王子の嫉妬
ラスルの心の中では確実に何かが変わっていた。
己の存在が原因で起きた惨事―――死期を悟ったからこそ一刻も早く世を去り負の連鎖を終わらせたい。
そればかりを願っていたラスルだったが、死期は遠からずいずれ訪れる物と悟り、その時を迎えるまでに自分に出来得る限りの償いをしよう―――死を望みながらもそれに反し、その日までは必死に足掻いて生きて行こうと、更なる不幸を招くやも知れないが、それが自分に残された唯一出来る償いなのだと認識する。
カルサイトと共に一夜を過ごした朝、宿を出たラスルはいつもの自分を取り戻していた。
目的に向かって進む為、一路スウェールの都を目指す。
今まで目立つ事を恐れ人を避け続けて来たが、道中は黒いローブに身を包む黒髪黒眼のラスルに好奇の目が集まっても全く気にせず突き進んだ。
人目を避けるのではなく、先を急ぐので宿を取るのも憚り幾度となく野宿を繰り返す。その間ラスルはカルサイトと再び身体を重ねる事はなく、カルサイトの方もそれを求めてきたり、必要以上に馴れ馴れしい恋人の様な態度で接したり、それをラスルに求めたりする様な事は一度もなかった。
成り行きかもしれないし、そうではないかもしれない。ラスルがカルサイトを求めたのは事実で、それを後悔している訳でもない。ただラスルは自分を愛していると偽りなく告げたカルサイトに後ろめたさを感じていた。
心が折れ、つい目の前にある優しい温もりに縋りついてしまったとはいえ、ラスルは間違いなくカルサイトに対し心を開いている。自分でも理由ははっきりと分からなかったが、恐らくこれは恋というものだ。でなければたとえ錯乱していたとしても身を許したりはしない。
自分の思いだけならいい。たとえ一方通行でも受け入れてもらえただけで満足だろう。しかしカルサイトは嘘のない瞳でラスルを見つめ愛の言葉を紡いでくれるのだ。
いずれ近いうちに必ずラスルは世を去る。
人の心は移ろい易いが、このままカルサイトが自分を愛し続けてくれたならどうなるだろう?
愛しい人の死というものは時に人を狂わせる凶器とも成り得る。カルサイトがそうなるとは限らないが、ラスルが先に逝けば少なからずカルサイトは心に空洞を残すに違いないのだ。
ラスルの過去において大切な人の死は祖父だけだった。
その祖父が死んだ時自分はどんな思いを抱いただろうか。辛く悲しかったのは言うまでも無いが、ぽっかりと心に穴が開いてしまった。
祖父の死は受け入れなければならないものと前もって知ってはいたが、ラスルは己の死期をカルサイトに告げるつもりはない。だからこそ抱く後悔と後ろめたさ。前もって宣言する道もあるがカルサイトの反応を知るのが怖かった。死にゆく相手ではなく未来ある存在として愛し、心を向けて欲しいという願いもある。けれどその時がきたなら彼はどんな思いを抱くのだろう。
酷い女だと、ラスルは自分を見つめるカルサイトに歩み寄り、広く逞しい胸にそっと額を摺り寄せた。
「どうした?」
道中ラスルの方からカルサイトに身を寄せて来るような事は一度もなかったため、そのまま受け入れながらもカルサイトは戸惑う。あと少しで旅も終わる。都を前に緊張しているのだろうかと、カルサイトはラスルの頭をぽんぽんと優しく叩いて背を撫でつけた。
「案ずるな。都では魔法使いを見慣れた物も多いし、城には今回の件でイジュトニアの魔法使いと接した者も数多くいる。これまで程好奇の目にさらされる事はないだろう。」
安心させるように告げるカルサイトに見えない位置で、ラスルは額を摺り寄せたままそっと唇を噛んだ。
「ごめん―――」
ごめん、そうじゃないんだ―――
ラスルはぐっと奥歯を噛み締めた。
本来なら彼の心が離れて行くような態度を取るべきなのだろうが、人との接触を拒み恋愛経験など皆無のラスルはそれ程器用ではない。それに一度得てしまった安らぎの場を手放す覚悟も持ててはおらず、ひたすら申し訳ない気持ちが募る。自分はずるい人間だと、ラスルは心の中で呟いた。
「大丈夫だ、それ程悪い場所ではない。」
「―――うん、そうだね。」
不安を拭い去ってくれようとする優しい言葉にラスルは遠慮がちに頷く。
一人で生きて行く事を望んでいた筈なのに、我慢が利かず目の前の温もりに縋ってしまう自分がどうしても嫌でならなかった。
都入りしたラスルはカルサイトに連れられ真っ直ぐにアルゼスの元に向かったが、アルゼスに会う前に白い衣に身を包んだ男が現れそれとなく行く手を阻まれてしまう。短い銀色の髪に緑の瞳。
「クレオン殿―――」
男の名を呟いたカルサイトに緊張が走ったのをラスルは見逃さず、クレオンと呼ばれた男がカルサイトにとって敵なのか味方なのかを見極めようと、漆黒の瞳を見開いて強く男を見つめた。
ラスルの強い視線に気付いたクレオンはその眼差しに引かれ、自分を見つめる闇色の瞳に思わず引き寄せられてしまう。
この娘が―――
何処で合流したのか知れないが、カルサイトの隣に立つ黒いローブに身を包んだ娘が誰であるかなどクレオンには考える間もなく直ぐに理解出来た。
将来スウェールを背負って立つアルゼスの命を救った娘であり、イジュトニアの血を色濃く受け継ぐ魔法使い。秘める力は計り知れず、スウェールが手にすればどれ程の戦力になるであろうか。
敵国の侵攻を受けたばかりの今は喉から手が出る程欲しい逸材。
しかし、だからといって諸手を上げて歓迎できる相手ではない。アルゼスがラスルに対して特別な感情を持っている限り、スウェールにとっては危険な娘でもあるのだ。
クレオンは己を見つめる瞳に引き込まれ、呑まれてしまいそうになるのを堪えるかに、必死の思いでぐっと瞼を閉じ一呼吸置く。
薄汚れてはいるが確かに美しい娘だ。それはラスルを危険な存在だと認識するクレオンですら思わず引き込まれてしまいそうな程の、不思議な魅力を秘めた娘。だがどれ程見た目に優れようと、アルゼスは外見の美しさだけで女に惹かれたりする人種ではない。
漆黒の長い髪に黒曜石のように輝く闇色の瞳。真っ白な肌に朱を帯びた唇は花のような甘さであるで匂い立つようだ。魔法使いという特殊な能力を持つ者故の特徴か、何処か神秘的で思わず手を伸ばしたくなる衝動に駆られるが、そうさせまいとする凛とした棘の様な空気が感じ取れた。
その棘が自分に対する警戒だと気付いたクレオンは、いつもの余裕を取り戻すと僅かに頭を下げラスルに礼を取る。
「初めまして、ラスル殿ですね? 私はクレオン、アルゼス殿下付きの文官です。先日は殿下をお救い頂き臣下として、また私個人としましてもラスル殿には心から感謝しております。真に有難う御座いました。」
こちらの真意を問う様な上辺だけの口上。笑顔を浮かべながらも緑の瞳はラスルを鋭く射抜き、常に心の内側を覗き見ようと様子を窺っている。
国の重臣としてアルゼスに仕えるのなら、得体の知れない相手に対してこれは当然の反応であり、そういう視線にさらされても傷付いたりと可愛らしいダメージを受ける様なラスルではない。それに身分のある者に対しての礼儀も持ち合わせていないラスルは、「別に―――」と、クレオン相手に素っ気ない返事を返しただけだった。
あまりの素っ気なさにクレオンは少々驚たが、彼の意識はラスルを守るかに割って入って来たカルサイトによって中断される。
「殿下はどちらに?」
なるべく感情を押し殺そうとしてはいるが焦りを見せるカルサイトの態度に、クレオンは満足そうに口角を上げた。
「この時間は執務室で大人しくしている筈です。予定より戻りが遅いので心配しておられましたよ。」
「そうですか。では先を急ぎますので―――」
そう言ってラスルを促すカルサイトをクレオンが引き止める。
「ラスル殿はこちらでお預かりいたしましょう。」
クレオンの言葉にラスルは隠しもせず嫌な顔をし、カルサイトはそれとなくラスルの肩に腕を回して引き寄せた。
「ご心配無用―――彼女の身はこちらで対処します。クレオン殿にご案じ頂かなくても結構です。」
「ならば宜しいのだが。」
意味有り気な微笑みを浮かべ注意深く様子を窺うクレオンの視線から逃れるように、カルサイトはラスルの手を引いて先を急いだ。
そんな二人を見送るクレオンと振り返ったラスルは目が合い、一見害がなさそうでいて内側では何を考えているのか分からない男にラスルは不信感を募らせた。
「誰、あの人?」
名を聞いているのではい。
感じが悪いと前に向き直りながら尋ねるラスルに、カルサイトは小さく微笑み僅かに目尻を下げた。
「殿下の右腕とも言うべき人でとても切れる方だ。私も信頼している。」
「その割にお互い棘が感じられたけど―――」
妙によそよそしかった二人。信頼してはいるがいけ好かない者同士なのだろうか。質問はしたが答えを求めずラスルは歩みを続ける。
カルサイトは自分の側に知られたくない情報があるからだとはとても言えず、後ろめたさを感じつつも、それでも自分がラスルに抱く気持ちは本物だと引く手に力を込めようとした時、ラスルの方から手を離すと同時に立ち止まられた。
ラスルの視線の先には驚いた表情のアルゼスがあり、一度立ち止まったようだが早足でこちらに向かって進んで来る。
アルゼスはカルサイトの帰還報告を受け、同時にイジュトニアの魔法使いを一人連れ帰って来たと聞いて、それが女性であると知りもしやという予感を抱いて思わず部屋を飛び出してしまったのだ。
予感は的中し嬉しい思いを抱いたものの、必要以上に近い距離で並んで歩く二人を目にしてアルゼスの心に嫉妬と言う炎が灯され、冷静さを保とうとする意に反し、自ずと足が速まる。
「何故来た?!」
目を吊り上げ怒りをあらわにするアルゼスの想像以上の剣幕にラスルは一瞬躊躇する。アルゼスにも自分が災いをもたらすという認識を抱かれているのだろうかと。
実際そうなのだから仕方がないが、将来国の主となる人に都への滞在を拒否されたらどうすればいいのだろう。少しでも役に立ちたい、償いをして終わりたいという願いを持つラスルは剣幕の主を見上げる。
「森で待つように言っただろう?」
八つ当たりでつい声を荒げてしまったと、眉間に皺を寄せたラスルに声色を落とし、何とか自身を落ち着けながらアルゼスは言葉を放つ。
「命令は受けない。」
相手は生粋の王子様だ。ある程度の予想はしていたものの命令に背かれる事に慣れていないのだろうと、ラスルは自分がアルゼスの配下ではない事を主張する。
だがアルゼスはその言葉にラスルとの間に大きな壁を感じてしまった。
そんなつもりで言ったのではなかったが、ラスルはアルゼスの心の内を知らない。アルゼスを知るものなら手に取るように分かる感情も、森で過ごした僅かな時間ではアルゼスがラスルに抱いた勝手な感情に気付く間などなかった。
アルゼスは苛立ち募らせるが、その苛立ちの本質に気付けないラスルは怪訝に顔を顰めるばかりだ。
「帰れと言われてもフランユーロとの件が片付くまでは帰らない。事の原因はわたしにあるんだから当然でしょう?」
「お前が背負うべき物など何もない!」
「何もないって―――わたしとウェゼート王のおぞましい関係を知ってる癖によく言えるわね?」
ウェゼート王が犯した罪と、そこに生まれたラスルの存在。
父王のラスルに対する執拗な感情が現在の状況を生みだした。その当事者たるラスルが無関係などと主張するにはあまりにも無責任過ぎる。
「ラスルっ!」
アルゼスは言葉を失い、カルサイトは声を上げ止めろと言わんばかりにラスルの腕を引いた。
偶然……いや、ラスルに刻まれた印によってラスルのいる場所を知ったのだろう。国境に現れたウェゼート王と対峙した時のラスルの様子を知るカルサイトは、これ以上ラスルの口から明るいとは言い難い過去を語らせたくはなかった。
だが見下ろすラスルの瞳は苦痛に揺れる事無くアルゼスを見据えている。対するアルゼスの方が動揺を隠せずにギリリと歯を食いしばっていた。
「勝手にしろ!」
アルゼスは口惜しそうに言い放つと、怒りも露に来た道を戻って行く。二人はその様子を黙って見送っていた。
やがて訪れた静けさと共に、ラスルはゆっくりとカルサイトを見上げた。
引かれた腕は未だに強く掴まれたままで、思い出したように手を離したカルサイトからは謝罪の言葉が漏れたが、そこにある気使いを感じ取ったラスルは嬉しくもあり、同時に申し訳なくも感じた。
「都まで来たら別に構ってもらわなくても自分で何とか出来るよ?」
イジュトニアの魔法師団が退き、フランユーロの軍を押さえたとはいえこのまま終わるとは到底思えない。フランユーロが再び攻めて来るような事態になれば、ラスルはスウェール側の人間として戦場に立つ覚悟でいた。だからと言って複雑な背景を持つ自分が城に滞在するのもどうかと思えたし、アルゼスの剣幕からすると歓迎されていないのは目に見えており、居座るにはずうずうしく思える。もとより、都にいさえすれば情報は入りどうにでもなるのだ。
野宿でも何でもと、身の回りに拘りを持たないラスルの行動が見え、カルサイトは思わず苦笑いを浮かべる。
「殿下はああ言ったが、恐らく国賓級の扱いを受けるだろうね。」
勝手にしろとは言ったが、こうなった以上アルゼスはラスルを自分の目の届かない場所に置くつもりはないだろう。それにあの態度は、カルサイトとラスルの関係に気付いたために取ってしまったものに違いなく、けしてラスルを疎ましく思っての態度ではない。
ラスルはカルサイトの言葉に、それは止めて欲しいと苦虫をつぶした様な顔になった。