Episode.3 / ビギニング
国家バレイ。首都アズカナエヴォ。
中心に全長三百メートルの斜塔、通称『百八』(ダンジョンNo.108)がそびえ立ち、ノーマンが勤める大企業『クラフト商会』本社を筆頭に、多くのビルや観光施設が集中する有数の大都市。
そのクラフト商会本社ビル十五階オフィスの最も窓際にあるデスクにて。
集中力を帯びた眼つきで書類の束に目を通し、大きな指で小さなキーボードを叩いているのは、天才剣士ノーマンその人。後ろへ撫でつけた金髪とクラシカルなスーツが、本日も社会人らしさを演出している。
彼のもとへ女性社員がやって来る。
「ハトさん。No.3557のマップデータできたんで、メール確認しといてください。そのままギルドに送っちゃって大丈夫なんで」
「あ、分かりました」
生粋の窓際社員である彼は伝書バトにちなんでハトという愛称で親しまれ、主に完成したマップデータの送付を任されている。
「あ、そうだ。クリントンさんがお呼びです。キリがついたらでいいと」
「すぐ行きます。どうも」
彼は席を立つと、周囲の視線を避けるように社長室へ向かう。
クラフト商会代表取締役、ビー=クリントンは宇宙生物学の権威としても知られている。ゆえに社長室は左右の壁が本棚になっており、学術書やダンジョンに関する研究誌が網羅されている。
部屋に通されたノーマンは、デスクのクリントンがジグソーパズルに熱中して自分に気がついていない間、ソファにかけてその本棚を観察していた。
「(相変わらずの蔵書だ。一冊くらい貰えないかな)」と、思わず涎を垂らす。
そんな彼をよそにクリントンの表情は真剣そのもので、わざとノーマンを無視しているようには見えない。
「(また勲章が増えたのか)」
本棚の下段はガラスケースであり、勲章やメダルが所狭しと並べられている。それはクリントンが一流の経営者かつ魔法使いであることを意味している。
「あぁ、もうまだるっこしい」
不意にクリントンはパズルを机から払い落すと、咳払いをして一言。
「無視して悪かったな」
床に散らばったパズルを見つめながら、ノーマンは慌てて返した。
「と、とんでもございません。話とは何でしょうか」
「なに。いつもの話だよ」
クリントンは腰を重たそうにあげると、ノーマンの向かいのソファにかける。
ノーマンに真っすぐ向かい合う表情は、経験を積んで得た頑強さと、加齢で丸みを帯びた優しさを併せ持っている。顔はシワシワでこそあれ、深い赤のタートルネックに濃紺のジャケット姿は洗練されていた。
「(さすがに腹は出てきてるな……)」
「お前が我が社の事務に就いてもう二十年になる」
「あっ? えぇ。まぁ」
ノーマンはクリントンの腹に気を取られて、すっとんきょうな声を出す。
「毎年言うことだが、お前の指は剣の柄を握るためのものであって、エンターキーを叩き壊すためにあるのではない」
「すいません」
「このやり取りも何回目になるか」
クリントンはため息をつく。目には悲哀が見えていた。
「我らの仕事は、冒険者を支える仕事だ。冒険者より先にダンジョンへ潜り、調査し、結果をもとに地図を作る。その地図を冒険者に売って利益を得ている」
「はい」
「お前がキーボードと遊んでいる間にも、ダンジョンに出て働いている社員がいるわけだ。大きなリスクを背負ってな」
「でも、俺は――」
「冒険者は掃いて捨てるほどいるが、地図の作り手は常に人手不足」
「でも俺、ダンジョンとか向いてないですよ。センスないですし」
それを受けて、クリントンはやれやれと肩をすくめる。
「まぁ、そうくるだろうと思って今年はプレゼントを用意した――入れ」
「し、失礼しますっ! 」
快活で若い返事。ノックの後に扉が開いて、二人の女子が入室してくる。
二人の第一印象は静と動だった。
片方の女性はせせらぐような長い黒髪をカチューシャでまとめ、カールした毛先に育ちの良さを感じさせる。雪を思わせる白い肌に、それと同じくらい白いセーターを着ている。
もう片方の女性は鮮やかに赤いレイヤーボブ。自然にはねる毛先は、彼女のエネルギーを反映しているようにも見える。レースアップの施されたアイボリーのトップスに、赤いカーディガンを羽織っている。
「この二人は? 」
ノーマンは二人を親指で指した。
「入社試験を受かってきた新入社員だよ。クラフト課のな」
黒髪の女子は儚いほど優しい笑みを浮かべ、赤髪の女子は活気に満ちたギラギラとした表情でノーマンを見つめている。
「そうですか。では」
ノーマンは嫌な予感を察知して席を立つが、クリントンに背中から呼び止められる。
「指導役はお前だ。逃げてくれるなよ」
「……お断りしますッ! 」
ノーマンは二人の間をかき分けて部屋を後にする。
二人の女子とクリントンは顔を見合わせると、クリントンが号令を出した。
「ゴー! 」
「追いかけます! 」
「イエッサー! 」
本社四十八階屋上。
ノーマンが柵にもたれて黄昏ていると、二人が息を荒げながら現れる。
「はぁ……はぁ……いた……」
「疲れた……」
「悪いがルーキーの指導なんて御免だ。他を当たれ」
「嫌です。ノーマン様でなければ」
「アタシも。オッケー出るまでここ動かないっすよ」
二人が屋内への扉を塞ぐのを視認したノーマンは、転進すると屋上の柵を越えて飛び降りる。思わず声をあげる二人。
「ちょっ!? 」
「マジっ……! 」
柵に身を乗り出して見下ろすと、ノーマンが十階ほど下のバルコニーに着地しているのが見えた。顔を見合わせた二人はふっと笑って、同じように柵を飛び降りる。
三人は、昼休みの社員で混雑する廊下を駆ける。
「なんで逃げるんすかああぁぁーっ! 」
「そうですよっ! 」
「ついてくるなあぁーッ! 」
ノーマンは壁を走り、人の肩の上を飛び石のように渡り、扉を開けて障害物のように利用しては二人を撒こうとする。それに対応しながら追跡する二人。タフなチェイスになると踏んだノーマンはネクタイを緩める。
次はオフィス。ノーマンの巨体がデスクからデスクへ軽々しく飛び移り、社員の股下をスライディングで抜けていく。二人はその社員にぶつかりそうになったり、まかれた社内文書で滑りそうになりながらも、まだまだ離されない。
「チェン! 挟み撃ち! 」
「はいはいっ! 」
二人は互いに分かれる方向へハンドサインを出すと、頷き合ってオフィスで散開。
そして。ついに。
廊下を逃げていたノーマンの前方に赤髪の女子が現れる。
「さぁーっ! 観念観念! 」
赤髪の女子は勝ち誇ったように、立ち止まるノーマンの両肩に手を置く。
ノーマンはその手を払いのけながら、諦めたように天井を仰いだ。ため息をつく。
「……分かったよ。自己紹介ぐらいは聞いてやる」
彼は壁にもたれ、二人を交互に見てそう言った。
「アタシはチェン。学生時代には特殊槍術で主席でございやした」
「私はスズハ。純粋槍術で主席でした。チェンとは幼馴染です」
「二人ともランサーか……どうしてこんな会社を選んだ」
「私は――」
「アタシは――」
二人が同時に切り出す。
「貴方がいたからです」
「先輩がいたからっす」
二人とも迷いがなかった。
四十を超える男は真っすぐな瞳に見つめられわずかに怯む。
「お、俺はほとんど前線に立ってない。もう四十のオッサンなんだぞ」
スズハが歩み寄る。一気に距離が縮まった。
「私の父は、百八事件で命を落としました」
ノーマンの表情が暗くなり、次のスズハの一言で完全に強張る。
「貴方は、父カラミティの弟子だったと聞いています」
彼の心臓が肋骨をガンと叩いた。
「父の意思を継いだ貴方でなければ」
ノーマンは愕然としたまま。スズハの佇まいと、カラミティとを重ねる。
――俺、今度子どもが産まれんだよ。女の子でなぁ。
止まっていた秒針が数秒、音を立てる。
溢れそうになった涙に気づいたときには、もう止められなかった。
「そうか」と、彼は大きな手で顔を覆った。
「ノーマン様の名声は聞き及んでいます。転生者に匹敵するほどの天才剣士だと。そして、百八事件の唯一の生存者だとも」
ノーマンは顔を手で覆ったまま首を振る。
その悲痛な様子を見かねたチェンが、思わず声をかける。
「ねぇ、知ったような口聞くんすけど……もっと誇っていいんじゃないすか? 」
「そうです。ノーマン様は――」
「やめてくれ」と言ったノーマンは、振り絞るような声だった。
「俺はただの卑怯者だ。師匠がいなければ、俺は……俺は、卑怯だったんだよ」
「そんなことありません」
「何が分かる」
「分かりません。貴方が口を閉ざしたままでは」
スズハの襟首が掴まれる。
「お前に何が分かるんだ。お前にこの二十年の何が分かる」
ただ、掴んだ力は萎むように消えていき、膝をついたノーマンは消え入りそうに告げた。
「俺に誰かを指導する資格なんてないんだよ」
スズハは屈み、目線を合わせて諭す。
「ノーマン様。貴方が毎年、事件で亡くなった方全員のお墓に手を合わせているのを知っています。本当に卑怯な人間が、そんなことをするとは思えません」
「そうっすよ。アタシなんてしょっちゅうズルばっかですから」
スズハはノーマンの手をとる。
その手は涙で濡れていたが、スズハは構わず握った。
微かな、それもオーロラのような光が、彼女の手からノーマンの手へ伝わる。
彼の心を、懐かしくも暖かい光が灯していく。
ノーマンの瞳には、カラミティの姿が映った。。
――もし俺に何かあったら、娘のことは頼んだぜ。ノーマン。
熱い涙が、ぬぐってもぬぐっても止まらない。
「さ。先輩。立ってくださいよ」
「ノーマン様」
彼は二人に手を貸されて立ち上がる。
「私たちに、仕事を教えてくださいますか? 」
彼は二十年ぶりに、自分の心臓が脈打つ音を聴いた。それは高揚の証。身体を巡る血が熱い。剣士としての肉体が冒険を期待している。
二人はノーマンを見据える。
彼はこれまで散々呪ってきた運命を、初めて祝福したい気持ちになった。遠ざけてきた運命も、目を背けてきた過去も、心を無にして生きてきた二十年間も、このためにあったのかもしれないと、そう思えるほどの瞬間が、今――。
「スズハと、チェンと言ったか」
名前を呼ばれ、咲くように二人が微笑む。
「俺が、俺でよければ指導しよう。死ぬかもしれんが、ついてこられるか? 」
二つの表情が綻び、頷く。
剣士ノーマンの物語が動き出す。
もう、秒針は止まらない。
続く。