印の意味
ラスルがフランユーロに囚われていると聞いたアルゼスは真っ先にそちらに向かいたかったが、それよりも先にスウェールの王子としてすべき事があった。口惜しいがラスルの事はザイガドに任せ、今はそのすべき事の為にイジュトニアに向かっている。
アルゼスを前にしても怯む事なく横柄な態度のザイガドは許し難かったが、彼がもたらした情報が事実ならすぐにでもイジュトニアに向かいイスターク王子に会わなければならない。不本意ではあるがラスルの事はザイガドと名乗る男に任せるしかないのだ。
それにしてもあのいい加減な男が口にした事は全てが事実なのだろうか?
そもそもあんな凶暴な男にラスルが引かれるとは到底思えない。いい所で無視を決め込む程度だろうと、意外にも的を得てはいたが、アルゼスの考えに同調できるものは誰もいなかった。
今のアルゼスはザイガドからもたらされた最悪の情報よりも、フランユーロに囚われたというラスルの身が案じられてならない。
ザイガドによると、ラスルは重傷を負っていたという。
ラスルは金の光を操る魔法使いで、アルゼスが内臓の一部を失う程の傷を負った時も容易く治癒し、僅かな期間で体調すら取り戻させたのだ。
そのラスルが自分の受けた傷を癒せないなどあり得ない。
だがザイガドが見たラスルは魔力を抜かれ歩く事すら出来ない状態だったと言う。ラスルを攫ったシヴァとか言う魔法使いが黒の光を操るようで、その魔法使いによってラスルの力は封じられてしまっているのだろう。
本当なら自身の手で救い出してやりたい所だというのに―――
アルゼスはイジュトニアに馬を走らせながら悔しさに唇を噛んだ。
命を救われ、その縁により僅かな時を二人で過ごしただけの娘だ。別れてから気にはしていたが、まさかこれ程強い感情を持っていた事に今になって初めて気付かされる。
自分はあの娘が好きなのだ。
どれ程の感情で思いを抱いているのかは分からないし、しばらく会っていなかったので思いが勝手に増幅された幻かもしれない。それにクレオンから聞かされた事実に反抗しての思いかもしれないし、何よりザイガドと言う粗暴な男に負けるのがいけ好かない単なる独占欲かも知れない。
本当の所は自分でも分からなかったが、今アルゼスの心にあるのは、たとえ望んではいけないとしてもラスルという一人の娘に心惹かれている事実。
王子であるアルゼスに怯むでもなく、自分を取り繕う事なくあくまでマイペースに接していたラスルの姿が脳裏から離れないのだ。
イジュトニアの王女であって王女でない、消された娘。
ラウェスールは死んだ娘で、アルゼスが好きなのはラスルという名の自分に無頓着な風変わりな娘だ。
ザイガドが去った後、ラスルを気にするアルゼスにクレオンがいつもの無表情で釘を指した。
『現実にラウェスール王女が生きていたとしても、既に死んだと処理された王女をスウェールの第一王子が妻に迎える事は許されませんよ。』
過去に婚約者として名を上げた王女は突然の病でこの世を去った。
五年前、あの時の婚約は決してアルゼスが望んだものではない。スウェール王国の危機的状況を救うために打診し、それをイジュトニアが受けたのだ。スウェールはイジュトニアの軍事力を求め、その見返りにイジュトニアの王女がスウェールの次期王妃の位に付く。
だがその婚約も王女の死によって白紙に戻り、それにも関わらずイジュトニアはスウェールを救ってくれた。その理由が、病死と偽った王女を守るためだったのだと今になって判明する。
事実はどうあれ、ラウェスールという名の王女は死んだのだ。イジュトニア王家の後見がないラスルをアルゼスが妃に迎える事など不可能だった。
それに―――
『あの時は仕方なくイジュトニアに王女の輿入れを打診しましたが、もともといわく付きの王女を我が国に輿入れさせるのには反対意見ばかりが出揃っていたのです。嫁いで来られた後に生まれた子が漆黒の髪と瞳をもつ純血の魔法使いである確率が高いと思われていましたからね。』
イジュトニアのウェゼート王には、婚姻を結んだばかりの娘に懸想し攫った挙句に子を産ませ、生まれた実の子に溺れ政を放棄しているとの噂が真しやかに囁かれていたのだという。その溺れていた実の娘がラウェスールで、二人は親と子を超えた間柄だという話しは一部では有名だったらしい。
当時のアルゼスはそんな事情など微塵も聞かされていなかった。
王子として戦場に立ち、多くの味方が命を落としていく中で必死に戦い、剣を振るっていたのだ。イジュトニアの王女との婚約もスウェールを守るのに必要な事と文書で報告を受け了承した。本当に当時はただそれだけの事だったのだ。
国の利益のために婚約話を取りまとめたアルゼスの父親であるスウェール王や、クレオンを含むその重臣たちとて同じである。ラウェスールがイジュトニアの王との間に禁忌の子を孕んでいる可能性を知りながらも、自国を守るために決断を下した。
アルゼスはクレオンから知らされたラスルに関わる秘密に、そんな事実はない、全くの言いがかりだと心で強く否定する。
もしラスルが父親から凌辱されたのなら、あの日ラスルがアルゼスに見せた態度は納得できないからだ。アルゼスがラスルの唇に触れようとした時、ラスルは拒絶しアルゼスを殴ったのだ。怒り心頭に『エロ王子』と暴言を吐いたラスルは、怒ってはいたが怯えてはいなかった。少なくとも実の父親に凌辱されていたのだとしたら、アルゼスが組み敷いた時点で情緒不安定な行動を取ってもおかしくはない。それに有り得ないだろうが、万一にもラスルが父親を受け入れていたとするなら、それこそアルゼスに対してもっと慣れた対処が出来た筈である。
ラスルは間違いなく純潔だと―――アルゼスは自分に言い聞かせた。
一方イジュトニアを目指して馬を走らせるカルサイトは、アルゼスの背を追いながら出立前にクレオンから言われた言葉に暗く沈んでいた。
『殿下の御心が娘に動き城に迎えたいなどといい出されては困った事になります。そうなる前に娘を落としてくれると助かるのですが―――』
頼みというよりも命令だった。
クレオンは職業柄、人の嘘を見抜く術に長けている。ザイガドのもたらした情報は信じたものの、ラスルがザイガドの嫁になる云々の話はアルゼスを煽って遊んでいると見抜いていた。
時にクレオンは容赦ない判断を下す。
ラスルが邪魔なら消してしまう事も厭わない男だが、彼女の存在がスウェールに影響を与えるのだと知った今は殺してしまうような馬鹿な真似はしないだろう。それよりも逆に利用する。だからとてアルゼスの態度を見たクレオンがラスルを野放しにしておく訳がない。アルゼスがラスルを欲しいといい出す前の保険として、目の前にいたカルサイトに目星を付けたのだ。
確かにラスルはアルゼスの周りにはいない娘で、物珍しさから心惹かれるのも理解は出来る。
命の恩人であるが故、アルゼスが彼女に手出しして辛い思いをさせるのは避けたいと警戒した事もあったが、二人きりにしても特に問題になる様な事はなかったようである。
それがラスルに渡した指輪が戻って来た時点でアルゼスの態度が変わった。
フランユーロが気になる動きを見せる中、忙しさ故かラスルの住まう森を出てからは彼女の話題が頻繁に持ち上がる事はなかった。それは隠れ住むラスルをそっとしておきたいとの思いもあったからだ。それがザイガドの挑発にあっさり乗ってしまったアルザスの反応は冷静さに欠けており、カルサイトの知るいつものアルザスではなかった。
ラスルを落とす―――
今までにも幾度かクレオンの命令で、アルゼスに害をもたらしそうな女をカルサイトが退けるという役目を担って来たが……それがあの奇妙な娘に通用するとは思えない。それも相手は命の恩人、いくらクレオンの命令であり、且つスウェールの将来の為とはいえ、あの真っ直ぐな瞳でカルサイトを見上げたラスルに対して軽々しくそんな事が出来るだろうか。役目を受け過去には感じなかった心が疼く。
重い気持ちで馬を走らせながらカルサイトは、今はフランユーロに囚われたラスルにではなく、目の前のやるべき事に集中すべきだと気持ちを切り替えた。
イジュトニアのイスターク王子を訪ねるのは正式訪問ではなくお忍びという形を取った。
身分を隠しスウェールの使いと名乗ったアルゼス達だったが、ラスルからの伝言だと告げると直ぐ様イスターク王子に目通りが叶う。
冷たく薄暗い大理石の広間に姿を現したイスタークは、王太子たる身分にも関わらず、イジュトニアというお国柄なのか、他の魔法使い同様に装飾のない黒一色のローブに身を包んでいた。
魔法使いの溢れる国で、これでフードをかぶられたらいったい誰が誰だか分からない。
二人の前に姿をみせたイスタークは異母兄という割にラスルに似た所はないが、身に纏う雰囲気に禍々しさはなく一見穏やかそうな優しい目元をしていた。
「突然の訪問にも関わらずお目通り頂き感謝いたします。」
瞼を伏せ頭を垂れるアルゼスに、イスタークは頭を上げるよう指示する。
「スウェールの使いと聞いたが、貴殿は第一王子のアルゼス殿ではないか?」
穏やかそうな外見とは異なり、何の感情もない低い声が広間に木霊する。
微笑んでいる様でいてそうではない、目元は緩やかであるのにまったく表情がないようにも窺える。奇妙な雰囲気に呑まれそうになるが、これが魔法使い独特の醸し出す色なのだろう。
アルゼスは非礼を詫びる為、再び頭を下げた。
「急ぎ取り計らって頂きたき願いがあり参上しました故、身分を偽り申し訳ございません。」
一国の王子が訪問するとなればそれ相応の手続きが必要だ。そんな余裕は今のスウェールにはなかった。
「それは構わぬ。だがスウェールの王子が何故ラウェスールと接触を?」
柔らかな雰囲気を纏ってはいるが、漆黒の瞳の奥は目の前に立つアルゼスの心の内を見抜かんとするかに何処までも黒く、まるで吸いこまれそうだ。
「彼女は私とここにいるカルサイトが魔物に襲われた折に命を救ってくれた恩人です。」
アルゼスはラスルに出会った経緯と、ここに来るに至った理由を手短に話した。
イスタークは黙って話を聞いていたが、アルゼスが話し終えると溜息を吐いて瞼を閉じそのまましばらく考え込むと、広間の片隅に置かれた大きな口の広い壺のような置き物へと足を進める。
それは水鏡になっていて、イスタークはローブから白い手を出し長い指の先を浸して水鏡を覗き込んだ。
「なる程。ラウェスールは確かにフランユーロに存在している。」
濡れた指先をそのままローブにしまい込むイスタークを不思議そうに眺める二人に、イスタークは感情のない瞳のまま説明した。
「王の血を受ける者は誕生と共に、体にそれぞれを識別する印が刻み込まれる。」
アルゼスはラスルの左胸に刻まれていた花の形の様な入れ墨を思い出した。
「我ら王の直系はその刻印が今何処に存在するかを知る力を持っているのだよ。」
「存在と言われましたが、彼女は無事でいるのでしょうか?」
イスタークの纏う空気が僅かに淀むが、アルゼスとカルサイトには分からぬ程度だった。
「生きている。王とてそれを確認したからこそ軍を動かしたのだろう。」
ラスルが生きている。
それを知る力がイスタークにあるのならそれが事実なのだろう。
アルゼスはほっとしたものの、王が軍を動かしたという言葉に遅かったのかと眉を顰めた。
「我が国の魔法師団は王の命令でのみ動く。ラウェスールがフランユーロに囚われている限り、たとえ自国が危ういとしても王は軍を引きはしないだろう。」
それが臣下の妻を無理矢理奪い王宮に閉じ込め、産ませた娘にすら溺れたウェゼート王の唯一の弱点だ。
やり方には多大な問題があるが、それ程までにイシェラスを愛していたのだろう。禁忌の愛情を押さえようとする気持ちもあるが、ラスルを前にするとイシェラスと混合してしまいその制御が効かなくなる。
アルゼスとカルサイトは互いに顔を見合わせた。
既にイジュトニアの魔法師団は動き出した。
一度動き出せばそれを止められるのはウェゼート王のみ。ラスルは死んだと虚偽の報告をしても、胸に刻まれた刻印がある限り水鏡を使って生存が確認できるのでは意味がない。自分は死んだ事にしてくれとザイガドに言ったラスルはそれを知らなかったのだろう。
こうなってはスウェールに戻り、急ぎ軍を統率して魔法師団を迎える準備に取り掛からなくてはならない。剣を相手にするならともかく、魔法使い相手ではかなりの苦戦が強いられる事は必至。
かつて国を救ってくれた相手に剣を向けなければならないのは酷な現実だったが、戦争とはそんなものだ。
厳しい顔つきになったアルゼスとカルサイトにイスタークは助言を加える。
「私には軍を動かす力はないが、動きを遅くする事は出来る。こちらとてみすみすフランユーロに国を潰される訳にはいかないのでね。アルゼス殿にはその間にラウェスールを奪還してもらえはしないだろうか?」
「私に彼女を救えと?」
「シヴァが相手では我ら魔法使いでは歯が立たないのだよ。幸い黒の魔法使いはそれほど大きな力は持たない。スウェールの将たるアルゼス殿なら立ち向かえぬ相手ではない筈。恐らく王はラウェスールの身を案じ水鏡に張り付いているだろうから、ラウェスールがスウェールの地に戻れば直ちに軍は退かれるだろう。」
大軍ではないにしてもイジュトニアの魔法師団の力は強大だ。スウェールの全軍で迎えるとしても多大な犠牲が強いられるのが予想される。それがラスルをスウェールの地へ取り戻すだけで防げるというのならそれに越した事はないのだが―――
「猶予は?」
魔法使いは騎士とは違い徒歩で行動を起こす。歩みは遅いがイジュトニアの都からスウェールまでは遠くはなく、徒歩でも三日とかからないだろう。
「本日を含み七日―――」
僅か七日でフランユーロからラスルを奪い返しスウェールに連れ戻さなければならない。
時間がないが戦いを避けるためにはやらなければならなかった。
「彼女の居場所は細部まで特定できるのでしょうか?」
アルゼスの視線が水鏡に向かう。
「フランユーロの王城、詳細までは特定できないが北側だ。」
「そこまで分かれば十分です。」
アルゼスに迷いはなかった。
頭を下げ急ぎ退出しようとするアルゼスをイスタークは引き止める。
「このままラウェスールの命が尽きれば、王は軍をスウェールではなくフランユーロに向かわせるだろう。」
ラスルが死ねばイジュトニアの魔法師団は矛先をフランユーロに変える。スウェールにとっては最も手っ取り早い話で、そんな事アルゼスだってとっくに気が付いていた。ラスルの兄である人物よりラスルを殺す案を示され、アルゼスは試されているような気分に陥り、青い目を細めふっと笑った。
「必ず生きて連れ戻します。」
ラスルを自分の手で救い出すのはアルゼスの望みでもあるのだ。
自信に満ちたアルゼスにイスタークは深く頷く。
「魔力を奪われ続けると精神を病む危険が伴う。勝手な願いだが、そうなる前にラウェスールを救い出してやって欲しい。」
水鏡から感じ取ったラスルの気配は弱り切っていた。それは幾度となく魔力を奪われた証拠で、しかし同時に金色の力を持つ魔法使いの力を奪い続けたシヴァとて無事では済まないだろう。
「分かりました。イスターク殿も魔法師団の足止め、宜しく頼みます。」
「全力を尽くそう。」
アルゼスは黙礼するとカルサイトと共に先を急いだ。
暗く冷たい大理石の間に二人の足音が響く。
二人が去った後、イスタークは再び水鏡に向かい中を覗き込んだ。
黒い水面にイスタークの顔が映る。
そこに先程同様細く長い指を浸すと―――水面にはイスタークではなくウェゼート王の顔が浮かび上がった。