31話:(最終章)熊本大地震と兼松幸子さんの死
しかし1人当たりの株式の購入金額は15万円から50万円前後だった。それでも薄利多売ではないが、チリとつもれば山となるの例え通り徐々に利益が積み上がってきた。それに比例して参加者の口コミで勉強会参加者の総人数が増えた。しかし会費が安いこともあるのか勉強会参加者数は会員数が増えるほど増えなくて講師としては継続して勉強会を続けた。参加者の中には3年から10年の中長期の投資家と3ヶ月から1年の短期投資家に別れていた。
そのため2015年6月からは、短期投資勉強会と中長期投資勉強会に分けて授業を行う事にした。講師も2人増やして、会場も広い会場で勉強会を続けてい行った。勉強会の内容も短期投資家には買いゾーンと売りゾーンを決めて、10から20%プラスになれば利益確定さするようにした。そこで使うのは株価の標準偏差のデータだった。しかし、そんな数学的なことには、興味を持つ人は、ほとんどおらず、銘柄名と買い値、売値を自分のノートに書き込む人ばかりであった。
そんな事で質問は、ほとんどなかった。しかし、中高年、富裕層の多い中長期投資家グループの人中には高配当、株主優待を目当てに株を持っている人も多かった。そして、概ね反応は良く、たまに差入をしてくれる会員がいるほどで、わきあいあいとした雰囲気で授業が進んでいった。そして、忘年会を企画したいの言うので、ご自由にどうぞと答えた。すると先生方も招待しますと言い、横浜中華街で授業のない12月の平日の昼時に20人程入る大部屋を借り2時間の昼食会を開いた。
生徒さん達の感想と今後の要望を述べてもらった。それによると現在の勉強会は、おおむね好感されているようで、感謝の弁が多かった。そして参加者同士の親睦もかねた忘年会、新年会を継続しよういう話になった。そして親睦会長と副会長を選出した。やがて2016年があけた。2016年にアメリカの大老両選挙で、それまで本命だと言われていたヒラリークリントンが敗れ、トランプ氏のまさかの勝利となった。
その後、メキシコとの国境の壁を作るとか、イスラム教徒にアメリカに入局させないとか、極端なことを言いだして、世界に大きな衝撃と共に不安を与えた。その後、4月14日21時26分に、熊本地震が起きた。気象庁震度階級では最も大きい震度7を観測する地震が4月14日夜と16日未明に発生したほか、最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回発生した。日本国内の震7の観測事例としては、4例目。
九州地方では初、一連の地震活動にで現在の気象庁震度階級が制定されてから初めて震7が2回観測された。また一連の地震回数、マグニチュード3.5以上は内陸型地震では1995年以降で最多となった。そのため長引く地震に避難者の疲労や車の中での避難生活でエコノミークラス症候群で、地震後になくなる人が多かった。関連する地震は震度5以上が熊本県内で4月14日4回、4月15日3回、4月16日10回、4月18日1回、4月19日2回と合計20回も連続した。
こう言うタイプの地震は初めてだった。そしてテレビで流れる、名城、熊本城が崩れるシーンで、日本国民の心が傷ついた。そのころ豊富功君の友人の弁護士から電話が入り、現在、財務省が投資詐欺について少しでも関連する業務、業態の団体に調査が入り出したので、投資勉強会もやめた方が良いと連絡が入った。仕方なく、この話を5月末の勉強会で正直に話して、残念ながら継続できないと告げた。そして、5月末をもって、投資勉強会の事業から撤退した。
しかし、豊富功君は為替、日本株投資でもかなりの金額を稼いでいた。そして、夢想家では夏休みに子供達が父の住む忍野村に帰った。そこで8月3日から夢想夫妻と兼松幸子さんが北海道、釧路のホテルに長期滞在して、涼しい夏を過ごしていた。ところが北海道について8日目の8月11日、兼松幸子さんが意識不明となって、救急車を呼んで釧路の大きな病院で診察してもらうと心臓の働きが弱くなっていてペースメーカーを入れる手術をした方が良いと言われた。
そして10日間の入院をして手術を受けた。その後、体調は回復して意識が薄れることはなくなった。その後、9月1日まで近隣の天然温泉に入りホテルでゆっくりし9月2日に橫浜に帰った。帰って来てからは順調に回復して散歩も開始した。やがて涼しい秋が到来し冬へ向かった。11月に橫浜市内でもインフルエンザの学級閉鎖が報告されて、夢想家でも気をつけていた。そして、12月24日の恒例のクリスマスパーティーも開かれた。
孫達が今年の学校での出来事などを話し夢想夫妻達は北海道旅行の話をして盛り上がった。少しして、2017年を迎えたが、この冬は寒かった。そんな1月20日、朝、兼松幸子さんが起きてこないので驚いて部屋に入ると冷たくなっていた。何か、食べたものを吐いた後が見つかった。近くの大病院に運び、検死してもらった。吐いたものが気管支につまり窒息死したと判定された。その後、葬儀と行っても、幸子さんには身寄りがなく近くの葬儀場に電話して荼毘に、ふしてもらえるように交渉し、1月24日にあいてることが解り、夢想夫妻と孫2人で立ち会った。
その後、兼松家の菩提寺に葬ってもらった。その後、夢想勝子さんが、もし私に何かあったら、私のタンスの真ん中の引出を見て下さいと書いてあるのも思いだした。そして引出の中の封筒を見つけた。それには、私が亡くなった場合は、全財産を夢想夫妻に寄贈すると書いてあった。そして預金通帳2冊があった。死亡診断書を提出してから5日目だと思い出して、その2つ銀行に電話すると、死亡診断書後、7日以内なら、すぐ、出金の手続きを取れるとわかった。
その日のうちに夢想夫妻の口座に振り込む手続きを取った。そして、また春が来て5月の連休に忍野村の善一夫妻がやってきた。そこで、孫達も含めて6人でエスティマに乗って兼松幸子さんの、お墓に、お参りに出かけた。その日は、素晴らしい日和で高台にある、幸子さんのお墓から遠くに雪をかぶった富士山が見えた。
花を供え、幸子さんの遺産で作った、立派な御影石の墓石の前で、世之介が手を合わせて、目をつぶり、お参りすると、在りし日の幸子さんの笑顔が思い出された。そして、目を開けると、その御影石に、笑っている幸子さんの顔が、映ったような気がした。それに気がついて、どうか成仏してくれますようにと、祈って、お墓を後にした。(終了)




