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なぜ障害者に同情しないといけないのか?

作者: 秋野三郭

僕はあまり障害者をかわいそうだと思ったことはない。大変そうとか不便そうとは思う。だけど心から同情したことはないし、そんな心の余裕はない。


こういう言い方をすると、よく「薄情な奴」と言われるが、そうじゃない。僕は別に血も涙もないような冷血漢じゃないし、弱者を痛めつけるようなことはしない。ただ単に、こっちもあっちも人間に間違いないから、同じ人間としてリスペクトを持って接している。だから下手に気遣いなんてしないし、自律的に手助けもしない。向こうには向こうの都合があるし、こっちにはこっちの都合があるから、かわいそうと思う時間を有益とは考えられない。


多分これを読んでいる君は「じゃあ、あんたにとって障害者ってなんなんだよ」と思うかもしれない。僕は「ちょっと運が悪かった人」と答える。たまたま、目が見えなかった、たまたま耳が聞こえなかった、たまたま下半身が動かなかった。だけど、僕らと同じように今この瞬間を全力で生きている人だと思う。


確かに僕は世の言うところの「健常者」ではある。だから、障害者が経験した苦しみが心から分かるわけではない。でも、彼らがどういう風にこの世界を生きているのかと、視野を広げることはできる。友達の一人に色盲がいる。僕は彼に「どうやって色を見ているのか」と尋ねたことがある。彼は「普通の人が64色の色鉛筆を区別できるなら、16色が分かるくらい」だと言った。僕は納得して「じゃあソシャゲのキャラのレアリティは登場エフェクトでしか分からないじゃん」と言うと「いや、それがパズドラだけは色覚サポートで綺麗に見えるんだわ」と返して、一緒に笑った。


これは僕の持論だが、障害者の人たちはハンデを負っただけで、ゲームそのものを楽しめないわけではないと思う。よく「〇〇縛り」と言ってビデオゲームを遊ぶ人がいるだろう。あれとあまり変わらないと思う。不便なことや、上手くいかなくてイライラすることもあるけれども、ビデオゲームを楽しむ分には何の問題もないはずだ。僕の好きなアーティストだったAVICIIは『Wake Me Up』という歌の中で「Life is a game made for everyone (人生は人々のゲームとして作られた)」と言っている。人生を謳歌するのに障害者や健常者というカテゴリーは本来無用な筈だ。ただ、みんな笑って楽しく暮らせればいいのだ。僕は心からそう思う。


そもそも健常者、障害者と分ける必要はないと思う。もちろん彼らが僕たち健全者と同等の生活を得るにはサポートが必要だし、社会的な体制も忘れてはならない。だが、彼らと一緒に生きる上で、区別をすると僕らも彼らも住みにくいんじゃないかと思う。そして彼らが本当に手を必要とするとき、彼らが危険な目に遭いそうなときに、手を貸してやればいいと思う。ここで「手を伸ばす」ではなく「手を貸す」という言い方をしたのは、別に僕たちは彼らを四六時中監視する必要はないからだ。だから、いっときの親切心で彼らを支えてやればいい。足腰の悪いおばあさんを助けてあげるくらいの優しさでちょうどいいと思う。僕はそういうのが正しいサポートの仕方だと思うし、お互いが自分のプライベートのゆとりを持てる筈だ。彼らは僕らが想像するよりも強く生きていると思う。市役所のテレビが映らなくなったときは、ほとんど目が見えない知人が「テレビから音しかでないなんてあたりまえじゃないですか?」というジョークに、僕はセンスがあるとしか思えなかった。


今更弁明しているような書き方になるが、僕は今年のピョンチャンパラリンピックのモーグルを見てすごく感動した。両手が無かったり、片足で滑っていたり、半身不随だったり、様々な人が程度の異なるペナルティを背負って競技に挑む姿は本当に心を震わされた。その中で、僕はあることに気が付いた。それは選手によって時間の進み方が異なるのだ。ハンデが重ければ重いほど、計測時間の進み方が変わっていく。つまり、彼らは間違いなく自分の全力振り絞って世界を相手に競っていることを知った。障害者であろうと金メダルに恍惚することができる。そこに至るまでの努力は絶対にオリンピックアスリートと同じだ。結局どんな人間であろうと、絶対自分のフィールドで戦うことになると僕は思う。


最後に、障害は決して肉体的や精神的だけではないだろう。この世のハンデは決して僕たちが一般的に定義する「障害者」だけではない。家族関係や友人関係などの社会的なハンデ、給料や家計などの経済的のハンデ、そしてコンプレックスや性癖といった可視化できないハンデもあると思う。どこまでをハンデの範囲にしていいのかは僕自身よく分かってはいないが、どんな人もハンデを持っている可能性はあるのだ。


健常者も障害者も人間の価値として何も変わらない。同等なのだ。

障害者をかわいそうというのは不躾だと思う。それは彼らの努力を踏みにじった上から目線のセリフだからだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] とても納得できる意見ですね! これからもあなたの意見を拝聴したいです。
[良い点] おじゃまします >足腰の悪いおばあさんを助けてあげるくらいの優しさでちょうどいいと思う。 おっしゃる通りですね >ほとんど目が見えない知人が「テレビから音しかでないなんてあたりまえじ…
[良い点] 自分の考えを示して、それを押し付けてない点が良かったなぁと思います。また、かわいそうだと思った事がない、と言う点に共感しました。色んな人がいて良いはずです。 とても分かりやすく、意見もしっ…
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