという法衣をまとっておられるそうです。携えておられる錫杖は欠けて焦げているとか」

 安子の口から語られるそれは、間違いなくあの法師であった。

 確かに彼の姿ならば、目にするだけで恐ろしい。大和自身、法師のあまりの異様に身がすくむ思いであったのだ。

「その法師様なら私も会ったことがある。確かに見た目は妖しく恐ろしげであったが、私に薬を与え、深く合掌され去っていったのだ」

「ああ、そのようなことが。慈悲深いお方なのですね」

 安子も合わせた手を擦り、頭を垂れる。

「ただ、気になることもございました。その口から出る経は、どこか恐ろしく、地の底へと導くようであったと」

 そう聞いて大和も思いを巡らせたが、死ぬ程の痛みを味わっていた際であったため、その経など耳に入っているものではなかった。

「またお会い出来る時があれば聞いてみよう。法師様の名は伝え聞いているだろうか」

 大和の問いに、安子は少し戸惑いながら答える。

「聞いた者の言うことには、断輪様とお名乗りなさったとか。輪を断つなど、安子は恐ろしく感じてしまいます」

 断輪。

 それがあの恐ろしげな法師の名。

 大和はその名を心に深く刻んだが、どこか晴れない靄のようなものが頭を覆うのを感じていた。


 とある宅から火が出たと聞いたのは、それから幾日もしない頃だった。

 まだ日も高く、物を換える市からは大きな声が飛び交う時分である。

 宮にすらその燃える匂いが届き、大兄皇子に仕える者達は衣で鼻を覆った。

 大兄皇子はその宅を見に行かせ、その火が近いようであれば何としても宮に燃え移すなと命を出した。直ちに幾人かの群臣が応え、事に当たるのであった。

 常ならば取り立てて騒ぐことではないが、群臣が顔を見合わせて何事かを囁きあっているのを大和は見た。

 潜んでいる処から忍び出で、その声が届くまで近づく。

「此度の火事も、やはり火付けによるものらしいな」

「これで幾度目だ?」

「五度は起きておる。皇子に逆ろうておるつもりのようだ」

「吏共は何をしておる。疾く賊を捕らえ首を斬り落とさねば」

 かねてより火事が起きているとは思っていたが、それが賊により、しかもあろうことか大兄皇子へ逆らうために起きていることに大和は驚いた。

 そのような事をしても大兄皇子様は揺るがぬ。火付けに遭った氏や民が苦しむだけであろうに。

 大和が悲しげに頭を振っていると、また違う話が聞こえてきた。

「火事と近江への事に少なからず飛鳥は揺れておるが、どうもその心安らかならぬ為に、妙なことがわずかな民の間で行われておるらしい」

「それは何事ぞ?」

「なにやら恐ろしげな経を上げ、知らぬ仏を崇めているとのことだ。救世よりも滅することが己が救いの道だと言うらしい」

「余りに外道ではないか。そのように誘っておる者がいるのであろうな?」

「然り、どうも妖しき風体の僧がおるらしい」

 妖しき僧。

 あの異様な姿の僧が頭をよぎる。

 しかし、確かにかの僧の姿は異様であったが、痛みに苦しむ自分に薬を与え、この目を忌むことなく声をかけ穏やかに去っていったではないか。

 深く合掌したあの姿は、大いなる慈悲すら浮かんでいたのだ。

 滅することを是とするとは、とても大和には思えなかった。


 その夜遅くのこと、寝屋へ戻り衣を替えている時、母が訪れ大和の手を取った。

「ああ、無事だったのですね」

 母の手は震え、少し硬くなったようであった。

「母上、いかがされたのですか? 火のことであれば大兄皇子様の下には届かず、宮は大事ありませんでしたのに」

「もちろん火のことも母は心配しておりました。けれども、そのことばかりではないのです」

「安子が悪うございます」

 横では安子が床に頭を付け震えている。

「恐ろしげな法師様が現れ、それを捕らえようとした方々が打ち据えられたと、雑色の者から聞き及んだことを奥方様の御耳にお入れしてしまったのですから」

「それで私は、あなたがその捕らえる役を命じられたかと気を揉んでいたのです。打ち据えられ、手負いになったのではないかと、母は考えておりました」

「そのような事があったのですか」

 大和は足を揃えて二人の前に座った。

 火が優しく揺らぎ、足らぬ光でありながら大和の顔を穏やかに照らす。

 安子の用意した貝の汁の匂いもまた穏やかであった。

「どうか心安くあってください。私は大兄皇子様にこの身を知られておりませぬ故、そのような命を賜る事もありません」

 しかし、と大和は続けた。

「このように申しては骨無しではありますが、母上はなにゆえそこまで恐れたもうたのでございますか? 恐ろしげであっても法師様故、慈悲深くございましょう」

 すると母は大和の手に手を重ね、少し声を落とした。

「もちろん、法師様は慈悲深きことは母もよく分かっています。しかし聞いたのです。かの法師様の上げる経はすべてを無に帰せしめることを願うと。もしもその言が力となり、あなたが消えてしまったらと思うと、母は心安くなどいられなかったのです」

 かの法師の姿から、その口から出る経がそのように恐ろしいものであれば、母も安子も、いや、吏達や群臣も恐れるものだろう。

 大和は苦しみの只中だったゆえにその経を聞いていないが、かくも恐ろしげだったに違いない。

 母と安子が寝屋を出て行くと、大和は温められた汁と飯を食べ、それから床に着いた。

 時折鳥の声が聞こえること以外は夜は静まり返っていたが、その静けさが、かえって大和には耳の奥で経が聞こえるようであった。

 法師様は、私に何を言ったか?

 心の内で思いが巡る。

 この身をその目と共に大事にしろ、と。

 閉じた瞼の上から目を抑える。

 忌まわしき金目。妖しき目。

 法師様は何かを知っているのか? それとも単に自分の身を案じただけだろうか。

 そも、この目はなんだ? なぜ私の目は他の人と違うのだ?

 まとまらぬ思いが胸を駆け巡り、いつしか大和は眠りに落ちていくのだった。


 火付けの賊が捕らえられたとの知らせが大兄皇子にもたらされたのは、明くる日の、日が傾いて久しい頃であった。

 皇子は自らの目で賊を見るため宮を後にし、大和も気付かれぬようその後をつけた。

 やがて辿り着いた場所は、飛鳥のもっとも広い道の只中であり、そこに五人の賊が腕と脚を縛り上げられ、敷き詰められた石の上に座らされていた。

 周りには少しばかり隔たりを開け、民が物珍しそうにその者達を眺めている。

 民達の騒ぐ声が一層大きくなり、次いで大兄皇子へと地に伏せる。

 大和はそのざわめきの中にそっと紛れ込んだ。

「頭は誰か」

 その者達を見据えるや大兄皇子が鋭く問う。

 五人は一斉に肩を震わせたが、やがてその中のもっとも体の大きな者が首をうなだれさせた。

「この者以外の首を落とせ。民の見ておる前で、その目に焼き付かせよ」

 言い渡す皇子の声には一片の慈悲もなく、ただ冷たい死の匂いがあるだけだった。

 瞬く間に四人の首が落とされ、濃い血の匂いが大和の処まで漂ってくる。

 地に転がった首がこちらを見た気がして、思わず大和は顔を背けた。

「この者はいかがいたしましょう」

 吏が頭の男を剣で指し聞く。

「百済に送れ」

 大兄皇子の言葉に、その場にいた誰もが耳を疑った。

 刑を遠くから見ていた民達の声も一層高くなる。

「……恐れながら皇子様、百済はすでに新羅の手により」

「なればこそ」

 吏の言を切り、短く答える皇子の声はことさらに冷たい。

「首を落とすなど温い。他に人の心を乱した者、余に逆らった者を集め、互いに見張らせて百済の復興を行わせよ。海を渡った後、新羅にも伝えるが良いだろう」

 おお、なんと恐ろしいことだ。

 大和は身も凍る思いをした。

 島に流すような刑に見え、なお恐ろしき形であるのだ。

 飯も水もままならない地に送られ、そのまま死するも良し、知らせを受けた新羅によっておぞましく殺されるのも良し。

 刹那に死ねる首切りと違い、なんという恐ろしい刑であろう。

 『冷たい炎』の極みを見せつけられた思いがして、大和は一人震えていた。

 脚の戒めだけが解かれ、首に縄が括られると、賊の頭は馬に繋がれ歩き出す。

 これから筑紫まで、死なぬ程度に歩かされ続けるのだろう。そして着けば、歩き続けたほうがいかほど良かったかと思いをするのだろう。

 大兄皇子はすでに賊など見ず、宮に向けて馬を歩かせる。

 大和は震えながらも、民の間を目立たぬよう抜け、その後を追うのだった。


 宮に戻った大兄皇子は座につくと、群臣の一人に都遷りの備えをますます進めるようにと命を下した。

 いよいよもって時は近いのである。

 鎌足などはすでに近江にいることの方が多く、皇子のため彼の地をすっかり整えたと聞く。

 大和が耳をそばだてていると、自分とは別の処に人が潜んでいるのを見た。

 それは暗がりに溶けるような黒い衣を身にまとい、静かに、しかし荒く息をしている。

 その目は真っ直ぐに大兄皇子を捉え、そして手には短い剣。

 皇子に害をなそうとしているのは明らかだった。

 そこまで認めると大和は腰に帯びた自分の剣を取り、音もなく賊に近づくと、後ろから心を貫いた。

 産まれたときから忌まれ、隠され続けてきた大和にとっては、悟られずに近づくなど造作もないことであったのだ。

 賊は声もなく崩れ落ち、その手から剣がこぼれる刹那、大和はそれを足で受け止める。

 賊も、己のことも、大兄皇子に悟られるわけには行かぬのだ。

 あの方は他のことに悩まされず、ただ我が道を歩むのみ。そのために、そしてこの国のために自分はここにいる。

 倒れた賊を見下ろしていたが、不意に耐え難い程頭のの痛みが大和を襲った。

「……また……か……」

 景色がにじみ、賊の体が二重になる。辺りは明るくなり、体が大きくなったように、見えるものが広がった。


「痴れ者め。皇子を害そうなどとは」

 死んで倒れている男を見ながら、太い声で忌々しそうにその者は呟いた。

 流れる音が聞こえそうなほど、男の体から凄まじい血が噴き出している。

「大王に付くものであろう。もっとも、大王は関与しておられないだろうがな」

 その者の前に冷然と立つは大兄皇子。

「蘇我石川のものかと思われます」

 それを聞くも、皇子はゆっくりと首を振る。

 まだ外は日が高く、皇子の影が重々しく落ちる。

「朧な考えで申すは止めよ。余を憎む者など山河の木石の如くいよう」

 突き刺すような目に射抜かれ、その者は後退り地に伏せる。

「こ、これはまことに過ちを……。どうかお許し頂きますよう申し上げます」

「とは申せ」

 皇子はその者を見ずに続ける。

「かの手のものであった時は情けはかけぬ。氏諸共焼き尽くしてくれん」

 皇子の目は燃え盛る炎のようでいて、しかし恐ろしく冷たく遠くを睨みつけていた。

 その者は震え上がる。

「この者をことごとく調べ尽くし、また大王に付く者達も調べ、繋がりを見出せ。すべて抜かることのないようにせよ」

「御心のままに」

 その者が伏せると、皇子は続けざまに命を下す。

「そして、かねてより進めていた飛鳥の地をますます整えよ。この者が何にせよ、大王の足元は揺らぐであろう」

「はっ」

 その者が骸を担ぎ出て行くと、皇子は外を見やった。

 難波では足らぬ。大王では足らぬ。

 照らす日よりも、皇子の目は眩く燃えていた。


「くっ……うう……」

 辺りが暗くなり幻が消える。

「此度は何を見た……」

 難波では足りず飛鳥の地。

 かつての都遷りの前か。

 しかし、やはり思い出されるのは大兄皇子の熱く冷たい目のみ。

 かくも恐ろしきは皇子の御心。

 それにしても、と大和は思う。

「いたく馴染んできたものだ……」

 そう呟くや、はっと口を抑える。

 馴染む? いったい何に? 幻と何か関係があるのか?

 自分の口から出た言葉。

 まったく思い至らぬ馴染むという言。

 自分の分からぬ心におののきながら、大和は賊の体を長い時をかけ始末した。

 月は空に無く、星の瞬きのみがそれを見ているのであった。

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