もう一つの名
客人が去り一人きりの生活に戻って二ヶ月後、ラスルは冬を前に街へと薬を売りに出ていた。
夏の盛りを過ぎ実りの秋に突入した世界は赤や黄色に色付き、徒歩で街に向かいながら木の実を採取する。薬と一緒に売りに出すのだ。
また訪ねても……そう言ったカルサイトの言葉を鵜呑みにしていた訳ではなかったが、ラスルは心の何処かで彼らの来訪を待ち望んでいた。だが彼らの身分からすると、ラスルの住まう森の奥へ気安く来るには距離も時間もかかりすぎたし、二人にそんな時間があるとは到底思えなかった。
それでも望まぬ客だったとはいえ、彼らと接したことで人恋しさが生まれてしまったのか。今回ラスルが街へ出向いたのはいつもの時期よりもほんの僅かだが早かった。
街に着くとラスルを見知る常連客が集まり、その中には薬を仕入れる目的でやって来た医師の姿もある。持病の薬や常備薬を買いに来る人であっと言う間に薬は売り切れ、売れ残った木の実を袋に詰めると冬越しに必要な食料を買い付けに店を回った。
そこでラスルは、先の戦いで敗北したフランユーロがスウェールに攻めて来ると言う不穏な噂を耳にする。
また戦争になれば多くの犠牲が出て、罪なき民の命が無駄に失われる事になる。国境にも近い街の住人は不安気に語っていたが、現在の軍事力はフランユーロよりもスウェールの方がずば抜けて大きかった為、現実に攻め込むには余程の秘策がない限り無理があるだろうという意見で決着していた。
買い付けも終わりそそくさと街を出るラスルの前に、帯剣したがたいのいい男が近付いて来た。
「またたんまり買い付けたな。持ってやろうか?」
ラスルは短い茶色の髪と瞳をもつ男を冷ややかに一瞥すると返事もせずに歩みを早める。
男は二十代後半と思しき年齢で名をザイガドと言った。
浅黒い肌で大きな体は南方の民の特徴で、過去には傭兵としてスウェールとイジュトニアの戦いに身を置いていたらしいが、今は金さえ払えば殺しも厭わない何でも屋をしているらしかった。
無視して先を急ぐラスルの後から呑気な声が上がる。
「久し振りだってのに無視とはつれねぇなぁ~」
つれなくて当然、立ち止る事なく先を急ぐ。ラスルは二年近く前にザイガドに攫われた揚句、人買いに売り渡された経験があるのだ。
この男は粗悪な身なりに似合わず人を見抜く目を持っている。最初にしつこく纏わりついて来た時に魔法で脅しをかけた。しかし驚きはしたがラスルに恐怖心を抱く事は全くなかった。ラスルが本気で攻撃を仕掛けて来る事はないと端から分かっているのだ。
攫われ売られた時は運良く逃げ出して来たものの、街に薬を売りに行く前だった荷物はザイガドに奪われたうえに勝手に売り捌かれており、ラスルを売った金以外にも利益を得た彼は更に懐を暖かくしていた。
それにも構わず、自分の手で人買いに売った筈のラスルが戻って来ているのを見かけたザイガドは、悪びれもせず飄々とした態度でラスルに接して来たのだ。以来ザイガドはラスルを見ると攫いはしないが、いつも馴れ馴れしく声をかけて来るようになっている。
「おいおい、まだ怒ってんのかよ。」
早足で歩くラスルの後から懲りもせず声が浴びせられる。
「あん時の事は悪いと思ってるけどよ。お前が逃げ出したりしたせいでこっちは信用がた落ちだったんだぜ。」
だからお互い様だろうと言ってのける身勝手なザイガドにラスルはくるりと振り返った。漆黒の瞳はいつになく敵意剥き出しだ。
「何が信用がた落ちよ、人攫いがいっぱしの口きくな!」
怒り心頭のラスルに構わずザイガドは腕を伸ばすとラスルの顎を掴む。
「この顔なら相当稼げるってのに惜しいよなぁ~」
まったく悪びれた様子のないザイガドに、ラスルは顎を掴んだザイガドの手を払い除ける。
「稼ぎは女郎屋がくすねるだけで売られたこっちはただ働きよ。」
「だったら俺が直接客を紹介してやる。儲けは半々でいいぜ?」
「さよなら。」
相手にした自分が馬鹿だったと踵を返し、街道の先を真っ直ぐ見据えて森を目指して進んで行くと、遠く前方から馬車が一台近付いて来ていた。
「そんなに怒ってばっかだと折角の可愛い顔が台無しだぞ。」
ラスルが早足で進んでいるというのにザイガドは余裕の足取りで付いて来る。無視を決め込むラスルに構わずザイガドは話を続けた。
「世の中ってのは嫌な事だらけだ。嫌な事はさっさと忘れる、それに限るぜ。でもって俺と組んで一商売しようや。たんまり稼いで上手い酒飲んで女を抱けば文句なしの人生送れるぞ~」
ラスルは一度立ち止まると勝手に話を進めるザイガドを見上げた。
顔や剥き出しの肌には無数の傷跡があり、そのどれもが戦いで受けた傷だろうと推察される。筋肉隆々の太い腕はラスルなど一捻りで殺せるだろうし、腰にある大ぶりの剣を軽々と振るえるのだろう。傭兵として生き残って来ただけの男だ。戦場では頼もしい味方になってくれるだろうと推察されるが……
今は何処からどう見てもならずもので、口調からもそのいい加減さが伺える。ラスルは深い溜息を落とした。
「何だその溜息は。」
失礼なやつだなと愚痴る似合いもしないザイガドの言葉に、ラスルは思わず口を開いた。
「わたしはお酒も飲まないし女も抱かないの。あなたはあなたで楽しい人生送ればいい。でもあなたの人生にわたしを巻き込むのだけは止めて!」
「お前もしかして俺の人生に巻き込まれてると思ってる? 参ったなぁ~嫁なんて貰う気は微塵もないんだが……まぁお前なら見てくれいいし貰ってやってもかまわねぇぜ? そしたら儲けは俺一人のもんに出来るしなぁ。」
この男は嫁に客を取らせる気なのか?!
呆れと怒りで爆発しそうになるが、その対象が今はラスル自身に向けられている事に気付いて悪寒が走った。
「わたしは一度たりともあなたの嫁になりたいなんて口にした覚えはないっ!」
体力もないのに早足で歩き、怒りに任せ怒鳴ったせいで頭がふらついた。
そんなラスルを何気に支えながらザイガドはにっと笑い白い歯を覗かせる。
「んな照れるなって。そんで手始めっちゃ何だが、いい加減名前くらい教えてくれてもいいんじゃねぇか?」
肩に馴れ馴れしく重い腕を回され、ラスルは直ぐ様身を引いた。
駄目だ、話が通じない―――
ラスルは頭痛を覚えこめかみを押さえる。
「もういい、今度こそ本当にさよなら。」
溜息を付きながらラスルはザイガドに背を向ける。再び歩き出したラスルをザイガドは追って来る事はなかった。
「気が変わったら話に乗るぜ~っ!」
軽い声が後ろから浴びせられるが、ラスルは今度こそ無視して先を急いだ。
先を急ぐと、先程前方に見えていた馬車がすぐ側まで近付いて来ていた。
二頭立ての馬車が蹄と車輪の音を響かせ迫って来るのを脇に逸れてやり過ごす。
馬車が通り過ぎる手前で何の気なしにもと来た道を振りかえると、ラスルよりもかなり歩みの速いザイガドの背中が小さくなって行くのが見えた。
もうあんな所まで歩いている……ラスルが小さくなるザイガドの背に視線を向けていると、すぐ側でガタンという音がして馬車が停止する。
何だろうと思い御者に顔を向けると馬車の扉が開き、黒髪黒眼でラスル同様黒いローブに身を包んだ魔法使いの男が姿を現した。
短めの黒髪には白髪が混じり、眉間には深い皺が刻まれている。表情は冷たく馬車の扉を開けて驚いたように上からラスルを見下ろしていた。
年の頃は五十に足りない程だろうか。見下ろされたラスルは知り合いかと首を傾げ男を見上げる。
男は馬車から完全に降りラスルの前に立つと、僅かに口角を上げにやりと笑った。
「ラウェスールだな―――」
地の底を這うような、低く冷たい声色。
ラスルはその名を耳にした途端、これでもかという程に目を見開き息を止めた。
「何で?!」
どうしてその名前を―――?!
驚き硬直したラスルの腕を男が掴む。
その瞬間、男の全身から湧き上がる湯気のように黒い霧が立ち込めた。
「あなたまさか―――!」
ラスルははっとして掴まれた腕を振りほどこうとするが、相手が腕力の弱い魔法使いであるに関わらずびくともしない。
抗い身を捩るが、その間にも掴まれた腕から次々と流れ出て行くものを感じ、ラスルはその不快さに胸を押さえた。
魔力が奪われる―――!
初めて受ける感覚だが、確実に体内から魔力が失われて行くのをラスルは感じた。
痛みがある訳ではない。だが体の内側から精神が無理矢理引き出されるような、何とも例え難い不快な感覚にラスルは悲鳴を上げる。
「あああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
逃げ出したくても逃げられない。
無理矢理に魔力を引きだされ始めた瞬間から体が硬直し体の自由が利かなくなった。
息苦しさと訳の分からない異様な感覚に苛まれ、自由になる方の腕で頭を押さえて闇雲に振る。脂汗がどっと噴き出し流れ落ちる感覚に肌がひりひりした。
頭の中に手を入れて混ぜられるような感覚に意識を失いかけた瞬間、ラスルは腕を掴んで魔力を奪い続ける男を必死の思いで睨みつける。
「あなた……シヴァ?」
唯一知る、祖父から教えられた黒の光を操る魔法使いの名。
ラスルの口から洩れた名を耳にした男は不敵に笑うと、意識を失い倒れ込むラスルを受け止め馬車に引き摺り込んだ。