Episode.1 / 拝啓、時の果てより。
挿絵はイメージの参考までに。
無人駅。
ガラスの割れた窓からツタが侵入し、割れた点字ブロックのヒビからはタンポポが咲いている。朽ちた時刻表は文字が滲んで読み取れず、ベンチは元の青色が剥げている。
ベンチには二人。
一人は四十歳くらいの男性で、一人は十歳くらいの少年。
男性の切れ長の目は酷く疲れ、眉間にも力が入っていて、強く緊張しているのが伺える。淡い金の短髪は後ろへ撫でつけられ、額には冷や汗が滲んでいた。落ち着いた色のスーツで、ジャケットの上からでも分かるほど筋骨はたくましい。何かと戦うために生きてきた人間であることは明らかだ。
「やっと起きたね」
少年は、三つ編みの黒髪を片方の肩にかけた中性的な容貌だった。男性とは対照的に疲れを感じさせない爛々とした瞳で、目の前の状況をつぶさに観察しているようだ。身長のわりに丈の長いコートを着ている。その恰好は、少年の年齢にしては不釣り合いに大人びているように思われた。
男性は少年を一瞥すると、ポケットから、真鍮の古びた懐中時計を取り出す。長針と短針は、仲良く踊るように回っている。
「ここは時の果て。元いた宇宙の法則は通用しないよ」
少年は分析結果を出力するように淡々と告げる。声は見た目通り若いが、抑揚の中には明らかに知性が込められていた。
「戦いは終わったのか」
男性は、ようやく大きな仕事が終わったような感慨を込めて訊ねる。
「うん」
少年はにこやかに答えた。少年もまた、自分の夢が一つ叶ったように満足気な様子だった。
男性は自分の手のひらに視線を落とす。手を握っても腕を回しても間接を曲げても、何の痛みもない。
「(怪我が治ってる)」
彼は胸のあたりを抑えるが、身体はおろか心の痛みも感じない。本当は涙が出るほど強く拍動していた筈の心臓が、今は不思議と安定している。
そして、彼は立ち上がると駅の周囲、日よけの外を見渡す。
線路脇の電柱は、等間隔で無限に続いている。
枕木が腐って雑草の生い茂る線路も、電柱に沿って地平線まで続く。
青々とした田畑や畦が一面に広がっている。
案山子はあっても人の気配はない。
「時の果て、か。ここに来たのもお前の力の影響か? 」
「ボクだけの力じゃないよ。ボクの力と君の力が衝突したことで矛盾が生まれ、世界を正そうとする何らかの力がボクたちを宇宙の外まで弾き飛ばした。二度と帰れないよ。ボクたち」
「死んだわけじゃないのか」
空を見上げれば、青空の中を過ぎていった雲が、嘘のような速さで逆行していくのが観察できる。
「多分ね」少年は肩をすくめる。
「(ということは、世界を救えたんだな。俺は)」
男性は安堵に胸を撫でおろし、冷や汗が風に乾いていくのを感じた。
少年は線路に降り立つ。体重で枕木が軋み、柔らかくしなった。少年は線路の先を指さす。男性も続いて線路へ降りる。地平線は陽炎で揺らめいているが、そこに列車の姿はない。少し風が吹いた。二人とも、その風に押されるように歩きだす。
「ま、歩こうよ」
「何のために」
少年は男性へ振り向かずに言う。
「忘れ物があるかもしれないだろう? それを探しにさ」
男性は虚を突かれたような気持ちになって、「そうだな」と、同意した。
歩いても歩いても変わることのない景色をよそに、男性が言う。
「もう俺を殺そうとしないのか? 」
「あ。寝てる間に殺せばよかったね」
「殺意は否定しないのか」男性は呆れたような顔つきになる。
「当たり前でしょ。寝ぼけてんの? 」
「いや。俺が甘かった」
それから、どれだけ歩いても不思議と疲れはない。
「お前のせいで、どれだけの人が亡くなったか」
その声には、言葉ほど深い憎しみは込められていなかった。
「ごめんね」
少年が舌を出しておどける。もし事情を知らない人がその表情を見たら、素直に可愛いと思ったに違いない。異常性愛者なら犯罪に手を伸ばしかけたことだろう。だから、事情を知る男性は少年の額をデコピンで弾いた。
「あいてっ」
「調子に乗るな」
少年の額が赤く腫れあがる。
「もう! ボクを殺したんだからそれで許してよ」
「そうだな。少なくとも俺はお前を殺して、それで許せた」
男性はぶ厚い皮の、豆だらけの手を差し出す。
「握手? 」
「あぁ」
それを受けて少年も、おそるおそる手を差し出すが、しかし。
「なんだ、可愛いとこあんじゃ――……ちょおぉっ!? 」
男性は掴んだ手首を引いて、背負い投げの要領で地面に叩きつける。少年の頭上に星が舞うのをよそに、男性は大笑いして逃げていった。
「はっはっはっは! 千年生きてる割には甘いんだな! 」
なんとか起き上がった少年はたんこぶをさすりながら、遠ざかる背中へ悪態をつく。
「もう! 馬鹿っ! あほ! ろくでなし! もう一回殺してやるからーっ! 」
少年は枕木につまづいたりしながら逃げた背中を追っていく。
男性の名はノーマン。
少年の名はフェルマ。
二人の物語が終わったのか、はたまた、続きがあるのかは分からない。
しかし、二人がかつて生きた世界は、今もそこに在り続けている。
ならば語らなければならないだろう。
彼らが元いた世界の話を。
続く。