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『金目』と幻

 大和が九つの時、父が筑紫まで赴くということを母から聞いた。

「母様、父様はなぜそのような遠い地まで行かれるのでしょう」

 硬く、重い戸が四方を囲み、陽の光さえ思うようには入ってこれず。どこか古めかしい匂いがいつも漂うこの寝屋には、母を含め、ほんの数名しか訪れない。

 父が、兄が、人が自分を『金目』だと蔑んでいることは幼い大和も心得ていた。

 しかし母は、そして自分を母の胎から取り上げた年老いた世話女の安子だけは違った。

 母は自分が腹を痛めて産んだ子を慈しみ、安子は初めこそ非常に恐れたものの、仏に深く帰依しているが故その金色の瞳に仏を見いだし、手を合わせるまでになっていた。

「大人様は、かの中大兄皇子様の戦に着いて行かれるのです。皇子様は百済をお助けになるという、それは尊き行いをなされます。大人様はそのお手助けをなさるのですよ」

 

 ごく、ごく稀に。

 父が宮中に大和を連れて行くことがあった。

 もとより自分は死に産まれとされたいた為顔を覆い、中臣とは関係のない子と言い繕っていた。

 宮は自分のいる部屋とは比べ物にならないほどきらびやかであり、大和はその美しさ、大きさに心惹かれた。

 そして宮中に行くたび、遠くから皇子を良く見させられた。

「よく見ろ、あれが大兄様だ。お前はその忌まわしい目の故に史と違い表には出れぬ。なればその影となり、なにより大兄様に命を捧ぐのだ。大兄様をお守りし、そのお力になることがお前の在る意味の全てと知れ」

 父は若い頃から皇子と親しくし、一番近くでお仕えし、時には支えてきたという。

 そうであれば自分も、忌み子たる自分の命を捧げるのは当然である。

 大和はいつもそう考えを改めるのだった。


 父の出立の日も、大和は見送ることすら許されなかった。いつもと変わらぬ暗く重い部屋で起き、戸の外に置かれる食を取る。

 口に入るもの自体は不味くない。十分な量の穀も魚も貝も汁もある。母の心ばせはそのような所まで及んでいた。

 しかし、やはり一人で取る食は虚しいものだった。

 父が屋敷を出る時分「」、大和が油の揺れる火で経文を読んでいると、安子が湯を持ってやって来た。

 曰く、兄は父が筑紫にいる間宮中に滞在し、そこで跡目として得るべき智を学ぶらしい。

 一瞬それを羨んだが、それよりもそのような智を受け、中臣のみならずこの国を支えるに足る人物に兄がなろうとしていることが誇らしかった。

 自分はと言えば、父の支配下にある辺境の民のうちから剣に秀でた者の中から幾人かが選ばれ、来る日も来る日も剣を交え、打ち据えられ、技を叩き込まれた。

 智ではなく武により、それも決して表はおろか皇子にも悟られることなくこの国を守るために。

 この行いもまた父のため、中臣のため。

 大和は血を吐き地に倒れながら、剣を握りしめるのだった。

「ご覧下さい大和様、遠くに中大兄皇子様と鎌足様が」

 安子が重い戸板を少し上げ手招きしている。

 せめても後ろ姿を見送ろうと、大和は安子が上げる戸板の隙間から覗き見た。

 戦仕立ても勇ましく、父と中大兄皇子が並び行軍していく。

「…………!」

 不意に頭が割れるように痛み、大和はその場に倒れ込んだ。乾いた床に打ち付けた手も痛む。

「大和様!?」

 安子が慌てて大和を抱きかかえ床に寝かせる。

 薄れゆく意識の中、大和は夢を見ていた。


 宮中のようだった。

 高い座に大王、しかし見たこともない大王が座し、誰かを待っている。

 脇の暗がりには、大王や謁見者に見えぬ様に剣を握りしめ、集団が息を潜めている。彼らは恐ろしいのか息が荒く、剣を握る手は白くなっていた。

 そのような中でただ一人、場違いなほど動じぬ若き人。

 その顔には、中大兄皇子の面影があった。

 やがて待ち人が現れた。体が大きく、蓄えた髭は衣よりも立派であり。その堂々たる歩みは恐るものなど何もなし。

 その人は大王の前に身を屈め、次いで別の男が大王の前に進み出で何かを読み上げている。

 彼の人がつまらなそうに目を逸らした時、若き皇子が剣を手に踊りかかり、その人に一撃を加えた。続いて一団の年かさの者の剣が二度三度と振り下ろされる。

 床に倒れ血塗れになったその人は苦しげに呻いた。

「なぜだ……? 我は罪無き者……。我が君の御下命によるか……?」

 しかし誰もそれには応えない。その人の荒い息だけが宮中に響くのみ。

 そしてその人の目が真っ直ぐに皇子を捉え、そして皇子もまたその人に歩み寄る。

「……ご立派に、なられましたな……」

「許せ、入鹿」

 誰にも気取られないよう、皇子は泣いていた。

「もう、涙を流し召さるな。我を斬り、故にその手と背にこの国を背負う重み、泣いていては潰されますぞ……」

 入鹿と呼ばれたその人は、薄く、しかし優しく笑った。

「世話になった。先に黄泉で待っていてくれ。私もじきにそちらへ向かう」

 皇子はごく自然に涙を拭うと、その顔から一切の感情を捨て、入鹿に向かって剣を振り下ろした。


「うわあああ!!」

 身体中にべっとりと汗をかき、大和は叫びながら目を覚ました。

 衣を胸のところで掴み、大きく何度も息をする。息を吸い込む度に、夢で見た人の血の匂いがするようで余計にむせる。

「大和様!? いかがなさいました!?」

 外で安子が戸を叩きながら声を上げる。大和に対して恐れがなくなってからは、安子は昼も夜も常に大和を守り、尽くしていたのである。

「……大事ない。ただ、恐ろしい夢を見てしまったのだ」

 なんとか言葉を絞り出し、床の脇にある瓶から椀に水を汲み口に含む。口に触れる椀のざらつきが、先ほどの夢からゆっくりと大和を寝屋の暗がりへ引き戻す。

「入りますよ、大和様。……まあまあ、こんなに汗をおかきになって……」

 火を灯した安子が大和を見て驚き、携えていた布で彼の体を拭く。

「大層恐ろしい夢を見てしまったのですね。無理もございません、急に倒れたのですから……。でも大丈夫でございますよ、母上様もいらっしゃいますし、この安子も側に控えております」

 背を拭かれながら、大和は考え込んでいた。

 夢。確かに夢である。しかし、あの中大兄皇子の様子はとても……。

「安子」

「なんでございましょう?」

「大兄様は大王を蘇我からお守りなさったのだな?」

 安子は大和の体を拭き終えると、新たな乾いた衣を着せた。僅かな日の匂いが残っている。

「ええ、自分を天子のように振る舞っていた蘇我の方から、中大兄皇子様は大王様を守り、その手に国を取り戻したのでございます。そのなんと勇ましいことか」

 確かにその行いは勇ましいものだっただろう。そんな皇子が涙を、ましてや蘇我を斬る際に泣くなどあろうはずがない。

「大兄様は、涙を知らぬ人であるのか」

 知らず口から言葉が零れる。

 安子は穏やかに微笑み、大和を正面から見据えた。

「何かを、ご覧になったのですね。いいえ、語らずとも安子には分かります。大和様のそのお美しい目、きっと仏様の御加護があってのものなのでしょう」

 『金目』と呼ばれ、気味悪がられ、蔑まれた忌み目。

 安子はそれを美しいという。

「確かにわたしも、初めは恐ろしゅうございました。でも、大和様はとても可愛らしく、穏やかに健やかに育たれ、母上様も愛をいっぱいに注いでこられました。そんな大和様が恐ろしい子であるはずがない、きっと仏様の御加護をお持ちになってお生まれになったのだと、安子は思ったのでございます」

 こんな自分を愛してくれた母と安子。

 その真っ直ぐな言葉に、今まで張り詰めてきたものが切れ、大和はうずくまり泣き出した。

 中臣の子として、史の影として、皇子の力として甘えることが許されなかった大和の、初めての涙であった。

「仏様はすべてをお見通しになると言われます。きっと大和様のその目も、見えぬものを見たのでございましょう。恐れることはありません。大和様がご覧になったことは、きっと仏様が意味あるものとしてお見せになったのでございます」

 涙を止め、少しきまりの悪そうに安子を見る。彼女は変わらず穏やかに笑んでいた。

「母上様が、安子がお側におります。大和様は、ご自身の道をお進み下さい。仏様が見守っておられるのです」

 そうしているうちに夜は白み、鳥の声が外で聞こえるようになった。屋敷の者が忙しく起き出す音も聞こえる。

「ありがとう、安子。私のなすべきことが見つかるといいな」

「きっと」

 失礼して、と安子は大和の涙の跡を拭くと、支度を整えて戸を開けた。

「飯を蒸してきます。今日は沢山召し上がって下さい」

 ニコリと微笑むと、安子は寝屋を出て行った。

 戸が閉ざされ寝屋が少し暗くなる。大和はしばらく、先の夢と自分の目について深く考えを巡らせるのだった。


 知らせがもたらされたのは、幾日も過ぎない頃であった。

 曰く、将軍阿倍比羅夫の率いる水軍は百済の地にて大敗を喫し、多くの兵が命を落とした。

 曰く、中大兄皇子は唐と新羅のさらなる追撃に備えるため、那津宮家のさらに内へ引いた。

 曰く、筑紫から唐と新羅が攻め入ることを防ぐため、那津宮家を内に移し、大野城と水城という長く強大な城を築いている、と。

 中大兄皇子と父は百済には出向いておらず無事だったというが、それでもいつ唐が新羅が攻め入って来るか分からないとのことだった。

 母と兄は父の身を案じ方々に手を回し、安子は仏像に昼も夜も手を合わせ経を上げていた。

 大和とて父の身を案じないではなかったが、しかし父が無事であり、そして時を近くして帰ってくるという確信がなぜかあった。

 さらに幾日か。宮ではなく中臣に知らせがもたらされる。

 皇子は唐と新羅への備えをさらに強くするため筑紫に留まるが、しかし父は先んじて飛鳥へと帰り、皇子の命を行いこの地を整えるのだと言う。


「父上がお戻りになると何をなさるのでしょう。大兄様のお心を成すとお聞きしました」

 眠りに着く前、寝屋を訪れた母に大和は尋ねた。

「私も何も聞かされていないのですよ。されども大人様が中大兄皇子様と離れてまで成さねばならぬこと、とても大事なことなのでしょう」

 大和は薄々と心得ていた。

 史がいる中での仲子の母というものは、決して重きを置かれない。まして『金目』を産みあまつさえそれを庇い立てするのだ。中臣から出されないだけでも父は情け深いのだ。

 そんな母であるため、父のお役目はもちろん皇子の御心を知らされないのも当然と言えた。

「あなたは何も憂うことなくおやすみなさい。冷えるから、衣を沢山かけるのを忘れてはいけませんよ」

 母はそう言って静かに立ち上がると、大和の頭を一つ撫でて寝屋を出て行った。

 隙間から入り込んだ風は、もうすでに寒さを感じさせるのだった。


 大和が十になろうかという頃、父が筑紫より帰ってきた。その顔にはすでに戦の疲れも悲壮もなく、ただ決した意があるばかりであった。

 父はそれから屋敷に滞在することはほとんどなく、常に宮や遠くの地に出ていた。

 兄は引き続き宮中にて学を積み続け、さらに政に関わる智も学んでいると聞かされた。

 そのような中、大和は除々に寝屋から出される時が増え、兄を影より守るよう言い含められた。いずれ戻る中大兄皇子をお守りする為、宮の造りやその行いを習う為であるという。

 父はまた、仏法に篤い人でもあった。

 兄にも良くそれを学ばせ、大和にも深く帰依するようにと教えた。

 その忌まわしい目が、少しでも仏からもたらされた物だと思わせろ。

 父はそう言って冷たい目を向けるのだった。

 大兄皇子と親しい父に逆らえる者は飛鳥の宮におらず、大和の元には、その目を恐ろしく思いながらも命によって遣わされた僧が訪ねて仏法を説いた。

 ある夜、経典を読みながら教えを聞いていた大和の思いの深く、なにか捉えどころのない考えが浮かんでいた。

「師よ、お聞きしたい事がございます」

 教えが一息つき、水で口を湿らせた僧に大和はそう聞いた。

「何でしょうか、大和様」

「その、仏法をお開きになり、そしてそれをお伝えになった釈迦仏の事はどの教えにもございます」

 僧は深く頷く。

「もちろん。釈迦仏は尊き御仏。我らの帰依し、その教えを深く頂くべきお方でもあります」

「心得てございます。しかし、この世そのものと申しますか、見上げた空も暗き天も、そのすべてと同じである仏はいないのでしょうか?」

 大和の奇妙な問いに、僧はしばし目を点にする。

「はて、そのような御仏は私の耳には及んだことは無きように存じますが、もしやもすると百済や唐の深き所にはそのような仏の教えがあるのやも知れません。大和様はどうしてそのようなお考えを?」

 その言葉に大和は頭を押さえながら呻く。

「分からないのです。なぜか頭の中に、その朝の霧のような考えが浮かんでいるのです。なぜだ? 私にはまるで分からない」

 僧はしかし大和の金色の瞳を恐れ、『金目』にはなるたけ関わるまいとその様子を眺めるのみであった。


 それから暑さ寒さを幾度となく越え、大和の剣の腕も兄の智も際立ってきた頃、大兄皇子が筑紫より飛鳥の宮へ戻ってきた。

 皇子は大王の座につかず命を出し、群臣はそれに従い飛鳥の宮を整えた。

 大和はその頃より皇子から見えぬ陰に潜み、日も夜もその御身を守ろうと剣を握るのだった。

 それはまだ日が昇って間もない頃、皇子にとある男が近づき、その耳に何事かを囁いた時であった。

 大和はその様子をうかがっていたが、不意に目の奥が熱くなり、血の流れが感じられるほどそれが波打つのを感じた。

 器を打ち砕くが如き痛みが頭を襲い、たまらずうずくまる。

 目に映るものが霞み、違う景色がそれに重なる。


 人目を避けるように衣を不自然に被った男が、宮で月を眺めていた男に近づく。

 月を見ていた男は少し若いようであったが、間違いなく大兄皇子であった。

 衣を被った男は大兄皇子の顔に口を寄せると、何事かを囁く。大兄皇子はそれを聞くと眉の間に皺を刻み、聞こえぬ声で衣の男に何かを命じた。

 衣の男は口の端を上げ歪な笑みを浮かべると、深く大兄皇子に平伏し、その場を去る。


 再び景色が霞み、どこかの道の側のようであった。

 湿った土と曇った空が、感じることのない雨の匂いすらしてくるようである。

 一人の若い男が白い衣を身にまとい、地に膝をついている。その両の手は縛られ、首には荒く編んだ縄が掛けられていた。

 すぐ側には大兄皇子が、馬上から若い男を見捉えている。焔のような目とは裏腹に、その顔は凍りつきそうなほど冷たかった。

 皇子が身を翻し若い男に背を向ける。

 それを見た吏は、若い男の両側に控えていた体の大きな兵二人に手を上げ、そして振り下ろす。

 兵は両側から縄を回し締め上げ、ゆっくりと男の命を削ってゆく。

 男は顔色を恐ろしいほどに変え、口を大きく開き舌を突き出し、やがて息絶えた。力を失ったその身体は、ただ虚しく地に横たわる。

 大兄皇子はもはや、振り向きもしなかった。


「…………!!」

 目の霞が晴れ、大和は首を掴んで荒く息を継ぐ。

 長く鍛えられたせいで声こそ上げなかったが、裂けるが如き頭の痛みと、あり得ないはずの首を絞める縄の痛みが大和を苦しめた。

「今のは……なんだ……?」

 景色には見覚えがない。しかしこの己が見たかのような幻は知っている。

 『金目』だ。

 そう思った。

 この忌まわしい目が見せているのだ。

 父からの慈しみを奪い、中臣氏からの処を奪い、大王へ日の当たる仕えも奪った忌まわしい目。

「何故、私を苦しめる……? 仏がいるのならば答え給え……」

 声にならぬその問いは、宮を抜ける風に混じり、溶けて消えた。


「母上」

 屋敷に戻った後、衣の替えを寝屋へと運び入れた母に大和は問うた。

「大兄皇子様はどのような方なのでしょう」

 大和の言葉に、しかし母は悲しげに顔を伏せる。

「母は……よく知らぬのです。大人様と違い、私は低き身分。中大兄皇子様のことなど、恐れ多くも知るなどできぬのです」

 ああ、またも母に悲しき思いをさせてしまった。

 大和は頭を振り、母に膝をつく。

「私の至らぬ故、母上に余計な心を使わせてしまったことをお侘び致します。大兄皇子様のお近くにお仕えする誉れを頂いたからには、皇子様の御心が少しでも知ることが出来れば、と」

 頭を下げる大和に、母は優しく手に手を置いた。

「顔をお上げなさい。あなたのその心構え、母はとても嬉しく思います。中大兄皇子様のことですが、大人様はその政を一番お側で見ておられたようです。とても聡いお方で、時には御心を成すためにはどんな手立ても厭わない方だ、と」

 母の言葉を聞き、大和は幻の中の皇子を思い出す。

 焔のような目と冷たい顔。

 無情とも思える定めと仇に対する熱。

 冷たい炎。

 そのような思いが頭をよぎる。

 大兄皇子様は冷たい炎なのだ、と。


 

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