希望
ザイガドの訪れによって一時は持ち直したと思われたものの、心に受けた傷というものはそう易々と癒えるものでもない。
ラスル自身は生きる為に自主的に食事を口にしだしたのだが、体の方がそれを受け付けないのだ。
食べては吐くを繰り返し、ラスルは見る間に痩せ細って行き、手を尽くそうとするシュオンも彼女を心配するあまり心労で同様に痩せて行く。
アルゼスは殆ど飲まず食わずの状態であったラスルを心配していたが、この日ばかりは心に僅かなゆとりと希望があった。
イジュトニアより王太子イスタークが訪問して来るのである。
無駄にスウェールに攻め入った賠償の話し合いだが、実際話しは付いていて現実には調印だけに等しい。
過去に多大な借りのあるイジュトニアに対しスウェールが要求したのは魔法使いの貸出だけだ。
シュオンのように本来なら白の光を宿しているにも関わらず、先入観によってそれよりも劣るものと解釈されてしまっていた事実もある。同時に有効な魔法の使い方などスウェールにおける魔法師団の戦力拡大のため、純血種であるイジュトニアの魔法使いに指導を仰いでみようと考えたのだ。
自尊心の強いスウェールの魔法使い達からの抗議と確執はあるだろうが、指導者として迎えるのはイジュトニアでは魔法師団に現役で身を置く魔法使い。圧倒的力の差を見せつけられ、ねじ曲がった心根を少しでも改心してくれればという思惑もあった。
表向きの理由は何にしろ、アルゼスはイスタークの訪問を心待ちにしていた。異母兄であるイスタークの顔を見ればラスルの心も少しは晴れるのではないかと考えたからだ。
しかし予定の時刻を半日過ぎてもイスタークの訪問は告げられず、迎えに向かった者よりの知らせもない。待つ事―――待たされる事に慣れていないアルゼスは苛付きながらも、イスタークの訪れを今か今かと待ちわびるしかなかった。
この時既にイスタークは単身スウェールの王城に侵入し、ラスルと対峙していたなど―――遠く城下を見つめるアルゼスには思いもよらない事態であった。
ラスルは己が目を疑った。
いつものように寝台にぼんやりと横たわっていると音も無く扉が開いて傍らに人の気配を感じたのだ。
シュオンでもアルゼスでもない―――何処か懐かしい、温もりを湛えた気配。
そっと視線を馳せると、そこには漆黒のローブに身を纏った青年が柔かな微笑みを湛え静かに佇んでいたのである。
ラスルは驚き、寝台からゆっくりと身を起こす。
「イスターク?」
目深に被られたフードも、下から覗き込む形になるラスルには邪魔とはならない。
イジュトニア特有の青白い肌、漆黒の瞳。
見下ろす青年はイジュトニア王太子、ラスルにとっては異母兄にあたるイスタークその人であった。
最後に会った時をよく覚えている。
スウェールとイジュトニアの国境でラスルを見据えたイスタークの視線は何処までも凍て付き、ラスルを拒絶していた。イジュトニアに災いを齎す存在として、ラスルがイジュトニアに戻る事を無言ながらも全身から発する気で強く拒絶していたのだ。
それが今ラスルの目の前に佇むその人は、少女だったラスルを救った時同様、それ以上に優しい微笑みを湛えラスルを見下ろしているのである。
「ラウェスール、久しいな。」
そう言ったイスタークはラスルと同じ視線になるよう腰を沈めると、ラスルの頬にひんやりと冷たい手を伸ばし優しく撫でた。
掌から伝わる低い体温。だが何処までも優しさを感じる。じんわりと、無表情のラスルの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
イスタークはラスルの背に腕を回し、そっと優しく抱きしめる。すると戸惑いがちだったラスルの瞳からは堰を切った様に一斉に涙が溢れ出し、ラスルは鳴き声を上げ自らイスタークにしがみ付いた。
寂しいと、心が悲鳴を上げる。
あまりにも弱い。
辛いと言えなくて、心が頼りしがみ付ける場所も無くどうすればいいのか解らなかった。差し伸べられた優しさに縋りつく進歩の無さなどお構いなしに、ラスルはイスタークにしがみ付き、ただ咽び泣く。
息が詰まる程声を上げ、涙を流すラスルをイスタークはただ優しくなだめるように無言で抱き締め続けた。
「辛い思いをさせた。そなた一人で背負うにはあまりにも重い現実であったな。」
悪かったと詫びるイスタークに、ラスルは嗚咽を漏らしながら頭を振る。
「何も……イスタークは何も。全てはわたしのせい。わたしが招いてしまった事だわ。」
「そうやって全て一人背負う必要はない、もう何も気に止むな。そなたに宿る悪しき魂は私の手で処分しよう。そなたが身に受けた辛さには到底及びはしないが、幼き命を葬る責めは私一人が背負って生きて行こう。」
それが唯一兄としてラスルにしてやれる事だと、イスタークは優しく微笑みながらラスルの下腹部に手を翳した。
その瞬間―――ゆらりと淡い深紅の光が浮かび上がる。
いったい―――何?
意味が解らずイスタークの言葉を頭の中で整理していたラスルであったが、身の内に放たれようとしている魔力を感じ、ラスルは咄嗟にイスタークの手を払い除けた。
一連の動作の後、手を払い除けられたイスタークも、ラスルも、互いに疑問に満ちた瞳で見つめ合う。
「何、どういう事……悪しき魂って何?」
悪しき魂―――やはり自分は何かに呪われているのだろうかと、ラスルは胸に刻まれた刻印の位置に手を伸ばす。処罰なら受ける覚悟はあるが、何かが違うと本能が察し払い除けたイスタークの手。胸の印に刻まれた呪いと噛み合わないイスタークの行動をラスルは本能で拒絶する。
「幼き命ってわたしの事? イスタークがわたしを殺してくれるの?」
懇願するかに縋りつくラスルの瞳に、イスタークは眉間に皺を寄せた。
「そなた、身に宿る命に気付いておらぬのか?」
「宿る……命?」
ラスルは茫然と呟き、おもむろに手を下腹部に当てがう。その様子にイスタークはしくじったとばかりに溜息を漏らした。
「気付いていなかったのならば伝えずに処分してしまうのであったのだがな。」
気が効かずすまないと、イスタークは再度ラスルの腹に手を翳そうとする。
「待って、待ってイスタークっ。」
ラスルは片手で腹を守りながら、もう片方の手で差し伸べられるイスタークの手首を掴んだ。
突然の事で何が何だか分からない。
身に宿る命?
それって―――どうしてイスタークがそんな事。
もしそれが本当なら……それは―――!!
ラスルの脳裏で疑問と戸惑いが渦巻いていた。
(そんな事が、そんな事があるなんて―――!)
驚きと戸惑いが通過すると何とも言い難い感情が体の中から湧き起こってくる。失ってしまった大事なものが舞い戻って来たような錯覚すら覚え、ラスルは己の腹を守るように両手を添えると、泣き笑いにも似た表情を浮かべ静かに涙を流した。
(こんな所にいてくれたなんて……)
カルサイトに抱きしめられた感覚が鮮明に蘇り、物理的にあるはずのない温もりを確かに感じる。そんなラスルの背にイスタークはそっと手を伸ばすと、様子を確認するかに顔を覗き込んだ。
「フランユーロの悪しき血ではないのだな?」
フランユーロに囚われていたのだ、グローグ王の血を受けた子を宿していたとしても不思議ではない。
ラスルと対面した瞬間、イスタークはラスルの胎内に宿る新たな命の輝きを知り、当然その父親がグローグであると思い込んでしまった。ラスルの憔悴しきった様子も全てそれを案じての事と勝手に受けてとったのだ。
もしそうなら産まれ出でてはならない命だ。
胎内に宿る命が例え敵国の、望んだ相手の血を引く物ではないとしても、子を宿した女は母となる。産まれても処分される命なら産ませない方がいい。その役目は兄である自分が担おうと―――小さな命を摘み取る役目をかって出はしたのであったが。
イスタークの問いにラスルはこくこくと小さく、何度も何度も頷いた。
「違う、違うよ。大事な、大切な人の……誰よりも大切な人から貰った命。」
「そうか。ならば良いのだ。」
イスタークは笑みを浮かべながら答えると、ぽろぽろと涙を流し続けるラスルを抱き寄せながら複雑な思いが巻き起こる。
ラスルの寿命が迫っているのをイスタークは知っていた。子を産む事はそれに拍車をかけるだろう。しかし宿る命はラスルにとって希望となり得る物なのだ。それを取り去るのはあまりに惨い行いではないだろうか。
産んでも、産まずとも辛い現実が待ち構えている。
半分とはいえ同じ血を分けるにもかかわらず幸薄いラスルが哀れで、それでも何が不幸かはラスルが決める事でありイスタークが口出しすべきではない。表向きにはそうだと分かってはいるのだが―――
産まれて来る子が純血種でないのは解り切っており、その子の行く末をイスタークが保証してやれる訳でもなく、ラスルから感じられる残りの寿命もそう長い物ではない。出産によってそれがさらに削られるのは確実で、子を宿す事も出来ない男の身ではやはり優先順位は目の前の異母妹であった。
ラスルが気付いていないのであれば内密に処分してやりたかったと、これからラスルが背負う更なる悲しみにイスタークは胸を打つ。
大切な人からもらった命と、突然の現実に不安と戸惑いを抱きながらも大事そうに己が腹を守るラスルに、イスタークは過去に垣間見たイシェラスの姿を重ねていた。