救出
飛び込んで来た人影は二つ。
ラスルはその二つの影を目に止めると、体の辛さも忘れ驚愕に漆黒の瞳を見開いた。
抜き身の剣を手に先に飛び込んで来たのは、後ろに束ねる長い銀の髪をなびかせた紫の瞳の男。その傍らを俊足で通り過ぎる淡い金髪の男に反応したシヴァが魔法で攻撃を放とうとするのを、銀髪の男はさらに素早い剣捌きで敵の意識を己へと縫い止める。
飛び込んで来たのはここフランユーロにいる筈のない、スウェール王国の人間。
数ヶ月前、ラスルが住まう森で出会ったスウェールの王子アルゼスと騎士のカルサイトだ。
何故二人がここに―――スウェールは、イジュトニアはどうなったのか。
大きな不安が襲いラスルが言葉を発するよりも早く、シヴァからカルサイトに向け攻撃が仕掛けられる。
放たれた黒い光をカルサイトが身を低くして避けると光は壁を直撃し、その一部が爆音をあげ崩れ落ちると同時に、カルサイトの剣がシヴァの脇腹を貫いた。
狙ったのは心臓―――だが力の弱い黒の魔法使いとはいえ、シヴァはイジュトニアの純血種の魔法使いであり、相手のカルサイトは剣に関してかなりの手練であってもやはり人間。シヴァは咄嗟に防御の壁を作り急所に狙いを定められた剣を弾き飛ばしたのだ。
しかしカルサイトの方も負けてはいない。魔法の壁の弱点を見抜き、次の壁が現れる前に剣をシヴァの腹に喰い込ませ深い傷を負わせた。
黒の魔法使いについて得た知識では、魔力を奪う力を持つ彼には魔法は効かない。本来なら確実に殺しておきたい所だったが、体力のない魔法使いをこのまま捨ておけば確実に死ぬだろうし、敵陣のど真ん中で時間がない今はこれ以上の攻撃を仕掛けるのは無謀だった。
それに何より、人の命を奪う事を厭うラスルを前にして、敵とはいえ腹から血をほとばしらせ蹲り抵抗できない相手に対し止めを刺すという行為は躊躇われたのだ。本来のカルサイトなら時間がなくとも戸惑いなくやっただろう。
「殿下っ!」
出血する腹を押さえ痛みに耐えるシヴァに釘付けになっていたラスルは、カルサイトの発した声に我に返る。
はっとした時、目の前には厳しい表情のアルゼスが立ち塞がっていた。
「目を瞑っていろ!」
全ては一瞬の出来事。
アルゼスの伸ばした腕に抱え上げられたラスルは抱きかかえられたまま運ばれる。
窓際まで来るとアルゼスは目の前にある窓をけ破り、何の迷いもなくラスルの体を外へ放り投げた。
浮遊感と共に襲って来た落下の感覚。
外界の空気と風を肌に感じ、ラスルはこの時初めて自分が二階に閉じ込められていたのだと気付く。
二階と言っても一般家庭の様な作りではない。フランユーロの王城で、一部屋一部屋は高い天井をもつ広々とした空間だ。その高さは人が飛び降りて無傷で済むとは到底思えないもので。
体が地面に向かって一直線に落ちて行く感覚は、無防備のまま何の手立ても講じる事の出来ないラスルには恐怖しか与えず、しかしその恐怖を抱いた瞬間、体に纏っていたシーツがばさりと音を立て地面に体が叩き付けられるではなく、何かに受け止められる感覚を覚える。
頭上から聞いた事のある低い男の声が浴びせられた。
「よぉ姫さん、遅くなって悪かったな。」
「ザイガドっ!」
ラスルは鍛え上げられた逞しい腕に包み込まれている。
白昼堂々とフランユーロの王城、しかも男子禁制の後宮に忍び込みラスルを見下ろすザイガドの浅黒い肌がいやに懐かしく感じられた。
直ぐ傍らでばさばさと何かが落下してくる音に首を向けると、側にはアルゼスとカルサイトが立っている。
あそこから飛び降りた?!
ラスルが空を見上げると同時にザイガドが身を翻しラスルを小脇に抱え走り出す。その後をわらわらと衛兵たちが追って来ていたが、ラスルを抱えているというのに相変わらずザイガドの動きは素早く、あっと言う間に木々の陰に隠れ衛兵たちを撒いてしまった。
体調が最悪なうえ体力もないラスルは、素早く逃げるザイガドの脇に荷物のように抱えられ、息苦しさに何時の間にか意識を失ってしまう。
次に目覚めた時、ラスルは何処とも知れない廃屋の藁の上に身を横たえていた。
先にラスルの救出の為フランユーロ入りしていたザイガドとアルゼス達が合流した時、アルゼス達がイジュトニアを立ってから既に五日が過ぎていた。
期限まであと二日―――どんなに急いでもラスルを連れ二日でスウェールへ戻るのは無理だ。
自国がイジュトニアの魔法師団という脅威に曝される状況だと言うのに、アルゼスはそれでもラスルをザイガドだけに任せるのではなく、アルゼス自らラスル救出に関われる事が少なからず嬉しく思えた。
ザイガドと合流した時、彼は単身フランユーロの後宮に忍び込もうとしていた。ラスルを助け出す為に手を組んでいた女からの連絡が途絶えたというザイガドからは、初対面であれほど感じ取れた余裕が消えており、それがアルゼスの気を更に急かせる結果となった。
白昼堂々敵国の城に忍び込み、追っ手を交わしながら行き着いた場所で見たのは憔悴しきったラスルの姿。その体にはシーツを纏い、その下は全裸である事が容易く予想できたため、彼女の身に起こったであろう出来事を想像してアルゼスは一瞬我を忘れた。
カルサイトの呼びかけに我に返り、予定通りラスルを窓から下で待つザイガド向かって投げ渡す。かなり乱暴なやり方だったが外にも既に衛兵の影が見えていた為、迷う事無くザイガドを信用した。
その後、意識を失ったラスルをかなり乱暴な扱いであったが馬に乗せ、一気にフランユーロの都から遠のいた。追っ手はただ人ではない、フランユーロの王グローグを含むイジュトニアに向かう一軍と予想が出来たから一刻も早くラスルをスウェールに連れ帰らねばならなかったのだ。
それでも馬や自分たちにも休息は必要だ。
日も暮れた街道の外れをスウェールに向かって進んで行く途中、空き家となって相当の時間がたったであろう廃屋を見付け休憩を取る。
衣服も着せてやれずシーツに体を撒かれたままのラスルを藁の上に横たえさせると、間もなく瞼が持ち上げられ漆黒の瞳が覗いた。
喜びが深かった。
窮地を救い、愛しい人が目覚めた時に己がその瞳に最初に映る。
ザイガドの言葉を信じた訳ではなかったが、二人の関係が気になるアルゼスとしては誰よりも早くラスルの瞳に映るという事は何よりも大事な事だったのだ。
しかし愛しいラスルの発した言葉は、アルゼスとは温度差があり過ぎるものだった。
「目覚めたか―――気分はどうだ?」
優しく微笑み心底ほっとするアルゼスに対し、ラスルは眉間に皺を寄せ怪訝な表情を作る。
「どうして王子様がここにいるの。スウェールが……イジュトニアはどうなったの?」
状況を知らないラスルが口にするのは当然の疑問。だがアルゼスはもっと他の、何かしらか弱い女性らしい言葉をラスルに期待していたのだ。
思えば魔物相手に無敵とばかりに立ちまわり、野生動物を捕まえ見事に捌いて見せる女である。可愛らしい仕草を望んでも無駄だとどうして気付かなかったのだろう。
しかもアルゼスは、次にラスルが発した言葉に更に深く傷付く事となる。
「ザイガドは―――ザイガドは何処?!」
そう言って飛び起きたラスルは目眩に襲われそのまま再び藁の上に倒れ込んだ。ラスルが求め名を呼んだのは目の前にいるアルゼスではなく、怪しい元傭兵のザイガドだったのだ。
何故だと言う思いを抱き、表には出さないがアルゼスはラスルの呼ぶ男がいる場所へと視線を向ける。
名前を呼ばれたザイガドは同じ屋内の少し離れた場所にいた。
ラスルが自分を呼んだ理由を何となく察していたザイガドは、決して疲れている訳ではなかったが気だるそうに身体を起こすとラスルの傍らに腰を下ろす。もとは窓があったであろう場所から差し込んでいた月明かりが遮られ、ラスルに大きな影を落とした。
「どうした、俺が恋しくなったか?」
ザイガドの軽口は彼に付き物だがいちいち反応する気力もないラスルは漆黒の瞳を揺らし、再びゆっくりと身を起こしながらザイガドを見上げた。
「ミシェルが……ミシェルがわたしのせいで―――ミシェルはどうしてる?」
小さく震えながら伸ばされた腕が力なくザイガドの衣服を掴む。
ザイガドに頼まれてラスルを助けに来たと言ったミシェル。
少し棘のある言葉使いが特徴的で、それでいて彼女はラスルを献身的に介護してくれた。グローグ王の渡りがあると知らせてくれ、黙って抱かれてくれたら助かると言った彼女の言葉がラスルの胸を抉る。
ラスルに経験のない事を察したミシェルは急遽ザイガドに繋ぎを取り脱出の予定を立てる事にしたのだ。本来の予定ではラスルが逃げ出すにはまだ早かった筈。それを早めたのはラスル自身の子供じみた都合のせい。だと言うのにラスルは上手く立ちまわる事が出来ず、結局ミシェルの裏切りをグローグ王に知られる事になってしまったのだ。
あの時、自分が大人しくグローグ王に抱かれていたならこんな事にはならなかった筈である。自分のせいで巻き込んでしまったミシェルの笑顔が脳裏から離れない。
藁をも掴む思いでザイガドに縋った。
危険を冒し、二度もラスルを助けに来てくれた人だ。ラスルを片腕に抱いたまま剣を振るう様は恐ろしい程に強かった。
ザイガドは今にも泣き出しそうなラスルに腕を伸ばすと、頭の上に大きな手を置いてくしゃくしゃと撫でまわす。
「小奇麗になったな。」
「彼女がやってくれたの。」
「そうか―――」
いつものラスルは薄汚れていてぐしゃぐしゃの髪をしていた。
その乱れた外見はラスルが自身を守るため無意識に身につけたものだとザイガドは気付いている。綺麗になった艶やかな黒髪を幾度となく撫でつけながら、ザイガドはらしからぬ優しい笑顔をラスルに向けた。
「ミシェルを救えなかったのは俺の責任だ。気にするなとは言わない。が……泣いてる暇はねぇぞ?」
やるべき事があるよなと、ザイガドが真剣な眼差しでラスルに訴える。
そうだ、泣いている暇などない。
巻き込んだ人たちへの負い目を感じるのは悪い事ではないが、それに支配され怯えていてはここで終わってしまう。ミシェルの死はラスルのせいだとしても、それに負けていたらこれからすべき大事には向かって行けない。
「泣いてない、悔しいだけ。」
ラスルは零れそうになる涙を拭い去った。
そんなラスルの頭をぽんぽんと軽く叩き、ザイガドは大きく一息吐く。
「これからお前のすべき事はこの王子さんが話すとして―――俺は一旦フランユーロの城に戻る。」
ザイガドはラスルの頭を撫でると剣を片手に立ち上がった。
「確かにミシェルをあのままにしちゃおけねぇからな。別に女を抱きに行くって訳じゃなし、んな顔すんなって。本気で俺の嫁さんになろうってんならこんな事でいちいち心配してたらもたねぇぜ?」
にっと笑って見せるザイガドはラスルが知るいつもの軽薄な男の姿だった。
殺され捨て置かれているであろうミシェルの遺体を回収し、弔いに行く人間の見せる姿には思えなかったが、それがラスルを気遣っての物言いで有る事は容易く想像できる。ラスルも揺れる眼差しのままであったが苦く形だけの笑いを浮かべた。
「嫁になる気は微塵もないから心配してない。でも―――また会えるよね?」
二度と顔を見たくないと忌み嫌っていた男に対して、これほど短期間に心変わりしようとは思わなかった。
ラスルを攫い売り飛ばしたうえ、悪びれた様子さえ見せない軽薄極まりない男。それなのに口から紡いだ冗談を理由にシヴァに攫われたラスルを追って来てくれたうえ、最後にはあの場所から救い出してくれた。
性格はともかく、戦いの中では頼りになる存在だ。彼の腕からすれば手薄となった敵国の城に単身挑んでも恐らく命の危険はないだろう。
嫁になる気は微塵もないが、心の底から生きて再び会いたいと願う。
ザイガドがいてくれたおかげでフランユーロの思惑をスウェールやイジュトニアに知らせる機会を持てたのだ。ラスル一人だったら囚われたまま、何も出来ずに悔しい思いをしただけ。
初めはとんでもない出会いだったが、今はその出会いに感謝している。
そして彼ら―――
ザイガドを見送った後、ラスルは傍らにいる二人の男に視線を向けた。
本来なら出会う事のなかった存在である、スウェールの王子と騎士。
彼らがラスルの住まう森で魔物に襲われ瀕死の重傷を負ったお陰で指輪を授かり、それがあったからザイガドをスウェールの王子に引きあわせるきっかけを齎した。
全ての出会いは偶然だが、一つの運命となって動き出している。
ザイガドの言葉によると、これから自分のすべきことは彼らが知っていると言う。と言う事は、アルゼスはカルサイトと共にイジュトニアを訪れイスタークに会ってくれたのだろう。
最悪の状況は回避できたのだろうかと、ラスルは不安気にアルゼスを見据えた。