一夜明けて
王子が私室に女性を招き入れたという噂は瞬く間に広がった。
一晩だけでも王子が女性を私室に招くというのは、その女性が王子にとって特別の存在であり、単なる妾ではなく愛妾という地位を即座に手に入れたと言っても過言ではないからだ。
特にアルゼスは妾の一人も持たない故、噂の広まりも早いものだった。
未遂に終わり結果的に男女の営みはなかったとはいえ、重要なのは『王子の私室』で女が一晩共に過ごしたという事だけだ。
クレオンの制止にも耳をかさず、ラスルを抱え部屋に籠ってしまったアルゼス。
忌々しく思いながらもクレオンは、翌朝王子の部屋から出て来たラスルにうやうやしく頭を垂れ、「おめでとうございます」と祝いの言葉を述べた。
ラスルに向かって頭を下げながら、祝辞はラスルへ向けたものではない。
勿論ラスルの後方に立つ主に嫌味を込めての言葉だ。
いったい何がめでたいのか。
意味の分からないラスルが後ろに立つアルゼスを見上げると、アルゼスはばつが悪そうに苦笑いを浮かべ、何でもないと言って部屋まで送り届ける予定を中止しラスル一人を先に行かせた。
胸元を押さえ怪訝な表情を浮かべるラスルだったが、言われた通り廊下に敷かれた絨毯を避けて歩きながら部屋へと戻って行く。
そんなラスルをクレオンは横目で見送ると、わざとらしく大きな溜息を吐いた。
「随分と乱暴なさったようですね。」
早速嫌味の続きかと辟易しながらアルゼスは部屋の中へと踵を返し、それでも負けじと抗議の声を上げた。
「案ずるな、手出しはしていない。」
後ろから追って入室して来たクレオンは仰々しく額に手を置く。
「交わりの事実など興味はありません。要は殿下が女性と枕を共にした―――一晩をこの部屋で明かしたという事実だけが尊重されるのだと今更私に説かれずともご存じでしょう?」
勿論アルゼスは十分理解している。妃はともかく妾すら手元に置くのが面倒だ。それ故過去に相手にした女の誰一人として私室に招き入れた事はなかった。
それなのに―――ラスルの事となると理性を忘れる。クレオンの制止も聞かず欲望の示すまま身勝手に動いてしまった我が身が呪わしい。
無言のまま眉間に皺を寄せ考え込むアルゼスに、クレオンは全くもって世の中は上手くいかない物だと心の中で呟いた。
相手がラスルでなければ諸手を上げて喜びたいが、いわく付きの娘……生まれは王女であるとて今は何の身分もない。百歩譲り後見人を立てようが良い所妾止まりで、しかしながらアルゼス自身はそれを望むまい。しかもラスルは既に臣下の、カルサイトと情を通わせているのだ。
黙ったまま主を見つめるクレオンの視線に気付き、アルゼスは一瞥を送る。
「どの道お前が揉み消すのであろう?」
「勿論そのつもりです。」
都合の悪い事をなかった事にするのは得意だ。この様子からするとアルゼスも、無理にラスルを手元におこう等と我儘を言う気はないらしい。
「カルサイトは登城済みか。」
「昨夜は当直故まだ城内にいる筈ですが?」
「呼んでくれ―――いや、俺が行こう。」
「お待ち下さい殿下。」
扉に向かって歩き出したアルゼスの足をクレオンが止める。
昨夜アルゼスがラスルを抱き抱え私室に籠った事実を多くの物が目撃し、早朝にも関わらず城仕えの者たちによって瞬く間に噂が広がったのだ。当然カルサイトの耳にも届いているに違いなかったし、アルゼス直属として仕える騎士故、知っていなければおかしな話でもある。
火に油を注ごうとしているのではないかという思いがクレオンの脳裏を掠めた。
長年付き合って来ただけに、女一人の問題でカルサイトが忠誠を違える事はないと分かってはいたが、それでも歪が生まれやしないかは心配だった。
「今はお止めになった方が宜しいかと。」
「いらぬ気は無用だ。」
アルゼスは重厚な扉を軽々と開くと、迷いなくしっかりとした足取りでクレオンの前から姿を消した。
ラスルは薬草だらけの仮住まいに戻ると、無残にも引き裂かれたローブを脱ぎ捨てる。すると白い肌が曝され、胸元に出来た幾多もの赤い痕が目に飛び込んで来た。
さすがに恥ずかしくなり、洗い替えに持参していた同じ黒のローブにそそくさと袖を通すと、少し遅めになってしまったがいつも通り部屋を後にする。
白い靄のかかる外気の中を歩いて森へと向かおうと、建物を出た所で背の高い男の影が目に止まった。
いつからそこに立っていたのか、後ろに束ねた銀色の髪が朝露でしっとりと濡れている。
口を真一文字に噤んだカルサイトは、立ち止ったラスルと暫く視線を重ねていた。
昨夜ラスルの身に起きた事、それについてカルサイトがどう思っているのか手に取るように分かる。
カルサイトを受け入れ、結婚の申し込みまで受けたのはつい先日の出来事だ。そのラスルが一晩他の男と一夜を共にしたのだ。相手がアルゼスであったせいで拒否権が無いと解っていても、ラスルが素直にアルゼスの命令に従う女でないのはカルサイトとて解っている。それでも彼はけしてラスルを責めはしない。そこにあるだろう理由を探ろうとする視線をラスルは恐れ、ふいと顔を背けると行くべき場所を目指して歩みを始める。
「ラスル―――」
後を追ったカルサイトがラスルの細い腕を掴むと黒髪が揺れ、首筋に出来た赤い痕が目に止まり、カルサイトははっと息を呑んだ。
「いったい何が―――」
何があったと言いかけ口を噤む。
表情を固く強張らせ、ラスルの受けた痛みを己の内で受け止めようとするカルサイトに、ラスルは思わずその逞しい胸に飛び込みたい衝動に駆られた。
切なくて―――辛かった。
事実を全てそのままぶちまけてしまいたい。
しかし口をついて出たのは、心に描く思いとは全く正反対のものだ。
「王子様と一晩一緒にいた。なにも酷い扱いは受けてない、わたしの方が王子様を受け入れたの。」
無表情に冷たい瞳を浮かべ、辛辣な言葉を口にするとラスルは掴まれた腕を振り解き、そのまま森を目指していつもの道を進んで行く。
ラスルの言葉を信じられない思いで耳にしたカルサイトは、かつて彼が一度も見せた事のない驚きと不安を交えた複雑な表情で紫の瞳を見開き、その場から全く動けず黙ってラスルを見送っていた。
冷静でいる為にはどうすればいいのかなど、自然と身に付けた常識が全く思い出せない。
ラスルの告げた言葉の裏にあるものを探ろうにも、突き付けられた冷ややかな視線が想像以上に打撃を与えていたのだ。それ故、背後に接近して来た気配に気が付けなかった。
「カルサイト―――」
突然かけられた声に驚き、思わず剣の鞘に手をかけた状態で振り返ってしまう。
「殿……下。」
そこには硬い表情を浮かべたアルゼスが、剣の鞘に手をかけたカルサイトを前に真っ直ぐな視線を向けて立っていた。
互いに剣を極める者同士、鞘に手をかけた時点で殺気を発したカルサイトにアルゼスが反応しない訳がない。例え信頼できる主従関係が成り立っていたとしても、研ぎ澄まされた感覚で僅かな危険をも回避しようと体が反応する筈なのだ。
アルゼスはカルサイトに切られるつもりで、そうまで行かずともそれなりの制裁を受ける気持ちをもってこの場に立っていた。
驚きの表情を浮かべるカルサイトに向かって、アルゼスは瞼を伏せると頭を垂れる。
「悪かった―――」
「殿下?!」
それに驚いたのはカルサイトだ。
一瞬で我に返るとアルゼスの前に跪き、主よりも低い体勢で頭を下げる。
「俺の口から信じてくれとは言えないが、彼女の名誉の為にも言わせてくれ。ラスルを手にかけようとしたのは事実だ。だが何もなかった。ラスルが俺を受け入れたというのは偽りだ。あいつは……ラスルは、お前以外の男を受け入れられるような精神状態にはない。」
今のアルゼスに出来るのは、ラスルの想いを出来る限りでカルサイトに伝える事だけだった。
償いという訳ではないが、その気持ちも含まれていただろう。思わぬ告白を受け、その命にまつわる真実がいかなる物なのか解らない状態では無暗に口にも出来やしない。それでもこうして頭を下げるのは、ラスルを我が手に得るのではなく、愛しい人の心が少しでも軽くなれる場所を失わせない為にである。
「俺に言えた義理ではないが、ラスルの拒絶はお前を想っての事だ。俺ではラスルの支えにはなれない。ラスルが支えに出来るのはお前だけだというのに、抱える背景に怯えお前を遠ざけようとしているんだ。俺に出来るのは彼女を傷つける……ただそれだけだった―――」
力ずくであんな状況に追い込み、辛い過去を思い出させたのは同じ思いを二度味合わせたも同じ。そして否応なしに辛い現実を吐露させたようなものだ。
「殿下……どうかお顔をお上げ下さい。」
気さくな仲とは言え、絶対的権力を持つ主でなければならないアルゼス。そのアルゼスに頭を下げさせたままでは話も出来ないし、もともとはアルゼスの想いを知りながらラスルに手出ししてしまったのは自分の方なのだ。カルサイト自身、アルゼスとラスルの二人に何があったとて文句を言えた筋ではない。
互いが頭を下げ合う中、早足で駆けて来るクレオンの気配が二人の頭を上げさせた。
クレオンの緑の目が何時になく厳しく、アルゼスを目に止めると礼を取る時間も惜しいとばかりに駆けながら口を開く。
「殿下、直ぐにお戻りを。フランユーロの軍が国境に集結していると早馬よりの知らせがございました!」
知らせを受けアルゼスは、思ったよりも早かったかと舌打ちする。
「話しの続きは後だ、行くぞカルサイト。」
二人の顔つきは瞬時に王子と騎士のそれに変わり、今までのやり取りなどなかったかに気持ちが切り替えられた。
フランユーロは国の威信をかけ捨て身でかかって来るだろう。幾多もの犠牲が出てしまうだろうが、避ける事の出来ない争いは間近に迫っているのだ。
守りたいものがある。国も民も、そしてラスルも。
犠牲を恐れては何一つ守れはしない。
アルゼスの瞳は目の前の戦いに向け恐ろしい程に鋭く輝きを増していた。