悪戯
夜の闇にまぎれ仕掛けた罠を早朝確認に向かうと、ウサギに似た小動物がかかっていた。ラスルは持参した短刀を使いその場で手早く血抜きを済ませる。罠の仕掛け方といい、小さいとはいえ暴れる野生動物に対する扱いといい、その慣れた手つきにアルゼスは目を見張った。
アルゼスとて野営の経験もあるし、野生動物を狩って捌いたこともある。だがラスルの手の動きは手慣れたもので昨日今日身に付けた技ではなく、ここで生きて行く上で必要なものだった。
ラスルの事をイジュトニアに戻ればそれなりの身分があるものだと確定付けていたアルゼスにとってこれはとても意外だ。
現実にラスルは幼少の頃から自給自足できるよう教育されて来た。
幼い頃から祖父と共に大陸中を回り、屋根のある場所に身を落ち着けた記憶はあまりない。だから十二の歳に父の元に戻され、そこで押し付けられた生活はラスルにとって苦痛以外の何物でもなかった。それでも何とか二年辛抱したが、それに耐え切れなくなり自由を求めて飛び出した。その頃には旅の人生をおくっていた祖父もスウェールの森深くに安住の地を見付け腰を落ち着けていたので、ラスルは父親のもとを飛び出したその足で真っ直ぐにこの森へ向かって来たのだ。
血抜きをしたそれを持ち帰ってから綺麗に捌くと、ラスルは取れたての生肝をアルゼスに差し出す。当然の様に差し出された光沢のある新鮮な肝にアルゼスは思わず息を飲んだ。
「慣れない人は嫌がるけど、貧血には薬よりも効果がある。小さいから丸呑みに出来るから。」
ラスルはこれを手に入れる為に罠を仕掛け肉を仕入れたのだ。ここで拒否しては次は我儘王子とでも言われるに違いない。
アルゼスは息を止め目を瞑ると光沢あるとれたての肝を一気に丸飲みした。乾燥させた薬剤と違って匂いも味もない。生暖かいそれはゆっくりと咽を通り胃に降りて行く。
アルゼスが肝を飲み込んだのを見届けたラスルは、用途のない内臓と皮を土に埋め、肉は火を熾して炙り焼きにする。肉には塩が振られていたのでいい具合に焼き上がると、二人はそのまま地面に腰を下ろして焼き立てのやわらかい肉を口に運んだ。
ナイフとフォークを使わず手づかみで肉を口にしたのは何年振りだろう。昔を思い出しながら口に運んだ肉は意外にも美味しく、油の匂いが食欲をそそる。全て食べ終えると燃え残りに土をかけるラスルを見て、思わずアルゼスはふっと笑いを漏らした。
「何?」
「普通は男の方がこういう事をやるものなのだが、すっかり逆の立場だと思ってな。」
「王子様は病人だからいいのよ。」
ラスルが額の汗を拭うと、手に付いていた灰が額に付着する。
「お前風呂に入って来い。」
「えっ、何で?」
突然何を言い出すんだと見上げるラスルの頬をアルゼスの指がなぞる。
「鏡を見せてやりたい。」
もともと薄汚れていたが生肉を捌いた手には血の痕があり、僅かに頬にも赤い飛沫が散っていた。火を熾した際に巻き起こった灰や煙で髪には白い灰が積もっていたし、互いでは気付かなかったが二人とも肉の脂の臭いがこびり付いている。
「いいよ別に。」
このままでかまわないと言うラスルにアルゼスは心底呆れる。
「お前、その無頓着何とかしないと女として終わりだぞ。」
「別に終わってもいいし。」
ラスルが煩いと言わんばかりに燃え残りに土をかけた場所を足で踏み固めると、残った灰が巻き上がりアルゼスは咳き込んだ。咳き込みながら灰を払って口を開く。
「確か歳は十九とか言ったよな? 十九と言ったら結婚して子供の一人くらいいてもおかしくない歳だぞ?」
「何よそれ。子供を産むのだけが女の仕事じゃないわ。それに人の心配するより先に自分の心配したらどうなの。」
「何だと?」
「わたしに子供が生まれなくたって誰も困らないけど王子様は違うでしょ。王子様の方こそ結婚して子供はいるの?」
痛い所を突かれてアルゼスは口籠る。結婚どころか側室すら持ってはいない。王位継承者として二十三と言えば既にいい歳で妃を得ていてもおかしくはないのだ。実際候補者の数はうんざりするほどあり、王城内に身を置いていると一日に一度は必ず話題に上る話しでもあった。
「煩い、俺の事など放っておけ。」
「わたしの事だって放っておいてよ。」
ラスルの勝ち誇ったような視線にムッとしたアルゼスは、腕を伸ばしてラスルを捕まえるとそのまま軽々と持ち上げ肩に担いだ。突然視界が反転し担ぎ上げられたラスルは手足をばたつかせて抵抗する。
「何するの、危ないじゃない!」
「大人しくしてないと落ちるぞ。」
と言いつつもアルゼスはふらつきもなく歩き出す。暴れて蹴られそうになるのでラスルの足はしっかりと押さえつけた。
「ちょっと下ろしてよ。ってか何処行く気?!」
「お前ちょっと軽すぎじゃないか。肉がまったく付いてないぞ?」
ラスルの尻をぽんぽんと叩いた後で一撫でする。
「ギャ―――――――――っ!!」
アルゼスに尻を撫でられたラスルは、相手が貧血持ちの病人だというのも忘れて力任せに目の前にある背中を殴りつけた。
しかし大して力のないラスルに殴られてもアルゼスは痛くも痒くもなく、アルゼスは高笑いを上げながら目的の場所を目指した。
そうして辿り着いた先―――温泉の湧き出る湯の中にアルゼスは遠慮も何もなくラスルを放り込む。大きな水飛沫が上がり放り投げたアルゼスも頭から水浸しになった。
「ちょっと何するのっ! て、わっ……止めてっ!」
浮き上がって来たラスルを押さえつけると、アルゼスはその頭をごしごしと洗い出す。
「ここまで来たら観念しろ。」
「最悪、何処の馬鹿王子よっ!」
「王子に頭を洗ってもらえるなんて滅多にない事だぞ、光栄に思え。」
「何が光栄なのよ、阿呆くさっ。」
「口の悪い娘だな―――」
アルゼスは頭を洗う手を止めると、ラスルの汚れた顔を大きな掌でごしごしと擦りだした。
「いたっ、痛い痛いっ!」
強く擦られ抵抗するが力で叶う訳もなく、ラスルの抵抗は虚しく空を切る。
「関節を外されて声も上げない女が大げさだぞ。」
面白い程取れる汚れにアルゼスは夢中になってラスルの頬を洗った。
「もういい、分かった。自分でやるよっ!」
ラスルが降参して思いきり顔を背けると、アルゼスもようやく無理強いするのをやめて手を離す。
「よし、やっとその気になったか。」
力の弱いラスルを押さえつけるなど造作ない事だったが、さすがに止み上がりではアルゼスの息も上がり出していた。
「まったく……服のまま放り込むなんて信じられない。」
「何だ、俺に脱がして欲しかったのか?」
「そんな訳あるかっ!」
「遠慮するな。」
青い瞳を細め笑顔を向けるアルゼスに恐れを成したラスルは湯船の中で距離を取る。
「冗談だって。着替えを取って来てやるから綺麗に洗って待ってろ。」
後ろ手に手を振りながらあばら屋に戻って行くアルゼスの背を見送り、姿が消えた所でラスルはふうと溜息を吐いた。
全く余計な事を―――
多少風呂に入らなくても死にはしないし、綺麗にしても畑仕事をすればまたすぐに汚れるのだ。身を繕っても自分の何かが変わるわけでもないし、何よりも面倒でここ暫く入浴してはいなかったが……
「前に入ったのっていつだったっけ?」
指折り数えて両手では足りなくなり数えるのをやめる。
祖父が生きていた時は毎日の様に入っていたが、いつからこんなに無頓着になってしまったのだろう?
余計なお世話だったがこれを機に身体を綺麗にしようかと、湯船に浸かったまま重くなったローブを脱いだ。
掌で優しく身体を擦り汚れを落としながら、ラスルはふと自身の胸元に視線を送る。
左胸のふくらみに刻み込まれた朱色の刻印。
花弁の様に模られた小さな六つの印はラスルが生まれて直ぐに刻まれた刺青で、よくみると花弁の一つ一つに読み取り困難な文字が繊細な細工のように刻み込まれている。この刺青には彫師の魔力が込められ、焼いても皮をはいでも消える事がなくラスルにとっては呪いの様なものだった。
この印がある限りラスルは父親から、父親の血から逃れる事が出来ない様な気がしてならない。たとえ側にいなくても常に付きまとわれている気がしてならないのだ。
ラスルは手にしたローブで胸元のふくらみにある印を力任せに擦りつけた。白い肌は赤くなり、小さな刻印は更に色鮮やかに主張するように浮かび上がる。
二十年近く有り続ける刻印が今更消えるとは思ってはいなかったが、久し振りに目にして忌々しさに心が騒いだ。
ラスルは頭を振ると一気に身を湯船に沈めた。身体が酸素を求める極限まで水中で我慢し、耐え切れなくなった所で勢い良く水面を突き破る。より多くの空気を求め大きく口を開いて肩で息をし、肺が酸素を取り込む度に刻印の浮かぶ胸が上下する。鳥の巣のように絡まりぐしゃぐしゃだった髪は濡れ、黒蛇がラスルを拘束するかに白い肌に張り付いていた。
難しい顔をし、肩で息をしながら顔に纏わり付いた髪を手で払い除け何気に振りかえると―――青い瞳と視線がぶつかる。
陽の光を浴びて僅かに紫を帯びた瑠璃色ともとれる青い瞳がこれでもかと言わんばかりに見開かれ、ラスルの漆黒の瞳と重なっていた。
ふわりとした淡い金髪が光を反射して眩く輝き、その美しさにラスルは暫し身惚れる。するとその美しい髪の持ち主は青い瞳を細め、口角を上げてにっと笑った。
「もしかして誘ってる?」
黒いローブとタオルを手にしたアルゼスが、鳩尾から上を湯船から出し惜しげもなく柔肌をさらしているラスルに余裕の笑顔で問いかける。
意味を理解しかねたラスルが眉間に皺を寄せると、反対に余裕を見せていたアルゼスの方が動揺し視線を反らして頭を人差し指で掻いた。
「そんな裸体を披露されたらさすがの俺でも理性が飛ぶぞ。」
抱き上げた体は軽く、腰も尻も細過ぎた。
なのにこの胸の発育は反則だろうと愚痴っていると、ラスルもやっと自分の置かれた状況を把握し始める。
「―――っ!!!!」
ラスルは声にならない悲鳴を上げると同時に、腕で前を隠して勢い良く湯船に座り込む。恥ずかしさに息を止め、目元まで湯に浸かって茹でダコのように真っ赤になっていた。
「何か言って欲しい?」
「………何も。」
消え入るような声が返されると、アルゼスは手にしたローブとタオルを側の木の枝にかけ、そのまま踵を返してもと来た道を戻って行く。
ぼさぼさ頭で薄汚れた小汚い娘が次に見た時には、水も滴る見目麗しい娘に様変わりしていた。埃っぽい鳥の巣の様だった頭は艶やかな漆黒の髪に変わり、濡れた白い肌にまとわりついて尚も水面に漂っていた。髪と同じ漆黒の瞳は光に揺れ、僅かに開かれた赤い唇は艶めかしくまるでアルゼスを誘っている様だったのだ。
そんな色香漂う全裸のラスルを目の当たりにし、アルゼスは意外にも冷静で紳士的だった自分を褒めてやりたい気分に陥る。というより褒めるべきだ。カルサイトがいたら叱られるだろうが。
穴があったら入りたい……いや、穴がないなら掘ればいいと本気で穴を掘り兼ねない勢いでラスルは恥ずかしさにのた打ち回っていた。
いやいや……恥ずかしいとか言っている場合ではない。裸を見られた事よりももっと気にしなくてはいけない事がラスルにはある。羞恥と長湯で茹でダコになりながら湯から這い出すと、木の枝にかけられたタオルに手を伸ばした。
「ちょっとぉっ?!」
アルゼスの気遣いにより汚れないように地面に置くではなく枝にかけられたローブとタオルは、ラスルでは僅かに手の届かない高さにあった。
見上げる程背の高いカルサイト程ではなかったにしろ、アルゼスもラスルの背を余裕で超えている。それに加えスウェールの者にありがちな長い手足。アルゼスが余裕で手の届く場所に着替えを掛けてくれたとしても、彼らよりも小さなラスルには届かない場所だ。
跳躍してタオルの端に何とか手をかける事に成功したものの、同時にローブが降って来た。タオルでぐしゃぐしゃと髪を拭いてから身体に残った水分を拭う。
「見られたかな―――」
ラスルは胸元に刻まれた刻印を手にしたタオルで隠すように強く押した。
すぐ目の前で見られた訳ではないのだから、見られたとしても形の判別までは出来ていないだろう。もし判別できていたとしても、アルゼスが刻印の意味を知らなければ問題はないのだ。
新しいローブに袖を通し濡れたローブを手にしてあばら屋に戻ると、適当な場所に濡れたローブを干す。アルゼスは古い本を手にショムの木の木陰に腰を落ち着けていた。
その古い本は魔法書だ。魔法について学び始める子供が最初に読む基本が記されているのだが、大陸でごく一般的に使われている文字ではなく古代文字で記されているため、古代文字に馴染みのない魔法使い以外では解読するのは困難だろう。だがアルゼスはそれに構う事無くゆっくりとページを進めて行く。
「読めるの?」
意外そうに本を覗き込むラスルにアルゼスはふっと鼻で笑った。
「これでも一応王子様なんでね。」
「魔法に興味がある?」
ラスルはアルゼスとの間に一人分距離を開けて座った。
「俺達にはないものだからな。」
実力の差はあれど、剣なら訓練次第で誰にでも握る事が出来る。だが魔法は生まれながらのものだ。後から欲しいと願っても、その血を受け継いでいなければ手に入れる事はけして叶わない。
「剣と魔法の両方使えたら世界征服できそう。」
だから魔法使いは魔法意外の力は弱いのかもしれない。
「支配は出来ても治めるのは難しいだろうな。」
国が大きくなり過ぎると統治し維持して行くのも困難になる。広大になり過ぎた領地を隅々まで管理するのは容易な事ではないのだ。
「所で、お前の左胸にある入れ墨は何だ?」
突然の事にラスルは心臓が飛び出しそうなほど驚いた。
「ななななんっ……なんでっ?!」
「何でって、ちょっと気になっただけだ。答えたくないなら別に構わないが?」
女で、しかも胸元に入れ墨を入れるなんてスウェールでは有り得ない。あっても娼婦位のものだ。魔法使い特有の印かと思い適当に見繕った本を開いてみたが、知りたい答えは今のところ見当たらない。
ラスルの動揺の仕方からすると魔法使い特有のものではないかもしれないと思ったが、裸を見られて焦っているだけのようにも見えるので何とも言い難い。
「えっと……じゃあ秘密でお願いします。」
あたふたと挙動不審なラスルをアルゼスは半眼開いて見据えた。
焦るラスルにアルゼスの悪戯心がくすぐられる。
「秘密……そうだな。命の恩人でもある娘の裸を見たなんてカルサイトに知れたら面倒な事になる。俺としても秘密にしておいてくれた方が助かるな。」
そう言ってアルゼスがラスルの頬を撫でると、ラスルは顔を真っ赤にして後ろに仰け反り、バランスを崩して後頭部を地面にぶつけた。
「―――っ!」
「大丈夫か?」
ラスルの反応があまりに新鮮で調子に乗ったアルゼスは、仰向け状態で倒れているラスルの顔の横に両手を付いて影を落とす。
今にも圧し掛かられそうな体勢に、ラスルは身を小さくして青ざめつつも顔を赤くした。
「なっ、何?!」
アルゼスの整った綺麗な顔が必要以上に近付いて来てラスルは更に身を縮める。
「俺さ、する事なくて暇で死にそうなんだよな。だから世話になってる君へのせめてもの恩返しに、色々と楽しい事でも教えてあげようかと思ってね。」
アルゼスは密着しそうな程に体を摺り寄せ、ラスルの濡れた黒髪を額のあたりから撫で付けた。
剣を握り慣れた大きな手が髪を撫で、頬に触れた後、その指先がラスルの顎を捕える。
ラスルの赤く朱を帯びた柔かそうな唇にアルゼスの唇が重なる―――その間際。
ごきっ……
鈍い音が二人の間で響いた。
「こんっっのっ、エロ王子―――っ!」
ラスルの拳がアルゼスの左頬を直撃したのだ。
か弱い娘の力で殴られても鍛えているアルゼスに大した衝撃は与えられはしないが、それでも予想してなかった攻撃をまともに受け、アルゼスは頬を押さえて驚き目を見開いた。
な、何だ今のは?!
女に殴られたのも初めてなら、女が拳を作って殴って来るなどという認識も持ち合わせていないアルゼスは唖然と膝立ちになり、その隙にラスルは身体を滑らせ脱出した。
「暇で死ぬなら遠慮なく死ねっ!」
静寂な世界にラスルの罵声が轟いた。