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寿町の星  作者: 播磨王65
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6話:世之介の塾経営と子供たちが小学生に

 今年から近所の公民館を借りて近くの商店街にお願いし塾のポスターを貼って、地元の中学生と高校生の進学塾の宣伝をした。それにより中学生18人と高校生26が集まった。月謝を週に1回、土曜日の午後で中学生が2千円で高校生が4千円で開始した。これにより月に14万円の収入になり、生活が随分楽になった。夏になり、家からバスに乗って15分の所にしらゆり公園プールがあり、毎週のように善一と陽子を連れて出かけた。


 そして浮き輪を腕にはめて溺れないようにして、プールに離すと、一生懸命、手で水をかいて進むのに夢中になっている光景が、また可愛いい。そして随分と身体が大きくなった。目を離すと危ない時期になり気を使うので、プールから帰ると、面倒を見ていた親が、疲れ切って爆睡する日々が続いた。少しずつ涼しくなり冬が駆け足でやってきた。今年のクリスマスパーティー、兼松幸子おばあちゃんが風邪をこじらせて欠席した。


 しかし1979年の年が明けると兼松幸子おばあちゃんが元気を取り戻して子供達に会いに来てくれた。1979年2月3日が久しぶりにN証券の池田が夢想の家を訪ねてきて、日本電気が上昇し始めてPC9800と言うマイクロコンピューターを発売してから注目されて株価が上がりだした。俺も人気が火がつけば大きな相場となると思うのだけれど、挑戦してみるかと言い急上昇するか時間がかかるか話わからないけど、今後、こう言う新しい時代の流れに乗るのが面白いと思うと話した。


 それについて、どう思うと聞くと確かにコンピュータが個人が使える時代は必ず来ると、池田の意見に賛成した。そして投資してみようかと池田が言うと夢想も挑戦しようと言い握手した。1979年2月5日、N証券の池田からの電話で日本電気株を2300円で3千株690万円購入し、残金が910万円となった。1979年も3月過ぎると暖かくなり保土ケ谷の近所の公園に双子用の乳母車で出かけ公園で2人を話すと楽しくて動き回り、その後を両親が追っかけて回った。


 1時間もすると子供達も疲れて乳母車に戻ってくると家に帰って昼食をとり昼寝をする。こういう感じで土日は過ごして平日は兼松幸子おばあちゃんが手伝いに来てくれて助けてくれるのが日課だった。やがて夏になると市民プールに出かけて冷たい水が気持ちよさそうに双子が浮き袋を使い浮かんで喜んでいた。


 夏が過ぎ秋になり冬が来て1979年が終わり1980年となった。今年は4歳で双子なので早めに幼稚園に入れようと考えてた。4月になり近くの幼稚園に入園の申込証を書いて園服を買うと子供達もうれしそうな顔して幼稚園のお迎えの車にのって通うようになった。そして幼稚園で多くの事を覚えてきて成長するのが手に取るようにわかった。夏休みは子供2人とも積極的に泳ごうと手と足をバタつかせ、はしゃいで家に帰ってくると、すやすやと可愛い寝顔で寝てしまった。


 夏が終わり涼しくなった頃、野毛山動物園までバスを乗りついで行き象を見たりサルを見たり綺麗なクジャクを見ると目を丸くして驚いた様に見ていた。帰りにはキャンデーを買ってやると喜んで食べて坂を下りて家に帰って風呂に入ると直ぐに寝てしまった。寒くなると11月、12月、年末になり1981年があけた。2月にかなりの雪が降り子供達は近くの公園で雪だるまを作ったり雪合戦をして雪を楽しんだ。しかし、その翌週に夢想善一が急に熱を出した。


 数日後、夢想陽子も熱を出し生まれて初めてインフルエンザにかかり1週間も幼稚園を休んだが、近所でかなりの流行した。幸いな事に両親に、うつらずに済んだことが救いだった。その後4月になり保土ケ谷には桜の名所が多く乳母車を押して出かけるようになり素晴らしい桜を眺めて気晴らしになった。やがて若葉の季節になり、日射しがきつくなって夏を迎えた。そして橫浜市民プールに泳ぎに行く季節になり子供たちをプールで泳がせて父と母が手分けして面倒を見ていた。


 そして家に帰り、簡単な料理を作り夕飯を食べて、風呂から出ると直ぐに床に入ると寝息を上げ、疲れて倒れるように寝た。夏休みが終わると、また幼稚園が始まり、毎日、送り出す生活が始まった。その後も子供の幼稚園の送迎や小旅行へ連れて行ったり夏のプール、秋の紅葉を見せに行ったりして、あっという間に1年が過ぎて1982年となった。この年は風邪とインフルエンザが流行して学級閉鎖も多かった。


 しかし、毎朝、外出から帰ったとき、寝る前と、うがい薬できちんと、うがいをした。更に、歯磨きをし規則正しい生活を心がけ多少の熱上がった程度で、すぐ下がった。春になり近くの花見の名所を歩いて楽しんだ。そして、夏は恒例の市民プールへ泳ぎに行ってつかれて、熟睡という生活を過ごした。やがて秋風が吹き、寒くなり11月過ぎ12月を迎え、クリスマスパーティの日を迎えて兼松幸子おばあちゃんが来てくれてケーキと鳥の丸焼きを食べて楽しんだ。


 やがて1983年を迎え、今年は双子たちが小学校に入る年になった。小学校まで徒歩で15分、集団登校しているので先輩・小学生に交じって登校した。最初は小学校になれなくて行くのを嫌がっていたが1ヶ月も過ぎると友達もでき楽しそうに出かけた。長男の善一も長女の陽子も足が速く1年生の運動会のリレーの選手になって、すごい顔して一生懸命に走っている姿を写真に撮りリビングに貼った。近所の小山への遠足もおにぎりと水筒持って出かけた。


 そして見てきたもの感じた事を学校から帰ってきて陽子が一生懸命に話してくれた。それに対して善一は、相槌を打つだけだった。陽子は絵を描く事と歌を歌うのが好きできれいな声で学校で習ってきた歌を披露してくれた。しかし善一は無口に何かを質問すると答えるが、自分から話すことは少なかった。それでも計算が早く、算数の九九を覚えるのが早く記憶力が良かった。たまに夕飯時に兼松幸子おばあちゃんがコロッケ、ハムカツ、串カツを買って来てくれた。


 それを、みんなで食べるのが楽しみで陽子は良くしゃべり、善一はよく食べた。そして善一がよく食べるせいもあってか、背も伸びて体重も増えた。そして陽子よりも随分体格が良くなった。やがて小学校2となり1984年になると陽子はクレヨンで画用紙にでかけた所の絵を描いた。そして善一は本を自分の部屋で集中して読むようになった。


 そして質素な生活をして公営住宅で家賃が安いこともあり少しづつ貯金もふえて家の資産が500万円になったと世之介が奥さんに報告し、預金の管理を奥さんがして、郵便局の定額預金とかワリコーなどに分散投資していた。

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