不安の矛先
闇夜に降った初雪から数日。
魔法による治療を必要とする兵士も底をつき、残されたのは擦り傷程度の軽傷者となった為、後は現場を仕切る医師に任せラスルは森に入り薬草を探すのが日課となっていた。
主だった目的は雪花の種を見付ける事だったが、この数日毎日欠かさず森の中を歩き回っても採取には至らない。しかし雪花はとても珍しい花なので簡単に見つかるとは考えていなかった。それ故ラスルは雪花を探し出せずとも大して残念に思いはしない。
それよりも場所の違いか、冬にも関わらずラスルが住まう森とは異なる薬草が豊富に発見されるので、物珍しさも手伝いラスルは薬草採取をとても楽しんでこなしていた。
もともと王家が管理する森、しかも魔物も出没する危険な場所故に一般人が出入りするのは稀だ。そのため多くの薬草が手付かずのまま残されていた。
ラスルが採取し調合した薬草はなにも軍事関係者だけのもではない。世話になった療養所の医師に調合した数種類の薬を持ち込み、訪ねて来る一般人にも必要な人に分けて欲しいと渡すと、意外そうな顔をされた後で豪快な声を上げ笑いながら喜ばれた。
魔法使いが自らの手を汚し、身分低い兵士や一般人に治療を施すだけでも珍しいのに、ラスルはそれだけではなく薬師が手掛ける仕事までこなし、調合された薬を見るとその腕も一級だ。スウェールでは魔法使いと薬師・医師は全く別物である為、ラスルが持つ薬剤の知識に薬を手渡された医師は感嘆の声を上げた。
地面を踏みしめる度に霜柱が軋む音を立て、吐く息は真っ白で立ちのぼる煙の様だ。
しかしながら早朝の冷え込みなど気にも止めず、ラスルは頭から足の先までを黒いローブに身を包んで森へと向かう。闇雲に徘徊しているように見えて、ラスルはこの数日ですっかり森の地理を覚え込んでしまっていた。
早朝の出立の為、朝食はとらない。空腹を覚えたら森の恵みにあずかるのだが、実りの秋とは違い食べ物は希少だ。故に芋の蔓を見付けると素手で土を掘り、掘り当てた芋の土を拭って洗いもせずそのまま口に運ぶ。
女としてどうかと思える食べ方だが、貧しい民はそんなこと気にはしない。口に運べる食料があるだけでも有り難く、幼少より生活の場が旅という安定した場所でなかったラスルは贅沢にも慣れてはいなかった。どんな場所でも生きて行け、口に運べるものなら土が付いていようと何の不満もないのだ。
しかし、それに大きな不満を持ったのがアルゼスである。
早朝より出かけ、帰りも遅い。まともな食事もせず再び倒れるような事があればと心配し、日が暮れる前に戻りアルゼスと食事を共にするよう、最終的にはアルゼスが頭を下げ頼み込んだ。
命令はきかないと豪語したラスルだが、約束は守る。規則正しい生活を送る事によって改善される問題ではなかったが、それでアルゼスが安心するならとラスルも大人しく従った。
約束通り日が暮れる前に森から戻ったラスルは、採取した薬草を冷たい井戸水で手早く洗うと部屋に持ち込み床に広げる。
その足で約束の場所―――アルゼスと共に食事をする為、本来ならラスルの様な薄汚れた娘などは絶対に立ち入れない場所へと歩みを進めて行くのだ。
ラスルを迎えるにあたり、アルゼスは夕食を執務室に通じる隣室で取るようにしていた。そうでなければ食事は自室で取るのが常であったが、王子が私室へラスルを招き入れるのをクレオンが許可しなかったのだ。無理を通すなら可能なのだが、それによってクレオンがラスルに抱く印象を更に悪化させないとも限らない。出来るなら避けたい事柄ゆえ、アルゼスはクレオンの言葉に逆らう事はなかった。
ラスルは衛兵の守る扉を潜り、準備万端整ったいつもの席に立つ。するとラスルが入って来たのとは別の執務室と部屋を直接繋ぐ扉が開き、凛とした威厳ある顔つきのアルゼスが入室して来た。
無言のまま席に着いたアルゼスに倣い、ラスルも腰を下ろす。
それを見届けたアルゼスが無言で左手を肩の高さに上げると、給仕一同が礼をし、そのまま部屋を後にした。
残されたのはアルゼスとラスルのみ。
いつも通り二人になるとアルゼスは緊張を解くように頬を綻ばせる。
「そろそろ湯浴みをしてはどうだ?」
「ちゃんと昨日入ったよ。」
毎度毎度しつこいなと呟きながらラスルは白いナプキンを膝に広げた。
森から帰り、薬草を洗うついでに手を洗ってはいるものの、身なりに無頓着なラスルは汚れた姿で人前に出ても気にしない。アルゼスも慣れた物でそれを不快に思いはしないが、少しでもラスルの印象を良くしようという思いの表れだった。
それに―――
「そのわりには酷く汚れているようだが?」
森に入り、土を掘って食事にありつく様な娘だ。湯浴みをし体を洗っても一日たてば直ぐに汚れてしまう。普通これだけ汚れていれば直ぐにでも湯浴みをして体を清めたいと思うのが乙女心なのだろうが、ラスルには一度体を清めれば数日は大丈夫という悪習慣が根付き、一向に気にする気配はない。それはそれで男避けにもなるだろうが女としてどうなんだと、アルゼスは少々複雑な思いを抱いていた。が、何時も湯浴みの話ばかりするアルゼスに、この話題になると最近はラスルの無表情が歪む。嫌われるのはごめんと、さすがにアルゼスもそれ以上身なりの話題には触れず、ナイフとフォークを手に料理を口へと運び出した。それにアルゼスは香水臭い女より、身なりに無頓着な土と薬草の匂いを纏うラスルの方が好みでもある。
アルゼスが食事に手を付け出した事でラスルも歪めた表情を元に戻すと、ナイフとフォークで器用に食事を始めた。
食べ物は手掴み、落ちたとて気にしない。泥付きの野菜すら抵抗なく口に運び、自ら狩りすらこなす。大人しく席について食事をする習慣すらないように思えたラスルだったが、数年という短い期間とはいえイジュトニアで王女としての教育を受けただけはあった。手元にたどたどしさはなく洗練された良家の子女同様、流れるような所作でテーブルマナーをこなしている。嫌々ながらも外交用に受けた教育で、この様な食事の席ではラスルも自己流ではなくきちんとマナーに従っていた。
そんなラスルの様子を目にしながら、アルゼスは思い出したように口を開く。
「正式決定ではないのだが、近々イジュトニアの王太子イスターク殿がスウェール入りする事になるだろう。」
その言葉にラスルの手が止まり、視線がゆっくりとアルゼスへと向けられる。
漆黒の瞳は揺れ、表情は強張り緊張していて、恐れと……深い疑問に満ちた、けして友好的といえる顔つきではなかった。
イジュトニアに良い思い出はないだろうが、先日ラスルを気遣うイスタークを見ていたアルゼスは、二人の関係は良好でこれを耳に入れればラスルが喜ぶだろうと思っていただけに、不意を突かれた様にアルゼスは言葉を詰まらせる。
嫌な空気が流れたがそれを破ったのはラスルだった。
「何でイスタークが?」
フランユーロに操られての事とは言え、イジュトニアがスウェールに侵攻した事実は消えない。その為賠償責任を被る事は解るが、実際に危害を加えた訳ではなく、最終的にイジュトニアはスウェールに侵攻したフランユーロ軍の撃退に力を費やした。そこまでしているのに王太子自らが賠償の話し合いの席にスウェール入りして来るなど……これではイジュトニアはスウェールに対しあまりにも低く出過ぎである。
それに王の子は王太子であるイスタークだけではない。ラスルには見も知らぬ兄姉が幾らでも存在しており、安く見積もってもその中の誰かであってもお釣りがくるほどではないだろうか?
「イジュトニアが使者をよこすって事はフランユーロとの件が片付いたってことでしょう? フランユーロが……グローグ王がこのまま黙っているとは思えない。間違いなくスウェールに攻めて来るよね。その相手をイスタークが買って出るって事?」
スウェールだけではなくイジュトニアもフランユーロの侵攻を受けているのだ。そこにスウェールに送り込んだ魔法師団の帰郷が間に合ったのなら、フランユーロが返り討ちに合うのは確実。仕掛けた戦に完敗ではさすがのフランユーロも対面を保つ事は出来ない。どれ程悔しがったとしても魔法使いの圧倒的な力を前にしては再び侵攻して行く事はあり得ないだろう。だとしたら標的はスウェールという事になる。それも近日という可能性が一番高い。
あの灰色の野望に満ちたグローグ王の眼。あの雄々しい男が両国に完敗し、このまま黙って敗戦国としての汚名を着せられたままで小さくなっていられる筈がないのだ。
兄との再会を喜ぶよりも先に戦況を分析され、アルゼスは息を吐きながら肩の力を抜き柔かな笑みを浮かべた。
「確かにフランユーロは近く攻撃を仕掛けて来るだろう……が、今のスウェールはそこまで落ちぶれてはいない。」
イジュトニアの力を借りる気は毛頭ないとアルゼスは言い切る。
「王太子自らが使者に立つのは異例だが、それはラスル、お前がここにいるからではないのか?」
この言葉にラスルははっとし、思わず左胸に手を当てローブを握りしめた。
イジュトニア王家では、そこに刻まれた刻印のせいでラスルが何処にいるかなどお見通しなのだ。
あの日国境で再会したイスタークは厳しい威圧的な視線をラスルへと向け続けた。そこに好意の欠片は微塵もなく、過去ラスルをウェゼート王の手より救い出してくれた優しい温もりは幻であったかのような印象を受けたのだ。
それがたとえイジュトニアの王太子としての役目で取るべき行動であったとしても、それ程完璧に演じられるものかと思える程イスタークの視線は何者よりも冷酷で、ラスルの胸に深く突き刺さるものだった。
まるでラスルを愛する異母兄と、何処までも憎み続ける王太子の二人が存在するかの如く、そこに立つイスタークは完全に異なるオーラを纏っていた。
「ラスル?」
胸元を握りしめたまま深く考え込み動かなくなったラスルを不審に思い、アルゼスは席を立つと傍らに寄り添うようにして顔を覗き込む。
「どうした?」
心配そうな青い瞳に見つめられ、ラスルは小さく頭を振った。
「何でもない。ちょっと意外だったから―――」
それだけ言うとラスルは食事を中断し、席を立って扉に向かって進んで行く。
アルゼスは明らかにおかしいラスルの後を追ったが、扉を出た所でクレオンに止められこの時は黙ってラスルの背を見送る事しか出来なかった。
アルゼスとの食事の席を中座したラスルは城の最上階、物見の為に建てられた塔の屋上に一人佇んでいた。
屋根も何もない場所で、夜の冷気が直接肌に伝わる。高い位置故の荒い風が漆黒の闇に馴染む黒髪を舞い上げ肌を切る寒さをもたらすが、ラスルは寒さを感じる事無く、故郷である筈のイジュトニアがある方角をただじっと無言で見つめ続けていた。
いったいイスタークは何をしに来るのだろう?
自分がいるから……それはこの危険な存在を許せないからなのか。
けしてそうではないと解っているのに、最後に目にした印象があまりにも強烈過ぎて負の考えばかりが胸を騒がせる。
そんなラスルの背後から、いつも見守っているかのようにカルサイトが姿を現した。
「風邪を引くぞ?」
「寒くないよ。」
後方からの声にラスルは振り返る事無く答える。
カルサイトが塔を上って来る気配を早くに感じ取っていたラスルは別段驚くでもなく、ただじっとイジュトニアの方を見つめ続けていた。
そんなラスルの傍らに身を寄せると、カルサイトはそっと大きな手を細いラスルの肩に置く。
「何も案じる事はない。イスターク殿下が君を大切に想っているのは紛れもない事実だ。だからこそ自らが使者に立ち、君に会いたいと願ったのだろう。」
イスタークの話しを聞き、ラスルが不安に感じているというのが一目瞭然だ。
安心させるように肩を抱き寄せると、ラスルは何の抵抗も無く体をカルサイトへと預ける。暫く無言でカルサイトの体温を感じていたラスルは、自然と心が落ち着いて来るのを感じた。
駄目だ、こんな弱い心では前に進んで行けない。
ラスルは弱い自分の心にそっと苦笑いを浮かべる。
「その前にフランユーロが来るね。」
「―――そうだな。」
カルサイトはラスルに本気で参戦する気なのかと問いたかったが、己の意志を曲げるような娘ではないと知っているだけに口を噤むと、寒い夜空の下、今は黙ってラスルの細い肩を抱き寄せていた。