彼が抱く不安
それから数日の間、ラスルは今回の戦いで傷を負った兵士達の治療に従事し続けた。
騎士と兵士、それぞれの宿舎近くに専用の療養所が設けられていたが、身分の差から騎士の療養所は城の敷地内、兵士の療養所は広大な城を囲むように張り巡らされた城壁の外におかれている。しかも怪我を負った騎士の治療には高度な技術を持つ医者と魔法使いがあたっていたが、兵士に割り当てられているのは少ない医者と限りある医療具のみで、癒しの術を使う魔法使いは一人も派遣されていないというのが現状だった。
次々に戦地から送られてくる負傷者たち。移動と時の経過により適切な手当てが遅れ、到着する頃には騎士兵士の区別なく息を引き取っている者も少なくはなかった。
突然現れた高度な力を持つ純血種の魔法使いは、スウェールで地位を築き上げた誇り高い混血の魔法使い達にとっては邪魔な存在となる。しかもラスルがイジュトニアから来たのではなく、スウェールの西にある森に住まうと知って魔法使い達は更にいきり立った。いつ己の地位を奪われるかと高位にある魔法使い程ラスルを警戒し、よそ者扱いして縄張りを主張し、そのせいで騎士が利用する療養所への立ち入りは拒まれてしまう。
しかし当事者であるラスルはそんな低俗とも言える争いなどどこ吹く風。
城内の特別室ともいえる豪華で煌びやかではあるが危険な部屋から、要望通りのアルゼスやクレオンから言わせると粗末な、しかしラスルからすると十分にしっかりとした作りの立派な女官達の宿舎へと移動し、毎日早朝から魔法使いの管轄外ともいえる城壁の外にある兵士達の療養所に通っては治療に明け暮れていた。
兵士や民間人は貴重な魔法使いの治療を受けるのが難しい。
そうと知ったラスルがそこでの仕事を希望した為、騎士であるカルサイトとは接触する機会が極端に少なくなっていた。逃げている様に取られるかもしれなかったが、実際はカルサイトの方もラスルに関係を強要したり、アルゼスへの手前、ラスルに必要以上の接触を取ったりしない。カルサイトは忙しい中、日に一度はラスルを訪ねるようにはしていたが、元気な様子を見舞うだけで顔を合わせずに終わることもしばしばあった。
ラスルもそんなカルサイトの大人な行動に感謝しつつ、心の何処かでは切ない気持に駆られていた。
押さえなければならない気持ちを押し込めるため、早朝から深夜に至るまで兵士達の治療に明け暮れ、必ずしも献身的とはいえないが名実ともに完璧な治療を休みなく施して行くラスルに、お高く止まっている魔法使を嫌う者が多い兵士達からも彼女だけは別と、瞬く間に誰もが心を開いて行く。
スウェールに席をおく魔法使いの殆どは気位が高く、己の能力に溺れ魔術を使えない身分低い人間を卑下する。それ故彼らは戦場では騎士兵士に格差をつけはするものの、手が空けば仕方なく兵士への治療も施した。
だが一旦戦場を離れると傷付いた兵士の治療は医者任せで、決して自ら手を貸す事はしない。そんな魔法使いを兵士達が嫌うのは当然だったが、愛想はないが気位も高くはないラスルに偏見の目を向けていたのも最初だけで、治療を終えた兵士は用もないのに度々療養所を訪れ、何かとラスルの関心を惹こうと率先して怪我人の世話をしながら忙しなくしていた。
ラスルが彼らにこうも早く受け入れられたのは、彼女特有の外見も一役買っている。
今回の戦争でイジュトニアの魔法使いを見た者達も多く、異質な印象よりも共に戦った印象の方が強い。凛とした美貌は冷たい印象で近付き難いが、その綺麗な容姿を繕うでもなく、薄汚れたぼさぼさ頭で何時の間にか現れては黙々と傷付いた者達を癒して行く。
常に白い高級なローブを纏い、汚らわしいとばかりに見下した態度でしか彼らを見ない魔法使いとのあまりの違いに、さすがはイジュトニアの魔法使いは違うと、何時の間にかイジュトニアの株上げにも繋がっていた。
「ラスルさん、そろそろ休憩にしませんか?」
ラスル同様、白いローブを汚して兵士の治療に手を貸すシュオンが昼食の入った袋を手にやって来た。
西の砦でラスルが助けた数少ない人間の一人で、元は青の光を宿していたスウェール生まれの魔法使い。纏う色が青から白に変化したのを理由に都への帰還命令が出たらしく、最近こちらへ戻って来ていた。
シュオンはラスルの助言で混血では最も力が強いとされる白の光を宿すようになった。あの時は僅かに青みがかった白い光を放っていたが、本来の色を操る事にも慣れ今は霧のように白い光をもって癒しの術が使えるようになっていた。
前に会った時は深い青の鋼玉石の指輪にピアスをつけていたが、それによってシュオンの力は封じられていたにも等しいため既に外されている。代わりに白の光を宿す魔法使いが力の増強を図る為に用いる、無色透明に輝く小さな金剛石のピアスが左耳にのみ遠慮がちに付けられていた。
ラスルは袋を手に立つシュオンに見向きもせず、治療の手を休めずに淡々と答える。
「残りが済んでからにするよ。」
ラスルの周りには重症者から軽傷者に至るまで、傷も後遺症も残さずに治療するイジュトニアの魔法使いがいると、噂を聞いて集まって来た兵士や一般人までもが溢れかえっていた。
療養所の外にも患者は溢れており、これだけの数を治療し終えるのにいったい何日かかるのかと心配されるが、ラスルならたった一日で捌けてしまう数だ。
「先日治療した兵士の家族達からの差し入れです。」
折角だから温かいうちにいただきましょうと目の前に差し出され顔を上げると、ラスルだけではなく患者達にも昼食が振る舞われている。
それを見たラスルは一息吐くとおもむろに立ち上がり、差し出された袋を手にした。
「ありがとう。」
朝から晩までろくに休まず働くラスルがやっと休憩に入ってくれる事になって、シュオンはほっと胸を撫で下ろした。
シュオンは周りから見ると気位が高くいけ好かない魔法使いの一人だ。
だがラスルと懇意にし、冷たい視線を向けられ悪態を突かれても文句一つ言わずにラスルを手伝い治療に専念する。白いローブを血で汚しても嫌な顔一つせず、状態がよくなると自分の事のように心底ほっとした表情を見せる青年に、やがて療養所の人間も少しずつ心を開く様になっていた。
ラスルが兵士の療養所で治療に当たっていると聞き、手伝いをしようと最初にここを訪れた時は敵意の視線を向けられ中に入れてすらもらえなかった。二日目にラスルがシュオンに気付き、『なんで手伝わないの?』と、さも当然の様に中に引き入れ治療に当たらせた。
シュオンは地位や権力に関係なく、人を癒せる喜びを身をもって感じ、それを与えてくれる事になったラスルに深く感謝していた。
ラスルはシュオンと共に、療養所の裏手に移動し柵に腰かける。
差し入れの袋の中にはパンと、まだ温かい骨付き肉が一切れ入っていた。
パンを頬張り肉にかぶりつくと、城で出される肉とは異なり硬さがある。
肉と言えば森で狩った動物を食べるのが普通のラスルだったので慣れてはいるが、隣のシュオンは少々食べにくそうに幾度となく噛んでいた。
肉の中に小さな骨があったのでそれも同時に噛み砕いていると、シュオンが不思議そうに食べる手を止めラスルを凝視している。
「ラスルさん、それ……鳥の骨ですよ?」
「うん、そうだけど?」
だから何だと不思議そうなラスルに、何でもありませんとシュオンは怪訝そうな顔をする。そうして少し考えた後、自分の袋から手を付けていないパンを取り出してラスルへと遠慮がちに差し出した。
「あの……よかったらどうぞ。」
骨をしゃぶるではなく、骨まで食べる程空腹であったとは。
自分は城内にある魔法使い用の宿舎に戻ればいくらでも食べる事が出来る。ラスルが置かれた細かい事情は解らないが、恐らくラスルが寝泊まりしている場所に戻っても他に食べ物など無いのだろうし、ラスル自らそれを求めるとも思えない。
コリコリと骨を噛み砕く音を辺りに響かせながら、シュオンが勘違いしているとも知らずラスルはローブの袖で口を拭い噛み砕いた骨を飲み込んだ。
「いや、いらないけど?」
お腹一杯だし、折角の差し入れなのだから自分で食べなよと告げたラスルは、腰かけた柵から降りると仕事に戻ろうとする。
シュオンがパンを袋に戻して後を追いかけようとした時、ラスルの体ががくりと崩れ落ち冷たく硬い地面に倒れ込んだ。
「ラスルさんっ?!」
驚いたシュオンが慌てて駆け寄りラスルを抱き起こす。
倒れた拍子にぶつけたのか、白い額に泥がこびり付いていた。
「ラスルさん、しっかりして下さいっ!」
体を揺すっても硬く瞼を閉じたラスルは完全に意識を失っており、目を覚ます気配が全くない。
「ラスルさん、ラスルさんっ!」
必死に呼びかけるシュオンの声に気付いた者達が声を上げ、大丈夫かと二人のもとへ駆け寄って来る。
何の前触れもなく突然倒れたラスルを抱え、シュオンは一抹の不安を感じて体が震えた。
魔法使いであるシュオンに出来る事は、倒れた拍子に額に出来た擦り傷を癒す事くらい。渡された食事に毒が盛られていたという事も無く、ラスルの倒れた原因が何なのか分からない限り、シュオンに出来るのは医者のいる場所までラスルを抱えて行く事だけだった。
「先生は何処だ?!」
「先生、先生大変だ! ラスルさんが倒れたっ!」
ラスルを抱え療養所に戻ったシュオンが医者を捜すより早く、状況を察した兵士達が声を上げる。兵士の傷の様子を見ていた医師が手を止め、シュオンに抱かれぐったりと意識を失ったラスルに視線を移すと「これは大変だ」と呟いて、患者を掻き分け急ぎ足で向かって来た。
ラスルの周りに大きな人だかりができる。
「倒れた時の状況は?」
「普通に食事を食べ終え、その後直ぐに歩いていて突然―――倒れた時に額を打ちましたが擦り傷で他に外傷はありません。」
「あんたら魔法使いは体の内側まで傷が見えるんだろ? 頭の中は大丈夫かって聞いてんだ。」
「ええと……恐らく。蹲るように倒れたし、頭を強く打った事はないと思います。」
一瞬の出来事を思い出しながらシュオンは的確に答えて行く。医師もラスルの体を診断し、黙々と外傷がないことを確認して行った。
きつけ薬を用いてみるが反応がなく医師は低く唸る。
「持病……なんてのはわからねぇよなぁ?」
「持病、ですか?」
これまで一緒にいる間にそんな物がある様には感じなかったのだが―――
医師が呟いた言葉にシュオンは、倒れたラスルを抱き起こした時に感じた一抹の不安を思い出していた。
病を持つ者が突然倒れるというのはよくあり、こと女性に至ってはさして珍しい事ではない。特にラスルの場合は長時間にわたり休憩も殆ど取らず朝から晩まで患者の治療に明け暮れていた。
だがそれに対してはシュオンは特別心配してはいなかった。
シュオン達からすると極めて高度な魔法をなんなく使いこなすラスルに疲労は全く見られなかったし、無理した事が原因で肉体的疲労がみられたならラスルの治癒魔法にも衰えが見られてよい筈だ。混血種との違いはあるかもしれないが、そういうものは何となく魔法使いの血で感じる。
不安を抱きながらも思い当たる節が無いのではどうしようもない。シュオンは意識を取り戻すまで様子を見るしかないと言う医師の指示に従い、ラスルを城まで連れ帰る事にしたのだが―――
「私が預かろう。」
ラスルを抱きかかえようと背と膝の裏に腕を滑り込ませた時、背後から低く重い声色で声をかけられる。
振り返ると神妙な面持ちで黒い騎士の制服に身を包んだカルサイトが大きく影を落としていた。