窮地
ラスルはミシェルが用意した琥珀色の酒を凝視しながらグローグの渡りを待つ。
酒の中には眠り薬。かなりきつい酒だという事で、味に不信感を持たれても薬の効果と重なり一口で効き目が出るそうだ。
その言葉にほっとするが一国の王相手に自分が上手く立ちまわれるかが心配で、ラスルは寝台の上に座って落ち付かない気持ちのまま酒の入った瓶を静かに見つめ続けていた。
いったいどのくらいの時間が流れただろうか。
深夜になってもグローグは訪れる事がなく、ラスルはこのまま朝を迎えてくれる事を祈った。
だが無情にもその時は訪れる。
深夜もとうに過ぎ、間もなく朝日が昇ろうかという時刻になって現れたグローグは、湯上りに使うような薄手のローブを一枚身に纏っているだけだった。
もう来ないと思っていただけに、寝台に横になっていたラスルは驚き飛び起きる。
「意外に元気が良さそうだな。」
にやにやと気味の悪い笑みを浮かべ、何の遠慮もなく寝台に向かって歩み寄って来る男にラスルは嫌悪感を抱く。
グローグは茫然と見上げていたラスルの前に一瞬で辿り着いたかと思うと、その肩を掴んで身を起こしていたラスルの体を再び柔かな寝台に沈めた。
既に女を抱いて来たのだろう。体からは酒の匂いに混じって甘い薔薇の香りが漂っている。
「いっ……やめて!」
油断していたせいで当初の計画も忘れ、抑え込まれたラスルはパニックになりグローグの腕の下で暴れまくる。
齢六十を迎えたグローグだったが体は鍛え上げられ逞しく、見た目もはるかに若い。そんなグローグに抑え込まれて抵抗しても、ラスルの様な魔力も失った娘が相手では敵うはずもなかった。
ラスルの脳裏によみがえったのは、かつて自分を組み敷いた父王ウェゼートの姿。
あの時は間一髪の所で手を差し伸べられ助けられたが、ここにはあの日の様に助けてくれる存在はない。
過去の恐怖が蘇り我を忘れて暴れるラスルだったが、グローグはそんなラスルの行動を両肩を押さえつけたままじっと見下ろしている。
鋭く突き刺さる灰色の目に囚われたラスルは体をびくりと弾ませ、動きを止めた。攻撃を仕掛け傷つけようとする眼差しではなく、何かを探り出そうとするような視線。
心の内を見透かされそうになり、ラスルは駄目だと分かっていても視線を反らす。
「何を企んでおる?」
低く冷たい声で囁かれた。
「何って―――企んでいるのはそっちでしょう?!」
「お前は確か、魔力を抜かれたお陰で立ち上がるのも困難な程に消耗していた筈でなかったか。なる程……あの女め裏切りおったな。」
口角を上げたグローグの瞳に残虐な光が宿る。
若い娘を前にして色に狂っただけの男ではない。目の前で自分を組み敷くのはまがりなりにもフランユーロ王国の王で、過去においてはイジュトニアの魔法力を前に敗戦に追い込まれはしたが、スウェール王国を陥落まであと一歩の所まで追い込んだ国の王だ。ラスルごときが掌で転がせる様な容易い男ではない。
ミシェルが危ない―――!
そう感じた瞬間、ラスルは体に戻っていた僅かばかりの魔力に集中した。
ここで騒ぎを起こせば大変な事になるのは目に見えていたが、何か行動を起こさなければ自分の為に危険を冒してくれたミシェルが殺されてしまう。
ラスルは掌に溢れたなけなしの光を天井に向かってかざす。
この様な状況に遭遇してさえも人に対して直接的な攻撃を仕掛ける勇気は持てなかったが、建物を破壊し騒ぎを起こせばミシェルの事だ。事情を察して逃げ出してくれるだろう。
だがその刹那、グローグ王はラスルから視線を反らす事無く素早い動作で寝台脇の台に置かれた酒瓶を取り、乱暴に瓶を傾け酒を零しながら口に含んだ。
零れた酒がラスルの肌に伝い落ち、それに気を取られた瞬間―――ラスルはグローグによって唇を塞がれ口内に液体を送りこまれる。
ごくりと、ラスルの喉が鳴った。
カッとなる程に熱い空気が口から鼻を通り目に刺激を与える。
驚くラスルの目に残虐な視線を向け口を拭うグローグの姿が映ったが、それも直ぐに霞みがかる。言葉を発する間もなく、ラスルは強烈な睡魔に襲われ、細く白い腕が寝台に音を立てて落ちた。
ラスルが目を覚ました時、部屋の中は既に明るくなっていた。
強烈な目眩と頭痛、今までにない気だるさに襲われながらも気合で身を起こす。頭を抱えて視線を落とすと、身に付けていた筈の薄衣は剥ぎ取られ、無残に引き裂かれて床に落ちているのが目に映った。
意識のないままグローグ王に―――?!
もし眠っている間にそんな事になっていたとしても何らかの変化がある筈だと、自分の体に意識を馳せるが、頭痛と目眩で見える物が幾重にも重なりまったく集中できない。
状況が把握できないまま悔しさが込み上げて来たが、それよりも先にミシェルの方だと気付き、鋭く痛む頭を押さえた。
シーツを引き寄せ体に纏うと寝台から降り立つが、足に力が入らず目眩も手伝ってその場にしゃがみ込む。疲労感に加え、体に纏わり付いた酒の臭いが吐き気を呼んだ。そのまま床に嘔吐するが込み上げて来たのは黄緑色をした胃液のみ。口についた胃液を拭うと扉が開く音が耳に届き、慌ててそちらに顔を向けた。
ミシェル?!
そこに姿を現したのは求めた人ではなく、黒いローブに身を包んだシヴァだった。
どうにもならない身体を寝台に持たれかけ、床に腰を下ろしたままでラスルはシヴァを睨みつける。力を奪われたうえ、自分以外の人間を……国を危険に曝してしまい悔しくてたまらなかった。
たったひとつの恨みを晴らす為に支払われる代償。それはシヴァの命ではなく、彼に関係のない多くの命なのだ。
「大人しくしていないからこんな目に合う。」
全く馬鹿な事をと蔑みの目がラスルに向けられた。
「ミシェル……彼女はどうしたの?!」
「人の心配よりも、まずは己の心配をしたらどうだ?」
「そう言うあなたこそ辛そうだけど?」
精一杯の虚勢を張り嫌味で返す。
実際の所ラスル程ではないにしろ、彼女の力を奪い続けたシヴァ本人も相当応えているようだ。覇気が薄れ目が落ち込み、目元には深いクマが刻み込まれている。
シヴァはラスルの嫌味に応える事無く、床に蹲るラスルを抱え上げるとそのまま乱暴に寝台に放り投げた。
その一連の動作さえ苦しそうに息を吐くシヴァの姿に、そのまま捨て置いてくれてよかったのにと視線を外す。
ラスルはシヴァにとって殺したいほどに憎い男の娘である。そのラスルの力を奪い動きを封じ込めてはいるが、シヴァ自身はけしてそれ以上の無体な事はせず、所々でほんの僅かな気使いを見せる。そんな彼の態度は全てラスルが母親であるイシェラスに似通った容姿をしているせいだとは分かってはいたが、ラスルは何処かでシヴァの優しさに縋ろうとする自分の心に気付いてもいた。
妻を奪われ心を失くした男。
娘の幸せを奪われたうえ、復讐を誓うシヴァを捜し求めて旅したオーグ。
オーグがシヴァを捜したのは戦う為ではない。こうなる事を予想し、彼の身を案じてそれを止める為に大陸中を旅していたに違いないのだ。でなければオーグはラスルに魔法で人を傷つける事の悲しさを解いたりはしない。人の命を奪う事を禁じたりはしなかっただろう。
祖父がいない今、残された自分がオーグに代わってシヴァを止めなければならない。
それは魔法を使っての攻撃や命を奪っての事ではなく、彼自身の心に訴えなければならないという事だ。とても難しい事だが、それなら魔法力を奪われ身動きできない状態でも何とかなるやもしれない。
祖父ならどうする?
自分にできるのはいったい何だ?
「シヴァ、あなたの大事なものって何?」
突然の問いかけにシヴァは眉間に皺を寄せた。
「わたしは母を知らないけど、少なくともこんな事をあなたに望んだりするような人ではないって思ってる。」
ラスルの言葉を受け、お前に何が解るとシヴァは心底馬鹿にした様に鼻で笑った。
「そう、お前はイシェラスを知らない。偽りや偽善でなく、何の見返りも求めず心からの笑顔を向ける温かい聖女のような娘だ。美しく、それ故ウェゼートに人生を弄ばれた哀れな我が妻―――」
黒の光を纏う魔法使いである故、同族から忌み嫌われる存在だったシヴァに、嘘偽りのない笑顔を向け、温かい手を差し伸べてくれた。
彼女がいたからこそシヴァの存在はイジュトニアで受け入れられ、彼女の人徳がシヴァの人間性を魔法使いにとって危険なものから危ぶむ物ではないと位置付けてくれたのだ。
あの美しく温かな微笑みを向けてくれた女性はシヴァの妻になると同時に人生を狂わせた。
愛しい妻の人生を狂わせた身勝手な王・ウェゼートには、イシェラスが受けた以上の苦しみと絶望を味わってもらわなければ気が済まない。いや、そうして殺したとてシヴァの気が晴れる事はないだろう。それでも妻の人生を奪ったあの男をこのまま野放しにしておけはしなかった。
恨みを晴らしても晴らし切れまい。イシェラスを失った時点でシヴァの心が救われる日は失われたのだ。
イシェラスが復讐など望まない事は百も承知。それでも、イシェラスから産まれた憎き男の子を利用してさえも実行せずにはいられない。イシェラスが死してなおウェゼートはイシェラスに固執し囚われ、血を分けた子にすら欲情しイシェラスを汚し続けるのだ。
存在自体が許せない。
「私はたとえイシェラスに厭われようとこの復讐を止める気はない。」
シヴァは眼光鋭くラスルを見据えると腕を伸ばし額に触れる。
やがてシヴァの全身から黒い霧が立ち込めラスルの魔力を抜きにかかるが、既に力の限界に来ているシヴァは苦痛に顔を歪めた。
臓腑を抉られるような感覚にラスルの肉体は悲鳴を上げるが、額にあてがわれたシヴァの腕を渾身の力で掴み取ると、奪い取られる己の魔力に意識を集中させ流れ出て行く魔力に逆らう事無く、自ら望んで魔力をシヴァへと流れこませる。
黒の力を利用し、僅かに蓄えられた金の魔力を一気に注ぎ込まれたシヴァは慌ててラスルの腕を振り解くと、己の体を支えきれずによろよろと後ずさった。
倒れるのは何とか堪えたものの、許容範囲を超えた魔力は黒い煙となってシヴァの体から溢れ出し地を這い立ち消えて行く。
「ラウェスール……貴様―――っ!」
シヴァが唸る。
と同時に、突然大きな音を立て扉が開け放たれると、大きな影が飛び込んで来た。