女の嫉妬
ラスルは乱れた吐息を漏らしながら、闇に光るフクロウの目をぼんやりと見つめていた。
大きな背に腕を回ししがみ付いていたが、息が整いふと顔を上げると紫の熱い視線にぶつかり、あまりの気恥しさから頬を染め額を摺り寄せるようにして俯く。と、肌蹴た逞しい胸板が目に止まり、更に顔を赤らめると身頃を引き合わせ、熱を持った指でボタンを閉じ目の前の光景を隠した。
こんな所で何て事を―――いや、この際場所などどうでもいい。
受け入れてはいけないと決めていたのに、結局は自分に負けたのだ。
自分の腕の中で真っ赤になって狼狽えるラスルがあまりにも愛らしくて、カルサイトは思わず噴き出してしまう。時折見せる大人びた表情とは異なり、実年齢よりずっと子供に見えてしまう瞬間だ。
頭に絡まる枯葉を払い除け乱れた髪を手櫛で整えてやると、ラスルは少し拗ねた様な瞳でカルサイトを見上げ、同じ様に手を伸ばして枯葉を払い長い銀髪を撫でつける。
相変わらず小雪はちらついてはいたが、二人は互いの熱で全く寒さを感じない。やがて上に乗っていたラスルが身をずらして起き上がると、カルサイトもそれに従う様に身を起しラスルの衣服を整えてやってから足元に跪いた。
ラスルを見上げ白く小さな手を取ると中指にそっと口付ける。
身目麗しい青年の行動に熱い指先がさらに熱くなる。ラスルは恥ずかしさも手伝い身を引くが、カルサイトが離れて行くのを許さないとばかりに指を絡め引き止めた。
「私と結婚して欲しい。」
「―――え?」
意味が解らず思わず訊き返してしまう。
本来ならこんな場所で、この様な状況で告白する事ではなかったが、愛しくて手放したくない気持ちが先立ちつい口を突いて出てしまった言葉。それを問い返され、カルサイトは思わず苦笑いを浮かべた。
「ラスル、私は君を心から愛している。これは一生を決める問題だ、答えは今直ぐに求めはしない。だからじっくり時間をかけて私との未来を考えてはくれないか?」
驚きと緊張で繰り返される瞬きだけが唯一の反応だった。
ラスルには未来が無い。が……それだけではなくて、もともと一人でひっそりと生きて行く事が唯一の望みだった。だからこそ誰かを愛し、添い遂げる―――まして結婚など。そんな考えは一瞬たりとも持った事が無く、己の人生にそのような言葉が持ち上がる事すら予想も、夢にも思っていなかったのだ。
先の無い自分に応えられる訳がない。
言葉の意味を理解し、直ぐに否定をしなければと口を開こうとするが驚きのあまり声にならない。期待を持たせてはいけないと解っていたが、心の内では喜びが生まれ、二つの思いに葛藤して反応する事が出来ずにいた。
やっとの事で声が出そうになった時、驚き戸惑うラスルを愛おしそうに見つめていたカルサイトの視線が反れ、僅かに眉間に皺が寄る。
それにつられラスルも同様に視線を向けたが、あるのは静寂に包まれた闇だ。だがカルサイトは明らかに何かに気付いており、そちらに視線を向けたまま口を開く。
「ラスル、この臭い―――」
「臭い?」
言われて初めて鈍っていた嗅覚が働き始め、何ともいえない微かな悪臭がラスルの鼻を掠める。
プロポーズという、色めいた場に相応しくないこの臭いは―――
「―――雪花?」
まさかこんな偶然があるだろうか。
雪花は極めて珍しい花で、栽培も禁止され、この森に慣れたカルサイトすらここに咲くと言う話しを聞いた事がない。それなのにラスルが探し求め、足を踏み入れた日に偶然にも運良く見付ける事が叶うとは―――怪訝に思いながらも期待に胸膨らませ、二人は色褪せた草を掻き分け臭いの元へと足を進める。
「「―――!!」」
その先で見つけたのは求めた雪花の種ではなく臭い通りの腐りかけた動物の死骸で、二人顔を見合わせると破顔し声を出して笑い合った。
翌朝カルサイトは前夜と打って変わって神妙な顔つきである場所を目指した。
そこはスウェールに籍を置く魔法使い達の訓練所の一つ。攻撃を主とする魔法使い達の訓練所は、木々で囲まれた中に広々とした屋外施設が設けられており、底なしとはいい難い魔力を補う為、剣や槍など武具を使って訓練に励む者が汗を流している。
訓練に精を出す魔法使いの中にあり、一際目を引く美しい姿をした女性の元へ迷いなく歩みを進める美貌の騎士。静かな怒りを湛えたカルサイトは、整った容姿をして生まれる魔法使いと比べても引けを取る所か、ここに集う者達の中にいても際立って美しかった。
穏やかさの欠片もない厳しい表情を湛えたカルサイトに、前に立たれた女はたじろぎ後ろに一歩身を引く。
彼女の名はユイリィ。魔法使いの制服ともいえる白いローブではなく、優美な線を露わにする体に沿った長衣に身を包み、豊かな胸とくびれた腰が強調され常に人目を引いていた。
「私の言いたい事は解っているな。」
初めて聞く、あまりにも冷淡な声にユイリィの背に冷や汗が伝う。
「何のことかしら?」
負けじと赤茶色の目で見返すと、カルサイトはマントの裏から折れた矢を取り出しユイリィに押し付けた。
「二度目はない。」
カルサイトに向かって放たれはしたが、実際にはラスルを狙った矢は出所が解らぬよう、その為だけに手作りされたものだった。しかし、その繊細かつ精巧な作り故にカルサイトを偽る事は叶わない。
「わたしじゃないわ。」
「奴の心を利用し、君がやらせた。」
ラスルの額を狙った矢。
闇夜の森でそれだけの腕を持った射手はそうはいない。耳にした男女の悲鳴とその正確さが自ずと犯人を導き出させた。
スウェール軍に身を置く弓の使い手。その男はユイリィに懸想し、いいようにあしらわれていた。
それだけで十分。
ラスルが望まないため犯人を表立って処罰するつもりはないが、傍らにいたカルサイトが許せる訳がないのだ。
ラスルは自分を狙ったと言ったが、ユイリィが行動を起こしたのはけしてラスルが優れた魔法使いであるが故にそれに嫉妬したからだけではない。勿論それもあるが、それだけならこの様な危険な行為に出る事はなかった筈だ。
随分前からユイリィはカルサイトに好意を寄せていた。それを知ってはいたが、興味のないカルサイトは自意識過剰な彼女を完全無視していたのだ。
自分に好意を寄せる女性に、その気がないのに期待を持たせたりはしない。恐らくそれが今回の結果を招いた。醜い女の嫉妬だが、危険を取り零したカルサイトの方にも責任がある。
「忠告はした。今後彼女に手を出そうという素振りでも見せようものなら―――その時は、例え魔法使いといえど相応の責めを負ってもらう。」
それだけ言い終えるとカルサイトは踵を返す。
「カルサイトっ!」
慌てたユイリィは周囲の視線も顧みずカルサイトの腕を取り行く手を塞いだ。
「待ってカルサイト!」
切れ長の整った赤茶色の瞳が見開かれ、訴える様にカルサイトを見上げていた。
「あんな陰気な女の何処がいいのっ。イジュトニアの純血種って以外でわたしが負けている所があるなんてとても思えない!」
自惚れても仕方がない、スウェールに魔法使いとして生まれた故の自信と気位の高さ。相応の美貌と力を持った彼女だけがこの様な考えを持っている訳でもないのだ。
力のある物に対しては忠実で、劣るものは見下す。それがスウェールに籍を置く魔法使いの特性でもある。
それでもいいと今までは思えた事だが―――カルサイトは徹底した冷ややかな視線でユイリィを見下ろした。
「君は―――己の醜さに気が付いていないのか?」
「なっ―――!!」
醜いなど―――!!
その言葉にユイリィはかっと頭に血が上り、手を振り上げるとカルサイトの頬を殴りつけた。ぱんっ……と乾いた音が響く。
「こうやって直接私に報復すればよかったのもを―――」
そうすれば名を地に貶める事もなかった。
殴られても顔色一つ変えず、カルサイトは何事もなかったかにユイリィの横を通り過ぎた。一方殴りつけたユイリィは言葉も無く目を見開き、赤く紅を塗った唇をわなわなと震わせている。
怒りに震えるユイリィとカルサイトの背を、同胞の魔法使い達は怪訝に見つめるばかりだった。
ユイリィはぎゅっと強く奥歯を噛み締め、幾度目か知れない敗北に怒りの炎を燃やす。
己の美貌がいかほどか十分に心得ていた。
スウェール国内においてユイリィに勝る女など存在しないだろうし、出会った事すらない。自他共に認める美しさに気高さ、そして魔法使い故の身分もあり、一時はアルゼスの妃候補として名が上がったほどなのだ。しかしながらカルサイトへの思いがあり二つ返事で断った。妃として最高の身分を授かる機会を袖にした。それがユイリィの誇りでもあったというのに―――!
それなのに当のカルサイトはユイリィに見向きもせず、どれ程迫り、時に引いても、ほんの少しの期待すら与えてはくれなかった。他の女には微笑む癖に、その優しく穏やかな瞳をユイリィに向けてくれる事はけしてない。それが彼女の自尊心を大きく傷つけ、いつしか憎悪を抱きながらも好きだという気持ちは増すばかり。
そこへ現れた黒一色の陰気な魔法使い。
イジュトニアの純血種だからと我が物顔で城に上がり込み、アルゼスやカルサイトの隣に居座る。その醜悪さに気付かない男は見かけに騙され掌で転がされている。
相手が純血種でこちらの地位を危ぶませる不安以上に、ユイリィはラスルを嫌い憎んだ。存在が、そこにいるだけで許せない。あんな薬草臭い女と同じ空気を吸っていると思うと吐き気がする程だ。
ラスルが城にいる事、否、スウェールに存在すること自体が許せなかった。男を惑わし、翻弄している癖にその気はないふりをしている。そのしたたかさも許せない。イジュトニアの魔法使いなど大人しく陰気な国に籠っていればいいものを!
「絶対に許さない―――!」
この様な辱め―――全てはラスルのせいだと、ユイリィは長い爪が肌に食い込むのも構わずに拳を握り締めた。