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短編

春の声

作者:

ある方の書き方で衝撃を受けたので、それを参考に書いてみました。


 左肩を軽く叩かれて、ごく普通に振り向いた。

 見えたのは、白いワイシャツに臙脂色のネクタイ、肩にかかった、藍と黒の中間のようなスーツ。ああ彼だ、と視線を上げる。

 

 おはよう、りーこ。


 黒縁眼鏡の奥の、少し鳶色に透けた瞳を細め、静かに笑う彼。花粉症だからかマスクが顎下まで下げられている。少し前だったら、笑うとちょっと犬歯が覗いていたのだけれど、最近は笑い方に気を付けているらしい。歯も、少しだけ白いような。第一印象が大事って言うからなあ。


 前の動物みたいな彼の方が好きだったなと思いながらも、おはようございます、と返す。

 彼は、ゼミの先輩。学年は一つ上なので、今は就職活動だ。春先の今、同じような格好の人は珍しくない。


 今日、ゼミ室いく?


 先輩がマスクに触れながら首を傾げたので、私は指を丸めて、OKと返す。それを見て先輩は、少し潰れたような笑顔で、私の頭を撫でた。


 ここはキャンパス内。自然豊かな、私の学び舎。校舎を繋ぐコンクリートの通路は、農業用トラクターや軽トラックも余裕を持って通れるように幅が広い。


 通路脇の生い茂る木々が大きく揺れ、彼の顔に影をつくる。不覚にも、胸の奥が痛む。ああそうか、しばらく会わなくて、この顔を見なかったからか。

 私がモヤを抱えて彼を見つめていると、


 少し恥ずかしいから、見過ぎないで。


 眼鏡に覆いかぶせるように、手を広げて恥ずかしがっていた。長くて白い指の隙間から、少しだけ赤い頬が見える。照れて口元も緩んでいる。マスクの紐がかかる耳も、血色がさらに良くなっている。

 それを見て私は少し笑ってしまい、このテンポの遅い交流に心地よさを感じるのだ。


 なに笑ってるの!


 楽しそうに先輩が言う。

 これは、ゼミの同期でも、他の先輩でも、教授でも、同じクラスの友達でも、支援室の職員でも、誰にでもなく。紛れもないそれは、彼とゆっくり接する時にだけ、抱くもの。


 でも、どう思おうと、どう感じていようと、彼に伝えようとは思わなかった。なんでもないです、と笑いながら伝える。

 それで、良かった。理解者がいること、自分自身を他と変わらなく対等に見てくれることと、捉え違えてたのかもしれないけれど、それは些末なことだった。

 これはきっと、普通なら掴み得るはずの、幸福なことなのだから。

 健常者にはわからないかもしれないけれど。




 でもこれは、私が大学三年生の話。時が過ぎれば、私が四年生になれば、就職活動をしていた先輩は当然卒業して、居なくなる。少しだけ涙を溜めながら先輩を送り出して、また同じように春は来る。


 やや混雑している図書館で、ようやく席を見つけた。今の時期は何をしていても何処にいても、忙しない雰囲気だ。去年は目の前にいる先輩の、大きく開いてくれる口元にしか目が行かなくて、青草がやけにくさいことも、雨で桜が散り落ちることにも気づかなかった。


 エントリーシートの下書きをしていると、先輩から久しぶりにゼミ室に行くよとメッセージが来た。そういえば、今日は土曜日だった。

 折角ならエントリーシートの添削でもしてもらおうかな、と少し理由をつけながら紙を折る。

 折り目を押し付けて引いたところで、鋭い痛みが走った。ふと見ると、右人差し指の腹が切れていた。何故だかその赤い血をまじまじと見つめてしまう。

 丸い小さな血溜まりが徐々に大きくなり、自分の顔が見えそうなくらいの大きさになると、指の腹の上を滑り落ちた。はっとして、慌てて絆創膏を押し当てた。

 そうだ、ゼミ室行かないと。

 私は入り口の傘を忘れないように思い出してから、荷物を急いで詰め、席を立った。


 なんやかんやでたどり着いたゼミ室には、教授とゼミの同期と、先輩と、知らない女性がいた。

 誰だろう、と思っていると、先輩が振り向いた。


 !


 いつもの黒縁メガネではなく、コンタクトにしたのだろうか。驚いたような、懐かしいような目つきで、私を見つめる先輩。

 何かを私に言っているようだが、わからない。

 でも、私はずっと言い出さずに、うんうんとだけ頷いて、笑った。


 先輩、わからないよ。

 前は気づく前からマスクを外してくれていたのに。

 他の人と同じように、普通に、つけたまま笑いかけても、わからないよ。



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