一戦
自分とは明らかに違う、ラスルとカルサイトの距離を感じたアルゼスは、怒りとも苛立ちともつかない感情を押さえもせず執務室に戻ると、机に溢れる書類の山を払い除け床に散乱させ椅子にどかりと腰を下ろし、書類の無くなった机へ乱暴に足を放り出した。
スウェールを守る為の政略結婚とはいえ、元はアルゼスの婚約者として名の上がった王女。死んだとされるイジュトニアのラウェスール王女こそが偶然出会ったラスルであった。
単なる独占欲ではない。死んだ王女ではなくラスル自身に強い思いを抱いているのだ。
そのラスルが懐に侵入を許したのはカルサイトであって、アルゼスでないのは明白だ。兄弟のように育ち、アルゼスの為に汚い仕事すら意に反しこなすカルサイトを誰よりも信頼している。カルサイトが相手なら仕方がないと考えるが―――心と真実の感情は違い、アルゼスの心中は醜い嫉妬の心で溢れていた。
何とか気持ちを押さえなければラスルに不快な思いをさせ、だらしない己を曝し続けてしまう。
必死に自分を落ち着けようとするアルゼスに油を注いだのはクレオンだった。
「これはまた酷い荒れようで―――」
無表情だがこの状況を楽しむかに緑色の目が光っている。
兄の様な存在でもあるクレオンの登場に、アルゼスはばつが悪そうに机から足を下ろすと不貞腐れた態度で頬杖を付いた。
どうせまたラスルは妃に出来ぬとか何とか苦言を呈しにきたに違いないのだ。
そんな事はアルゼスとて分かっているが、改めてクレオンの口から言われると、味方は誰もいないと孤立した気持ちになってしまう。
「ラスル殿程ではないにしろ、負けじと劣らぬ殿下に相応しい女人はいくらでもおります。」
「あんな化粧臭い狡猾な女共など願い下げだ。」
「狡猾で結構。王家にとっては必要な後ろ盾です。」
「だったらお前が娶ればいいだろう?」
「私は王家の人間でも王太子でもない。妃が必要なのは殿下、他ならぬ貴方ですよ?」
分かりきった事を何度も何度も毎日のように言われる。
確かに王家に生まれ次代の王となるアルゼスがいつまでも妃を娶らないという事はあってはならない。王家に生まれそれを継ぐべき者の義務として、愛の無い結婚を強いられるのも当然の事だ。
解ってはいる。分かってはいるのだが―――
かつて戦場においてイジュトニアの王女との婚姻を書面で報告され、当然の事と黙って従った自分が今となっては懐かしい。
アルゼスは深い溜息を落とし、机から足を降ろして窓の外に視線を馳せた。
その視線の先で想っているのが誰かなど直ぐに解る。
クレオンは冷たい目でアルゼスを見据えると静かに言葉を口にした。
「ラスル殿を母親と同じ境遇に立たせるおつもりですか?」
「―――何?」
母親と同じ境遇。それは―――ラスルをカルサイトから奪うという事か?
アルゼスは眉間に深い皺を刻むとゆっくりと立ち上がり、鋭い視線をクレオンに突き付けた。
「お前まさか?」
「ラスル殿とて立派な大人です。私の一存でどうこうなる存在ではありませんよ。」
アルゼスにとって不要な人間は表沙汰にも不利にならぬよう遠ざける。それがクレオンのやり方であり、アルゼスも己の手を煩わされる事が無くなる為に受け入れて来た現実だ。だがその相手が女性になると少々厄介で、地位と名誉に固執する女は特にてこずる事になる。
そこでクレオンが目を付けたのがカルサイトだ。
アルゼスの覚えめでたく苦言を呈するのを許された相手。王太子というアルゼスの地位に及びはしないが、相応の地位と名誉を持ち、騎士の中でも特別腕が立つ。しかも見目麗しい貴公子でありながら表向きには女性遍歴が派手という訳でもなく人当たりも良い。何事にも誠心誠意に尽くすタイプだ。アルゼスが駄目ならカルサイトへとあっさり標的を変える女も多く、そのカルサイトの方から声をかけられて迷惑に思う女などいる筈がなかった。
そんなカルサイトがクレオンに命じられ、アルゼスに付き纏う害虫を駆除してかかっていた事も承知している。
そして今回、その標的がラスルへと向けられていた。
何故気付かなかったのだろう。こんな当たり前の構図に今頃気付くなど周りが全く見えていなかった証拠だ。
アルゼスは頭を抱えるとよろよろと椅子へと倒れ込むように腰を下ろす。
今まで口をつむって来た事に対して今更苦情を言っても虫が良過ぎるというもの。そもそもクレオン相手に口で敵うとも思えないし、クレオンの言葉通りラスルは自己を持ったいい大人なのだ。こちら側の一方的思惑があったにせよ、けして無理矢理どうこうしたという訳ではないし、実際に何があったかなど今のアルゼスには知る由もない。
ただ―――どんな理由があるにせよ、ラスルの心を弄ぶような事だけは許せる範囲ではなかった。
「もういい、分かった。」
アルゼスは何とも付かない溜息を落とすと一拍置き、自身を落ち着かせる為に大きく深呼吸する。
「何にせよ、ラスルに対する扱いは慎重に。表向き死んだと処理されているとはいえ彼女がイジュトニア王家の血を引くのは事実だ。それに俺の命の恩人だというのもけして忘れるな? それに見合う扱いをお前が全て手配しろ。」
こう言っておけばクレオンがラスルを邪険に扱う事も無いだろうし、森で大人しくしていて欲しかったとはいえ、ここまで来てしまったラスルを追い帰したりするつもりも無い。彼女を気遣いながらも結局は側にいる事を喜び、己のえごを優先させてしまうのだ。
クレオンは床に散乱した書類を無言で拾うと丁寧にそろえて机に戻し、アルゼスに頭を下げ部屋を後にした。
アルゼスは日中ラスルに取ってしまった態度を反省しつつも、クレオンの思惑とカルサイトがラスルにしたであろう事に考えを巡らせ、募る想いと嫉妬、怒りに心がざわつき落ち付かぬ時間を過ごしていた。
少しでも心を鎮めようと、普段は使用しない屋内に作られた騎士の鍛錬場に足を運び、燭台に灯された頼りない薄明かりの中、剣を抜き鍛錬に打ち込む訳でもなくひっそりと静かに一人佇んでいた。
幾時ほどの静寂が流れたであろう。
静けさを破るように扉が鈍い音を立て開かれ、背後に感じるのは慣れ親しんだ男の気配。
ゆっくりと振り返ると銀の髪を後ろに束ねた背の高い男が薄明かりの中影を落とし、流れるような動作で膝を付いた。
「アルゼス殿下―――」
まるでそれが答えであるかに頭を垂れるカルサイト。しばらくそのままで向き合っていたが、アルゼスは静かに歩み寄るとおもむろに腰の剣に手をかける。その動作を感じ取りながらも、カルサイトは頭を下げたまま微動だにしない。
言葉もなくアルゼスは鞘ごと剣を抜き取ると、間髪いれずに剣を振り下ろしカルサイトに向かって叩きつけた。
鞘に包まれているとはいえ力任せの剣で左肩を突く様に殴られ、その強烈な勢いに押されたカルサイトは背中から床へと倒れ込む。肩に激痛が走り思わず唸り声を上げるが、そこへアルゼスはすかさず馬乗りになり胸倉を掴んで押さえ込むと、鞘から剣を抜き頭部すれすれに床へと剣を突き付けた。
キンッ……と、剣先が分厚い床にのめり込み、さらに底を貫いて地中の石に接触し石が砕ける音が響いた。
僅かに切断された銀の髪がゆっくりと宙を舞い音も無く床に落ちる。
一連の動作を見切ったうえでカルサイトは避ける事無く静かに全てを受け入れ、その行動が更にアルゼスの怒りに火を付けた。
胸倉を掴んだ腕に力が込められ、ギリリと首を締め上げていく。
「貴様っ―――ラスルを抱いたのかっ?!」
青い瞳が感情のまま深い怒りに震えていた。
「ラスルは狡猾で己の欲に飢えた女達とは違う……だと言うのにお前はっ―――!!!」
あまりの怒りに言葉が続かない。
アルゼスは突き立てた剣から手を離し、両腕で胸倉を掴み直した。
「何とか言ってみろっ、クレオンの命令か?!」
過去に幾度となく、アルゼスに纏わり付く不穏な輩をクレオンの命でカルサイトが排除して来た事は知っている。勿論そのやり方も踏まえてだ。それについて一度もアルゼスが異議を唱えた事はなく、面倒が減ってよかったとさえ思っており、やがてそれが当然の事のように黙認されて来た。それ故ラスルに対してもこの様な事態になり得る事が予想できた筈だというのに―――!
さすがに苦しくなり、これまで全く抵抗を示さなかったカルサイトの手が自分を締め付けるアルゼスの手に伸びる。
「全て私の意志です。」
「何?!」
もう一度言ってみろと言わんばかりにアルゼスは、苦しそうに言葉を絞り出したカルサイトの首を更に締め上げる。
「確かにクレオン殿の言葉はありました。が……それだけなら私とて今回は手出しは致しませんでした。」
「では何か? お前までもがラスルを邪魔な存在だと……王子である俺の身には害になっても全くの益にはならぬと判断し手を下したとでも?!」
いっその事そうであって欲しい……ラスルに対しては辛辣だがそう願う醜い自分がいる。
もしそうならラスルを―――カルサイトから奪い去るのは簡単な事だ。ラスルを母親と同じ運命におく事にもならないに違いない。
アルゼス自身、自分がどれ程の思いでラスルを愛し欲しているのか分かっていない。ただ確実なのはラスルを求め、愛しいと思い、手元に置き不幸な彼女に自らの手で幸福を与えたいと願うだけだった。他の女などいらない、ラスルだけ……始まったばかりの恋は急速に成長して他を寄せ付けない程になってしまっている。
婚姻一つとってもスウェールの世継ぎであるアルゼスに自由はない。妃を決めかねるならせめて愛妾の一人でもと進言して来る臣下たちだが、その相手すら誰でもいいという訳にはいかなかった。妾になるにも国にとって利益があるかどうかが最大限に求められるのだ。
更に締め上げの強まるアルゼスの腕を取ると、カルサイトは苦しそうにしながらも言葉を続けた。
「殿下は……この件に殿下は関係ない。私が彼女を、ラスルを一人の女性として愛し、求めた結果です。」
「なん……だと?」
カルサイトの告白にアルゼスの力が弛む。
「私は彼女を愛しています。決して邪まな思いを抱き、無理矢理手に入れたのではありません。」
「それは何か……ラスルも、ラスルの心もお前と同じだとでも言いたいのか?!」
「殿下っ!」
策があった訳ではない。両者が同じ思いで求め合ったのだとカルサイトの口から紡がれ、嫉妬に狂った行為と知りながらも怒りに我を忘れたアルゼスは、地面に突き刺した剣の柄に手を伸ばした。
その時、鍛錬場の扉が鈍い音を立て遠慮がちに開かれる。
怒りに燃えているとはいえ気配に敏感な二人。ほぼ同時に視線が開かれた扉に向けられ、そこに現れた黒いローブに身を包んだ怪しい人影へと向けられた。
カルサイトを組み敷いて馬乗りになり、地面に突き刺した剣に手をかけたアルゼスの姿。
ラスルは絡み合った状態で微動だにしない二人に無言で歩み寄ると、おもむろにしゃがみ込んで頬杖を付く。
「―――何してんの?」
自分が事の核心にあるというのに男達の心情に反し、呑気にもラスルは怪訝だ・解せぬと言いた気に眉間に皺を寄せる。
場所は騎士専用の鍛錬場。剣を握りカルサイトに馬乗りになっているアルゼス。カルサイトの手に剣はなく腰の鞘に納められたままだ。
「王子様の勝ち?」
剣の訓練かと全くの勘違いを決め込むラスルに、アルゼスから瞬く間に怒りの炎が鎮火していく。
年よりも幼く見えるその仕草はアルゼスに心のゆとりをもたらした。
「いや、今回は俺の負けだ。」
そう、ラスルが容易く男に肌を許すとは到底思えない。それでも彼女の背景を思えば手に届く位置にいたカルサイトに救いを求め、つい肌を許してしまったという事もあり得るのではないだろうか。
今回は負けたがこの先はどうなるか分からない。何しろアルゼスはラスルの気持ちも知らないし、まして自分の思いすら伝えてはいないのだ。
心に抱く思いはもっと早くに伝えておけばよかったと後悔するが、完全に負けを認めるにはまだ早過ぎる。
アルゼスはカルサイトから手を離すと立ち上がり、強い瞳でラスルを見下ろす。暫く無言で見下ろしていると更にラスルの眉間に皺が寄り、怪訝そうに見返された。
「怪我を……癒してやってくれ。」
怒りに震えながらも剣を握る右ではなく、左肩を狙ったのはまだ正気を保っていたという事か。
ばつが悪そうに早足で鍛錬場を後にして行くアルゼスを、ラスルは怪訝な表情のまま見送り、床に押し倒されたままになっているカルサイトへと視線を向ける。
「もしかして、喧嘩?」
「受けるべき報いを受けただけだ。」
起き上がりながら、カルサイトは乱れた長い銀髪をかき上げる。
「報いって……もしかして原因はわたし?」
ついてきたのが不味かったのかと眉を寄せるラスルに、カルサイトは違うと首を振った。
「君には関わりの無い事だよ。」
微笑む深い紫の瞳が何処か寂しそうで、ラスルはそっと腕を伸ばすとカルサイトの頭を撫でる。
「ごめん。」
「君のせいではないというのに何故謝る?」
「ん―――何となく。そんな気がしたから。」
いくらラスルが恋愛に疎く男心が分からないとはいえ、今までの不自然なアルゼスの行動やらを考えてみると何となく想像が付く様でいて……そして導かれた答えはあまりにもおこがましくて。直ぐに心で否定し気付かない振りをし、押し込めながらも謝ってしまう。
ラスルにはそれに応えるだけの時間も力量も備わっていないのだ。
「怪我は腕? それとも肩?」
「大した怪我ではない。」
兎に角この話題からはお互いの為にも離れた方が良さそうだ。
ラスルは怪我をしたというカルサイトの様子を探り、魔法を用いて砕けた左肩の骨を瞬時に癒していく。
「こういうのってよくあるの?」
大したものではないが訓練にしては酷い怪我だ。スウェールにいる魔法使いの力はそれぞれだが、大抵の者が使う癒しの術では治癒させるのに時間がかかるだろう。
「訓練に怪我は付き物だが―――それよりラスル、何か用があって来たのでは?」
相変わらずの完璧な治療に感嘆しつつも、部屋に案内され休んでいる筈のラスルが何故こんな場所に現れたのかと怪訝に思う。
するとラスルはそうだと、思い出したように手を叩いた。
「王子様を捜してたんだ。」
「殿下を?」
「案内された部屋がすごい金ピカで……申し訳ないけど落ち付かない。侍女さん達が使うような部屋が空いてたら移れないかとお願いしたくて。」
予想通りの事態ではあったが―――
金ピカで落ち付かないとはいったいどんな部屋に案内されたのかと、困り顔のラスルを余所にカルサイトからは笑いが漏れた。